2010.09.30

機械に心は生じるか

新しい記事を、@niftyのココログに載せるのは今回で最後になります。明日以降は、ライブドアブログにのみ掲載いたします。

この世では、どんなものにも終りがあります。
新しい自動車を買って、それまで長く乗っていた古い車を手放したり、長く務めていた会社を辞めたりする時には、誰しも、程度の差こそあれ、寂しいと思うのかもしれません。それを、人間らしい感情と言い、機械との違いであると考えることも出来るかもしれません。

「コレクター・ユイ」という、NHKのアニメにもなった漫画の中で、長く使っていたパソコンを捨てるのが悲しくて、幼い女の子が、夜の廃棄物置き場で、そのパソコンの前で泣いている場面があります。
その時、パソコンはこんなことを考えます。「この子はなぜ泣いているのだろうか?自分は古くなったので、捨てられるのは当然のことなのだが・・・」
パソコンは、この疑問をどうしても解きたくなり、そのことが発端となって、その後、コンピュータネットワークが発達する中で、この女の子の回りで不思議な事件が起こることになります。
他にも、「8(エイト)マン・インフィニティ」という漫画で、幼い少女の姿のアンドロイドに宿った、アンナと名付けられた人工知性体が、自分の命を犠牲にしてまで、このアンドロイドの少女を救った少年の行動にどうしても合点がいかず、少年の行動の謎を解くために、少年にアンドロイドの身体を与えるというものがあります。
ガイナックスの漫画・アニメの「まほろまてぃっく」という作品では、アンドロイドの少女を守ろうとして、強力な戦闘用アンドロイドである自分に敢然と立ち向かってくる14歳の人間の少年の行動に、この戦闘用アンドロイドがパニックを起こします。
こういったお話は、古い時代のものから数多くあると思います。
総じて言えば、人間の感情は、論理的でなく、機械には理解不能ということです。
「スター・トレック」のミスター・スポックの口癖として知られる「人間は非論理的ですね(To error is human)」ということですね。

ところで、機械が意志を持つことが可能かというのは、科学の世界でも大きな論争の的になっているものです。
スティーブン・ホーキングとも並び称せられる世界的数学者・理論物理学者のロジャー・ペンローズは明確な否定派で、人間の脳が意志を生み出す仕組みを解き明かそうとしていますが、科学者の中には、機械が意志を持つというのは、そんなに難しいことでもないと言う人もいるようです。

ただ、こういった問題は、誰の、あるいは、どんな考え方が正解であるかというより、視点の問題に過ぎないという気がします。
自分というものが、皮膚の内側の個別の存在というなら、意志や心はその中にあり、機械に心が生じることはないと思います。しかし、我々は個別の存在として生存することなど全く不可能で、例えば、回りの空気や熱、あるいは、大気層を取り去れば、一瞬でも生きていることはできないことを理解すれば、皮膚の外側のあらゆるものも自分であると考えざるを得ず、意志や心の在りかなど限定できるとも思えません。
脳の中に意志を生み出す量子的な仕組みを見出せるとしても、それは、脳の外を含めた全体との総合的な作用で成り立っていることは間違いないでしょう。

上にあげた漫画作品では、機械が人間の心に興味を持ち、それを解き明かそうとしますが、それは即ち、我々自身が、我々自身の心に興味を持っているというに過ぎません。
物質主義に陥った我々が、その反動で、心に強く惹きつけられていることが、そのような発想が浮かぶ理由なのであると思います。
そして、人の心は大きな謎です。昔から多くの人が言ったように、自分こそが最大の謎というわけです。

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2010.09.29

成り行きに任せる

いろいろな人生訓、座右の銘がありますが、個人的には、究極のものは、

成り行きに任せる

ではないかと思います。
世の中、なるようにしかなりません。どんなに超人的な精力や能力で人生を切り拓いた人でも、結局はそう言うのではないかと思います。
この世はままならぬものですが、それを楽しむことが大切ではないでしょうか。

古代中国の賢者、荘子は、「思慮、分別を捨て、成り行きに任せる」ことが、永遠の道(タオ)と一体化することになると言います。
また、近代インドの聖賢ラマナ・マハルシは、「神の至高の力が全てを動かしていくのに、何を思い煩う必要があろう。汽車に乗ってまで、自分の頭の上に荷物を載せて苦労することはない。荷物を置いて安心しなさい」と言いました。
ニーチェやイェイツは、成り行きによる偶然であっても、それを自分の意志とすることが神に近付くことであることを見出したのだと思います。

成り行きに任せるを英語で言うと、

Let nature take its course.
Let things take their course.
Let things run their course.
Let things drift. ※drift(傾向・動向)1文字で「成り行き任せ」という意味がある
leave something to take its own course.
leave all to chance.

等となりますが、ものごとは自然に任せると何とかなる、あるいは、ものごとは自然に進むという雰囲気は、東洋思想とさほど変わらないように感じます。

新しい世代のコンピュータプログラミングでは、情報(データ)と動作の方法(ファンクション)が一体となり、その中身を外からは見えないように隠した「オブジェクト」というものがあります。「オブジェクト」とは「もの」程度の意味です。それら(オブジェクト)は、お互いにメッセージを伝え合いながら、つまり、連携はしますが、それぞれ独立して働きます。こういったことを、専門的にオブジェクト指向と言います。
「マトリックス」やアニメの「コレクター・ユイ」のような、バーチャル・ワールドはそのようなもの(オブジェクト)で出来ています(多分・・・)が、この世にだって、我々には分からない「オブジェクト」がいたるところに存在し、我々の魂が発したメッセージを受け取って、それらが情報交換しながら働いています。我々が下手に干渉してはなりません。
つまり、任せて放っておけば良いのです。

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2010.09.28

不思議で優美な言葉

こんな経験をお持ちの方は多いと思う。
意味の分からない外国語の歌を聴き、素晴らしい歌だと思って気に入っていたのが、歌詞の意味を知ったら、案外につまらない歌だったと思い、愛着が薄れるといったことだ。
外国語の歌ばかりでなく、日本語の歌であっても、歌詞がよく聴き取れなかったり、言葉の意味が分からなかった時の方が素晴らしかったと感じることもあると思う。
また、歌詞をちゃんと知っている歌を、わざとハミングで歌ってみたら、さらに感動が深まるなどということもある。

最近のアニメの歌には、普通に聴いていては認識できないような、難しかったり、あるいは、普段使わない言葉を使っているもの、あるいは、非常に早口だったり、少々奇妙なイントネーション(言葉の音調)のために、やはり普通には歌詞を聞き取れないものが非常に多いように感じる。
また、ラップ音楽なんてのは、言葉自体は明快だが、話し言葉とは相当違うイントネーションを使うことで言葉のイメージを変容させるところに面白さがあるように感じる。
ルイス・キャロルは、子供たちのために奇妙な言葉使いで話したり手紙に書いたりして、子供たちを面白がらせたが、やはりそんなものは不思議な高揚感や楽しさを誘発する何かがある。

文明が発達すると少なくなってきたが、世界には、全く意味のない奇妙な言葉を楽しんで使う人々や、そんな言葉が呪文のような形で残っていることもある。それらの言葉はリズミカルだったり、奇妙だがどこか面白かったりして、不思議な感情を誘うことが多い。
バッハなどは、音楽でそれを優雅にやってみせただけだと言う人もいる。
全ての経験は音楽のようなものだ。言葉でさえ、本当は音楽のようなものなのだが、それに一定の意味を込め過ぎたために、音楽の持つ優美さや本質に響く効果を失ってしまったのかもしれない。最近のアニメソングやラップ音楽は、意識的にか無意識的にか、それを復活させようとするものなのかもしれないと思う。
般若心経という短いお経では、この呪文を唱えるとたちまちにして悟りに至るので、夢々疑うなと、その短いお経の中で何度も強調し、最後に呪文を紹介する。その呪文に何の意味もない。だが、同時に、何の意味もないからこそ、最大の意味がある。しかし、その意味は言葉の意味ではない。それは至高の音楽なのである。その呪文とは、「ガテー、ガテー、パーラガテー、パーラサンガテー、ボーディ・スヴァーハー」だ。もちろん、日本で一般に使われる、インドの言葉から中国語に漢訳されたものの読みである「ギャテイ、ギャテイ、ハラギャテイ、ハラソウギャテ、ボジソワカ」でも同じである。

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2010.09.25

世界は心が創り出している

私は、小学1年生の時、クラスにとても仲の良い女の子がいた。
よほど仲が良かったらしく、5年生か6年生かは分からなかったが、上級生に冷やかされたこともある。
その上級生に、「お前、この子が好きなんだな?」みたいなことを聞かれたが、私は、面白い質問だと思っただけだった。当時は、そういった意味が理解できなかったようだ。
ところが、ある時期から後の、その子の記憶が全くないのである。クラス写真などを見ても、どれがその子だったのか分からない。
「美少女戦士セーラームーンR」という映画で、セーラームーンこと月野うさぎの恋人である地場衛(ちばまもる)と、宇宙人フィオレがこんな会話をしたのを思い出す。
「君は本当にいたんだな?幼い時に見た幻じゃなく」
「幻・・・か?僕にはほんの昨日のことのようだ」
護は、フィオレとの思い出を、現実ではない夢だったとずっと思っていたのだ。
私も、あの彼女のことは、リアルな記憶ではあるが、私が作り出した夢だったのだろうか?

筒井康隆さんの「時をかける少女」の最後で、和子が、ある西洋風の家から流れてくるラベンダーのにおいにうっとりする場面がある。
そのにおいを、和子はとてもなつかしく思うが、思い当たることが何もない。
ただ、そんな時、和子はいつも、いつか素晴らしい人が自分の前に現れるような気がするのだった。そして、その人は自分を知っていて、私もその人を知っているのだと確信する。

高橋弥七郎さんの「灼眼のシャナ」の番外編の「オーバチュアー」(「灼眼のシャナ0」に収録)の最後で、高校生の男の子が、ブレスレットを握りしめて、なぜか人目もはばからず泣き続ける。無理して買った、女性ものの高級品のブレスレット。なぜそんなものを買ったのか分からない。あげる相手がいるわけでもない。しかし、自分でも分からないが、涙が止まらないのである。

この2つの作品では、中学生の和子と、高校生の男の子は、誰かのことを忘れてしまったのである。
考えてみれば、記憶なんていい加減なものかもしれない。
夢の中で、宮殿に住む王様になったり、地球を守る戦士として戦闘用の宇宙船に乗ったりしていても、別に不思議に思わない。
子供の頃に見た映画やドラマの再放送を見ると、確信を持って憶えていると思ってた場面やセリフが、実際の記憶と異なっていることに驚くことがある。
友人や家族に、昔のことではあっても、忘れるはずのない劇的な思い出について語ると、相手は全く憶えていないと言う。

坂本真綾さんの歌で、彼女が自ら作詞した「風待ちジェット」という歌の出だしが、

気がついてない 君はまだ
昨日さえ変える力が ふたりにあるってこと

となっている。
過去が不変なら未来も不変だし、未来が変えられるなら過去も変えられるというのは、案外に科学的かもしれない。聖者と呼ばれる人の多くもそう語る。
不思議な思い出というものが、世界というのは、心が創り出しているに過ぎないことを暗示しているように感じるのである。

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2010.09.23

Dash(ダッシュ)の感覚で気合いを得る

気合いってのを自在に使えれば、魔法を手に入れたも同然と思います。

本宮ひろしさんの何かの漫画で(喫茶店でちょっと見た位なのでタイトルを憶えていませんが)、地獄の川の対岸で美女(正体は地獄の魔女でしょう)が亡者(成仏できない死者)を誘惑する場面がありました。亡者は川を渡ろうとして溺れるのが決まりです。ところが、1人の男が、そんな亡者達に「びしぃっと気合いを入れんかあ!」と激を飛ばし、猛然と泳いで美女にたどり着くのを見て、亡者達も次々と川を渡りきってしまいます。漫画とはいえ、どこかリアルで、私は、気合いとは偉大なものだなあと感激しました。

アニマル浜口さんのように、「気合いだ!」を連呼すれば気合いが入るなら良いのですが、やはりどこかに生命の危険と言いますか、命懸けなところがないと、なかなか気合いは入らないものです。以前の戸塚ヨットスクールのように、いきなりヨットで沖に連れ出して、生命の危機に追い込むことで気合いを入れざるをえない状況にするというのも、確かに効果的であることは認めざるを得ません。

気合いが入らないと、セールスの仕事で家庭や企業を訪問できませんし、好きな人に告白もできません。結果、売上が上がらずにクビになり、恋人ができません。
人生に変化を起こすことができず、それは、もしかしたら体験できたかもしれない楽しい出来事を逃してしまうことになってしまいます。
涼宮ハルヒが小学6年生で悟ったように「面白いことは待っていてもやってこない」のです。
潜在意識の法則も、引き寄せの法則も、楽しいことを自分で起こすためのものであるはずです。
そのためには、根本的には気合いといったものが必要です。

気合いの修得には、身体を使う方法があることを最近発見しました。参考になればと思います。
昔、沢村忠さんという有名なキックボクサーがいました。一部のマスコミの無責任な報道のせいで、誤ったイメージが伝えられてしまったところもありますが、偉大なスポーツ選手であり、武道家です。野球で巨人軍がリーグ9連覇を達成した時に打撃三冠王に輝いた王貞治さん(当時の巨人軍の主軸打者でした)を差し置いて日本プロスポーツ大賞を獲得したこともありました。
超人的に強かった沢村さんも、年齢と共に衰えが忍び寄ってきたのですが、その中で彼は不意に力を復活させます。元々鋭かった回し蹴りの威力は全盛期を上回るほどでした。それにいちはやく気が付いた作家の寺内大吉さん(2008年にご逝去)が尋ねると、沢村さんは、ランニングの際に、普通に走るのではなく、時々ダッシュするように変えたと言ったそうです。
これは、肉体的なトレーニング効果も当然あるのでしょうが、気合いという面が大きいと感じます。つまり、ランニングで、ある程度疲労している中でダッシュするには、相当な気合いを入れる必要があります。この精神力が沢村さんに新しい力を与えたように感じます。
私は、昨年(2009年)の8月から毎日腕立て伏せをやっていますが、10回から始め、毎月10回ずつ回数を増やしていきました。100回くらいまでは順調でしたが、今年5月に100回に達してからは回数が伸びなくなり、3ヶ月で15回しか増えませんでした。それで、「そろそろ限界なのかな」と思いましたが、ボクサーがやるように、高速で行う方式でやってみますと、数日のうちに115回が楽になり、しかも、気力が充実して楽しくやれるようになりました。そして、先月末のことですが、すぐに140回に増やしました。
これも1つのダッシュでしょう。英語のダッシュ(Dash)とは、「激しく動く」とか「突進する」という意味です。
そして、ダッシュの感覚を覚えてからは、やはり、何をやっても以前より数倍うまくやれ、時には魔法のような力を感じることもあります。

ある程度慣れたことを、瞬間的に激しく行うことが気合いを入れる秘訣のように感じます。
世界的なピアニストやヴァイオリニストなどの演奏家になるには、毎日8時間以上の練習が必要と言われますが、非常に才能と実力を認められている12歳の少女が1日1時間しか練習しないといったことを聞いたことがあります。もしかしたら、彼女も、何かしらのダッシュの感覚を得ているのかもしれないと思いました。
何かの習慣を作るか、あるいは、既に習慣になっているようなことにダッシュの感覚を適応させてはどうかと思います。それが魔法の効果をもたらすと私は確信します。


【真空飛び膝蹴りの真実】
沢村忠さんの伝記です。驚くべき内容であり、これほど重要なことを学べるものはそうはないと感じます。

【強豪セールスの秘密】
日産自動車16年連続世界一のセールスマン奥城良治さんの秘訣満載の貴重な書。今出来ることを短時間化させていく能力開発法にも、今回の記事のダッシュの感覚を得るヒントがあるように思います。

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2010.09.22

友達がいないのは恥ずかしいことでない

友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。

しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。

友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。

私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。

最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。

友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。

時空(とき)を越え刻まれた悲しみの記憶
まっすぐに受け止める君は光の女神(てんし)
~ETERNAL BLAZE(詩:水樹奈々)より~

愛しさに傷ついて 天使に生まれ変わる
哀しみを追い越して 彼女は天使になれる
~いつか天使になれる(詩:田村直美)より~

刻み込まれていた証(しるし)に
導かれまた倒れる時も
見つめ合った一瞬が千年の記憶を越え 光に変わる
~agony(詩:KOTOKO)より~

米国の光明思想家ヴァーノン・ハワードの著書にそういったことが書かかれている。世間の話に慣れた頭には、一見何が書いてあるのか分からないが、実際的なことが詳しく書かれている。

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2010.09.18

人間がいるから宇宙がある

次のような奇妙な話が科学の考え方にある。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

これを「人間原理(Anthropic principle)」と言う。この言い方では正確ではないと言う人もいると思うが、他のどんなに簡単に書かれた人間原理の説明も、抽象的過ぎて意味が分からない。そもそもが、言葉で正確に説明できるようなことでもないので、これで良いと思う。
ところで、上のようなことを聞いたら、大方の反応は、
「そんな馬鹿な!宇宙に無数にある銀河の中の辺境のこの星に、たまたま生命が生まれ、たまたまこんな形に進化したのが人間だろう?」
といったものであろう。
これは、例えてみれば、サルがデタラメにキーボードを叩いたら、ノーベル文学賞を受賞できる小説になる可能性もゼロではないといった考え方だ。我々は、実はそんな考え方をしているのである。

人間原理と関係あると感じるお話に、インドの詩人タゴールがアインシュタインに言ったものがある。
「人が見ているから月がある」
また、「シュレディンガーの猫」という量子物理学の有名な命題は、
「箱の中の猫が生きているか死んでいるかは、人が箱を開けて確認した時に決まる」
といったものだ。
いずれも、やはり、「正確でない」と言われる書き方だが、他のどんな説明も五十歩百歩(ドングリの背比べと同じ意味)と思う。

タゴールは科学は素人であるが、世界的量子物理学者であるハイゼンベルクはタゴールの教えを受けたことがある。
また、江戸時代の禅僧である道元の「正法眼蔵」を見ると、道元も人間原理を直観で分かっていたように感じる。

さて、人間原理であるが、これを提唱(意見を主張すること)する科学者も、これを「馬鹿な」と反発する方も、半分抜けているように思う。それが、両者の意見が合わない理由のように感じるのである。

人間あってこその宇宙。
人間がいるから宇宙がある。

というのは、当然なのだ。しかし、同時に、

宇宙あってこその人間。
宇宙があるから人間がいる。

というのも正しいのである。
ほとんどの人が、人と宇宙の大きさの違いに騙されているように思う。
早い話が、人と宇宙は同じものなのだ。

我々が誤解したものの見方、考え方をしているのは、イエスの次の言葉の捉え方からも感じるのだ。
「人に悪口を言うのは、天に向かってツバを吐くようなものだ。それは自分に返ってくる」
考え方は正しいが、どうも誤解を生むのである。
実際は、地にツバを吐いても、自分にツバを吐いているのと同じなのである。
だって考えてみると良い。
我々は、皮膚の内側を自分と考えているが、自分の周りの空気や熱や、足元の大地を取り去れば、一瞬でも生きられない。人間は根本的に生命であり、あえて感情を交えずに言えば、死体は物だというなら、周りも含めて自分という人間だ。
エコロジーに関しても、大誤解をしながら色々言ってる人が多いが、人と環境は一体であり、相伴うものであり、もっとはっきり言うなら、環境も自分なのだ。
どの範囲の「周り」「環境」が自分かと言えば、宇宙全体としか考えられない。
だから、宇宙が我々の身体であると言っても、さして違和感は無いと思うのである。


【唯脳論】
我々の現実は、本当は脳で感じることだけであるということを理解すれば、世界は変わると思う。ちょっと難しいが重要な書だ。

【涼宮ハルヒの憂鬱】
この本の中で、ちょっと怪しいイケメン高校生の古泉一樹が、主人公のキョンに人間原理を説明している。キョンの反応は「そんな馬鹿な!」である。

【大きく考えるための小さな本】
世界的量子物理学者、フレッド・アラン・ウルフによる、最も優しく面白い量子物理学の入門書。
ウルフが量子物理学を志すことになったきっかけは、幼い時の超常体験であり、エイリアンとの遭遇だった。

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2010.09.17

真の英雄

英雄というのは、プログレッシブ英和中辞典のhero(ヒーロー)の項に書かれているように、「敬慕の的となる立派な人物」のことと思う。
では、どんな人物が、「敬慕の的」であり、「立派」であり、ヒーローと言うに相応しいのだろうか?

それは、最も高い意味で言うなら、「他人を生かす者」であることは間違いないと思う。
最も英雄らしく感じるのは、自分を犠牲にして他人の生命を救う者ではないだろうか?

ある時、スカイダイビングをしていた3人が空中で接近し過ぎ、パラシュートロープが絡まってしまって、1つのパラシュートしか開かなかった。3人が高速度で落下していく中、1人がナイフで自分を切り離し、他の2人を救おうとしたことがあった。人々は彼のやったことを「英雄的行為」と言ったが、まさにその通りであろう。
SF小説の中で、宇宙空間で事故を起こした宇宙船からの救出のため、乗客は宇宙服を着て船外に出なければならないが、宇宙服が足りない中、それを知った者が自分は宇宙服を取らないといった話がよくある。著者は英雄を描いて見せたのだ。

戦争で戦果を上げた者がしばしば英雄と呼ばれる。それは一面的には正しい。確かに、彼の祖国の人達は生きる道を得た。しかし、敵国民にとっては逆のことになるのが普通であろう。トータルで言えば、彼は英雄ではない。

この物理的世界では、場所やエネルギーに限界がある。他の者を生かすには、現実として誰かがそれを譲らないといけない。
もしかしたら、ウォレス・ワトルズやジョセフ・マーフィーの本に書かれている通り、全ての人のために十分なものがあるのかもしれないが、現実には、不公平な配分のせいか、別の理由からかは複雑だが、現状はそうではない。
どうしても譲る者が必要である。

戦争で言えば、戦果を上げるかどうかではなく、戦死した者は、敵味方区別なく、他人に場所を譲った英雄だ。
しかし、それなら、ウイルス感染や病気で死んだ者もまた、他人のために立派に場所を譲った英雄である。

真の英雄である「他人を生かす者」とは、「場所を譲る者」と言えるだろう。
この世では、誰かがいなくなれば、その分、他の者の場所が増える。それが悲しい現実である。
人間以外の動物等の世界では、天敵が存在し、ある種が過剰に増えることは普通はない。ただ、人間だけが他の種を絶滅させても増え続けようとする。
その中で、ウイルス感染、自然災害、あるいは、戦争で亡くなった人というのは英雄であり、その意味で、我々は、その遺族や彼らの同朋を手厚く援助しなければならないのであり、同情からそれを行うのではない。
我々の命は、そんな人達の犠牲に負っているのである。

生命まで投げ出すことはなかなか出来ないが、可能な範囲で場所を譲ることなら出来るかもしれない。
リストラされた人は、他の人に場所を譲った英雄だ。自分の家の自分の場所を、それを持たない者に少しでも譲ることもまた英雄的行為である。
自分が食べる量を出来る限り慎み、それを他に回すこともまた、心の中の英雄が起こさせるものであるかもしれない。
映画「ブラザー・サン、シスター・ムーン」で、豪華な宮殿の中で広々とした場所を持っていた法王が、フランチェスカに「その貧しさに私は恥じ入るばかりだ」と言ったのは、自然な感覚なのだと思う。

自分が消え去った世界。それを不意に想像すると、悲しく寂しいかもしれない。だが、真の英雄とは何かが感じられるはずだ。
そして、自分が個の存在であるという、人類最大の幻想も消える。自分が消えることで、自分が世界であることを理解するのである。

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2010.09.16

悪を受け入れる

理想世界とは、悪が存在しない世界ではない。

暴力は悪といえば悪だ。
しかし、若い男同士が、必要なら腕力で決着をつけるというのは正常なことではないか。
暴力のいっさいを禁止するから、大勢で暴行して殺して埋めるなんてことが起こるのである。
動物や虫の世界でも、メスを争ってオスが戦うことはあるが、勝負が付けば戦いは終り、致命傷を与えることはない。
何かの漫画で、いかにも悪そうな学生が、「むしゃくしゃするなら殴り合いのケンカでもやれ。すっきりするぜ」と言う場面を見たことがあるが、健全ではないか。
現代の不良が老人か身障者しか狙わないのは、そんな健全さがなく、負けるリスクを全く受け入れないからではないだろうか。
昔の父親は、いじめっ子に殴られて泣いて帰ってきた息子に「やられたらやり返せ」と言ったものらしいが、そんな当たり前が通用する世界では、いじめっ子の方も限度はわきまえているものである。大勢でマットでくるんで窒息死させるようなことはしないし、確かに弱い子をいじめるのであるが、そんな子が、強くはなくとも健闘すれば認めるものである。どんな世界でも、いじめは決して楽しいものではないが、弱い子が強くなる良い薬ではあるのだ。

ナンパ(軟派。街頭などで男が女を誘うこと)も悪なのだろうが、そんなものがない世の中など考え難い。それを抑えつけるから、無理矢理女性を連れ去ろうとして、挙句、言うことをきかないから殺したなどということが起こるのではないか。
ケンカやナンパなんて、昔から小説や映画によく出てくるが、それを肯定的に扱った素晴らしい作品が多いだろう。
教師が女生徒に猥褻行為を働いたなんて話は日常茶飯事となっているが、あれは、若い頃に「ちゃんとしたナンパ」をしなかった哀れな教師の歪んだナンパなのではないかと思う。実は、そんな教師というのは、40も過ぎた中年になって大真面目にその女生徒に惚れているのである。そして、そんな事件で思うのだが、狙われるのは可愛い子なのだろうから、クラスの男子で、教師を殴って制裁を加えるヤツもいないのかと情けなくなるのである。「教師を殴るなんてとんでもない」というのがとんでもない。教師なんて、ある意味、殴るためにいるのである。

国どうしの争いというのもあるのは仕方のないことだ。しかし、勝ってる方はやり過ぎずに情けをかけ、負けている方は引き際をわきまえれば、両者完全ハッピーとはいかないまでも、最悪は免れるのではないか。
戦闘機の大群を繰り出してミサイルを雨あられと降らせ、あげく原爆を使うというのは、やる方もやり過ぎだが、相手にそこまでやらせる方も問題があるのかもしれない。
個人でも、ケンカして負けたら、身体を鍛えて出直すのは良いが、陰湿な手段で復讐すると、さらにその報復を受けるものだ。

害虫や悪性ウイルスに対抗するのは良いことだが、滅ぼしてしまうのはやり過ぎで、必ず恐ろしい報復が別のところからやってくる。
たとえば、よりパワーアップした害虫やウイルスの変種が現れるのである。
実際は、害虫やウイルスに依存している部分も大きいのである。戦争で死ぬことで英雄扱いされるなら、ウイルスで死んだ人間はもっと英雄なのである。

悪は決してきれいなものではない。目を背けたくなるものである。だが、死が無ければ生がなく、闇がなければ光がないように、悪があってこその正義である。
悪と正義は同じものだし、少なくとも、お互いがお互いを伴うものである。
だが、お互いが相手を徹底的に滅ぼそうとするところに問題がある。それは、裏のないコインを作ろうとするようなものだ。
貧乏人あっての金持ちであり、醜男あってのイケメン、ブスあっての美女で、お互い、対極の立場の存在に依存しており、平たく言えば、お互いが大いに世話になっているのである。
それを、頭でなく、腹の底から理解した時に理想世界が訪れるのではないだろうか?


【荘子】
古代中国の賢者、荘子は、正義と悪というのは、立場の違いでしかなく、完成と破壊も、ものごとの捉え方の違いであると言う。
人類は、この2千数百年前の知恵をいまだ得ることができずにいるようだ。

【李陵・山月記―弟子・名人伝】
中島敦の名作短編集。「目と鼻の区別が付かない。善と悪の区別がつかない」。道に至った人間の悟りとはどのようなものか見ていただきたいものである。

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2010.09.15

魂までは奪われていない

地球征服を目論む宇宙人や悪魔や異世界人が、人間の肉体を乗っ取ってすりかわるというお話は昔から非常に多いと思う。
レイ・ブラッドベリの「ぼくの地下室へおいで」(萩尾望都さんが漫画化)や、平井和正さんの「死霊狩り(ゾンビー・ハンター)」(小説より先に桑田次郎さんにより「デスハンター」という漫画になっている)は、いずれも宇宙人が人間にとりつき、人類に気付かれないよう秘密裏に地球侵略を進めるものだ。
ジェリー・アンダーソンの人形劇「キャプテン・スカーレット」では、火星人ミステロンは肉体を持たず、人間の肉体を乗っ取るのだが、逆にキャプテン・スカーレットは肉体を奪い返し、ミステロンの能力をも得たというもので、永井豪さんの「魔王ダンテ」や「デビルマン」は、悪魔が人間の肉体を取り込むはずが、人間が悪魔の身体を奪って悪魔に立ち向かうものだ。

ところで、こういったお話は、空想でも何でもない。
我々はすでに、肉体というか、それを支配するはずの意識をすっかり乗っ取られてしまっているのである。
それは、世間という悪魔によってである。そこに宇宙人や異世界人などの意図があるのかどうかは知らないが、意志を勝手に支配されているのは確かである。
では、同じく意識を乗っ取られているはずの私がなぜこんなことを書けるのかであるが、上にあげた「キャプテン・スカーレット」の制作者ジェリー・アンダーソンの「謎の円盤UFO(原題は“UFO”)」にこんなお話がある。
地球防衛組織「シャドー」の司令官ストレイカーの親友の宇宙飛行士が、宇宙人に精神を奪われて遠隔操作され、ストレイカーを抹殺しようとする。無表情な顔で自分を殺そうとする親友にストレイカーが言う。
「心は奪われても、魂までは奪われていないはずだ」
ストレイカーの言葉が本当であったかどうかは分からなかったし、どう見ても悲観的だった。親友は元に戻らずに死ぬ。しかし、その親友が一瞬、ストレイカー殺害を躊躇したように感じられなくもなかった。
我々も、両親や学校、社会によってほとんど意識は支配されている。しかし、魂までは奪われていないと信じたい。

上にあげた、「ぼくの地下室へおいで」を含む、ブラッドベリの傑作SFが萩尾望都さんによって漫画化された「ウは宇宙船のウ」は素晴らしい作品になっている。特に私は「みずうみ」が好きで、これは別の意味で我々自身の魂を取り戻すきっかけになる奇跡的な作品だ。
ジェリー・アンダーソンやレイ・ブラッドベリは、魂までは奪われなかった人間が、我々に貴重なメッセージを送ってくれているのではないかと思う。


【ウは宇宙船のウ】
レイ・ブラッドベリの「ウは宇宙船のウ」「泣き叫ぶ女の人」「霧笛」「みずうみ」「ぼくの地下室においで」「集会」「びっくり箱」「宇宙船乗組員」を漫画化。萩尾さんの繊細で美しい絵と鋭い洞察力による理解によってまさに傑作になっている。

【10月はたそがれの国】
ブラッドベリの傑作19作品を収録。上記「みずうみ」も入っている。

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