神に悪意はない
「神はサイコロを振らない」とアインシュタインが言ったのは、「人間には分からないことがあるが、神に分からないことはない」と言ったような意味と思う。
ところが、W.B.イェイツ(アイルランドの詩人。ノーベル文学賞受賞者)は、戯曲「カルヴァリー」の中で、イエスを磔にしたローマ兵士の口を借りて、神そのものがサイコロであると言わせた。人間から見れば、まさにその通りかもしれない。
サイコロが神であるなら、出た目をどう受け取るかだ。「カルヴァリー」でのローマ兵士は、「予想できないことなら、起こるのが最善」と言い、イエスはその強さに屈服する。
この世は、何が起こるか分からない。そして、大抵の場合、この世はままならぬ。しかし、全て良しとするのである。
これは、ニーチェの考え方でもあると思うが、この生きかたこそ最強で無敵である。
ただし・・・。神というサイコロは、我々の知るサイコロとはかなり異なる。神は、無限の目を持つサイコロである。
どんな目が出るかは、人間から見れば途方もない偶然かもしれない。しかし、その目は、神が選んだのかどうかは分からないが、神はその目を愛しているのではないだろうか?
それは出るべくして出た目だ。もし人が、出た目を自分の意思とするなら、そして、それを愛するなら、その時、人は神になる。
「スピネル、この世で一番楽しいこととは何か知っているかね?」
「何ですか?エリオル」
「予期しないことが起こることだよ」
~CLAMP著「カードキャプターさくら」より~
しかし、予期しない悪いことが起こらないかと人は恐れる。そして、この世はやはりままならず、悪いと思えることは確実に起こる。
そして、人は神を恐れ、神の機嫌をとって、良いことが起こるようにしようとする。そのためには、愛すべき美少女の命を奉げることもあった。また、思い通りの運命を引き寄せる方法といったものを商売にする者はいつの時代にも多い。
だが、最も良いのは、アインシュタインの次の言葉を信じることだ。
「神は老獪(ろうかい。悪賢いという意味)である。だが悪意はない」
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