ガーディアン(守護者)
有名な精神科医のフロイトは、心の中には、自我とは別に超自我というものがあると言っていました。
超自我とは、道徳的、倫理的な心です。例えば、サイフを拾った時、「誰も見ていない。もらっておこう」と思っても、「そんなことをしたら落とした人が困るし、そもそも人の道に外れている。持ち主に返せ」という考えを起こさせたり、お腹一杯なのに、美味しそうなケーキがあるので食べようと思っても、「食べ過ぎだ。我慢するんだ」という気持ちにさせたりするのが超自我です。
ただ、フロイトの言う通り超自我というものがあったとしても、超自我のあり方によっては、あまりに融通の効かない偏屈な人間になったり、あまりに潔癖症になったりという弊害もあるのかもしれません。
ところで、守護霊と言いまして、自分の先祖の中で高度な精神に達した霊が導いてくれると言う人々がいます。アメリカでは、半数以上の人が守護天使(ガーディアン・エンジェル)の存在を信じているという調査結果があるようです。
人間とは弱いものであるが、自分以上の何かが自分を導いてくれるという思いが、実感としてもあると感じているということと思います。
しかし、激情や強い欲望に駆られてしまった人間には、守護霊や守護天使の導きも聞こえないようです。
私は、守護霊、守護天使、あるいは神であったとしても、それは自分の外にある第三者ではなく、自分の内にあるものだと考えます。
ところが逆に、それらが、物理的にも自分の外に見出される場合もあります。
ラマナ・マハルシはこう言っています。
「師(グル)は人の姿をとって現れることもある。しかし、師は自己と異なるものではない。師は真我(本当の自己)である」
なぜそんなことが起こるかというと、人が煩悩の中で苦しみ、どうにもならない状態の時に、慈悲深くも神が人の姿で現れるということです。ただそれは、必ずしも人としてではなく、出来事として現れることもあると思います。
守護霊、天使、神、グル・・・いろいろな呼び方をしても、同じものと思います。それらは、我々の中にいます。また、それは自分自身の本質であり、自己と異なるものではありません。
そして、心が静かになれば、それは自然に現れます。
荘子が言うのは、そんなことだと思います。荘子は、心を静かにするために、思慮分別を離れ、判断せずにものごとをあるがままに見ろと言います。
賢い人が到達する結論とは、それしかないようです。
まあ、凡人たる我々としては、あまり欲をかかず、慎みを持つよう心掛けることが肝心と思います。
しかし、言うのは簡単ですが、実行するとなると難しい。
現在は、欲望を強く肯定し、慎みを馬鹿げていて恥ずかしいことであると言わんばかりの風潮が強くあります。それは当然で、それでないと、国家が目指すように、経済が過度に(不必要に)発達しないからです。
しかし、そんなものに取り込まれて悲惨を味わった末に滅亡する必要はありません。
食を慎むと、欲望を押さえることが簡単になります。食べ過ぎた余分なエネルギーが、異常な食欲や性欲になるのだからです。
ただし、あまりに極端な食の慎みも、それによって過ぎた何かを得たいと言う欲望です。あまり良い結果になりません。せっかく食を慎んでいるのに、心が歪んでいたり、自我の強過ぎる人、あるいは、無気力な人もいます。
質素なもので十分に美味しいと感じるように食べればと思います。
ラマナ・マハルシでさえ、必要とされることは、適度な食事、適度な睡眠、適度な会話と言ったようです。彼は菜食者ですが、極端な少食者ではありませんでした(現代の日本人に比べるとかなり少食でしょうが)。
守護霊、守護天使、神と感じられるものと一体になれば、望まなくても幸運に恵まれるでしょう。いえ、望まない方が良いようです。
【フロイトの精神分析】 絵を多用し、平易な文章でフロイト理論を分かりやすく説いた良書です。 私はフロイト主義者ではありませんし、フロイト理論には批判もあるのですが、概要としては知っておくべき貴重なものと確信します。 フロイトと決別した感もあるアブラハム・マズローも、自分の仕事は、フロイトの深い意味の探求であったと言います。 |
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