2008.07.04

イタリアの大聖堂への落書き事件を考え続けた

イタリア、サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂への日本人の落書き事件は記憶に新しいと思う。
落書きを行った大学生は停学処分となり、高校野球部監督は解任となった。
こういった日本の動きに対して、イタリアでは、そのあまりに厳しい処分に驚いている。
学生の所属する大学では、修繕費の支払いを申し出たが、イタリア側は「謝罪で十分」と断った。つまり、もう赦してくれていたのだ。
日本の処分に対し、イタリア側は、日本人の良識を賞賛する発言もあったらしいが、それはやむなくといったものではないかと思う。
むしろ、「日本人には、間違いを犯した人間に対し、哀れみはない」という批判が本音と思う。

さて、この事件が起こった時、多くの日本人の反応は、「馬鹿」「恥知らず」「幼稚」といった強い批判が多かったように思う。
「私は日本人として恥ずかしい」という言い方も多かったと思う。自分は、あんな悪いことをやる馬鹿と同じではないというわけである。
では、私はどうかというと、やはり、「幼児レベルの大人や学生」「恥知らずの大馬鹿」と思った。つまり、私も(落書きした連中と)同レベルなのだ。もし、私が彼らのレベルを本当に超えていたら、やはり哀れみを感じるだけだろう。
親が、子供の悪行に対し、哀れみを感じるほどであれば、子供を叱るより先に、自分が謝りに行き、それを子供に見せることと思う。自分の責任であるからだ。

この日本人の異常な厳しさは、事件を起した学生や野球部監督が、日本を代表するタイプの人間であることを表明したようなものと思う。
つまり、お高くとまった意味でなく、本当に「日本人としての恥」を感じることができるわけである。土台、「日本人として恥ずかしい」とは、本来、そのようなものであるはずなのだ。

あるところで、中学生が万引きをした。問い詰めると、かなり多くやっていたことが分かった。教師達や母親は、激しくその子を叱り、罵った。
そのままだと、その子は、さらにひねくれることとなったはずだ。
父親は一言も叱らなかった。そして、日曜日、「行くぞ」と、その子を連れ出し、万引き先を1件ずつ訪ね、自分が謝った。個人商店などでは、激しくも口汚い罵りにあったが、父親は黙って頭を下げ続けた。本当に自分の責任だと思っていることが子供にも伝わった。
その子は、心から父親に謝罪したのである。

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2008.07.03

まるで魔法

少し以前の夏のことだ。
会社の冷房して締め切った部屋の中に、大きなスズメバチが入ってきた。
女の子達は大騒ぎし、男性達は頼りになるところを見せようと新聞紙を丸め(笑)、スズメバチに近寄るが、スズメバチは敏感に、人が近寄ると向かってくるように飛び立つので、男性も思わずひるんで逃げる。
ところが、ドアの目の高さの位置にスズメバチが止まった時、一人の男性がそこに近寄った。男性は静かにドアを開けるが、スズメバチは、まるで身づくろいでもするかのように、脚で羽を擦るようにしている。ドアが大きく開いてから十数秒。スズメバチは何事もなかったように外に飛び立ち、男性も何事もなかったかのようにドアを閉めた。
まるで魔法だった。
彼とスズメバチの間には調和があった。彼に敵意がないからだ。
で、その彼とは私のことであるのだが・・・(笑)。

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2008.07.02

美という幻想

現在では非常に高価である、ゴッホ、ルノワール、セザンヌ、モネなどの印象派の画家の絵は、彼らが在命の頃はほとんど評価されず、そのため、「優れた芸術は作者が死んでから評価される」という思い込みが一般にもあるように思う。

では、なぜ彼らの絵が、彼らが制作していた当時、認められなかったかと言うと、当時の美術界や一般の持つ「良い絵」の基準に合ってなかったからと思う。
岡本太郎さんも「今日の芸術」で、美を含むものごとの価値は非常に曖昧であり、時代や地域で極端に変わると書いていたが、一方で、現在の情報メディアの発達した世界では、その偏りが少なくなりつつあるという見解を示していた。
だが、私に言わせれば、偏りが大きかろうが小さかろうが、美や価値なんて曖昧だ。これらに実体はなく、言ってみれば幻想だ。幻想の範囲が広かろうが狭かろうが、幻想は幻想である。
かつて大変に評価されたものでも、現在では全く記憶にも記録にも残っていないというものは実に沢山あるはずだ。そして、現在、絶対的価値を持つ絵画や彫刻、あるいは音楽や文学が、将来、全く注目されなくなる可能性も無いとは言えない。
紀元前130年頃に制作されたと考えられているミロのヴィーナスの価値が今も認められていると言っても、たかだか2200年程度しか経過していない。数千万年が経過し、仮に人類は滅んでいて、別の知的生命体が地球上で発達していたり、宇宙人が地球を訪れてこれらを見ても、果たして価値を認めるかどうかは疑問であろう。
美というものを認識するためには幻想を作り出す能力が必要である。人間以外の動物には幻想を作り出す能力はなく、よって、美を認識することはない。フロイトは、人間は本能が壊れているので、その補完として自我を作ったが、それは自然に立脚しない幻想であると言った。その論が本当かどうかはともかく、人間は幻想に生きるものであると思う。これに関しては、フロイトよりも、吉本隆明氏の「共同幻想論」が優れていると思う。
人類とは別の知的生命体が出現しても、もし彼らの神経組織が幻想を必要としないものであれば、やはり芸術は理解されないかもしれない。
もっとも、幻想を完全に振り払ったと言われる、インドなどに時々存在した解脱した聖者は、幻想をショーとして楽しむことはあると言う。興味深い話だ。ショーであるからには、少しも重要でなく、自分がそれに影響されることはないが、幻想は驚くべき力であり、なかなか楽しいものであるもののようだ。
ならば、我々も、幻想と自己が不要に密着した状態を脱し(これを悟りというのかもしれないが)、この世をあるがままにショーとして楽しめるようになることもあるのかもしれない。まあ、私も、時々はそうなのである(笑)。

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2008.07.01

アミュレットのススメ

人間は本質的にお守り好きである。これは、日本人も、それ以外の外国人も変わりない。
芸術は、もともと宗教の下僕として始まったと言ったのは英国の作家コリン・ウィルソンであるが、宗教は、人間を日常とは異なる意識状態に導く目的がある。その効果を高めるために、祭壇や礼拝堂の壁などを、荘厳に、あるいは絢爛に装飾するための芸術が発達することとなったと思う。また司祭はもちろん、一般の人も儀式用に特別の衣装を纏うようになり、服飾の芸術も発達したと思う。
それと共に、宗教では、各種グッズもいろいろに工夫されてきた。実用というよりは祭礼用の華麗な剣や、豪華な装飾の聖杯などがあるが、キリスト教では、十字架の付いたネックレスであるロザリオが代表的なものであろう。
そして、宗教的なグッズには、呪術的な意味を持つものが多く考案されるようになった。超自然的な力を発揮するために使うものもあるし、逆に悪魔などの超自然な存在から身を守る魔よけなどである。
十字架にもともと魔よけの意味があったのかどうかは疑問であるが、バンパネラ(吸血鬼)対策には十字架が良いというのはほぼ定説みたいなものである。
(萩尾望都さんの、バンパネラの一族を描いた名作漫画「ポーの一族」では、バンパネラの美少女メリーベルは「あれに込められた信仰が恐いの」と言っていたが、なるほどと思った)
岡本太郎は、古代民族が残した、宗教的、あるいは、呪術的な各種グッズを非常に興味深く考えていたし、その芸術的価値を認めていたと思う。そして、やはり、芸術のそもそもの根源がそこ(宗教や呪術)にあると考えていたようにも思われた。
池田満寿夫さんは、非常に独特な解釈と思うが、ピカソの絵画は魔よけのために描かれたのではないかという論を著書で展開していた。現代の高名な芸術家も、呪術的グッズを求めていたというわけであろうか。

さて、人は誰もお守り好きという話に戻るが、誰の心にも不安があり、その不安は、何か分からぬが我々に災いする力には、人間としての自分の力だけで対抗できるとは限らないものもあると感じているからで、人間は何かにすがらないと、心が落ち着かず、生きていけないものかもしれない。
天才画家ダリは、常にある木片を持っていた。そして、それがなくなったと思った時には、哀れなほど取り乱したという。自分を神と言いかねない超自信家ダリですらそうであったとは面白い話である。

「美少女戦士セーラームーン」は武内直子さんが23歳で描き始めた歴史的漫画・アニメ作品であるが、実は宗教的と言えるお話であり、それもこの作品が大ヒットした原因ではと思う。原作とは異なるアニメの話であるが、セーラー戦士達は、世界を救うための3つのタリズマンを探すが、タリズマンとはお守りとしての宗教的宝具である。3つのタリズマンである、鏡、玉、剣が揃った時、聖杯が出現し、セーラームーンはその力でパワーアップする。しかし、聖杯の力を十分に引き出せなかったセーラームーンはメシア(救世主)ではないと見なされ、年長の3人のセーラー戦士達は別のメシアを探しに行く。だが、この3人は最後に、真のメシアに対する自分達の思い違いを知ることとなる。無限の力を発揮する万能のスーパーマンがこの世のメシアではなかったのだ。彼女達は、セーラームーンを真のメシアと認め、礼拝を捧げた後、姿を消す。
原作でも、同じ部分のお話で、小学6年生の病弱な美少女である土萠ほたるは、幼い頃からアミュレットというものを持っていた。アミュレットもまたお守りであるが魔よけの意味が強い。身体が弱く、度々発作に襲われるほたるはアミュレットの助けが必要だった。発作の回数が増え、アミュレットが効果を発揮しなくなるが、セーラームーンこと月野うさぎの娘で、ほたるの美しさに憧れるちびうさが、自分のアミュレットである「幻の銀水晶」に触れさせると、ほたるは一時回復する。ほたるは、ちびうさに、自分のアミュレットをむやみに人に見せないよう警告する。(アニメでは、ほたるは自分の家で発作を起した際、ちびうさと共に来ていたうさぎの幻の銀水晶を組み込んだコンパクトに触れ、気分が良くなるのを感じる)
尚、原作者の武内直子氏は、この土萠ほたるの正体であるセーラーサターンを「メシアの一人」とし、セーラームーンこと、プリンセス・セレニティーを「もう一人のメシア」とするなど、対等の扱いをしていたところが、サターン萌えである私には嬉しく(笑)、また興味深い。
余談であった(をい)。

鉱物(天然宝石等含)ファンも多いと思うが、やはりアミュレットの意味で愛好する人も少なくないのではと思うし、鉱物の神秘的効果を謳う本もよく見るが、これにも人々が何か不可思議な力に望みをかける様子がうかがえる。

私は、小学2年生の時、友達に教えられてタリズマンを自作し、常に持ち歩いた。ポケットの中でボロボロになってくると、さらに有り難味が増したものである。効き目云々より、心の支えになるものと思う。人間は、やはりそのようなものであるのかもしれない。
そう思えば、ダリを笑うこともできないと思う。
最初にあげた英国の作家ウィルソンも水晶片を持ち歩いていたらしい(今は知らないが)。
そういえば、私はヒランヤ(ご存知?)を持ち歩いていたこともあった。私は、かなりの引きこもりであるが(ひきこもり自体は治らない)、精神的に弱く、このようなものも必要であったかもしれない。
誰だって、アミュレットを持って良いと思う。人間って、それが向いていると思うからだ。
そして、何をアミュレットにするかは、自分の好みだけで決めて良い。他者の決めた価値などどうでも良いことである。「霊験あらたか」とか言う宗教団体のものをアミュレットにしていると、そこの教祖が詐欺で逮捕された時、嫌であろう(笑)。

W_sv

これは、スイスのウェンガー社のナイフ、スーベニールだ。
同じスイスのビクトリノックス社にスーベニアという、ほとんど同じナイフがある。
大刃と小刃の二つのブレードが付いていて、大刃でも60mmなので、持ち歩いても銃刀法に触れない(軽犯罪法で警察に難癖を付けられる可能性はある)。
とても美しく、洒落ていると思う。
女性で世界初の七大陸最高峰に登頂し、エベレストにも女性で初めて登頂成功した登山家の田部井淳子氏は、別にタリスマンの意味ではないが、登山時にはこのナイフを常に丈夫な紐をつけて首から下げているらしい。夜寝るときも離さない。寝ている時、雪崩に遭い、テントを切って脱出する時にナイフを探していては間に合わないからだそうだ。
この写真の、スーベニールにつけた紐はパラシュートロープで実に丈夫だ。
なんとなく、アミュレットに良い感じではないだろうか?
このように、アミュレットは、自分が良いと思えば何でも良いと思う。
さて、私もこれを首から下げたまま寝てみた。安眠できた(笑)。度を過ぎなければ、人はアミュレットを支えにするのも良い。

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2008.06.29

生きるチカラ

芸術家にも自殺者は多い。
彼らは、この世の神秘な美しさや、自らの魂に潜む荘厳さすら発見したかもしれないのに自殺したのだ。
この仕組みは、分かりやすく言えば、次のようなものだ。
一般の人が、スポーツや映画の感動的なシーンを見て、涙ながらに「勇気をもらいました」と言って感激する。しかし、月曜の朝になり、これから毎日、学校や会社に行かなくてはならない現実に憂鬱になるようなものだ。
芸術家は、感激を感受する度合いが大きい分、日常の煩いとの落差が大きく、より鬱になりやすい可能性がある。「生活なんて召使にやらせておけばいい」と言った芸術家もいたが、芸術家には多いタイプかもしれない。

逆に言えば、日常を煩わしく感じる度合いの大きい人は、感動したり、ありきたりな勇気なんかをもらうと自殺しやすくなるかもしれない。幻想の夢の世界に行きたがるのだ。
アイドルの後追い自殺が非常に多いのもこのためと思う。
ごく普通に見える女子中学生が「私、○○(自殺したアイドル)みたいになる」と言って、簡単にビルから飛び降りるのである。彼女は、日常に愛想が尽きていたのだ。

日本において、安直に日常を楽しくする方法は1つである。
国家や大企業の定めた価値観に従うことだ。それに逆らうと、煩いごとは非常に大きくなる。
つまり、最も何も考えずに幸せな人生を送るつもりなら、受験エリートを目指すことになるだろう。

日本人の自殺が世界でぶっちぎりのトップを独走する理由は、国家や大企業が押し付ける価値観が非常に狭いことだ。よって、それに適合しない多くの者は自殺予備軍となる。
日本では、ごく一部の人間しか「立派」でない。さらに悪いことに、その「立派」は実は異常であるので、それに適合するのは無理がある。いったん強く適合していた者が、なんらかのきっかけで適合できなくなると絶望して自殺する。

自分独自の価値観に生き、世間に背を向けてたくましく生きているはずの者も、自分の価値観に疑問を抱くと、やはり死にたくなるのだ。

では、どうすればいいかというと、究極的には、人間本来誰しも有している力を見出すことであるのだが、いきなりそう言われても困ると思う。
まずは、価値判断や思慮分別を忘れることである。
数学者としてよりは童話作家で名高いルイス・キャロルは、11歳くらいの少女への手紙に、冗談めかしてはいたが「忘れることがこんなに気持ちいいこととは思いませんでした」と書いていたが、私には本音に思える。

価値判断を忘れ、自然な自分を取り戻すには、私よりもっと役に立つことを書いておられるブログがある。ここでも、よくコメントいただいている彫刻家の石彫人さんのブログ
開き直りのススメ
である。
我々は幼児の頃、何度転び、ぶつかっても、歩くことを諦めなかった。そのような力は、本当は消えることはない。それを取り戻せば、人生は豊かになると思う。石彫人さんのブログを見て、そんなことを感じたものである。

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コロンブスの卵再考

Egg_2
これは、何の仕掛けもなく、ただ、テーブルの上に生卵を立ててみたものである。
注意深くやると、割に簡単にできる。
昔、集中力の訓練のつもりでやったものだが、ちょっと心を鎮める時には良いかもしれない。
ミスター・マリックは、テーブルの上に5円硬貨を立て、それを倒さないように、その穴に爪楊枝を通すという訓練を紹介していたこともある。
いずれも、コツは、テーブルに肘をつけることである。
コロンブスの有名な「コロンブスの卵」の話は、ゆで卵を使い、先にトライした人はうまくいかなかったが、コロンブスは卵のお尻(頭?)をテーブルに叩きつけてへこませて立たせたというが、この通り、そんなことをせずとも、生卵でも立つのである。
パイオニアがいつも特別に賞賛されるのは、コロンブスの言うとおり、一番最初にやることが、とてつもなく難しいことが多いからである。だが、我々はそれを忘れがちだ。
「では、まずは私が」と行動した者が世界を進歩させてきたのである。
しかし、基礎の段階では、型にはまることも必要な場合が多い。単調で退屈な基礎を延々と繰り返した後に独創性を発揮するチャンスがある。そして、そのタイミングを計ることは、さして難しくはないはずだ。結局、成功する人というのは、単調さに耐える忍耐と、一歩を踏み出す勇気を併せ持ち、謙虚に天の理に従う者なのだと思う。

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2008.06.28

殺人をさせないという想い

殺人事件のニュースをよく見るようになったが、殺人について考えてみよう。
秋葉原の連続無差別殺人事件の現場に出くわし、もし、自分にその力あれば、それを阻止したいと思うのは当然と思う。では、なぜ殺人を止めるのか?
被害者になりそうな人を救うためか?
もちろん、それもある。
だが、加害者に殺人をさせないためという思いが忘れられている。

「スターウォーズ」の第1作は現在では「エピソード4」と呼ばれるが、1977年に公開され、1997年に「特別篇」としてリニューアルされている。
この中で、オビ=ワン・ケノービが、かつての弟子アナキン・スカイウォーカーであるダース・ベイダーと戦うシーンがある。
年老いて力が衰えたオビ=ワンと、サイボーグ化して身体強化されたダース・ベイダーでは、かつての師が不利である。だが、これまでと思ったオビ=ワンは剣を止め、攻撃も防御も解く。一刀両断にするベイダー。だが、手ごたえがなく、ベイダーはとまどう。
映画の中で、こんな解釈はなかったが、オビ=ワンは自ら命を絶ったのだ。ベイダーに1つの殺人をさせないために。私自身は、そんな見方をした。

殺人は、殺される方は無惨であるが、殺す方も悲惨なのだ。
戦国時代の戦いの最中。
もはやこれまでと判断した兵達が自害することがある。最後の最後まで交戦し、一人でも多く道連れにするという方法もあり、それも賞賛されるのかもしれないが、潔く果てるのには、敵の人間に無用な殺害をさせないためという配慮はないのであろうか?

殺される前に、自ら命を絶った聖者は確かにいた。相手に罪を重ねさせないために。
殺人だけではない。盗まれる前に、心から持ち物を全て進呈した者もいた。
ジャン・ヴァルジャンに銀の蜀台や食器を進呈したと主張したミリエル司教は、何もジャン・ヴァルジャンをかばったわけではない。本当に、彼に罪を犯させなかったのだ。

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2008.06.26

敬う心

品格ブームであるが、日本人に品格がなくなってきたことは、いろいろな人が、それぞれの知識や経験の中から様々に語り、その多くはなるほど同意できる。
だが、直接に感じるのは、他人に敬意を持つ心を失くしているのではないかということだ。
自分にとってメリットのない人間、恐くない人間なら平気で見下し、ぞんざいに扱い、極端には、死んでも構わないといった態度ができてしまう。
真に品格ある人間は、月のような人間だ。恋人を理解することではなく、誰にでも同じように接してあげることのできる人が最も気高いのだ。
お釈迦様は、たとえ表に現れていなくても、誰の内にもある仏性に敬意を表し、誰をも心から礼拝したと聞く。
ただ、志なき人間は他人に敬意を払えない。

あなたの志に、敬意を。我が身を器に、顕現を。ともにフレイムヘイズたるの使命を、斃(たお)れる日まで果たしましょう。
~高橋弥七郎「灼眼のシャナV」より。名前無き12歳程の「天道宮の少女」の言葉~

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2008.06.25

実存としての小説世界

「月は地獄だ」という、1950年のキャンベルのSF小説がある。
1970年代に月の裏側に15人の男達が乗り込むのだが、事故で宇宙船は破損、飛行不能となり、1ヶ月の滞在の予定で用意した装備で、救援が来るまで生き延びなければならないというものだ。
私はまず、桑田二郎(当時、桑田次郎)さんの漫画版で読み、その後、小説を読んだ。ただ、いずれも小学生だったので、詳細はあまり憶えていない。小説では、彼らの日誌に「今日の太陽電池の製作は○○個」「今日の太陽電池の製作は△△個しかできなかった」「本日の太陽電池の製作は□□個。新記録だ」など、太陽電池の製作に注力している様子が印象深かった。やはり日頃の業務は重要であるなあ・・・と。

ところで、もっと印象に残っていることがあった。
ある科学者が、月面ドームの外での作業中、事故が起こり、生命は取り留めたが、脚を失った(片脚か両脚かは憶えていない)。
だが、その科学者は言ったのだ。
「私はマラソン選手ではないから、別に問題はない。研究には支障はない。」
この積極思考には、子供ながら感心したものだ。

日本一のお金持ちの経営者、斎藤一人さんの教えに、「困ったことなんか絶対に起こらない」というものがある。
何か困ったと思うことが起こった時、それで本当に困るのかと考え、本当は少しも困らないことが分れば、現実の方が変わってしまうというものだ。
この科学者は、脚を失くすという、一般的には「困ったこと」が起こったに関わらず、「別に困らない」と考えたようだ。

このように、貴重な教えであれば、現実はもちろんだが、優れた文学作品に適用することも十分に可能と思う。フロイトも精神分析を文学作品によく適用していた。また、フロイトは民族や国家すら精神分析できると言った。ただ、これに関しては、吉本隆明氏の「共同幻想論」を適用する方がより適切と思う。
逆に言えば、斎藤一人さんの教えや、フロイト精神分析学や、共同幻想論をうまく取り入れた文学作品を書くのも良い方法かもしれない。もっとも、そのためには、これらを深く理解する必要があるだろうが、それには、この世の真理を見抜く鋭い洞察力を磨かねばならないだろう。
ドストエフスキーの作品は、小説とはいえ、世界に対する超人的洞察力ゆえに名作なのであるのは疑いが無い。

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2008.06.24

信念と幻想

願いを叶えるために必要なことについて、聖書でイエスはこう言ったらしい。
「山に、動いて海に入れと命じ、その通りになると信じて疑わないならそうなるだろう」
有名な言葉と思う。
これが嘘か本当かは確かめることができる可能性は少ない。なぜなら、そんなことをこれっぽっちも疑わず信じられる人はまずいないからだ。
まさにこれを信念と言うのだろう。
妄想と言うのかもしれないが、私はこんな見方をしている。
山が動いて海に入るはずがないというのは一般的な共有認識だ。対して、命じれば山が海に入るというのは特殊な個人認識となる。通常は、特に統制された国家では、個人認識は共有認識に組み込まれる。そして実際は、共有認識の大部分は共有幻想と言って良いほどあやふやなものだ。なら、個人の認識のほとんどは個人幻想である。共有幻想の中で独自の個人幻想を持つことは大変なことだ。
共有幻想に関わりあいにならずに、個人幻想を信じた気になるのは比較的たやすいかもしれない。精神病院では、自分はキリストの愛人であると宣言する患者もいるが、彼女は広い共有幻想に背を向けている。だが、世間の幻想を知った上で自分だけの幻想を持つには想像力も心の力も要する。
天才画家サルバドル・ダリは大いなる妄想家だったと言えると思う。「私は、朝、目覚める度に大きな歓喜に包まれる。私がダリであるという歓喜である」「世間の人がダリやベラ(ダリの妻)であることなく生きていられるということに対する疑問は、日に日に大きくなるばかりだ」
だが、これを信じてしまえるダリの精神力は大変なものだ。もっとも、ダリは、この力をあるグッズに頼っていた。1つの単なる木片である。それを失くしたと思った時のダリの様子は惨めであった。
共有幻想を知った上で、個人幻想を育ててみれば良いと思う。多少の良識はもってね(笑)。それこそが信念というもので、全てを可能にする力である。
※共有幻想という言葉を使ったが、吉本隆明氏の「共同幻想論」からその用語を借りた。

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