2010.09.14

女神が舞い降りる時

「ライトノベル」という小説があるのをご存知だろうか。そのままの意味では「軽い小説」だが、高校生位までの若い読者をターゲットに書かれた小説のようだ。ただし、本当にライトノベルといったものがある訳ではないし、そう言われる小説を大人が読んで何か問題がある訳でも当然ない。ただ、表紙や挿絵に、漫画風の、可愛い少女の「ちょっとエッチな」絵が描かれ、いい大人が電車の中で読むのは抵抗があるかもしれない。
ところが、このライトノベルと呼ばれるものに名作が沢山あるのではないかと思う。谷川流さんの「涼宮ハルヒの憂鬱」シリーズもそうで、私には、あれに芥川賞や直木賞が授与されないのが全く理解できないほどだ。

筒井康隆さんの「時をかける少女」は、日本の歴史的小説と言って過言ではないし、あれほど数多く、大作映画やアニメ映画を含め、映像化された小説もないと思うが、あれは元々、中学3年生用の学習雑誌に連載されたもので、今で言えば、ライトノベル中のライトノベルだ。それが、連載開始(1965年)や刊行(1967年)から40年以上経った今も愛読され、実際、素晴らしい作品と思うが、著者は、実は嫌々書いていたという話もある。

意外な経緯で生まれた傑作というものが時々存在する。
人類が続く限り愛唱されるに違いない「きよしこの夜」は、一介の音楽教師が一夜で作ったものだ。
また、世界の国歌の中でも名曲の誉れ高いフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の作曲者の名は、フランス国民ですらほとんど知らないが、これも日曜音楽家が一晩で作ったもので、彼の他の作品は何も残されていない。

池田満寿夫さんは世界的な版画家で、小説でも芥川賞作家であり、その受賞作品「エーゲ海に捧ぐ」を自ら監督を務めて映画化した。
ところが、池田さんは東京芸大の受験を3回連続失敗して諦め、生活のために、いわゆる「街の似顔絵画家」をしていた時は、同業者に、「下手過ぎて我々のイメージが落ちるからやめてくれ」とまで言われた。
そんな池田さんが、大きな絵画展の版画部門に出品した際、全く作品が出来ずに、締め切り間際にヤケクソで三角刀で銅版をひたすらひっかいて猛スピードで仕上げた作品が、海外の美術界の権威の目に留まって賞が与えられたのがブレイクのきっかけだった。

リラックスというか、無欲で臨むのが成功の要因と言えるような気もする。
ただし、「では、成功するには無欲でいけばいいのだな」と意気込むのは、救いようのない勘違いだろう。

筒井康隆さんが「時をかける少女」を、あまりやる気がなかった理由は、彼があまり好きでない学園ものだったということもあるかもしれないが、何と言っても、事実上中学3年生限定という読者対象の狭さが関係ないとは言えないだろう。
SF作家の平井和正さんにも、中学生用か高校生用だったかは忘れたが、昔、学習雑誌からの依頼があり、平井さんは「悪徳学園」という作品を書いたが、すぐに担当者が青い顔で返却に来たらしい。その理由は読めば分かる。昔、マイケル・J・フォックスがまだ健常者で人気絶頂の俳優だった頃、ホンダの乗用車インテグラのCMに出た時のコピーに「エッチにもほどがある」(「エッチ」は、ホンダのマーク「H」にかけた洒落)というのがあったが、この小説もエッチにもほどがあった。今の時代でも掲載不可能と思う。


【時をかける少女】
「時をかける少女」はもちろんだが、同時収録の「悪夢の真相」「果てしなき多元宇宙」が素晴らしい。

【時をかける少女】
「涼宮ハルヒの憂鬱」「灼眼のシャナ」で有名な人気イラストレーター、いとうのいぢさんの萌え画をカバーイラストにした新装版。同時収録作品は「時の女神」「姉弟」「きつね」になっている。

【悪徳学園】
平井和正さんの有名な「ウルフガイシリーズ」の番外編と言える。中学校が舞台。本文記事に書いたが、猥褻にもほどがある。ただし、私は、これを学習雑誌用に渡した平井さんが嫌いではない。戦後に中学生だった平井さんには、小説の中の話なら慌てることでもないのだろう。

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2010.09.02

愛と憎しみは同じものだ

児童ポルノ規制に対する条例改正案では、絵や漫画に関する話がやたら多いように感じる。現代人は活字を読まないと踏んで(見積もって)のことなのだろうか?私には、実質的に文章の力の方がずっと大きいと思えてならない。言葉は潜在意識にまで潜入し、人間自体を根本から変えてしまうことがある。
そこから考えると、児童ポルノ規制の改正法案の趣旨から言えば、ウラジミール・ナボコフの「ロリータ」は出版禁止だろう。まあ、実際、色々な国で出版禁止になったことがあるようだが、それが正しかったかどうか考え直すことにも意味があるかもしれない。
「ロリータ」には、少女の性的描写は数多いが、超一流の作家の手による表現の力は、読み手にもよると思うが、単に上手い絵や漫画どころではない。

ところで、私は、「ロリータ」は高校生の時に興味本位で読んだが、そういった性的な部分とは全く異なる箇所が最も印象に残った。
それは、ロリータ(ドローレスの愛称)の母親のヘイズ夫人の話で、ロリータが1歳位の時、ベビーベッドからおもちゃを落としては私(母親)に拾わせて喜んでいたというところだ。つまり、それほど、ロリータは生まれつきの性悪であると言いたがっていたのである。
普通に考えると、赤ん坊にそんな意図があるはずがない。
ヘイズ夫人は、自分の子供であるロリータを憎んでいたのだろう。そんな母親は少なくはない。
そして、ヘイズ夫人の望み通り、ロリータは歪んだ精神の持ち主に成長するのである。

「ロリータ」を読んでから、飯田史彦さんの「生きがいの創造」を読むと、ロリータと母親は前世で憎み合っていた者同士が親子になったのだと思ってしまうほどである。
また、内海康満さんの「霊止乃道(ひとのみち)」の中にある話で、子供に手を焼いている母親がいたのだが、内海さんがその子供(男の子)に、「お前はこの人(母親)に復讐するために生まれてきたのだろう?」と言うと、その子が「見透かされたか」という不気味な顔をするというものがある。
あなたも、自分の親や子供、あるいは、兄弟姉妹を見て、そう感じたことがあるかもしれない。
だが、仮に、もしそうであったとしても、そのまま憎み合い続ける限り、来世もその次の生でも、醜く苦しい憎み合いを続けることになるのだろう。

ロリータは母親を愛していなかったのだろうか?
逆に、ヘイズ夫人はロリータを愛していなかったのだろうか?
小説を読む限り、それはほとんど感じられない。
もちろん、ハンバート(小説の主人公である性的倒錯者の中年男性)とロリータの間にもない。
だが、「アイアムザット」という本にこんな話がある。ある母親は、子供がどうしようもない負担で、ひとかけらの愛も示さなかった。子供はこの母親から、「ママを愛しているなら死んで頂戴。それが出来ないなら、ママを愛していないということよ」という無言の責めを受けながら育った。その子は、成長し、著名な産婦人科医になって、インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジを訪ねた。マハラジは「あなたは母親を愛しているのだ」と言う。「しかし、母親から愛を受けたことはないのです」と言われても、マハラジは、「それでも、母親への愛を止められなかったのだ」と答えた。

別に、奇妙な哲学でも禅問答でもなく、憎しみと愛が同じものであることは真実だ。

愛よりももっと深く愛していたよおまえを
憎しみもかなわぬほどに憎んでいたよおまえを
これは、萩尾望都さんの僅か15ページの傑作漫画「半神」で、双子の妹ユーシーへのユージーの言葉である。

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2010.08.31

心の中の悪魔

あなたは、自分を、正常な人間と思っているだろうか?
正常な人間とは、世間において正常な人間と見なされるよう振舞っているという以上の意味ではないと思う。

何かの本でこんな話を見た覚えがある。
2人の少女がいた。1人は大人びて、心優しい。もう1人は純心で子供っぽい。
2人はとても仲が良いのだが、ある時、子供っぽい少女が、大人びた少女に怒りをぶつける。
「あなたのように心のきれいな人に、私の気持ちなんか分かるはずがない」
大人っぽい少女は、怯えるほど戸惑いながら何も言えない。なぜなら、自分の心の中に、醜く汚いものが恐ろしいまでに渦巻いていることを感じているのだが、それを知られるのが恐いのである。
何の本だったかは覚えていないのは、おそらく、多くの小説や漫画等に同じような話があるからに違いない。
つまり、これが、ありふれた普通のことなのである。
ただ、この大人っぽい少女に心惹かれるのは、彼女がそれを自覚することのできる、極めて「純粋な」心の持ち主であるからだ。

こんな話もある。
清純な妹が、淫乱な姉を嫌い、家を出て行く。
しかし、時が流れ、その妹は、姉以上に淫乱な女になっていたというものだ。
これも、状況には特殊性があるが、傾向としては一般的なことだ。

いずれにしても、これらは、自分というものに対する大誤解が生んだ悲劇、あるいは、喜劇なのだ。
自分を、この世に「生まれ落ちた」存在。つまり、世界と切り離された孤独な存在と思っているから、世間の偽りの絆を持とうとして、奇妙な幻想に囚われ、単に変な欲望に付きまとわれるのである。
我々は、自分が世界そのものであるという自覚を得ることを諦めてはならない。


【桑田次郎アダルト短編集2 感覚転移】
確かにアダルトでエロチックな作品だが、特にR18指定はされていないようだ。
単なるエロスではなく、天才桑田次郎(現在は桑田二郎)の作品だけあり、人間存在の深い洞察に満ちた傑作と思う。
本文で引用したお話(淫乱な姉と清純な妹)もこの中にある。

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2010.06.28

コレー(乙女)が象徴するもの

イエスはよく、穀物の種を教えに利用していました。
「種は良い土壌に植えられないといけない」
「植えられた種は大きく増える」
正しく育てれば、すくすくと育って収穫をもたらす穀物を人生そのものに喩えました。
これは、ジョセフ・マーフィーの潜在意識の法則にも受け継がれ、種を願いに、土壌を潜在意識に喩え、潜在意識に植え込まれた願いは、必ず実現することを説きました。

種の教えをもっと深く知ると、我々は容易に希望を実現させることができます。
ここで、ギリシャ神話のペルセポネーという女神のお話をしましょう。
ペルセポネーは、デーメーテールという女神の娘です。デーメーテールは、神々の王ゼウス(ジュピター)の姉であり、オリュンポスの12神の1人でもある大女神です。そして、ゼウスがペルセポネーの父親です。
「え?実の姉と弟の子供?」と言うなら、その通りですが、ギリシャ神話では普通のことです。
ペルセポネーは、もともとコレーという名ですが、コレーというのは、単に、娘とか乙女という意味で、ペルセポネーは乙女の象徴です。
そのペルセポネーの愛らしい姿に、冥界(地下にある死者の国)の王ハーデスが一目惚れし、大地の割って馬車で出現し、ペルセポネーを略奪します。
ハーデスもまた、ゼウスの兄です。ハーデスにとっては、ペルセポネーは姪っ子で、実の姉と弟の娘です。
ハーデスによるペルセポネー(コレー)の略奪の場面は、多くの絵画や彫刻に残されています。

さて、ハーデスとペルセポネーのよく聞く話はともかく、ペルセポネーの略奪には不自然な点がいろいろあります。
略奪された時、ペルセポネーは野遊びの最中でした。一緒にいたのは、アテーネー、アルテミス、ヘカテーという、若いが高位の女神達です。それが、かろうじてヘカテーがペルセポネーの叫び声を聞いただけで、略奪に誰も気付きませんでした。
このあたりは、ハーデスの策略の巧みさと共に、大地の女神ガイア(ハーデスやゼウスの祖母)の助けがあったと言われています。
もし、アテーナー達が気付いたなら、略奪がうまくいったとは思えません。
さらに、もし、ハーデスが一目惚れしたのが、ペルセポネーでなく、アテーナーやアルテミス、あるいは、ヘカテーならどうだったでしょう?皆、美神であり、その可能性は十二分に考えられました。
しかし、軍神アレスをも倒す知恵と戦いの女神アテーナー、アポロンの双子の妹で、弓の名手である狩猟の女神アルテミス、そして、性格が地味なのか、あまり目立ちませんが、巨大な力を持つ女神ヘカテー。いかに、冥界の王ハーデスといえども、無事で済むとは思えません。
それに比べ、無抵抗で奪われるペルセポネー。ゼウスとデーメーテールの娘としては弱過ぎます。ハーデスは、か弱い乙女が好みだったのかもしれませんが・・・。

世界的宗教学者カール・ケレーニーは、ペルセポネーは、まさに穀物の種だと言います。
大地の中に取り込まれ、暗い地下で過ごすことになります。
しかし、母親デーメーテールの強い願いが成就し、ペルセポネーは地上に帰還します。地上に帰還するペルセポネーの感動的に美しい情景もまた、画家達の格好の題材です。
これは、もちろん、種が春に芽吹き、萌え出る様子を現しているのでしょう。
ハーデスは、ペルセポネーとの結婚についてゼウスの許可があればこそ略奪したのですが、このことでデーメーテールとゼウスは対立します。その仲裁をしたのは、2人の母であるレーアーでした。
ペルセポネーは冥界の王妃として巨大な権限を得、仲良しのヘカテーは冥界に入り浸ります。ただ、ペルセポネーが冥界にいるのは1年の3分の1で、後は母親と過ごします。

ペルセポネーの神話が、かくも人類に強烈な印象を残すのには、やはり意味があります。
イエスの種の教えの根本がそこにあるからです。
ペルセポネーのお話に関しては、ケレーニーは、無名の詩人が書いた「デーメーテールへの賛歌」(ホメーロス風賛歌の中の1つ)を重視します。
よろしければ、それを読み、宇宙の壮大な計らいに気付くのも良いかと思います。


【四つのギリシャ神話】
ホメーロス賛歌(ホメーロス風の詩体で描いた神々への賛歌)の中から、デーメーテール、アポローン、ヘルメース(マーキュリー)、アプロディーテー(ヴィーナス)の4柱の神への賛歌を取り上げています。
デーメーテールに関するものはもちろん、その他の賛歌も素晴らしいものです。

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2010.04.29

最高の賛辞

世界的版画家であった池田満寿夫さんの成功には、ドイツの美術界の権威、ヴィル・グローマン博士の恩恵が確実にあったと思います。1960年の第2回東京国際版画ビエンナーレ展で、国際審判員として参加していたグローマン博士が池田さんの作品を一貫して支持し、文部大臣賞を獲得することになったのでした。池田さんは、第1回展では一般応募で参加し、この2回展では招待作家になっていましたが、池田さんは、それは「銅版画家が少なかったから」と謙虚に述べていました。第2回展に出展した3つの作品は3日で仕上げたもので、銅版の上を三角刀でひたすらひっかいたようです。

池田さんは、グローマン博士からの手紙の一部を著書で公開されておられました。それで、どの本だったか忘れましたが、非常に印象に残った言葉があります。それは、「きみの作品を部屋に飾ってあるが、それを毎日見るのが私の楽しみだ」というものです。これほどの褒め言葉があるだろうかと思いました。
現在、松井秀喜選手がいることで、日本でアナハイム・エンジェルスが注目されていますが、1997年から2001年までエンジェルスで長谷川滋利投手が活躍していました。地味な印象もありますが、長谷川投手は大変な選手だったと思います。特に、メジャーリーグにいた9年間、一度もマイナー落ちせず、故障者リストに入ったのも一度だけというのは、どんな大選手でも難しいことと思います。
ところで、長谷川投手は、もともとは先発投手でしたが、メジャーではなかなか通用せず、監督は中継ぎ投手に転向させなければなりませんでした。中継ぎ投手(セットアッパー)とは、先発からクローザーにつなぐ投手で、1試合で複数登場することもよくあります。中継ぎ投手も大切ではありますが、先発やクローザーより格下と思われやすいからか、先発からの転向を嫌がるもののようです。長谷川選手はテレビ番組で自ら言われていましたが、その時、監督は「俺は毎日、お前のピッチングを見たい」と言ったようで、「うまいことを言うものです」と長谷川選手も言いましたが、本当にうまい言い方だと私は感動しました。
仮に、「モナ・リザ」の本物の絵を手に入れたとして、それを毎日見る人が、いかな美術愛好家でも、どれくらいいるでしょうか?世界一の美女と結婚しても、果たして彼女を毎日喜んで眺めるものでしょうか?
「毎日見るのが楽しい」「毎日見たい」・・・これこそ最大の賛辞であると思います。

また、価値あることが、それほど刺激的である必要もありません。
ある愛飲家が酒に関する著書に、40年間、毎日、同じ種類のウォッカを飲んでいると書かれていましたし、円谷英二さんは、毎日カレーライスで満足できると言われていました。宮崎駿監督も毎日同じものを25年以上食べているようですし、オバマ大統領は、毎日、ブロッコリーとサーモンとライスの夕食です(会食の時は当然違うでしょう)。
エキサイティングでもエキセントリックでなくても、毎日満足してやれることが本当の好きなんだと思います。
だから、「毎日、きみの作品を見る」ことは、きみの作品が本当に好きなんだよという意味であり、最高レベルの賞賛なわけです。
私は今、ルドルフ・シュタイナーの「神秘学概論」を読んでいますが、これを毎日読むことが楽しみです。シュタイナーが喜んでくれるかどうかは分かりませんけどね。

池田満寿夫さんと岡本太郎さんの、ピカソ論、ゴッホ論を併せて読むと本当に興味深いです。池田さんは、ピカソに関して岡本太郎さんを少し取り上げますが、ただ「背の低い男」と名前を出さないところに、やや対決姿勢を感じたりもしました。
また、「私のピカソ 私のゴッホ」の、池田さんがこよなく愛したモディリアーニ論に大変に感激しました。池田さんの人柄もしみじみ感じる素晴らしい本だと思います。

【エーゲ海に捧ぐ】
芥川賞をも受賞した池田満寿夫さんのエロス小説の傑作で、池田さんは自ら監督し映画化までしました。映画のビデオは販売されましたが、DVDにならないのは、いろいろ社会的な事情でしょう。
映画で、12歳の少女リーザ役を演じたサンドラ・ドブリは、映画の中でも言われていましたが、瞳に情熱を感じさせる美少女だと思います。さすがに、池田さんが選んだだけのことはありますが、撮影当時、小学5年生であるとのことでした。

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2010.04.16

優美な悩ましさ

児童ポルノを取り締まる法案の制定の実現を精力的に押し進める人というのは、真面目な人なのだと思う。ただ、知恵に欠けると思う。
例えば、自分が、幼女・少女への過剰な性的嗜好を持つと、法で取り締まらないと大変なことになると思い始める。
女性であれば、自分はもうオバサンなのに、若い男性への劣情(いやしい情欲)が止められないと、人間とはやはりロクなものでなく、取り締まらないと何が起こるか分からないと思うのかもしれない。
そして、現在の日本は、異常性欲が溢れかえっているのも確かである。
しかし、その根本原因は、飽食や肉食が原因の異常性欲だと思う。
スリ・ユクテスワの「聖なる科学」に、栄養の摂り過ぎや、本来人間に向かない肉食が異常性欲をもたらすことが説明されているが、それよりも、私自身、美少女というものは大好きなのであるが、全く理想のタイプの少女と密室で2人っきりになったところで、おそらく問題はないのである。それは、1日1食の菜食で、間食もしないようになったら、抵抗しがたいような性欲に襲われることはなくなったからだ。しかし、飽食で肉食中心であった頃はそうではなかった。また、以前はそれなりに好きであった、グラビア・アイドルの映像は、いまでは醜悪に感じる部分が多くなった。

フランスの小説家ドーデの「風車小屋だより」という短編集がある。私は小学生の時読んで以来なので、詳しくは憶えていないが、その中の1つのお話に、若い男が美しい娘とちょっと出会って分かれるのであるが、その娘が川に落ちるか何かのトラブルがあって、男の風車小屋に戻り、一晩を共に過ごす。男は、悩ましいものは感じながらも、2人は平穏に過ごした。
「そんな馬鹿なことがあるか。まともな男なら手を出すのが普通だろ」と思うなら、おそらく、飽食ゆえの異常性欲であることは間違いない。そんな場面で手を出す方が異常だ。
新約聖書のイエスの有名な言葉に「女をよこしまな目で見れば姦淫したも同じ」というものがあるが、これは、後に捻じ曲げられた言葉のように思う。むしろ、その女を想念で受け入れれば、結婚したも同じといったような意味の方が自然に感じるのである。性欲異常でもなければ、どんな美人、美少女を見たところで、女としては特別な関心を持つまでには至らないからだ。
イエスも、現在の飽食、美食の世界は想定していなかったに違いない。
いくらかの悩ましさは優美に変えられるが、激しい劣情は地獄の悪鬼と同化しかねない。


【聖なる科学】
著名な聖者パラマハンサ・ヨガナンダの師であるスリ・ユクテスワが、マハーヴァター・ババジの指示で、ヨガの教えと新約聖書の教えが一致することを研究、究明したことを顕した書です。

【新修 南北相法・修身録(全)】
水野南北が、生涯をかけた恐るべき実践で完成させた観相術と、それをはるかに凌駕する食の慎みの教えを同時に収めた貴重な書。
人間の運命は食のみで決まる。牢屋敷に入れられたどうしようないチンピラだった南北が、天下に鳴り響く観相家、7つの蔵を持つ長者になれただけでなく、天皇から貴族にまで叙せられ、当時異例の78歳まで幸福に生き、教えの正しさを自ら示した。

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2010.04.11

超ナンセンスの効用

風邪をひいたら、薬を飲んだり、ひどい時は病院や医院に行って治療を受けるという人もいるだろう。
しかし、最も良いのは風邪をひかないことだとは誰でも分かっている。
風邪をひかないためには、栄養を取り、よく眠り、身体を冷やさないことや、身体を鍛えて風邪への抵抗力を付けることだというのが一般論と思う。

だが、本当の風邪への予防法とは、風邪に関する世間の観念を捨てることだ。
つまり、上に述べた風邪を予防するために有益とされる一般論は、逆に言えば、「栄養をとらない」「睡眠不足」「身体を冷やす」「運動不足、鍛錬不足」だと風邪をひきやすいとなるが、それらは全てただの思い込みである。
ついでに言えば、風邪薬や医者の治療で風邪が治るというのも、ただの観念で、言ってみれば嘘である。
だが、正確に捉えて欲しい。嘘というのは、風邪薬で風邪が治るということで、観念の作用は真理である。

先日も「不思議の国のアリス」を話題にしたが、あのお話がナンセンスだというのなら、社会や、人間の作った団体や、家族こそナンセンスなのだ。そして、問題なのは、それをナンセンスと認識しないことなのである。
アリスの作者のルイス・キャロルもそう思っていたからこそ、あんなものが創れたのだ。
つまり、子供に感情移入し、子供の視点で社会を笑い飛ばしたのである。
だから、大人にとっても価値のある作品なのである。

さて、子供に見せる必要がないなら、もっと鋭いナンセスがある。
佐伯俊男さんというイラストレーターがいる。作品を見ると、一見、下手なエロ漫画家だ。セーラー服の少女の過激な猥褻画が大半で、先送りにはなったが、東京都の2次元児童ポルノ規制案が通れば、彼の作品が公開されるはずがない。
佐伯さんは世界的に評価される芸術家だが、芸術だから猥褻でないと言うなら、この世に猥褻はない。何が芸術であるかなど定義のしようはないし、一人でも、それが芸術と言えば芸術だ。はっきり言って、佐伯さんの作品は、芸術であっても猥褻だ。
そして、彼の作品はトランセンデルタル(超越的)なナンセンスである。
私は、「不思議の国のアリス」なら、まだ、ルイス・キャロルに感情移入すれば普通に感じるのだが、佐伯さんの作品ではそうはいかない。
佐伯さんの画集は、先ほども述べた通り、一見、エロ漫画で、実際にコミック雑誌に掲載されたものが多いが、シリアル番号入りの限定品が多く、値段もやや高めだ。
邪道かもしれないが、このスーパーナンセンスで潜在意識にはびこる大衆の偏見や穢れた信念や教義を破壊させるきっかけとするのも手かもしれない。
もっとも、本当に心の深奥の穢れを祓うのは、自分の中にある無限の力への信頼である。
あえて余計なことを言うが、佐伯さんの画集は、男性にとって、いわゆる「おかず」になりやすい。だが、私は、1日1食の菜食にしてから、性欲は完全に制御下に収めており、だからこそ、彼の作品は魔法のツールにできるのかもしれない。ただ、おかずにするとしても、アイドルグラビアよりは有益かもしれない。


【佐伯俊男70】
限定2000冊。私はNo.552を所有。入手できるうちにどうぞ。

【佐伯俊男情念絵巻 (コミック)】
1000冊しか発行されていない。私はNo.793を所有。コミックというよりは絵本のようで、面白い。扉絵以外はモノクロ。少女が可愛くて私好みである。

【佐伯俊男音楽野私娯途】
私は持っていないが、安価で、現在、新品で入手できそうである。

【少女への手紙】
「不思議の国のアリス」作者の、少女達に宛てた本物の手紙。純粋なアリスの原型と言えるかもしれない。30年以上のロングセラー。

【眠りながら成功する】
潜在意識から大衆の偏見を一掃した後は、潜在意識の無限の力への信頼を確立すれば、あなたに不可能はなくなる。

【私の声はあなたとともに】
魔法を使って治していると言われたほどの天才精神科医ミルトン・エリクソンは、「無意識(潜在意識)をもっと信頼して良い」と言った。潜在意識を信頼するための、エリクソンの楽しい物語を多数収録した本書は、間違いなく、百万ドル以上の価値があると私は思う。

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2010.03.16

2次元児童ポルノ規制と天才作家達

子供の性行為を描く漫画などを法的に規制する「2次元児童ポルノ」規制の改定案が提出されているが、そのようなものが広まれば、日本は間違いなく滅ぶと思う。
この改定案に対し、ちばてつやさん、藤子不二雄Aさん、里中満智子さん、永井豪さん、萩尾望都さんといった、日本の漫画界を作り上げたのみならず、日本人の精神を導いてきた巨匠達はこぞって反対の立場を表明している。

私は、個人的にはポルノは嫌いだし(女性の人格を踏みにじった描写が多く、耐え難い)、現実の犯罪行為を罰することは当然と思うが、闇雲な表現の規制が恐ろしい結果になることは、わずかな知恵があれば分かることと思う。
規制すべきでないことを規制した結果としては、アメリカで禁酒法により、アルコールの製造、販売が禁止されると密造酒や闇バーが激増して犯罪が増え、日本では、明治政府が庶民の性風俗を取り締まると、性風俗店が闇の世界の収益源として暗躍し、不幸な少女や女性が数え切れないほどとなった。
また、ナイフの所持を学校で禁止したり、過度の銃刀法により、ナイフによる凶悪犯罪が蔓延したのだと確信する。

上記にお名前をあげさせていただいた漫画家の永井豪さんの出世作である「ハレンチ学園」すら、この規制の下では出せなくなるらしい。恐ろしいものである。
「ハレンチ学園」は、小学生達が主体の、いわゆる「エッチな漫画」であるが、現在なら、さしたる猥褻度ではない。しかし、当時(1968年)は、学校やPTAから散々叩かれ、NHKあたりは永井さんを犯罪者扱いであった。ところが、永井さんの同様な内容の「あばしり一家」など、他作品は全く叩かれなかったらしい。それを見て、永井さんは、「ハレンチ学園」では、教師を馬鹿にしたことが叩かれた原因であることが分かったと言う。
なるほど、教師を馬鹿にするということは、学校や教育委員会を否定することであり、それは、ひいては国家批判につながるのである。
国家による漫画弾圧に対しては、あの手塚治虫さんも大変に苦労し、手塚さんは、「漫画は3時のおやつ」として、さしたる影響力のないものとへりくだることでうまくやり過ごしたが、言うまでも無く、漫画は人々の幸福に貢献したところが大きい。渡部昇一さんは、日本が繁栄し、ベルリンの壁が壊れた根本原因は、手塚治虫さんの「鉄腕アトム」であったという。ただ、「鉄腕アトム」の精神が失われて、日本のみならず世界は物質的なものに偏ったと言えるかもしれない。

永井豪さんの「デビルマン」は海外でも人気が高く、永井さんは世界の作家達に大変に尊敬されている。
「デビルマン」は、画期的な作品でもあり、それまで常識であったはずの「神が正しく、悪魔が悪い」を疑わせるものともなっている。
日航の会長に就任した稲盛和夫さんが教育家として尊敬する、世界的作家のL.ロン.ハバート(新興宗教「サイエントロジー」の教祖として批判もある)の「幻の四十八時間」という作品でも、神の側である天使が必ずしも正しいものではないことが描かれているが、もちろん、永井さんにしろハバートにしろ、作品の中で言う神や悪魔は人間の慣習的な偶像としてのものと思う。それは悪いものである場合が多い。

永井さんが直接描いたものではないが、アニメ版の「デビルマン」の最終回「妖獣ゴッド 神の奇跡」で印象深い場面がある。
デビルマンは悪魔の戦士で、人類を征服するために送り込まれてきたのだが、人間の少女、牧村美樹に逢って彼女を愛するようになり、悪魔族と戦うことになったのだった(デビルマンは人類を守るのではなく、美樹を守りたいだけらしい)。
次々とやってくる悪魔族の刺客を倒す中、ついに、悪魔族の中でデビルマンのかつての上役であった、デビルマン以上の力をもつ「神」妖獣ゴッドがやってくる。ゴッドにより、美樹の前で正体を暴かれたデビルマンであるが、美樹は明(デビルマンが人間の姿をする時の名)が悪魔であることも、ゴッドが神であることも認めない。ゴッドに向かい、「あなたは神じゃない。神様はあたし達のここにいるわ」と恐れずに言い、胸を押さえる。
もちろん、神に形や大きさはないのであるが、人の心を通して顕れるものであると思う。美樹の言葉は、実に私の人生の指針ともなったと思う。


【フィアー】
発行総数1億冊以上。アイザック・アシモフ、スティーブン・キング、レイ・ブラッド・ベリらが賞賛するL.ロン.ハバートの小説の面白さは半端ではないと思う。
「フィアー」を読み、私は激しく混乱し、数日、夢の世界をさ迷ったが、その後、精神が少し高まったと思う。

【死の代理人】
本文でご紹介した「幻の四十八時間」も収録する、L.ロン.ハバートの最高に知的で深遠なミステリー。何の成果もない人生で、最後に神の力を得たら、あなたはどうする?

【魔王ダンテ(全巻セット)】
「デビルマン」の原型とも思える、永井豪さんの傑作漫画。人間と神と悪魔の真実の姿。ラストで私は呆然自失となった思い出がある。

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2010.02.28

狂気こそ宝

アメリカの偉大な精神科医ミルトン・エリクソンは、17歳の時に、ポリオというポリオウイルスによる感染症にかかりました。
これは恐ろしい病気で、彼は全身が麻痺して動かなくなり、出来ることは、目玉を動かすことだけでした。
彼はなんとか回復しましたが、脚などに障害が残りました。また、彼は色盲で、さらに、失音楽症という、音楽が理解できない障害がありました。
しかし、彼は苦学しながら医学校を卒業し、精神科医になりました。心理療法家として、エリクソンは驚くべき能力を発揮し、魔法を使って治しているのではないかと言われるほどでした。彼が亡くなって30年ほどが経ちますが、彼の功績は全く色褪せず、その治療技術は今でも重要なものとして学び続けられています。

ヘレン・ケラーは、ご存知と思いますが、幼い時の熱病で、視覚、聴覚を失いました。
しかし、彼女が大学生であった23歳の時に書いた著書である「楽天主義」を読むと、彼女がその時、既に賢者であったと感じます。
彼女は言います。感覚は幻想だと。そして、観念のみが真理であると。

神経科医のラマチャンドランの本で読んだのだと思いますが、7歳の天才的なデッサン能力を持つ少女がいました。
レオナルド・ダ・ヴィンチが、馬の骨格や筋肉の仕組みを研究し理解して初めて描けるようになった馬の絵に全くひけをとらない馬のデッサンを、絵の訓練を受けたこともない幼い女の子が描くのでした。
その頃、彼女は、脳に障害があり、話すことができませんでした。しかし、成長と共に障害が治ると、そのデッサン能力も消えました。
そういえば、アインシュタインも5歳頃まで言葉を話さなかったと聞きます。

人間は、何かの障害を持つと、それを補うための能力を発達させるもののようです。
アメリカのテレビドラマ「大草原の小さな家」で、今で言う小学生だったローラの学校に、オルガという名の両脚の長さの違う障害のある少女がいました。そのせいで友達と外で遊ぶことができないことを可哀想に思ったローラが、父親のチャールズにそのことを話すと、チャールズは「何かで欠けている人は、別の点で優れたものがあるのだ」と言います。
「荘子」の「人間世」に、誇張されていましたが、大きな障害を持つ男が登場します。しかし、彼は普通の人間より楽しく生きていました。荘子は、肉体に欠点があるだけで安らかな生涯が送れるなら、才徳において無用な人間が天寿を全うできないはずがないと述べています。
いろいろに解釈される言葉ですが、新約聖書のイエスの言葉「心の貧しい者は幸せである」という言葉を思い出します。

私の重度の引きこもり気質は、私の味方であると言えると思います。
ルイス・キャロルは、明らかなロリコンでしたが、精神を正しく導くことで、その性質が彼を賢者にしたと思います。
芸術家に典型的な例が多いのですが、偉大な人物で、心に狂気や大きな欠陥のない者は皆無であるはずです。
なぜみんなが、絵に描いたような健全で爽やかな人間でなくてはならないのでしょうか?
心に欠陥があるなら、大いに喜ぼうではありませんか?
ただ、池田満寿夫がこう言ったことも重要です。
「芸術と猥褻の差は、ソフィスティケイト(洗練)されているかどうかだ」
洗練なんて難しく考える必要もないと思います。ただ、それを宝と見なすことと思います。
性欲も食欲も、宝に相応しく扱わないといけません。
ルイス・キャロルは少女好きの性質を、そのように扱っていたと思います。
横尾忠則さんは、芸術には狂気が必要と言いますが、狂気こそ宝なのでしょう。

引用した書籍

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2009.05.21

無表情な誘い

「新世紀エヴァンゲリオン」は、1995年から1996年に渡ってTV放送されたアニメ作品ですが、当初から社会現象を起すほどの人気となり、海外でも高い評価を得、その人気が衰えることは全くありませんでした。
さらに近年では、新作映画も続々制作されています。

この作品では、終末論色が強く、2012年の地球滅亡の噂とも合わせると、今の時代により適ったものではないかと思います。
この作品の人気を支えているのは、美少女キャラクタの力も非常に大きいのですが、特に人気があるのが、綾波レイという14歳の謎の美少女です。おそらく、日本のアニメ史上でも、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」のナウシカと双璧をなす人気美少女キャラと言えると思います。綾波レイの等身大フィギュアは30万円の高価格に関わらず、注文が殺到し、長期入荷待ちになったこともあり、現在でも彼女の新しいフィギュア作品は次々制作されています。

では、なぜ綾波レイがこれほどの人気になったかと言いますと、美少女で、日本人好みのスレンダーなナイスバディであり、インパクトあるエロチックな描写が美しかったこともありますが、やはり、あの独特の雰囲気のせいと思います。
14歳の美少女といえば、普通は天真爛漫な愛らしい表情と、清純なセクシーさの融合を武器とする場合が多いかもしれませんが、綾波レイは、無表情で無口、感情を表さず、他人との関わりを避ける雰囲気があります。孤独の中に留まっているように見えながら、時にわずかな寂しさや困惑を見せる時には輝きを感じさせます。
類似のアニメキャラクタでは、「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希や、「ノワール」の夕叢霧香(ゆうむらきりか)がいると思いますが、彼女達は謎に満ちた非常に複雑な存在であることが共通しています。
その謎の部分も確かに魅力なのですが、彼女たちの無表情に大きな意味があるように思えます。

綾波レイや、その他の魅惑的な美少女達は、無表情と言っても、世を儚んでいたり、厭世的(えいせいてき・・・世の中を嫌なものと思うこと)であるわけでもありません。かといって、世の中にある何かに特に関心や愛着を持っているようにも見えません。
ただ、無関心に世の中を、そして、自分の心を観察しているように思われます。
彼女たちの目は、無気力でもなく、かといって輝いているわけでもなく、言ってみれば「素」な目です。
そんな彼女達が、なぜかくも魅力があるか分るでしょうか?
まず、そんな人は、滅多にはいません。
普通の人の目は、不満、欲望、羨望、執着、無力感といったもののいずれか、あるいは、いくつかが感じられ、決して素な状態ではありません。

素な目を持つ女性ほど魅力的なものはありません。
では、どうすれば素な目を持てるのでしょうか?
上に書いた通りです。世界で起こることや自分の心を、特別な感情を持たずに、ただ観察します。冷静な科学者のように。
だけど、これだけのことであれば、ヴァーノン・ハワードの本や、ニサルダガッタ・マハラジの本にも書かれています。
しかし、肝心なことは、どうやれば、それができるかです。
そして、これをすることは、少女や女性だけでなく、本当は誰にでも非常に大切なことです。それこそ、2012年のアセンションに関わる重要な意識を得ることに繋がります。このようなアニメ作品が大ヒットするのは偶然ではありません。

素な目の持ち主に必要なことは、積極的な心構えではありません。では、消極性かと言いますと、あながち間違ってはいませんが、肯定とか受容と言った方が正しいです。
世の中や、自分の心のいかなるものを見ても、肯定し、受容することです。
難しいのは、自分の心を受容することです。
怒り、悲しみ、嘆き、絶望する自分の心を受容します。それは、自分が心ではないことを意味します。
ただ、虚心にあらゆるものを受容します。
不完全ながら、そうしているのが、綾波レイや夕叢霧香、あるいは長門有希です。
では、なぜ虚心に全てを受け入れることができるのでしょうか?
ある意味、諦めと言えます。
しかし、これは、「明らめ」と言い換えた方が良さそうです。
この世の全ての出来事や、自分の心の動きが、全て運命として完全に決まっていることを明らかにし、そういうものとして諦めてしまうことです。
例えば、あなたが男性で、大好きな女の子がいたのですが、彼女は別の男性と結ばれたとします。それは、最初から決まっていた運命であり、あなたにどうこうできることではありません。それが分れば、諦めるしかないことが明らかになります。心は苦しむかもしれませんが、受け入れることもできるのです。

なかなかできることではありませんが、これが老子や荘子の言った。無限の実相である道(タオ)に通じる方法です。
自分の心を含めたあらゆることを、ただ虚心に受け入れ、思慮分別や好悪善悪の判断を一切してはなりません。ただ、万物、あるいは、運命と共に流れていきます。
自分の心を含めたあらゆることと言いましたが、この世の一切は心が作ったものです。ただし、心が過去に作ったものであり、今見ているこの世は、もう終ったものであって、実体ではありません。
運命を虚心に受け入れることができれば、心は消滅し、心はもう世界を創ることはなくなり、世界は消えます。
さらに言えば、心が過去に作ったと言っても、それは心にとっての過去です。あなたの実体には、時間も空間もありませんので、心が消えれば、世界はただちに消滅します。

完全に最後の段階に進むことを悟りと言います。
不完全ではあっても、それに近付けば、綾波レイのようになるでしょう。
まあ、不満や願望があるうちは無理ですけどね。

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