父母を敬うという意味
人が生きる上で従うべき規範というのは、そんなに多くないに違いない。
イエスはモーセの律法を取り上げたが、その内容は、「殺すな」「盗むな」「性の快楽に耽るな」「偽証するな」といった、ごく基本的なことだ。
しかし、「父母を敬え」が出てきたところで、ちょっと抵抗を感じる人もあるのではないかと思う。
そして、多くの宗教的、あるいは、道徳的な教えでは、この父母への敬いが強く主張されている。
父母とは敬うべきものだろうか?
その前に、「敬う」とはどういう意味だろうか?
それは、王様扱いして、何でも言うことを聞いたり、その者の考え方を何でも正しいと肯定するという意味ではない。
無条件に崇めて尊敬することでもない。そもそも、家族ほど、お互いの人間的欠点が目に付くものである。特に、父親は、悪い面ばかりを見られると思って間違いない。
もし、父母が立派だとしても、それが分かるのは、死んでからという場合が圧倒的だろう。この点は、父母の方でも最初から諦めた方が良い。
オールコットの「若草物語」をご存知と思う。原題は“Little Women”で、「若草物語」というタイトルはかなり作為的だが、完全に定着した感じである。
この4人の姉妹の母親は素晴らしい大人の女性であり、また、長女メグも、16歳の若さで優れた人間性を備えつつあり、自然で理想的な結婚話まで起こるほどである。
メグは、賞賛すべきことに、母親を本当に敬愛しているが、そのメグにしたって、母親を悪く言う場面もある。ただ、批判し切ることもない。
敬うとは、おそらく、非難しないことだろう。それは、言葉にしないだけでなく、心の中からでなくてはならない。つまり、蔑(さげす)まないことだ。
自分の父母や、妻あるいは夫、子供というものは、欠点ばかりが目に付き、放っておいたら、蔑み勝ちなものだと思う。悪い点を感じるのは仕方がないが、あえて蔑まないことが敬うということだと思う。
人間は、良いことをするのが望ましいが、悪いことをしなければ一応合格とすべきだろう。
現代の日本では、他人を敬う者がほとんどいなくなったように思われる。それは、心の中で他人を蔑んでいるのである。そしてそれは、自分が優れたものであるという幻想に囚われた傲慢さから起こっている。
他人を蔑まなければ、穢れた幻想も消えるだろう。その根本は、最も蔑みやすい父母をあるがまま認めて批判しないことだ。すると、あらゆることがうまくいくようになるだろう。
「考える」とは、「考えてはならない」という幻想を打ち破ることだ。つまり、世間の妄信に従うことを拒否することである。
「敬う」とは、「蔑みたい」欲望に打ち勝つことだ。つまり、あるがままに認めて非難しないことだ。
それを成就することが悟りなのである。
【若草物語】 やや古い本ですが、私は、この恩地三保子さんの訳が好きです。 | |
【大きな森の小さな家】 恩地三保子さん訳の、アメリカ初とも言えるキャリアウーマンとして知られるローラ・インガルス・ワイルダーの幼い日々の物語。生き生きと描かれた自然の森の中での暮らしがとても興味深い。 ガース・ウイリアムズの素晴らしい挿絵も有名である。 |
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