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2010.08.05

やせ我慢は高貴な魔法

やせ我慢こそ、人間に与えられた特権であり秘法でもある。
それは、限りない進歩への鍵であり、欲望に打ち勝つ手がかりを与え、神に近付くことを容易にし、自信を生み出し、人生から喜びを引き出す。
それを使わない人間に可能性はない。

やせ我慢とは、苦しい時に平気な様子を装うことだ。
不快な時に、明るい顔でいることである。

寒い時に、女の子に自分のジャケットを無造作にかけて、自分は寒いのに平気な顔をしている男がいるのは、もう古い映画のお話かもしれない。
炎天下に、お気に入りのスーツをびしっと決めて、涼しい顔でいる男や、足を踏まれて、飛び上がるほど痛くても、全く乱れず、「今のは全然痛くなかったよ」という顔をする男もいなくなった。
国や時代が変わったって、そういうものが、ほっとするような、懐かしいような、妙に心をくすぐる不思議な光景を作り出すのだ。
見栄や虚勢と混同されやすいが、微妙な一線が高貴な輝きを与える。その違いは、心の純粋さだ。

ところが、今の日本では、男も女も、そして、嘆かわしいことに若い人がやせ我慢の美学を忘れてしまい、本当に格好の良い人を見なくなった。
やせ我慢とは、不自然なことをするのではない。
むしろ、あえて作為せず、心のささやきに従うことだ。それは最も自然な振舞いであり、ものごとをあるがままに受け入れ、どんなことも自分に起こることを赦すことだ。その態度には鬼神も敬服して従い、神は恩寵を与えずにはいない。
対して、本能や欲望のままに動く者は低次の霊に弄ばれ、いやらしさと浅ましさの厚みばかり増していき、自ら醜い世界を求め、美しい世界の存在を知ることもないだろう。

幸福になりたいなら、やせ我慢の練習をすることだ。
電車の中では、やせ我慢をしてでも座ることを諦め、立ってても座っているのと同じ快適さを感じている雰囲気を見せることだ。
暑くても、寒くても、痛くても、痒くても平気な顔で微笑んでいることだ。
食べたくても、平然として求めないことだ。
美少女と2人きりでも、輝く星や美しい花を見るような態度で接することだ。
不満を感じたり、犠牲者の気分でいては駄目だ。ある意味、自分の心すら騙すのだ。そして、低い心を去らせるのだ。すると、澄んだ心が鏡のように真の自己を映し、自分がどんな値打ちのある存在かも分かるようになる。

やせ我慢をすることを我慢しないことだ。
世間が「我慢するなよ」と言っても、本当のあなたは美しい我慢をしたいのだ。
やせ我慢せずに豚になるか、やせ我慢して天使のようになるかである。豚は豚で悪いものではない。豚は豚として良い扱いを受けるべきだ。ただし、人として扱うわけにはいかないのが、この世の掟である。

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Comments

今日のお話、心がほっとするような、温かなものを感じました。
「あるがままに生きる」とは、欲望のまま生きることとは違うのですね。私の中の大きな勘違いに気づかせてくださり、ありがとうございます。

やせ我慢と見栄や去勢の微妙な違い・・・純粋な心に従う事、身近にも、どんな時でも爽やかな笑顔を絶やさない人がおられます。
不快な時にも明るい顔をし、苦しい時にも平気でいる・・・そんな人が増えると、素敵な世の中になっていきそうですね。

Posted by: セルリン | 2010.08.05 10:35 PM

「やせ我慢」素敵な言葉です。
男の方の背中に、やせ我慢を見る時、静かに手を合わせたくなります。
女性の場合は、静かな微笑みでしょうか?

Posted by: ハマナス | 2010.08.06 11:04 AM

★セルリンさん
滑稽でも、やせ我慢は男の美学という気がします。
明るい顔は、他人への思いやりですが、苦しい時にそれが出来てこそ立派な人なんでしょうねえ。


★ハマナスさん
手を合わせていただけるよう励みます。
もっとも、やせ我慢を笑う人の方が多いかもしれません。
なら、笑われましょう・・・・

Posted by: Kay | 2010.08.06 10:57 PM

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