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2010.08.28

試合に負けても勝負に勝て

地球の気温が上がり過ぎて大変なことにならないよう、CO2(二酸化炭素)の排出量を削減しようということが世界的に訴えられるようになって久しい。
一方で、CO2の排出と地球の気温の上昇には何の関係もないことをデータで明確に示す者もいる。
CO2排出の削減自体は悪いものではないと思うが、それをことさらに取り上げることに意味はないばかりか、逆に極めて深刻な事態を引き起こす。
CO2削減に最も熱心さを示す国である日本は、自動車をどの国よりも沢山作って売り、高速道路無料化を押し進めて大渋滞を頻発させるほど無意味な自動車の使用を促進している。また、食べ物の半分以上を捨てている国でもある。

CO2削減による環境改善の考え方と本質が同じような話は、実はこれまでに沢山あり、全て悲惨な結果となっている。
アメリカではかつて、国民のアルコール依存の防止やギャングの資金源を絶つ目的で禁酒法を制定し、酒類の製造、販売を厳しく制限した。結果、闇バーが蔓延して、深刻なアル中は激増し、ギャングの財源は豊富となった。当たり前だ。禁止された酒は無茶苦茶美味いのである。
日本でも、青少年の凶悪犯罪撲滅のため、子供たちからナイフを取り上げた。いうまでもなく、少年の凶悪事件が激増した。禁止されたナイフはカッコ良く、また、やるなと言われることは何でもやりたがるのが若さである。
淫行条例とかで、実際上は17歳までの一生のうちで最も美しい時期にある女性との恋愛を禁止した結果、援助交際が爆発的ブームとなった。禁断の果実の魅力の前には、法の罰則など取るに足りないものだ。
そういえば、児童ポルノと見られる画像等の所持すら禁止するという法令を制定しようという話もあるが、そんなものが施行されたらどうなるかは考えるだに恐ろしい。

これらは、病気になれば患部を切って捨てれば良いという医療の考え方と同じだ。それは身体や精神のバランスを破壊して生命力を弱め、医療風に言えば、切って捨てなければならない部分が次々に出てくるのである。
一部は全体と不可分の関係にある。食べ物を見つけもしなければ、取りも食べもしない胃に反発して、目や手足や口がストを起こせば、みんなまとめて死ぬようなものだ。
だが、実際には、あらゆる複雑な関係性を理屈で解明することはほとんど不可能だ。しかし、「何が本当に大切なのか」を知る知恵があれば、自ずと行いは正しくなる。現在の人類に欠けるのはその知恵であるが、なぜそうなったのかというと、過剰な欲望のせいで正常な感受性を失ったからだ。

日本最大の決闘である、宮本武蔵と佐々木小次郎の決戦の前に、2人が何か会話をしなかったか興味があるが、そんな記録はない。
良い悪いの話ではなく、武蔵にとって最も重要なことは勝利であったが、おそらく、小次郎にとってはそうではなかった。武蔵に関する唯一の事実が書かれた「五輪書」を読むと、彼が超実際主義者であったことが分かる。「不意を突け、ムカつかせろ。絶対に勝て」という言葉が聞こえてきそうな書だ。戦において、自分より前を走るものはなかったと言い放つ武蔵の、妥協なき哲学がある。
ガイナックスのアニメ「まほろまてぃっく」で、まほろとリューガが、決闘の前に交わした会話が興味深かった。
リューガは、「聖なるものを求めるなら、俗なるものを捨てねばならぬ」と言う。
まほろは、「私は、何かのために、何かを捨てることはしない」と言う。
リューガにとって、人間の中で暮らすことは難しいことだった。しかし、まほろにとって、それは極めて幸福なことだった。
リューガは、自分こそ、俗にまみれていることに気付かなかったのだろう。アニメを見ている私には、笑うほど明らかなのにである。
名高い聖職者が、裏で桁外れにおぞましいことをしていることがバレても、私には、あまりに当然のことに感じるのである。

You say yes, I say no
君が「イエス」と言えば、僕は「ノー」
You say stop and I say go, go, go
君が「止まって」と言うのは、僕に「行け」と言うことでしかないんだ。
~ビートルズ“Hello Goodbye”より~

尚、まほろとリューガの決闘だが、まほろは大きなハンデを背負っており、最初から勝ち目はなかった。しかし、最後にリューガは言った。「私の負けだ」と。
かつて、無敵の柔道家、木村政彦と、無敗のグレイシー柔術家エリオ・グレイシーの決闘で、木村は、「試合に勝ち、勝負に負けた」と言った。
何が本当に大切なのかを知るには、心が、静かな湖面のように、月や雲といった対象物を明確に映せるようでないといけない。心の湖を乱すのは過ぎた欲望である。そして、人の欲望をあおって儲けようという連中は多い。
大切なことは、地球の温度を下げることでも、CO2を出さないことでもない。地球を守るためには、自分を愛するように地球を愛し、地球を愛するように自分を愛することだ。そのための自然な考えや行動ができないように神は人間を作ったりはしていないことは明らかである。


【五輪書】
武蔵に関する真実は、本当は五輪書に書かれたことだけしか分からない。

【葉隠】
三島由紀夫がこよなく愛した書。

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Comments

木村政彦の「試合に勝ち、勝負に負けた」という言葉は、私も非常に深みがあり、彼にとってもこの勝負に対するとても複雑な思いがあったことを感じることが出来ます。

何が本当に大切なのかということを知り、日々自己を発見し続け(自己を磨き続けるということと一致する)れば、価値のある人間になれるとのでしょうね。


Posted by: 読者 | 2010.08.28 03:51 PM

こんにちは。ひぐらしが鳴いてますね。
初めてコメントしたとき、Kayさんに「気があう」って言っていただいて、
すごくうれしかったけど、実は同時にどうしようと思いました。
Kayさんは、僕と違って頭もいいし、不可思議な人だな、と思ってたからです。

Kayさん、今日あそびから帰ったら、知らないおばさんが「おかえり」って。
それで「おかあさんの顔を忘れたの?」って言うのです。
おかあさんは「考古学」の対象ですね。
もう僕は自由ですね?新しいことを始めます。秋が楽しみです。

Posted by: しゅう | 2010.08.28 05:32 PM

食を節するようになり、粗食に慣れ親しむと、驚くほどに病気知らずの健康体になります。いや、本当に自分でもびっくりします。さらに自動車を利用せず、なるべく徒歩で移動するようにすると、バカみたいに頑健になります。

少食にしても車に極力乗らないようにするにしても、ひとえに自分を大切にする行為といえます。けれどもそれが同時に生活環境の悪化を鈍化させます。よく「他人を幸せにするならば、まず自分から幸せになれ」という文句を目にしますが、自分の身体を常に好調に保つことによって、わたしは同時に生活環境にささやかながらよい影響を与えるということを実感しています。

とはいえ、飽食や文明の利器への過剰な依存を当然としている人びとが主流の現在においては、少数の者が食を節したところで大した影響などありえませんが。

本当に自分を愛すれば、それは同時に人間の生活環境を愛することとなります。現在の日本社会のような、極度の物質至上主義は早晩破綻することは確実ですが、その時こそ多くの人びとが「自分を愛する」ということの意味を知ることになるのでしょう。

確かに「神」は、「自分を愛するように地球を愛する」ことができるように人間を創造していると思いますが、その人間の持つ本質に立ち返るまでにどれほどの凄惨な経験を必要とするかと思うと、いささか憂鬱になります。

Posted by: アヤカシ | 2010.08.28 09:37 PM

★読者さん
私は、自己を磨くことは苦手ですね。
何を価値と見なすかですが、何かになりたいとも思っていません。


★しゅうさん
私は、世間的に変な人なので、気があっても良いかどうかは考え方次第ですが(笑)。
知らないおばさんにも、どこにいても良い権利はあるのですが、余計なことをしなければいいだけなんですけどね。
元々、皆自由です。不自由なら、何かの幻想に囚われているのですね。まあ、囚われやすいことは否定できずです。


★アヤカシさん
私も、まだまだ他人を気にしますが、完全に幻想や囚われを脱すると、他人や環境といったものの影響は全くなくなるはずです。そもそも、他人とか、自分の外の世界があると感じていることが、幻想に囚われている証拠なんでしょうねえ。

Posted by: Kay | 2010.08.28 11:22 PM

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