2010.09.22

友達がいないのは恥ずかしいことでない

友達が出来なくて悩む大学生がよくいるらしい。
学食で1人で食べるのが、寂しいのではなく、恥ずかしくてトイレで食べるような人もいると聞く。
この、「寂しいのではなく、恥ずかしい」というのはよく分かる。
幼稚園から大学、さらには、会社でも、常にグループ活動が強いられ、1人で行動することに罪の意識を持つように強要されてきたはずだ。

しかし、そんな人はもう心配無用である。
そんな人の話題が多いということは、「1人ぼっち」である「仲間」が大勢いるということだ。そして、それは、最も正常なことなのだ。
友達がいないからといって、その人に親愛の情がない訳ではない。むしろ、仲良しグループというのは、グループ外の者に非常に排他的、薄情な場合が多いものだ。
友達がいなくても恥ずかしいことではない。これは絶対に間違いない。
友達がいても別に悪くはないが、いないならいなくて良いし、無理に友達を作る必要はない。作為的に友達を作ってもロクな友達はできない。

友達がいないということは、無理矢理徒党を組ませる学校の策略をかわした賢い人であるということだ。
グループ行動をする者の方が奴隷根性を植えつけやすいのだ。学校は奴隷生産工場である。

私が幼稚園の時、1人でジャングルジムの天辺に居たら、女性教諭が私を見て、「1人で遊んでるの?」と言った。
見ての通りである。なんでそんなことをわざわざ聞くのだ。
空に太陽がさんさんと輝いている時に「良い天気ですね」と言うのは、暗に雨降りを悪いことであると言っていることであるように、「1人で遊んでるの?」と聞くのは、「友達と遊びなさい」という非難や蔑みを感じさせるものだ。

最初に、学食で1人で昼食をとることを「寂しいのではなく、恥ずかしい」という気持ちが分かると書いたが、私も、ほとんど友達というものを持ったことはないが、寂しいと感じたことはなかった。しかし、学校や会社の中で、「不都合」「辛い」「苦しい」ということは大変に多かった。既に書いた通り、社会というのは、グループ活動をしないと、非常に居心地が悪く、屈辱を与えるところである。奴隷とはグループ活動をするものであり、単独活動してはならないものだ。奴隷でないことは許されないのが社会である。

友達がいないなら、天使と友達になれば良い。
自分が天使になれば天使の友達もできる。別にこれは、メルヘンでも何でもない。
天使とは、仏教でいう菩薩のようなもので、神や仏に近付きつつあるものであり、世間ではなく、宇宙を主と認めているというだけのことだ。
天使になる方法なんて、誰でも一度は目にしたことがあるはずなのだ。
優れた詩や文学やエッセイはもちろん、現代ではアニメの歌なんてのも、宇宙が作者に霊感を与えて書かせているのだから、案外にあちこちに見られる。
それは、簡単に言えば、感情に無防備になることだ。哀(悲)しみ、嘆き、あるいは、怒り、屈辱、羨望といった、日常何度も感じるものに対してだ。
それらをまっすぐに受け止める。すると、心はぐらつく。ぐらつかせておけば良い。やがて抜け落ちる。その時はもう天使になっている。
自分が天使になれば、同じ天使の友達もできるかもしれないし、目に見えない友達も良いものだ。宇宙そのものが親愛に満ちた友である。

時空(とき)を越え刻まれた悲しみの記憶
まっすぐに受け止める君は光の女神(てんし)
~ETERNAL BLAZE(詩:水樹奈々)より~

愛しさに傷ついて 天使に生まれ変わる
哀しみを追い越して 彼女は天使になれる
~いつか天使になれる(詩:田村直美)より~

刻み込まれていた証(しるし)に
導かれまた倒れる時も
見つめ合った一瞬が千年の記憶を越え 光に変わる
~agony(詩:KOTOKO)より~

米国の光明思想家ヴァーノン・ハワードの著書にそういったことが書かかれている。世間の話に慣れた頭には、一見何が書いてあるのか分からないが、実際的なことが詳しく書かれている。

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2010.09.16

悪を受け入れる

理想世界とは、悪が存在しない世界ではない。

暴力は悪といえば悪だ。
しかし、若い男同士が、必要なら腕力で決着をつけるというのは正常なことではないか。
暴力のいっさいを禁止するから、大勢で暴行して殺して埋めるなんてことが起こるのである。
動物や虫の世界でも、メスを争ってオスが戦うことはあるが、勝負が付けば戦いは終り、致命傷を与えることはない。
何かの漫画で、いかにも悪そうな学生が、「むしゃくしゃするなら殴り合いのケンカでもやれ。すっきりするぜ」と言う場面を見たことがあるが、健全ではないか。
現代の不良が老人か身障者しか狙わないのは、そんな健全さがなく、負けるリスクを全く受け入れないからではないだろうか。
昔の父親は、いじめっ子に殴られて泣いて帰ってきた息子に「やられたらやり返せ」と言ったものらしいが、そんな当たり前が通用する世界では、いじめっ子の方も限度はわきまえているものである。大勢でマットでくるんで窒息死させるようなことはしないし、確かに弱い子をいじめるのであるが、そんな子が、強くはなくとも健闘すれば認めるものである。どんな世界でも、いじめは決して楽しいものではないが、弱い子が強くなる良い薬ではあるのだ。

ナンパ(軟派。街頭などで男が女を誘うこと)も悪なのだろうが、そんなものがない世の中など考え難い。それを抑えつけるから、無理矢理女性を連れ去ろうとして、挙句、言うことをきかないから殺したなどということが起こるのではないか。
ケンカやナンパなんて、昔から小説や映画によく出てくるが、それを肯定的に扱った素晴らしい作品が多いだろう。
教師が女生徒に猥褻行為を働いたなんて話は日常茶飯事となっているが、あれは、若い頃に「ちゃんとしたナンパ」をしなかった哀れな教師の歪んだナンパなのではないかと思う。実は、そんな教師というのは、40も過ぎた中年になって大真面目にその女生徒に惚れているのである。そして、そんな事件で思うのだが、狙われるのは可愛い子なのだろうから、クラスの男子で、教師を殴って制裁を加えるヤツもいないのかと情けなくなるのである。「教師を殴るなんてとんでもない」というのがとんでもない。教師なんて、ある意味、殴るためにいるのである。

国どうしの争いというのもあるのは仕方のないことだ。しかし、勝ってる方はやり過ぎずに情けをかけ、負けている方は引き際をわきまえれば、両者完全ハッピーとはいかないまでも、最悪は免れるのではないか。
戦闘機の大群を繰り出してミサイルを雨あられと降らせ、あげく原爆を使うというのは、やる方もやり過ぎだが、相手にそこまでやらせる方も問題があるのかもしれない。
個人でも、ケンカして負けたら、身体を鍛えて出直すのは良いが、陰湿な手段で復讐すると、さらにその報復を受けるものだ。

害虫や悪性ウイルスに対抗するのは良いことだが、滅ぼしてしまうのはやり過ぎで、必ず恐ろしい報復が別のところからやってくる。
たとえば、よりパワーアップした害虫やウイルスの変種が現れるのである。
実際は、害虫やウイルスに依存している部分も大きいのである。戦争で死ぬことで英雄扱いされるなら、ウイルスで死んだ人間はもっと英雄なのである。

悪は決してきれいなものではない。目を背けたくなるものである。だが、死が無ければ生がなく、闇がなければ光がないように、悪があってこその正義である。
悪と正義は同じものだし、少なくとも、お互いがお互いを伴うものである。
だが、お互いが相手を徹底的に滅ぼそうとするところに問題がある。それは、裏のないコインを作ろうとするようなものだ。
貧乏人あっての金持ちであり、醜男あってのイケメン、ブスあっての美女で、お互い、対極の立場の存在に依存しており、平たく言えば、お互いが大いに世話になっているのである。
それを、頭でなく、腹の底から理解した時に理想世界が訪れるのではないだろうか?


【荘子】
古代中国の賢者、荘子は、正義と悪というのは、立場の違いでしかなく、完成と破壊も、ものごとの捉え方の違いであると言う。
人類は、この2千数百年前の知恵をいまだ得ることができずにいるようだ。

【李陵・山月記―弟子・名人伝】
中島敦の名作短編集。「目と鼻の区別が付かない。善と悪の区別がつかない」。道に至った人間の悟りとはどのようなものか見ていただきたいものである。

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2010.08.28

試合に負けても勝負に勝て

地球の気温が上がり過ぎて大変なことにならないよう、CO2(二酸化炭素)の排出量を削減しようということが世界的に訴えられるようになって久しい。
一方で、CO2の排出と地球の気温の上昇には何の関係もないことをデータで明確に示す者もいる。
CO2排出の削減自体は悪いものではないと思うが、それをことさらに取り上げることに意味はないばかりか、逆に極めて深刻な事態を引き起こす。
CO2削減に最も熱心さを示す国である日本は、自動車をどの国よりも沢山作って売り、高速道路無料化を押し進めて大渋滞を頻発させるほど無意味な自動車の使用を促進している。また、食べ物の半分以上を捨てている国でもある。

CO2削減による環境改善の考え方と本質が同じような話は、実はこれまでに沢山あり、全て悲惨な結果となっている。
アメリカではかつて、国民のアルコール依存の防止やギャングの資金源を絶つ目的で禁酒法を制定し、酒類の製造、販売を厳しく制限した。結果、闇バーが蔓延して、深刻なアル中は激増し、ギャングの財源は豊富となった。当たり前だ。禁止された酒は無茶苦茶美味いのである。
日本でも、青少年の凶悪犯罪撲滅のため、子供たちからナイフを取り上げた。いうまでもなく、少年の凶悪事件が激増した。禁止されたナイフはカッコ良く、また、やるなと言われることは何でもやりたがるのが若さである。
淫行条例とかで、実際上は17歳までの一生のうちで最も美しい時期にある女性との恋愛を禁止した結果、援助交際が爆発的ブームとなった。禁断の果実の魅力の前には、法の罰則など取るに足りないものだ。
そういえば、児童ポルノと見られる画像等の所持すら禁止するという法令を制定しようという話もあるが、そんなものが施行されたらどうなるかは考えるだに恐ろしい。

これらは、病気になれば患部を切って捨てれば良いという医療の考え方と同じだ。それは身体や精神のバランスを破壊して生命力を弱め、医療風に言えば、切って捨てなければならない部分が次々に出てくるのである。
一部は全体と不可分の関係にある。食べ物を見つけもしなければ、取りも食べもしない胃に反発して、目や手足や口がストを起こせば、みんなまとめて死ぬようなものだ。
だが、実際には、あらゆる複雑な関係性を理屈で解明することはほとんど不可能だ。しかし、「何が本当に大切なのか」を知る知恵があれば、自ずと行いは正しくなる。現在の人類に欠けるのはその知恵であるが、なぜそうなったのかというと、過剰な欲望のせいで正常な感受性を失ったからだ。

日本最大の決闘である、宮本武蔵と佐々木小次郎の決戦の前に、2人が何か会話をしなかったか興味があるが、そんな記録はない。
良い悪いの話ではなく、武蔵にとって最も重要なことは勝利であったが、おそらく、小次郎にとってはそうではなかった。武蔵に関する唯一の事実が書かれた「五輪書」を読むと、彼が超実際主義者であったことが分かる。「不意を突け、ムカつかせろ。絶対に勝て」という言葉が聞こえてきそうな書だ。戦において、自分より前を走るものはなかったと言い放つ武蔵の、妥協なき哲学がある。
ガイナックスのアニメ「まほろまてぃっく」で、まほろとリューガが、決闘の前に交わした会話が興味深かった。
リューガは、「聖なるものを求めるなら、俗なるものを捨てねばならぬ」と言う。
まほろは、「私は、何かのために、何かを捨てることはしない」と言う。
リューガにとって、人間の中で暮らすことは難しいことだった。しかし、まほろにとって、それは極めて幸福なことだった。
リューガは、自分こそ、俗にまみれていることに気付かなかったのだろう。アニメを見ている私には、笑うほど明らかなのにである。
名高い聖職者が、裏で桁外れにおぞましいことをしていることがバレても、私には、あまりに当然のことに感じるのである。

You say yes, I say no
君が「イエス」と言えば、僕は「ノー」
You say stop and I say go, go, go
君が「止まって」と言うのは、僕に「行け」と言うことでしかないんだ。
~ビートルズ“Hello Goodbye”より~

尚、まほろとリューガの決闘だが、まほろは大きなハンデを背負っており、最初から勝ち目はなかった。しかし、最後にリューガは言った。「私の負けだ」と。
かつて、無敵の柔道家、木村政彦と、無敗のグレイシー柔術家エリオ・グレイシーの決闘で、木村は、「試合に勝ち、勝負に負けた」と言った。
何が本当に大切なのかを知るには、心が、静かな湖面のように、月や雲といった対象物を明確に映せるようでないといけない。心の湖を乱すのは過ぎた欲望である。そして、人の欲望をあおって儲けようという連中は多い。
大切なことは、地球の温度を下げることでも、CO2を出さないことでもない。地球を守るためには、自分を愛するように地球を愛し、地球を愛するように自分を愛することだ。そのための自然な考えや行動ができないように神は人間を作ったりはしていないことは明らかである。


【五輪書】
武蔵に関する真実は、本当は五輪書に書かれたことだけしか分からない。

【葉隠】
三島由紀夫がこよなく愛した書。

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2010.08.17

最大の恐怖は死ではない

演技力があれば、「あなたには不安がありますね」と初めに言えば、占い師でやっていけるかもしれない。
不安のない人間などいないからだ。

なぜ我々は、いわく言いがたい(説明しようのない)不安を抱えているのだろうか?
それは、何かの恐怖感を持っているからに違いない。
人間最大の恐怖は死だと思われているかもしれないが、実は違う。人間は、死そのものではなく、自我の消滅を恐れているのだ。
それは、こう考えれば分かる。肉体が消滅して魂が残るのと、魂が消滅して肉体が残るのと、どちらかを選ぶとしたら、間違いなく、魂が残る方を選ぶはずだ。魂を自我だと思っているからだ。

そして、人間が常に不安なのは、自我とは不安定なもの、つまり、常に崩壊の危機に晒されているからだ。
なぜそうなのかというと、自我というものは、確固たる基盤はなく、ただ、関係性で構築されているからだ。
フロイトは、自我は幻想だと言ったが、それほどあやふやなものであることは確かだ。
自我は、肌の色、住む家、食べるもの、家族との関係、友人、通う学校、仕事、その他、あらゆるものとの関係で成り立っている。その中で、母親との関係性が自我を構築するための根本的な構成要素だ。
だから、母親との関係の薄い人は、自我が不安定だ。それは、その人にとって恐ろしいことなので、自我を強化するために、別のもので補完をしようとする。子供であれば様々なヒーローや、神秘な物語に夢中になったりする。成長するにつれ、武道に憧れたり、ピストルやナイフのような武器に強く惹かれることもあるし、オカルトに傾倒したり、熱心に宗教を信仰する人も多い。俗に言う変わり者には、母親との縁の薄い人や、母親に愛情を注がれなかった人が多い。自我の構成要素の中で最も大きなはずの母親の部分を別のもので埋めているのだから当然である。
特に、日本人は母親の影響が大きいのだから、日本では、母親との縁の薄い人は致命的なまでの変わり者扱いをされる。戦争で死ぬ時、「お母さん!」と叫ぶのは日本人くらいらしいし、乙女が泣きながら「お母さん!」と叫ぶのを可愛いと思うのも日本人くらいだ。
ただ、母親が自我の構築に大きく関与するのは、人間である限り同じで、「母をたずねて3千里」のような物語はどこの国にもある。たとえ立派な大人になっても、母親の顔を知らない人が、なぜか、母親に会いたがるのは、自我の中に母親の締める大きさがいかに大きいかを感じさせる。
おそらく、キリスト教で、信教を自由に選べる立場にあれば、母親との縁の薄い人は、聖母マリアを重要視する教派を選択するか、逆に、マリアのためにキリスト教に反発するかだと思う。

さて、母親というものもひっくるめ、自我の崩壊を恐れることに原因する不安を消すにはどうすれば良いだろう?
普通は、それは不可能で、人間は一生、不安を引きずる。
だが、注目すべきことがある。
それは、自殺をする瞬間に神秘体験をして、生まれ変わることがあるということだ。かのコリン・ウィルソンが世界的な思想家になったきっかけが、まさに青酸カリでの自殺未遂からであったのだ。
自殺とは、自我の消失を自分で引き起こすことであり、自殺に大きな勇気が必要なのは、人間最大の恐怖である自我の消滅を自ら選ぶのだから当然である。いわゆる、「死んだ気になれば何でもできる」の正しい根拠はこれだ。
あるいは、自我を完全に打ちのめされたり、ついに死を受け入れたという時に神秘体験を引き起こすこともある。
昔、無敵のプロボクシング世界ヘビー級王者ジョージ・フォアマンが、モハメド・アリにまさかのKO負けをし、茫然自失した後、神を見て熱心なクリスチャンになったのはそのためだ。
ただ、予想される通り、それは危険なことでもある。
自我を中途半端に破壊すると、最大の恐怖が残り、最悪、発狂する。自殺の場合、下手に恐怖に打ち勝つと、そのまま死んでしまう。
上にあげた、自我の消失で「悟りを開いた」人は、運が良かったというか、それまでの積み重ねがあったのだ。

自我の自主的な抹殺は、正しく行う必要がある。
まず、母親との縁が薄くて、人工的な自我でも良いから、いったん、自我を強く構築しないと、うまく完全に壊れてくれない。
未熟な自我で本格的な修行をする者が常に悲惨な結果になるのはよく知られていると思う。
日本の最高の文豪達・・・芥川や三島等は皆、母親との縁が薄い。彼らは自力で超人的自我を築いたが、その破壊に失敗し、自殺することになってしまった。
至道無難という有名な禅僧の言う、「生きながら死人となり、思いのままに生きる」ことができなかった。イエスの言う、「死に切ることで死に打ち勝つ」ことが分からなかった。天才的に賢い彼らすらそうだった。
だが、我々は、そんな失敗をすべきでない。

今回は、いったんここで切り上げる。

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2010.08.09

能力の差など些細な問題である

同じ人間でありながら、なぜこうも違いがあるのだろうと思った人は多いと思う。
言うまでもなく、私も散々悩んだクチである。

現在は、宇宙飛行が誰でも出来る時代になりつつあるらしい。
しかし、かつて宇宙飛行士はエリート中の超エリートだった。
学問では全国屈指の秀才、スポーツも万能で何かの競技に集中すればオリンピックも夢じゃない。そして、人間的にも高度な人格と強靭な精神力が要求された。
いわゆる、並の人間とは全く異なる超人と言って差し支えなく、収入も目も眩むほどで、誰にとってもだが、もちろん、女性にとっても憧れの的だった。

一方、学校においては、三流校の中でも成績は最下位あたりで、特技もなく、人間的にもつまはじき者。
社会では、安月給で世間の人に見下される・・・ならまだマシで、仕事も無く、ボロを着、何ヶ月も入浴しない汚れた身体で野外で寝ている者もあれば、社会で勝ち抜き、豪邸に住み、最高に贅沢な生活をする者もいる。
この違いはいったい何なのだろう?

ところが、こういった優秀な人間と、劣った人間と言われる人達に大した差はない。
喩えてみれば、100キロメートルと1ミリか、100キロメートルと2ミリかの違いといったところである。

フランスのリュミエール兄弟が1900年代初頭に映画を発明し、それが世界中に普及する中で、悟りを開いた聖者達は、世界をよく映画に喩えた。
ラマナ・マハリシもそうだった。
人間の本質は光であり、心がフィルム、世界はスクリーンだ。心によって世界が変わることを端的に示すには格好の喩えだった。
本当の自己は光であるが、人々は、スクリーンを現実だと思い違いをし、自分自身を見ない。自己である光を知れば、心というフィルムが悲惨な内容でない限り、悪い現実は現れないことを了解する。心さえ変えれば、実際は幻影であるが、この世というものは自由に変えられるのだ。
リュミエールという言葉が、フランス語で「光」を意味するのは面白いことだ。

しかし、今では、人と世界の関係はパソコンとインターネットで表現した方が良いかもしれない。
あくまで喩えなので、厳密な話と思ってはいけないが、人はパソコンだ。高性能なパソコンが優れた人間だと思えば良い。最高性能のCPU(頭脳部分)と豊富なRAM(処理用メモリ)、そして巨大な容量の固定ディスク等を備えたパソコンは素晴らしいことができる。一方、20年も前のパソコンのようなスペック(諸元。機能と性能のこと)では、今では使い物にならない。
だが、インターネットの中に、ある想像を絶した親コンピュータがあると考えてみよう。最高のパソコンでも数十億年かかる処理を一瞬でこなせる恐るべき性能のコンピュータだ。そこにつながりさえすれば、パソコンの性能の優劣など、何の意味もない。最高のパソコンが自分でやろうとしたら数年かかることを、最低のパソコンでも、その親コンピュータにまかせれば一瞬でできるのである。
大切なのは、その巨大な性能の親コンピュータとつながることだ。
いかに高性能なパソコンでも、数多くのつまらないサイトに接続し、余計なソフトを走らせると、真に有用なことは出来ない。一方、性能の低いパソコンでも、ただその親コンピュータに接続しさえすれば、その巨大な性能が自分のものになるのである。

言ってみれば、この超高性能な親コンピュータが神様である。そして、最初に述べた通り、パソコンが人間だ。
パソコンの性能の優劣、つまり、人間の能力の優劣など、些細な問題であることが分かる。
人間にとって必要なことは、神様との通信経路をきれいにし、余計な通信(多くの欲をかくこと)、余計な処理(思考)をせず、全てを神様に任せ切ることだ。
もちろん、パソコンとして最低限必要なことはしなければならないが、それは多くはない。ちゃんと神様とつながり、下手でも良いから正しく問題を伝え、送られてきた答えを素直に見ることだ。
もっとも、神様というスーパーコンピュータはあらゆるところに万能で超高性能のインターフェース(感知機能)を持っていて、我々の状況などとっくに、そして、完全に知っている。ただ、我々人間は、潜在意識というインターフェースを通してしか神様とつながることができない。心を穏やかにし、余計な欲望を持たないことで潜在意識をきれいにしておかないと、神様と一体になれないのである。

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2010.08.03

J.マーフィーの読み方

ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則の本を読んでも何ら成果を得られないのは、学校教育で身に付いてしまった本の読み方のせいである。
学生が教科書や参考書を読んだり、練習問題を解く時、「試験で良い点を取るぞ」「入試に合格するためにがんばるぞ」ということだけが目標になっていて、それが当たり前であることを疑わない。科学そのもの、歴史そのもの、文学そのものを味わったり、楽しむということをしないばかりか、教育のせいで、それらを嫌いになってしまうケースが非常に多いのだが、それはむしろ正常な反応に違いない。アインシュタインも、学校教育は子供の知的好奇心を窒息させると言い、彼自身、学校の勉強は大嫌いだったが、現代の日本の学校教育は、まだそこからちっとも進歩していない。
スポーツの練習では、試合に勝つことや大会で優勝することばかりを考える。空手やボクシングをケンカに勝つためにやるようなものである。真に優れた実戦的武道は私闘厳禁である意味を考えたい。

そんな学校教育で身に付いた習慣を持ったまま、マーフィーの「あなたも金持ちになれる」を読むと、お金を儲けることばかりを考え、欲望に支配され、ギラギラした目で読む。潜在意識はそんな時には全く働かない。
マーフィーの本を読む時は、欲望を持たずに、ただ淡々と読むと良い。すると、深い真理を学ぶことが出来る。そうすれば、望まなくとも幸運に恵まれる。

政木和三さんは、パラメモリ(後にアルファシータ、バイオソニックという新しい装置になった)という、人間のあらゆる能力を向上させる装置を発明したが、私はそれを使っても効果を感じられなかったので、政木さんにそう言うと、政木さんは「それは、あなたがこの装置で何かしてやろうという気持ちがまだあるからです。欲望を捨てないと効果はありません」と教えてくれた。
お金について言うと、政木さんは「私はお金なんてちっとも欲しくないのです。だから、毎年1億円も納税することになってしまうのです」と言う。
政木さんのこんな言葉に、純粋に「然り」と思えるようになれば、お金は、必要ならいくらでも降って来るようになるに違いない。
くれぐれも、お金と引き換えに心を病み、そのために身体を損なうようなことになってはならない。学校から始まる世間で成功するとはそのような愚かなことである。学校というものは、ただ、不条理な世間で生きるための練習場と見なせば良いかもしれない。

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2010.07.27

食べられない子供たち

私は、一昨年(2008年)の丁度今頃から、不意に間食をしなくなり、1日2食となり、すぐに1日1食になり、それまでは食べていた肉、魚を食べなくなった。
その時まで、相当な飽食で、肉も甘いお菓子も大好きだったが、ほとんど瞬間的に、粗食、少食となったわけである。

そんなことを私にさせたのには、深層心理の中にいつもあったに違いない「マッチ売りの少女」の影響があったのだと思う。高校1年生の時、文庫本で改めて読んで、すっかりとりつかれてしまったようだった。マッチ売りの少女にはモデルになった子供がいたようだが、当時やもっと昔はもちろん、現代ですら、悲惨な状況の子供はいくらでもいる。

何かの本で読んだが、ある日本人が貧困国で教師をしていた。生徒の子供たちはロクに食べていない子ばかりだった。その教師は、ピクニックを企画し、子供たちにお弁当を用意する。見たこともない素晴らしいお弁当を見て、子供たちは狂喜する。しかし、ピクニックに行った場所で「さあ、食べよう!」と言っても、誰も食べない。困惑した教師が尋ねると、子供たちは、「こんな良いものを自分だけ食べるわけにはいかない。持って帰って家族にも食べさせたい」と言う。結局、全員がお弁当を食べずに持って帰った。
やはり貧困国のある学校では、給食が支給されるのであるが、それを持って帰る子供がよくいるのだそうだ。そうしないと、家族が餓え死んでしまうのだ。

2度ほどお会いしたことがあるが、テレビで時々お見かけする、ソフトブレーンの創業者の宋文洲さんは、小学生の頃、10キロ以上歩いて学校に通っていたが、昼食のお弁当は持っていけなかったと言う。
現代の日本でも、こんな話がある。その学校では、給食はなく、生徒は昼食にはお弁当を持ってくることになっている。ところが、教師が、昼食を食べない子がいることに気付き尋ねると、その子は、お弁当を忘れたと言う。しかし、毎日なので、嘘であることは明らかだ。その子は母子家庭の子で、母親は早朝から深夜まで働いていて、お弁当を用意することができないのだった。教師は、自腹でパンを買って与え続けたようだ。しかし、そんな子供は、昔はもちろん、いつの時代も必ず存在するはずなのだ。学校に、そんな子供への対応策が無いというのはどうしても私には疑問である。
作家の太田治子さんは、太宰治が妻とは別の女性に産ませた子で、彼女が生まれた翌年、太宰は自殺している。小学生の時、太田さんは未婚の母と2人で、バラックの2階で間借り生活をしていて、当然貧しかった。彼女は朗読が得意で、学校で、教科書の読みを当てられるのを大変に楽しみにしていた。実は私もそうだったので、その気持ちはよく分かる。しかし、彼女は当ててもらえなかった。彼女の学校には給食があったが、給食費を払えない彼女を、担任の男性教師が差別していたようだった。

経済的には豊かでも、精神的に追い詰められている子供も少なくないだろう。
この世の出来事は、表面的な心で物質的に見るなら全て偶然と言えるが、思考や知覚で計り知ることの出来ないようなレベルの世界のあり様から言えば、全て必然で、宿命や運命というものもあるのだろう。
その不可思議な層の世界では全てはつながっていると感じる。そして、世界の不幸や悲惨が我々と無関係であることはないだろう。一人の心は世界全体に影響を及ぼすのかもしれないし、世界のどこかのことが私に影響を与えることもあるのだろう。
私の心の変化もまた、世界の変化なのである。

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2010.07.19

暴力がなぜ悪いか?

暴力がなぜ悪いか・・・なんて馬鹿なことを考えたことがありますか?
暴力そのものが悪いわけではありません。
ボクシングの試合では、むしろ積極的に気合いを入れて暴力を振るわないことは悪いことです。攻撃が消極的だと減点される位です。
また、現実問題として、特に女性や子供、あるいは、老人を守る時には、暴力や、場合によっては殺人も英雄的行為にすらなります。
要は、振るうべき時と場所であるかないかが問題なのです。
セックスも、相手が間違っていればレイプで、厳しく罰せられて当然ですが、正しい相手であれば、非常に良いばかりか神聖ですらあります。
以前、「なぜ殺してはいけないか?」ということが話題になりました。
時と所を間違えた殺人が悪いのです。まあ、ほとんどの殺人は、時と所を間違えたものですし、そうでなくても避けられればそれに越したことはないのですが、現実的にはやむを得ない場合もあるでしょう。

何事もそうです。時と所の問題です。
大事なのは、どうすれば、正しい時と所を選べるかです。
なぜ、間違った時と所を選ぶかと言いますと、過度な欲望のためです。欲望に支配されてしまうのは、言うまでもなく、冷静さを失っているからです。
こんな話があります。
5人の若い男が、1人の少女を無理矢理空き家に連れ込み、レイプしようとしました。
ところが、男の中の1人が、「やめよう」と言い出し、少女は難を逃れました。
男の1人が冷静さを取り戻したのでした。そのきっかけは、少女が自分の妹に似ていると思ったことでした。
精神が未熟で無軌道になりやすい若者すら、冷静さを取り戻すことが出来、そうすれば、正しい判断が出てくるのです。

冷静でいるためには、心に余裕が必要です。
心に余裕を持つためには、普通は、物質的にも、ある程度は恵まれていることも必要です。
何も持たないのに冷静な者はおそらく聖者です。それは理想ではあるかもしれませんが、我々凡人には難しいことです。
心の安らぎを得る目的の範囲内であれば、お金を求めても構いませんし、間違いなく得られるでしょう。
お金を求めて祈ると、それが正しい要求であれば、不意に安らぎを感じ、続いて、お金が入ってきます。
イエスは、願いは叶えられたと思えばそうなると言い、チャールズ・ハアネルも「ザ・マスター・キー」でイエスのこの教えの正しさを強調します。
つまり、先に安らぎの感覚を得てしまえば、望みは叶います。
岡田式静坐法を教えた岡田虎二郎が、「金?腹に力がつけば、金はいくらでも出来ます」と言った根拠もそれだと思います。
静坐、座禅、念仏、数息観、スワイソウ、祈り・・・何でもよろしいですが、常にそれを忘れないことで、心が急ぎ過ぎることがないようにすれば、うまくいくでしょう。
「神と和らぎ、平和でいなさい。そうすれば幸福が訪れます」これは、ジョセフ・マーフィーがよく引用した、ヨブ記の言葉です。


【人生に奇跡をおこす】
マーフィーの潜在意識の法則を実践するコツは、出来るだけ欲望を押さえ、淡々とやることです。マーフィー自身も「ソフトタッチが必要」と言います。

【あなたも幸せになれる】
私は、引きこもっていた時期、この本を読み、自分の中に無限の力があることを理解し、以降、お金に困ったことはありませんでした。

【あなたも金持ちになれる】
お金儲けの本でありながら、静寂でノスタルジィを感じるような内容だと思いました。ある意味、お金のことを忘れて読めば真理が見えるかもしれません。

【ザ・マスター・キー】
優れた成功法則の通信講座を書籍にしたものです。内容は東洋の叡智に基いた深遠なものです。ビル・ゲイツも愛読者であったという噂もあるようですが、長くゲイツマニアであった私にも、まんざら嘘でもないと思われます。

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2010.07.01

子供たちのための学校と教師

学校では、試験で良い成績を取るためにがんばることが、当然良いことであり、正しいことであるという絶対的前提を強要する。
しかし、私は、ごく幼い頃からそれを疑い、中学に入る頃には全く信用しなくなり、現在も自分が正しいことを確信している。
もちろん、計算が出来たり、算数や数学の便利な方法を知っていたり、将来、歴史や文学や科学等に興味を持った時にスムーズにそれに取り組める基礎を持っておくことは良いことだということまで認めないわけではない。
だが、そのために必要な範囲は、現在の学校の履修内容よりはるかに少ないことは間違いが無い。
そして、いろいろなことに興味を持てる感性を破壊するような学校教育になっているなら、それは完全に間違いであるが、アインシュタインはそうなってしまっていることを指摘していた。
アインシュタインは、子供の頃から、現在の日本とほぼ同じと思える学校教育に反発し、教師の迫害を受けると沈黙で応えた。ガンジーの無抵抗主義のようだ(ガンジーに関して、無抵抗主義というのは間違いで非暴力主義と言うのが正しいという方も多いと思うが、私はどちらも正しいと思っている)。
しかし、8歳で学校を自主的に退学したエジソンは、特に大学は無用であると、経験と実績をもって断言したが、アインシュタインは、自分で考える場であればという前提で大学の価値は認めていた。
幼稚園中退のイツァク・ベントフは優れた医療機器エンジニアだったが、真理は自然の中にあると言い、自然に学んで、優れた医療製品を開発した。政木和三さんも、自然の中にある驚くべき叡智に比べれば、人間の知恵など取るに足らないと言う。
神道やギリシャ神話には、自然崇拝の信仰が強く感じられ、科学はなくとも、これにより人々は偉大な知恵を得ていたと思う。

最低限の読み書き計算は修得する必要があるが、後は、成績は悪くて良いし、試験のことなどどうでも良いので、自分が良いと思うことを勉強すれば良いと思う。
私は、中学2年からは学校の授業には一切参加しなかったが、元々が授業を聞いて何か解ったという経験がなかったので、迷わずそうした。
1つには、学校は年長の子供が年少の子供を教えるような場にしないといけない。もちろん、やりたい子がやればよく、現在の学校らしい画一的な強制は無用だ。教えるのが好きで上手な子は多いし、教えることで学ぶことは非常に多い。
アインシュタインは、彼の偉さを知らない子供に学校の宿題を手伝ってくれるよう頼まれると、喜んで強力し、自分も多くを学べたことを感謝していた。
教師は、ルドルフ・シュタイナーが言うように、空気のような存在で良い。
フランス最大の作家の1人であるアルベール・カミュは子供の頃、家が貧しく、勉強に身を入れることができない境遇にあったが、彼の教師であったルイ・ジェルマンはアルベールの才能を惜しみ、特別に個人教授を施し、奨学金を得られるよう推薦し、アルベールはリセ(日本の高校にあたるフランスの学校)に入学できた。後にノーベル賞を受賞したカミュは、出版されたその時の講演録をジェルマンに奉げ、深い感謝を表した。
アインシュタインも、1人、非常に感謝していた科学教師がいたのだが、教師の方はアインシュタインのことを忘れていたようだ。
優れた教師が空気のようであると言うシュタイナーの言葉が少し分かるような気がする。


【アインシュタイン物語】
最も簡易で読みやすいアインシュタインの伝記。

【ベントフ氏の超意識の物理学入門】
科学者には読み通せないという、学校のものとはまるで異なる物理学。
西洋の科学と東洋の叡智を融合し、宇宙の真理に迫る。多少の科学的概念は出るが、ベントフ氏は幼稚園中退であり、それ以上の学歴があれば問題ないだろう。

【瞑想と祈りの言葉】
神秘学者であると共に、万能の天才ともいえるルドルフ・シュタイナーの、宇宙と響きあうマントラ集。
教育者としても世界的に知られるシュタイナーの、学びや生活における自然で美しい規範にもなっている。

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2010.06.26

世間とは何か

全ての人間に与えられるのが世間だ。
家族も1つの世間だし、地域や学校もそうだ。
そして、社会や国家といった、より大きな世間がそれを取り囲む。

人間である我々の使命とは、世間を打ち破り、それを超えることなのだ。
優れた文学は、全て、このことを描いている。例外は1つもない。
もちろん、直接的に表現しているものや、婉曲に示唆しているものもあるのだけれど、そのことを描いていない名作文学は存在しない。
もっとも分かりやすいもので思いつくのは、なんといっても、「かもめのジョナサン」(リチャード・バック)や「異邦人」(アルベール・カミュ)、「星の王子様」(サン・テグジュペリ)だ。

家族、学校、社会、国家といった世間は、個人を取り込もうとする。恐ろしく強力に。
人は、成長する中で、家族から学校、学校から社会、そして国家と、次々により大きな、より馴染みのない世間に向かい、これに飲み込まれる。ほとんど抵抗できずに、世間の機能として、栄養分として吸収同化させられる。
世間を打ち破り、それを超えて高く飛ぶことができる者は滅多にいない。
「アルプスの少女ハイジ」に出てきたおじいさんは、世間に背を向けてはいたが、超えてはいなかった。反発することもまた、同化の一種なのだ。本当に世間を超えていれば、普通の人が見て分かるものではない。

引きこもりというのは、一応は世間への吸収同化は免れている。しかし、家族という小さな世間には取り込まれており、その家族は完全に世間に取り込まれている。つまり、結局のところ、二重の強固な牢獄にいるのであり、より状況は悪く、苦しいのである。
引きこもりは、まずは家族という世間を打ち破る必要がある。それができないと、いくら本を読んでも何の役にも立たない。
つまるところ、引きこもりというのは、このように、二重構造の世間に拘束された存在なのである。ライオンから助けてもらうかわりに、ハイエナに喰われるようなものだ。
だが、引きこもりというのは面白い点もある。ハイエナを相手にせず、ライオンを倒せるかもしれない。その可能性はほとんど絶望的だが、それを成し遂げれば英雄である。

現代の、特に日本人は、完全に世間に吸収同化された人間ばかりになってきた。
ちょうど、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」のカオナシ(仮面男)が、そのあたりの状況を描いていた。
人の欲しがるものを出し、人がそれに手を出せば喰ってしまう。我々はカオナシに喰われてしまったのだ。
カオナシに飲み込まれないためには、良さそうなものを差し出されても欲しがらないことだし、一度飲み込まれたら、それを手放すことで解放されるしかない。

ところで、興味深いのは、家族や学校、社会、国家といった世間は傲慢な怪物だが、地域という世間は、必ずしもそうではなかった。慈悲深い近所のおじさんやおばさん、あるいは、おじいさんやおばあさん、お兄さんやお姉さんがかつてはいたものだ。
それで、学校という世間は、子供たちを拘束し、地域からなるべく引き離すようにした。そして、いまや、「隣近所は赤の他人」となっている。尚、一般社会より恐ろしい地域というものが存在する場合もあることを付け加えておく。

あらゆる世間を超えることが悟りなのである。
「荘子」には、世間を打ち破った者を、世俗にあって世俗を超越した者と書かれているし、イエスは、「私は世に勝った」と宣言した。
我々もそうでないといけない。
世間が、ほとんど全ての人を強力に飲み込んでしまった今となっては、滅びは避けられない。それが最初からの決まりだったのだ。

世間を超えるための3冊

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