死んだら懐かしかった
自分が死んだとする。
うっかり、「葬式無用、墓無用」の遺言を残さなかったので、葬式が行われ、使っていた身体は適当な墓に入れられた。
エリナー・リグビーの葬式には誰も来なかったようだが、親族以外で3人くらいは来ただろうか?関心がなかったのか、まるで憶えていないが。
死に方によっては、テレビで、「職場の同僚の話では、仕事熱心で親切な明るい人柄と評判の・・・」とか言われるのだろうが、それだけは勘弁して欲しい。私は是非、餓死といきたい。それなら多分、安全だ。ただ、それも、実際はどうでも良いことだ。
少し経つと、家族の私に関する記憶も消え、習慣的に仏壇に線香をあげてもらえるかもしれないが、話題に上ることもない。
友人も(もしいればだが)、生前勤務していたところの人達にも完全に忘れられた。
私が所有していた物は、大半のものが処分された。家や家具や本など、残されたものがあったとしても、それを見た人が私を思い出すこともない。
死んでも長く名が残る人はいるが、それは、その人の徳の力というよりは、その人に、誰かの欲望を満たすための利用価値があるからという理由の方が大きいのだろう。私にも、また、多くの人にもそのようなものはないので、あっさり忘れ去られるというわけだ。
さあ、これで、この世の誰も私を知らないし、私がこの世に存在した証拠は何もなくなった。
昔、夢の中でそのような状況を見た時は、寂しさ、悲しさ、虚しさ、恐ろしさ、自己憐憫があったが、今は、いくら想像しても、さして悲惨に感じない。
私という個人はいないが、空は広がり、海はきらめき、風は吹く。鳥は飛ぶが、生きていた時より身近に感じることに気付く。木々を見ると、まるで語っているように感じる。それは確かに生きている。
人を見ると、その形よりも、混乱や孤独、不安が浮かんで漂うのが見える。
死んだ私には、ものの形はあまり関心はない。
美少女というものも、外見の美しさというだけで気を引かれることはないが、その存在の精妙さには感動する。だが、その美しさを利用しているような場合(アイドル等)は、むしろ目を(気を)背けたい。あくまで死者の立場としてだが。
この放恣(きままなこと)の空の下では、不思議な懐かしさが広がり、世界は意味で輝いていることが分かってくる。
世界とは、本当はそんなものであったと知る。
個性とか、個々のものに意味がないと言うつもりはない。だが、生前思っていたのとは、その在り様が異なるというだけのことだ。実際、昔飼っていた犬(とっくに死んだが)が、やっぱりおっちゃこちょいなのを見て、「お前って、死んでもちっとも変わらんな」と思ったりすることもある。まあ、そう思うと同時に、荘厳な姿を示して威圧してくるというちょこざいな真似をしたりもするのだが。
つまり、全ては遊びなのだ。
まあ、初心者の死人の言うことだから、あまり真に受けないで欲しい。それに・・・そろそろ生き返らないといけない。ブログも書かないといけないのでね。
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