2010.09.28

不思議で優美な言葉

こんな経験をお持ちの方は多いと思う。
意味の分からない外国語の歌を聴き、素晴らしい歌だと思って気に入っていたのが、歌詞の意味を知ったら、案外につまらない歌だったと思い、愛着が薄れるといったことだ。
外国語の歌ばかりでなく、日本語の歌であっても、歌詞がよく聴き取れなかったり、言葉の意味が分からなかった時の方が素晴らしかったと感じることもあると思う。
また、歌詞をちゃんと知っている歌を、わざとハミングで歌ってみたら、さらに感動が深まるなどということもある。

最近のアニメの歌には、普通に聴いていては認識できないような、難しかったり、あるいは、普段使わない言葉を使っているもの、あるいは、非常に早口だったり、少々奇妙なイントネーション(言葉の音調)のために、やはり普通には歌詞を聞き取れないものが非常に多いように感じる。
また、ラップ音楽なんてのは、言葉自体は明快だが、話し言葉とは相当違うイントネーションを使うことで言葉のイメージを変容させるところに面白さがあるように感じる。
ルイス・キャロルは、子供たちのために奇妙な言葉使いで話したり手紙に書いたりして、子供たちを面白がらせたが、やはりそんなものは不思議な高揚感や楽しさを誘発する何かがある。

文明が発達すると少なくなってきたが、世界には、全く意味のない奇妙な言葉を楽しんで使う人々や、そんな言葉が呪文のような形で残っていることもある。それらの言葉はリズミカルだったり、奇妙だがどこか面白かったりして、不思議な感情を誘うことが多い。
バッハなどは、音楽でそれを優雅にやってみせただけだと言う人もいる。
全ての経験は音楽のようなものだ。言葉でさえ、本当は音楽のようなものなのだが、それに一定の意味を込め過ぎたために、音楽の持つ優美さや本質に響く効果を失ってしまったのかもしれない。最近のアニメソングやラップ音楽は、意識的にか無意識的にか、それを復活させようとするものなのかもしれないと思う。
般若心経という短いお経では、この呪文を唱えるとたちまちにして悟りに至るので、夢々疑うなと、その短いお経の中で何度も強調し、最後に呪文を紹介する。その呪文に何の意味もない。だが、同時に、何の意味もないからこそ、最大の意味がある。しかし、その意味は言葉の意味ではない。それは至高の音楽なのである。その呪文とは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ・スヴァーハー」だ。もちろん、日本で一般に使われる、インドの言葉から中国語に漢訳されたものの読みである「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテ、ボジソワカ」でも同じである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.09.26

脳を大切に

量子物理学者のフレッド・アラン・ウルフが量子物理学の道を志したきっかけは、幼い時の超常現象体験であったようです。その超常現象は、テレポーテーション(瞬間移動)のようなものです。
彼は、「まともな」量子物理学の著作も書いていますが、幻覚剤の使用体験やシャーマン(呪術師)との交流を描いた神秘的な著作もあります。彼のホームページも、なかなかぶっ飛んでいますが、現時点(2010年9月26日)のトップページのGIFアニメが、幼い時のテレポーテーションの体験を表しているように思われます。

テレポーテーションのような不思議な現象は、量子力学が扱う極微な世界では普通に起こりますし、時間の遅れや空間が縮むといった現象は相対性理論が扱う極大な世界で起こります。
ただ、我々が日常体験する範囲では、あまりにわずかな規模でしか起こらないか、あるいは、あまりに稀にしか起こらないために、不思議な現象は存在しないことにされるわけです。
あの頑迷な超常現象否定論者の大槻教授だって、量子力学の中で不思議なことが起こったり、それが日常の範囲でも、あまりに稀にではあるが起こる可能性があることまでは否定していません。

しかし、考えようによっては、不思議な現象は、我々だってよく経験しているかもしれません。
例えば、何かを夢中になってやっている時は時間が速く流れたり、苦痛な時間は非常に遅く過ぎるように感じることです。アインシュタインも、相対性理論のくだけた説明には、こういったことを言ったようです。
また、人間の能力は、一定して進歩するというよりは、しばらくの間変化を見せなかった後で急に進歩する(いわゆるブレイクスルー)場合が多いのですが、これが量子力学で扱われる電子の瞬間移動に似ていると感じることもあるようです。チン・ニンチュウの「誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる」という本で、物理学者でもある経営者が年収をわずか3千万円から3億円にした話にそのようなことが書かれています。ただ、世界的な理論物理学者・数学者のロジャー・ペンローズは、似ているように思うことは慎重に扱うべきと言っているようでもあります。

極微な世界、極大な世界で実際に起こる不思議な現象を日常の体験にもたらすのは、言うまでもなく脳の働きです。
有名な美術教師のベティ・エドワーズは彼女の著作「脳の右側で描け」で、好ましい状態で絵を制作している時に、時間が速く流れるのは、右脳が活性化しているからであることを説明しています。また、ロジャー・ペンローズは、脳が量子的な機能を持つ器官であり、この脳に極微な世界と極大な世界(量子論と相対論)を統合させる鍵があるといったようなことを言っていたと思いますが、直感的洞察力に恵まれた人達もまた、相互に大きな矛盾なく、そのような主張をしているように感じます。
しかし、脳は神秘なものであると同時に物質でもあり、器質的なトラブルがその働きに影響します。インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジに、誰かが、老人の聖者の人間性の欠点を指摘しますと、マハラジは、聖者とはいえ、脳の影響は受けるのだと言っていたのが印象的でした。
我々も脳は大切にしなければなりません。脳に悪いのは、まず喫煙や飲酒です。多少の飲酒は良いのではという意見もあると思いますが、ルドルフ・シュタイナーのように、飲酒を厳しく戒める者もいます。
そして、脳に極めて悪いのは、現代の刺激的な映画やテレビの娯楽番組といった、外側からの刺激を一方的に受けて楽しむ遊びや娯楽です。
また、携帯メールやツイッターといった、熟慮なく単純でパターンの決まった言葉ばかり使用したり、ゲームを長時間やって、パターン通りの反応しかしなくなることです。
他にも色々ありますが、現代は、脳の働きを低下させるものばかりが溢れているように感じるのは、闇の勢力の陰謀といった冗談を真面目に疑うほどです(冗談でなく、真面目に言っている人もいるようですが)。
くれぐれも、脳の健康と機能を大切に。
26日9:00AMまで、フレッド・アラン・ウルフのHPへのリンクに問題がありました。申し訳ありませんでした。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (1) | TrackBack (0)

2010.09.21

悟りの体験はその後が大切

悟りを開くと言いますと、それは物凄い事であると考えられているかもしれません。それは、仏教の考え方の影響があると思われます。
仏教では、悟りを開くことを、解脱と言いまして、この世の束縛を一切超えてしまって、永遠の仏陀になることとされます。
しかし、その考え方はちょっと置いておいた方が良いと思います。
悟りは誰でも開けます。ただし、悟りを開いたからといって、すぐに仏陀やキリストになるわけではありません。

鈴木大拙という著名な仏教学者が、菩提樹の下で悟りを開いた時のお釈迦様の頭の中に、大きなクエスチョンマークがあったと言ったようですが、実際、お釈迦様は、悟りを開いてから、何日もそこに座り続けたと言われます。
それは、悟りの楽しみを味わったというのもあるかもしれませんが、何と言いますか、悟りを定着させるとか、悟りと一体化するとか、現代的に言うと、右脳の強烈な閃きを左脳に移すのに多少の時間がかかったのだと思います。

心理学者のアブラハム・マズローは、至高体験という精神状態を発見しましたが、至高体験は、英語で“Peek(最高の) Experience(体験)”と言い、「至高体験」とはまさにそのままの直訳です。これを悟りと言って良いと思います。なぜなら、悟りこそ最高の体験に他なりませんから。
マズローは、偉大な人間とそうでない人間の「唯一の」違いは、この至高体験があるかどうかだけであるとまで言いました。そして、至高体験を人為的に起こすことは不可能と考え、それを得るには、ただ幸運に頼るしかないと言っていました。
しかし、マズローと交流のあった英国の作家コリン・ウィルソンは、至高体験は人為的にも起こせるし、ありふれたもので、誰でも体験していることを発見し、マズローも認めるようになったと言われます。

悟りを開いても、あるいは、至高体験が起こっても、それはすぐにすり抜けてしまうのが普通だと思います。
強烈な悟りや至高体験が起こった時、確かに一瞬、宇宙の真理のようなものを感じ、気分が高揚し、幸福感を感じることがあります。ウィルソンもマズローも、至高体験とは、つまるところ、自分が幸運だと感じることだと言っていたと思います。
しかし、それはすぐに消え、日常の意識が戻ってきます。
それはなぜかというと、こういうことです。
至高体験は、おそらく、ウィルソンも認めていたと思いますが、ロマン・ロランの言った大洋感情と同じものです。それは、自己が全てと一体になった没我の状態です。
至高体験とは、まさに、没我の状態で、英語で没我をエクスタシーと言います。
しかし、自我が戻ってくると、当然、その状態でなくなります。
むしろ、強い至高体験、大洋感情、悟りを体験すると、かえって自我が強くなってしまうことがよくあります。いったん引っ込んで、存続の危機を感じた自我が、しっかりと心に居座ろうとするかのようです。
それが、新約聖書に書かれた、悟りを開いたイエスが悪魔に試されたことであると思います。悟りを開いても、悪魔の誘惑に負け、かえって落ちた人間になってしまうことが多いようです。
だから、巷によくいる「宇宙の真理を見た」なんて人には、よくよく注意しないといけません。
スポーツ選手というのも、悟りの体験が多いものですが、特に現代のように、栄光や金が待っているようなものでは、残念ながらほぼ全て悪魔の誘惑に負けてしまっているように思います。
また、逆に、悟りしかとりえが無いような貧しい宗教家や精神主義者も、悟りによりかえって自我が盛り返して高慢で自己中心的な人間になるものだなあと思うこともあります。難しいものです。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.09.14

女神が舞い降りる時

「ライトノベル」という小説があるのをご存知だろうか。そのままの意味では「軽い小説」だが、高校生位までの若い読者をターゲットに書かれた小説のようだ。ただし、本当にライトノベルといったものがある訳ではないし、そう言われる小説を大人が読んで何か問題がある訳でも当然ない。ただ、表紙や挿絵に、漫画風の、可愛い少女の「ちょっとエッチな」絵が描かれ、いい大人が電車の中で読むのは抵抗があるかもしれない。
ところが、このライトノベルと呼ばれるものに名作が沢山あるのではないかと思う。谷川流さんの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズもそうで、私には、あれに芥川賞や直木賞が授与されないのが全く理解できないほどだ。

筒井康隆さんの「時をかける少女」は、日本の歴史的小説と言って過言ではないし、あれほど数多く、大作映画やアニメ映画を含め、映像化された小説もないと思うが、あれは元々、中学3年生用の学習雑誌に連載されたもので、今で言えば、ライトノベル中のライトノベルだ。それが、連載開始(1965年)や刊行(1967年)から40年以上経った今も愛読され、実際、素晴らしい作品と思うが、著者は、実は嫌々書いていたという話もある。

意外な経緯で生まれた傑作というものが時々存在する。
人類が続く限り愛唱されるに違いない「きよしこの夜」は、一介の音楽教師が一夜で作ったものだ。
また、世界の国歌の中でも名曲の誉れ高いフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作曲者の名は、フランス国民ですらほとんど知らないが、これも日曜音楽家が一晩で作ったもので、彼の他の作品は何も残されていない。

池田満寿夫さんは世界的な版画家で、小説でも芥川賞作家であり、その受賞作品「エーゲ海に捧ぐ」を自ら監督を務めて映画化した。
ところが、池田さんは東京芸大の受験を3回連続失敗して諦め、生活のために、いわゆる「街の似顔絵画家」をしていた時は、同業者に、「下手過ぎて我々のイメージが落ちるからやめてくれ」とまで言われた。
そんな池田さんが、大きな絵画展の版画部門に出品した際、全く作品が出来ずに、締め切り間際にヤケクソで三角刀で銅版をひたすらひっかいて猛スピードで仕上げた作品が、海外の美術界の権威の目に留まって賞が与えられたのがブレイクのきっかけだった。

リラックスというか、無欲で臨むのが成功の要因と言えるような気もする。
ただし、「では、成功するには無欲でいけばいいのだな」と意気込むのは、救いようのない勘違いだろう。

筒井康隆さんが「時をかける少女」を、あまりやる気がなかった理由は、彼があまり好きでない学園ものだったということもあるかもしれないが、何と言っても、事実上中学3年生限定という読者対象の狭さが関係ないとは言えないだろう。
SF作家の平井和正さんにも、中学生用か高校生用だったかは忘れたが、昔、学習雑誌からの依頼があり、平井さんは「悪徳学園」という作品を書いたが、すぐに担当者が青い顔で返却に来たらしい。その理由は読めば分かる。昔、マイケル・J・フォックスがまだ健常者で人気絶頂の俳優だった頃、ホンダの乗用車インテグラのCMに出た時のコピーに「エッチにもほどがある」(「エッチ」は、ホンダのマーク「H」にかけた洒落)というのがあったが、この小説もエッチにもほどがあった。今の時代でも掲載不可能と思う。


【時をかける少女】
「時をかける少女」はもちろんだが、同時収録の「悪夢の真相」「果てしなき多元宇宙」が素晴らしい。

【時をかける少女】
「涼宮ハルヒの憂鬱」「灼眼のシャナ」で有名な人気イラストレーター、いとうのいぢさんの萌え画をカバーイラストにした新装版。同時収録作品は「時の女神」「姉弟」「きつね」になっている。

【悪徳学園】
平井和正さんの有名な「ウルフガイシリーズ」の番外編と言える。中学校が舞台。本文記事に書いたが、猥褻にもほどがある。ただし、私は、これを学習雑誌用に渡した平井さんが嫌いではない。戦後に中学生だった平井さんには、小説の中の話なら慌てることでもないのだろう。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2010.09.11

本当に2番じゃだめなのか?

ある男のところに、ある日、この世のものとも思えぬ絶世の美少女がやってきて、可憐な花のように恥じらいながら、美しい言葉で婉曲(遠回し)に、私はあなたのものなのだから好きにしていいと言う。
こんなことをやった女神が、ギリシャ神話の美の女神アプロディーテ(ローマ神話ではヴィーナス)だ。
男は英雄アンキーセースである。アンキーセースも、彼女の姿を初めて見た時は、あまりに美しいので、女神か、あるいは、ニンフ(妖精)と思ったが、彼女は、自分はただの人間なのだと言う。
なんと言ってもアプロディーテだ。どんな美少女アイドルだろうと足元にも及ばないはずだ。
神々すら、それも大神ゼウスすら抗うことが出来ないと言われる美の女神に、人間であるアンキーセースなどひとたまりもないだろう。

もっとも、日本の古神道に伝わる話では、神が人間の修行者に術を授ける最後の試験が、長い禁欲を守らせた後に、その者の理想とする女を幻術で創り出して誘惑させ、それに耐えなければならないというものがあるらしい。言うまでもなく、合格者が出たためしはない。

さて、アンキーセースがアプロディーテから感じた美がいかほどのものであったかは想像もできない。
だが、仏教には、それをうまく表現した話がある。
お釈迦様の従弟のアーナンダは、16歳の素晴らしい美少女との結婚を控え、心は浮き立っていた。だが、お釈迦様は、アーナンダに、結婚なんかやめて出家しろと言う。当然、アーナンダにそんなことは出来ない。
そこで、お釈迦様は、雪山にアーナンダを連れて行き、よぼよぼに老いたメス猿を見せ、「お前の妻になる女と、この猿ではどちらが美しいか?」と問う。アーナンダは憤慨して、「私の妻になる女に決まっています」と答える。
次に、お釈迦様は、アーナンダを天国に連れて行って天女を見せ、「では、お前の妻とこの天女では?」と問う。アーナンダは、「私の妻になる女とこの天女では、さっきのメス猿と私の妻になる女ほどの違いがあります」と答える。
「アーナンダよ。出家し、修行すれば、この天女はお前のものだ」
アーナンダが、すぐに出家を決意したことは言うまでもない。

そのものズバリは表現できなくても、何かの比較とで想像をさせる話の技術である。一種の類推(アナロジー)で、説法の名人には、これを上手く使う者が多い。イエスも優れたたとえ話を多用したことは知られているし、「20世紀最大の詩人」と言われるW.B.イェイツも、イエスの比喩(たとえを使った表現)の才能を高く評価していたらしい。

尚、アプロディーテの偉いところは、彼女自身、アンキーセースに恋したのだが、執着しなかったことだ。
彼女は、アンキーセースに「キュテレイア(アプロディーテの別名)と寝たなどと公言してはただではすまぬぞ」と言って去り、この時のアンキーセースの息子で、後のトロイア王アイネイアースを産む。
女神でも、月の女神セレーネは羊飼いの少年エンディミオンに、曙の女神エーオースはティトノスという人間の男に恋し、結局は不幸なことになった。執着したからだ。
(武内直子さんの「美少女戦士セーラームーン」では、セーラームーンことセレニティと、タキシード仮面ことエンディミオンは、このギリシャ神話のお話を基にしている)
アプロディーテもエーオースの失敗を教訓にしたと思われるところがある。
ところで、アプロディーテは、ヘパイストスという夫がありながら、この姿の醜い夫を厭って、男神の中でも1、2を争うイケメンのアレス(英語ではマーズ)と浮気してフォボスとディモスという神を産むが、アレスはエーオースと浮気する。
ギリシャ神話の神々は実に奔放である。

さて、アプロディーテは最も美しく、このお話のように思慮もあるが、神々の王ゼウスの正妻ヘラや、知恵の女神アテーナとなると、その賢さはいかばかりかと思う。
ところが、こんな話がある。
争いの神エリスが、神々の宴(海の女神テティスと人間の英雄ペレウスの結婚式)の中に、黄金の林檎を贈った。「世界一美しい女へ」とのメッセージを添えて。
この林檎を、アプロディーテ、ヘラ、アテーナが争う。「私が一番美しい」と。これがトロイア戦争の原因を作った(実際は、その後の複雑な経緯で戦争に至る)。

一番にこだわるとロクなことはない。
蓮舫議員の事業仕分けの時の「2番じゃだめなんですか?」として記憶に残ったスーパーコンピュータの研究開発であるが、スーパーコンピュータというのは、クレイ・リサーチ社のシーモア・クレイが徹底して世界最高性能にこだわったことも関係していると思うが、1番には大きな価値が感じられるものである。
ただ、クレイは、天才的な開発者であると共に、事業家であり、研究開発費は自分で賄い、そして破産した。しかし、復活し、さらに開発に情熱を注いだ。そして、彼の業績は偉大であった。彼が1番にこだわったからだ。

蓮舫議員のは、白雪姫の継母の王妃に、魔法の鏡が「1番じゃないといけないのですか?2番じゃだめなんですか?」と言ったようなものだろう。
ちなみに、アーナンダは、修行するうちに天女のことは忘れた。
仏道の修行を積むと、美と醜は同じものであることを悟る。そして、1番は2番と、そして最下位とすら共にあるものであることも理解する。それが分かってこその1番である。


【四つのギリシャ神話】
日本の古事記もだが、ギリシャ神話の神々も実に個性的で人間味に溢れている。特に、こういった伝承の話は面白い。しかし、奥深くもあり、興味は尽きない。ヘルメースの悪知恵は今日の西洋世界に影響しているし、また、ある専制国家が、意外に外交上手なのも、これに学んだとも思えるくらいである。

【あなただけができることをやりなさい ソフトウェア界の偉人23人の名言集】
コンピュータ世界の偉人達の実に興味深い物語である。これを読むと、コンピュータに対する認識が大いに変わり、達人になるかもしれない。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.09.08

死んだら懐かしかった

自分が死んだとする。
うっかり、「葬式無用、墓無用」の遺言を残さなかったので、葬式が行われ、使っていた身体は適当な墓に入れられた。
エリナー・リグビーの葬式には誰も来なかったようだが、親族以外で3人くらいは来ただろうか?関心がなかったのか、まるで憶えていないが。
死に方によっては、テレビで、「職場の同僚の話では、仕事熱心で親切な明るい人柄と評判の・・・」とか言われるのだろうが、それだけは勘弁して欲しい。私は是非、餓死といきたい。それなら多分、安全だ。ただ、それも、実際はどうでも良いことだ。

少し経つと、家族の私に関する記憶も消え、習慣的に仏壇に線香をあげてもらえるかもしれないが、話題に上ることもない。
友人も(もしいればだが)、生前勤務していたところの人達にも完全に忘れられた。
私が所有していた物は、大半のものが処分された。家や家具や本など、残されたものがあったとしても、それを見た人が私を思い出すこともない。
死んでも長く名が残る人はいるが、それは、その人の徳の力というよりは、その人に、誰かの欲望を満たすための利用価値があるからという理由の方が大きいのだろう。私にも、また、多くの人にもそのようなものはないので、あっさり忘れ去られるというわけだ。

さあ、これで、この世の誰も私を知らないし、私がこの世に存在した証拠は何もなくなった。
昔、夢の中でそのような状況を見た時は、寂しさ、悲しさ、虚しさ、恐ろしさ、自己憐憫があったが、今は、いくら想像しても、さして悲惨に感じない。
私という個人はいないが、空は広がり、海はきらめき、風は吹く。鳥は飛ぶが、生きていた時より身近に感じることに気付く。木々を見ると、まるで語っているように感じる。それは確かに生きている。
人を見ると、その形よりも、混乱や孤独、不安が浮かんで漂うのが見える。
死んだ私には、ものの形はあまり関心はない。
美少女というものも、外見の美しさというだけで気を引かれることはないが、その存在の精妙さには感動する。だが、その美しさを利用しているような場合(アイドル等)は、むしろ目を(気を)背けたい。あくまで死者の立場としてだが。

この放恣(きままなこと)の空の下では、不思議な懐かしさが広がり、世界は意味で輝いていることが分かってくる。
世界とは、本当はそんなものであったと知る。
個性とか、個々のものに意味がないと言うつもりはない。だが、生前思っていたのとは、その在り様が異なるというだけのことだ。実際、昔飼っていた犬(とっくに死んだが)が、やっぱりおっちゃこちょいなのを見て、「お前って、死んでもちっとも変わらんな」と思ったりすることもある。まあ、そう思うと同時に、荘厳な姿を示して威圧してくるというちょこざいな真似をしたりもするのだが。
つまり、全ては遊びなのだ。
まあ、初心者の死人の言うことだから、あまり真に受けないで欲しい。それに・・・そろそろ生き返らないといけない。ブログも書かないといけないのでね。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.09.04

ニワトリと卵の真相

「ニワトリと卵はどちらが先か?」という歴史的にも世界的にも有名な問題がありますね。
「どっちが先だ」なんて考え方を脱却することが人類の進化です。

「ニワトリと卵のどちらが先か?」なんてのは、「春と秋のどちらが先か?」と言うようなものです。
夜と昼ではどちらが先かなどと言えるでしょうか?

道元は「正法眼蔵」の中で、「薪の後に灰があると思ってはならない」「生の後に死があると思ってはならない」と注意しています。
「薪は薪になりきり、灰は灰になりきっている」
「生は生になりきり、死は死になりきっている」
そのように書かれています。
余計な解説は不要ですが、ただ言っておくと、「薪は薪で固定されたもの」「灰は灰という単独のもの」というのではありません。
「私は私」「あたなはあなた」なんて言いますよね。
英語にも、“I am me”、“You are yoy”という同じ言葉がちゃんとあります。
「自分らしくあれ」という意味なんでしょうが、世間というのは変なところで、そう言っておきながら、「日本人らしく」「クリスチャンらしく」「名門校の生徒らしく」「わが社の社員らしく」「スポーツマンらしく」とか言うのですね。
これは、「自分らしく」の意味を大誤解しているのです。それは何千年も前からかもしれませんけどね。
「ニワトリが先か、卵が先か?」なんて奇妙なことを考えるのも、そんな考え方に凝り固まってしまったことが原因です。

ニワトリはニワトリになりきり、卵は卵になりきっていますが、それらは不可分です。ニワトリは卵を伴い、卵はニワトリを伴っています。同時に存在しています。
夜と昼って不可分でしょう?同時にあるものです。
さらにいえば、夜は世界と不可分だし、昼は世界と不可分です。ニワトリは世界そのもので、卵は世界そのものです。
犯罪者も世界と不可分で、我々とも不可分です。我々もまた犯罪者です。犯罪者が犯罪者を裁けるはずもありません。自分は犯罪者じゃないと思い込んでいる人って、どこかおかしいと思いませんか?

昼と夜では、それぞれが長過ぎて、一緒にあることが分かり難いかもしれませんね。
でも、例えば、光ってのは、明と暗が凄い速さで交互にやってくる波動なんですよ。音は、それよりはずっと遅いですが、同じく波動です。そのゆっくりしたものが海や池の波で、さらにゆっくりなものが夜と昼です。
光なら、明と暗が一体であるということがイメージしやすいと思います。
子供って輝かしいですね。光と同じで、ちゃんと明と暗があるのですが、その交換が速過ぎて光しか見えないからです。歳と共にその交換が遅くなります。
若い頃に光ばかりを求めた人って、老人になると闇だけです。まあ、それが普通ですけどね。
でも、「レ・ミゼラブル」に出てくる、ミリエル司教の妹のバティスティーヌは、若い時ですら美しくなく、ずっと暗でしたから、老人になってから高貴な輝きをまとったのです。
1人の人に関しても、闇を嫌わなければ光を得られますよ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.09.02

愛と憎しみは同じものだ

児童ポルノ規制に対する条例改正案では、絵や漫画に関する話がやたら多いように感じる。現代人は活字を読まないと踏んで(見積もって)のことなのだろうか?私には、実質的に文章の力の方がずっと大きいと思えてならない。言葉は潜在意識にまで潜入し、人間自体を根本から変えてしまうことがある。
そこから考えると、児童ポルノ規制の改正法案の趣旨から言えば、ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」は出版禁止だろう。まあ、実際、色々な国で出版禁止になったことがあるようだが、それが正しかったかどうか考え直すことにも意味があるかもしれない。
「ロリータ」には、少女の性的描写は数多いが、超一流の作家の手による表現の力は、読み手にもよると思うが、単に上手い絵や漫画どころではない。

ところで、私は、「ロリータ」は高校生の時に興味本位で読んだが、そういった性的な部分とは全く異なる箇所が最も印象に残った。
それは、ロリータ(ドローレスの愛称)の母親のヘイズ夫人の話で、ロリータが1歳位の時、ベビーベッドからおもちゃを落としては私(母親)に拾わせて喜んでいたというところだ。つまり、それほど、ロリータは生まれつきの性悪であると言いたがっていたのである。
普通に考えると、赤ん坊にそんな意図があるはずがない。
ヘイズ夫人は、自分の子供であるロリータを憎んでいたのだろう。そんな母親は少なくはない。
そして、ヘイズ夫人の望み通り、ロリータは歪んだ精神の持ち主に成長するのである。

「ロリータ」を読んでから、飯田史彦さんの「生きがいの創造」を読むと、ロリータと母親は前世で憎み合っていた者同士が親子になったのだと思ってしまうほどである。
また、内海康満さんの「霊止乃道(ひとのみち)」の中にある話で、子供に手を焼いている母親がいたのだが、内海さんがその子供(男の子)に、「お前はこの人(母親)に復讐するために生まれてきたのだろう?」と言うと、その子が「見透かされたか」という不気味な顔をするというものがある。
あなたも、自分の親や子供、あるいは、兄弟姉妹を見て、そう感じたことがあるかもしれない。
だが、仮に、もしそうであったとしても、そのまま憎み合い続ける限り、来世もその次の生でも、醜く苦しい憎み合いを続けることになるのだろう。

ロリータは母親を愛していなかったのだろうか?
逆に、ヘイズ夫人はロリータを愛していなかったのだろうか?
小説を読む限り、それはほとんど感じられない。
もちろん、ハンバート(小説の主人公である性的倒錯者の中年男性)とロリータの間にもない。
だが、「アイアムザット」という本にこんな話がある。ある母親は、子供がどうしようもない負担で、ひとかけらの愛も示さなかった。子供はこの母親から、「ママを愛しているなら死んで頂戴。それが出来ないなら、ママを愛していないということよ」という無言の責めを受けながら育った。その子は、成長し、著名な産婦人科医になって、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジを訪ねた。マハラジは「あなたは母親を愛しているのだ」と言う。「しかし、母親から愛を受けたことはないのです」と言われても、マハラジは、「それでも、母親への愛を止められなかったのだ」と答えた。

別に、奇妙な哲学でも禅問答でもなく、憎しみと愛が同じものであることは真実だ。

愛よりももっと深く愛していたよおまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを
これは、萩尾望都さんの僅か15ページの傑作漫画「半神」で、双子の妹ユーシーへのユージーの言葉である。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.08.31

心の中の悪魔

あなたは、自分を、正常な人間と思っているだろうか?
正常な人間とは、世間において正常な人間と見なされるよう振舞っているという以上の意味ではないと思う。

何かの本でこんな話を見た覚えがある。
2人の少女がいた。1人は大人びて、心優しい。もう1人は純心で子供っぽい。
2人はとても仲が良いのだが、ある時、子供っぽい少女が、大人びた少女に怒りをぶつける。
「あなたのように心のきれいな人に、私の気持ちなんか分かるはずがない」
大人っぽい少女は、怯えるほど戸惑いながら何も言えない。なぜなら、自分の心の中に、醜く汚いものが恐ろしいまでに渦巻いていることを感じているのだが、それを知られるのが恐いのである。
何の本だったかは覚えていないのは、おそらく、多くの小説や漫画等に同じような話があるからに違いない。
つまり、これが、ありふれた普通のことなのである。
ただ、この大人っぽい少女に心惹かれるのは、彼女がそれを自覚することのできる、極めて「純粋な」心の持ち主であるからだ。

こんな話もある。
清純な妹が、淫乱な姉を嫌い、家を出て行く。
しかし、時が流れ、その妹は、姉以上に淫乱な女になっていたというものだ。
これも、状況には特殊性があるが、傾向としては一般的なことだ。

いずれにしても、これらは、自分というものに対する大誤解が生んだ悲劇、あるいは、喜劇なのだ。
自分を、この世に「生まれ落ちた」存在。つまり、世界と切り離された孤独な存在と思っているから、世間の偽りの絆を持とうとして、奇妙な幻想に囚われ、単に変な欲望に付きまとわれるのである。
我々は、自分が世界そのものであるという自覚を得ることを諦めてはならない。


【桑田次郎アダルト短編集2 感覚転移】
確かにアダルトでエロチックな作品だが、特にR18指定はされていないようだ。
単なるエロスではなく、天才桑田次郎(現在は桑田二郎)の作品だけあり、人間存在の深い洞察に満ちた傑作と思う。
本文で引用したお話(淫乱な姉と清純な妹)もこの中にある。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2010.08.29

宇宙の驚異と心の驚異

「かがやく夜空の星の光よ」で始まる「星の世界」という歌をご存知の方は多いと思ういます。
これが、元々は「いつくしみ深き友なるイエス」という賛美歌であることをご存知の方も少なくないと思いますが、私は数年前に親戚の女性の教会での結婚式でこの賛美歌を聴いて初めてそれを知り、驚いたものです。
日本人のよく知る「星の世界」は川路柳虹さん(1888-1959)の作詞で、それより先にあった、杉谷代水さん(1874-1915)作詞の「星の界(よ)」という文語体の詩を元に、平易な口語体の詩を作ったのではないかと思います。いずれも、宇宙の神秘の中に希望を観じた感動的な詩と思います。
ことの始まりは、アイルランドのジョゼフ・スクライヴェン(1819-1886)が書いた「絶え間なき祈り」という詩で、スクライヴェンの詩集でこの詩を見て感動したアメリカの作曲家チャールズ・コンヴァース(1834-1918)が曲をつけ、それが今日知られる「いつくしみ深き友なるイエス」となりました。
不思議な縁で、我々日本人にもよく知られる曲が出来たものだと思います。

「星の世界」の歌は、1番と2番共に「のぞめば不思議な星の世界よ」で終わります。
不思議という言葉は不可思議という仏教用語の略で、人智で推し量ることの出来ない大きなものを指します。不可思議は、億や兆といった数の単位の1つでもありますが、億や兆とは比較にならない巨大なもので、10の64乗、あるいは、10の80乗とされます。ちなみに、宇宙全体に存在する原子の数が10の80 乗個であるという説があります。

宇宙に想いを馳せていると、驚異と神秘の念に襲われるかもしれません。
その心こそが、「星の界」および「星の世界」の詩を生み出したのだと思いますが、ここで、あることに気付きます。
それは、宇宙の驚異や神秘を感じる心こそが驚異であり、神秘であることです。そして、そんな心を持っている人間とは、驚くべき存在なわけです。
だってそうでしょう。心が宇宙と同等なものであるからこそ、宇宙に畏怖とか無限を感じることが出来るのですから。これは、他の動物には決して真似できないことです。
セザンヌやゴッホに感動できる人間は、心の中に、それらと同等な精神を持っているはずです。
ある本を読んで、深く感動する人もあれば、つまらない本だったと言う人もいますが、それは、本の内容に見合う精神を、その人が持っているかどうかということです。
だから、宇宙を想って限りない神秘を感じるなら、自分の心も限りない神秘であり、それにもっと驚いても良いはずです。
神や天使は、我々以上に宇宙に感動するかもしれません。
しかし、それは所有する能力の差ではなく、顕現した能力の差です。
芸術作品や優れた文学の価値を認めない人でも、内にある心の光が顕現すれば、やはりそれらの価値を認めるかもしれないようなものです。
人は、本質的に神や天使と同等であり、宇宙そのものである事実を、こんなところからでも探っていけるのではないかと思います。


【宇宙】
宇宙に関する神話から、天文学の研究成果、そして、アインシュタインの相対論、ビッグバン、量子物理学的考察、さらに、未来に向けての展望まで、易しい解説と美しいカラー写真で知ることができます。

【波動の法則】
一般的科学とは異なるかもしれませんが、美しく、実際的な実績も豊富な波動の法則で、この世の真の姿や宇宙の意志を感じることが出来るかも知れません。
時間と空間は同じもの。新しい地球に生まれ変わる時期が近付いていることも語られた、1995年に出版され、2007年に復刊された書。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックで投票をお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (3) | TrackBack (0)

より以前の記事一覧