穢れには穢れ
一流の殺し屋の男が、昔の仲間で今は警官になった男と、雨の中、顔を見合わせずに話をしている。
警官は、今も殺し屋をやっている男に「お前も足を洗え。銃に命を賭ける時代じゃない」と言う。
殺し屋は、警官にタバコを差し出して勧めるが、警官は手を出さない。
殺し屋は、「お前はすっかりクリーンになっちまったな」と静かに言う。
「エル・カザド」というアニメの1シーンだ。
ところで、私は、クリーンな人間がいるとは思わないし、この殺し屋の方がずっとクリーンであると感じた。
日本でも、時々、「学園都市」とか言って、主に大学やそれに関係する研究施設の周辺に文化的な街を都道府県などが創ることがある。しかし、立派な街にすればするほど居住者が増えないそうだ。クリーンなものしかない街に人は住まないもののようだ。
最近、米国国防省の中で、軍の機密が含まれるコンピュータにアクセスできる権限を持つ職員が、数年に渡り、軍のコンピュータでインターネットの児童ポルノサイトにアクセスしていたことが明らかとなったという報道があった。軍のモラル的なことと共に、セキュリティリスクにもなるし、また、軍への脅迫のネタにもなりかねない深刻な事件と言われる。
この事件に関し、普通の人は、立派な地位にある人が児童ポルノを愛好していることを特に批判するかもしれない。日本でも、児童ポルノの嗜好を持つ者の存在自体を消去するかのような目的をかかげる人達が、そのための法案を作ろうとしているが、そんなことをやろうとする者の方がよっぽどいやらしいと私は思う。彼らは、自分が児童ポルノよりもっと穢れたものを持っていることを隠したがっているだけだと言えば言い過ぎだろうか?
人間には穢れた部分、クリーンでない部分が必ずある。
私は、食を厳しく慎むようになってから、穢れの部分が自分で驚くほど消えて行ったが、だからこそ、自分の中の闇の部分を強く感じるようになった。それは強力で、どこまでいっても、全ての闇が消せるはずがない。
最近、ハイヴィジョン放送で全話が放送された「スターウォーズ」では、ジェダイという心身を鍛え上げた超人的戦士の最も重大な問題が、人間としての暗黒面だというのが印象深い。精神をも究極的に磨き上げ純化させた時こそ、人間の中の闇が破滅を引き起こすというのは実にリアルであると思う。
1956年の映画「禁断の惑星」でも、高度に進歩したアルテア第4惑星が滅びた原因は、外側は完璧に進化した人類の心の奥に隠された闇だったのだ。
最近は、マスコミで、大相撲関係で暴力団の話題が多い。暴力団員を一般にヤクザと言うが、ヤクザは侠客(きょうかく)と呼ばれることもあり、侠客とは、任侠道と言う自己犠牲の精神で弱い者を助けることを行う者のことだ。
私は、警察で深い現場経験を持つ、そこそこの立場の人が、「ヤクザがなくなることは絶対にない」と断言し、社会のトップと交流のある人が、「ヤクザは必要」とまで言うのを聞いたことがある。
私自身は偉くないので、詳しいことは分からないが、人間に闇の部分、深い穢れがある以上、それに関わる問題は起こるべくして起き、それを調製しなければならないこともあるはずだということは分かる。その調製をクリーンにやれば必ず歪が起こる。例えば、児童ポルノをクリーンな法で規制しようとすれば、とんでもないことになるが、頭の軽薄な連中にはそれが見えないのだ。
弱い人々を穢れから守るためには、自ら汚れる覚悟を持ち、実際に汚れながらそれを行う者は必要なのだと思う。それが本物の侠客ではないのか?
穢れに対抗するには穢れである。本当に子供を守りたいというなら、自分が汚れないといけないのだ。
自分はクリーンな立場で穢れを払おうなんてのは、傲慢か馬鹿だろう。
最初の「エル・カザド」の話で、私は殺し屋の方がクリーンだと感じたのは自然と思う。「お前はすっかりクリーンになっちまったな」と言われた警官は、自分も殺し屋だったからこそ、本当は今の自分の方がクリーンでないことに気付いているはずなのだ。
クリーンに生きたいなら、一瞬に生きることだ。それしかない。一瞬の中に、美があり、真理がある。一瞬は永遠でもある。変化し、移り変わるこの世の形に真理はない。しかし、時間のない心の奥深くに真理がある。形を求めると穢れに取り込まれ、形を手放すと穢れから解放される。それが分かれば至福に到るだろう。だが、この先も悲劇は多い。哀れ人類よ。死に打ち勝つには、ただ死に切るしかない。
【禁断の惑星(DVD)】 1956年の傑作SF映画。SF映画としての面白さはもちろん、現在のCG映像とは雰囲気の異なる美しくノスタルジックな表現と共に、人間存在の根源についての洞察が込められている。 | |
【誰が子どもを狙うのか】 おめでたい頭では子供は守れない。子供を狙う者は、法の中、クリーンな妄想の中に堂々と存在している。幻想から目覚めて子供を守れ。 穢れに染まったヤバいおじさん達の教えを聞こうではないか。 |
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Comments
はじめまして。
私は恥ずかしながら35歳にもなって、親に小遣いをもらいながらニートをしています。就職活動をしています。今まで仕事に就いて何も考えず、現業系で、働いてはすぐに辞めるを繰り返してきました。この職歴では正社員求人への書類選考は通りません。そもそも人付き合いが苦手な社会不適応の人間は組織という企業への就職は無理でしょうか。かなり手先が不器用で、飽きっぽい性格なので現業、職人系への就職は躊躇してしまいます。外見はかなり活発に見られます。性格は内向的で、気が小さく、場に応じた大人の対応が出来ません。このような人間の適職について何かアドバイスをいただけないでしょうか。
よろしくお願いします。
Posted by: ponta | 2010.07.24 08:48 PM
★pontaさん
私と非常によく似た性格のように思われます。外見が活発に見られるところや、実は気が小さいということまで同じであります。大人の対応ができないことが自覚できるのは難しいことですが、自分を客観視する能力があるのは立派なことです。私はなかなか出来ません。
ところで、人付き合いが苦手で、事情は分かりませんがすぐに辞めるし飽きっぽいというのは、実に正常なことと思います。つまり、世間には、まともな人間なら、そうなるしかないような仕事しかありません。
アドバイスとしましては、給料は安くて良いと諦めて下さい。楽な仕事を求めるのは構いませんが、高給や格好の良さは求めないことです。
そして、情熱をもって仕事をしようなどと思わない方が良いと思います。生きがいなら、仕事とは別に持つのが良いというのが私の考えです。はりきらないことです。醒めていることです。また、職場では、感情的に反応しないことです。ある意味、死人のフリをするべきと思います。
そうあれば、案外に気楽に勤まるものです。
飽きっぽいとか、協調性がないとしても、決して自分を責めてはいけません。あなたに責任はありません。
まあ、あまり真に受けないで欲しいという気持ちもありますが、以上が私の正直な気持ちです。
気楽で、平和に過ごせることを期待しております。
Posted by: Kay | 2010.07.24 10:44 PM
Kay様
さっそく返信をくださりありがとうございます。
アドバイスを参考にさせていただきながら、就職活動をして社会復帰を目指します。
ありがとうございました。
Posted by: ponta | 2010.07.24 11:03 PM