「私の正義」を持つ
自分自身に対する規律や掟を持つことが大切だと思います。
ちょっと難しい言葉ですが、、格率(格律)と言って、カントは、「各人の採用する主観的な行為の規則」の意味で重視しました。
世間の教義や規律ではない、「私の正義」を持つという意味です。
考えようによっては、独断の正義とは恐ろしいものかもしれませんが、それを持たなければ、大衆の正義と呼ばれる狂気に取り込まれてしまいます。
エマーソンは、子供の時、教会の牧師の説教に疑問を感じ、それを牧師に尋ね、牧師に、「その考えは悪魔のものだ」と言われたら、「それが僕の本性なら、僕は悪魔になりきる」と言ったようです。
デカルトは最高の格率を求め続けましたが、それが見つからない間は、一応、現時点で最上と思われるものを仮の格率として採用しました。
「荘子」の中の話ではありますが、孔子は、大泥棒を説教しに行き、泥棒が持つ、「泥棒の正義」に歯が立ちませんでした。
イエスは、人々にモーセの律法(十戒)を思い出すよう、度々訴えました。
律法は、本来、法律のような形式的なものではなく、各人が直接に神と交わす契約であり、大衆に従うことではありません。
もちろん、今の時代、モーセの律法をそのまま受け入れることが出来るかどうかは分かりませんし、当時の人々と異なり、知識のある我々は自分自身の正義を持っても良いと思います。
水野南北の食の慎みは、優れた格率と言えると思います。
これは、決して、大衆心理とはなり得ません。各人が、自分で意識を持って行うしかないという、極めて理想的な格率です。
最高の格率と言って差し支えありません。ただ、その内容は自分で決めるしかありません。
時々、「1日1食が続きません」と訴えてくる人がいますが、それは、自分の正義、自分の格率でなく、人真似だからです。
自分で「1日1食」と決めたなら続くはずです。
水野南北の格率は、「主食は麦、米は菓子でも食べない」「酒は一日一合」といったものでした。
私の場合は、「食事は一日一回」「肉は食べない」「間食をしない。よって菓子は食べない」といったところで、自分で決めたものですから、当然、根性のようなものは不要で、問題なく実施できます。
神人に至るには、この「私の正義」「私の格率」と、「無に至る私の鍵」の2つを合わせ持つことが重要です。まずは、「私の正義」を打ち立てましょう。
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Comments
昔から現代において、
より、多様な「私の正義」を持つことが求められるように、
時代は動いているように、僕は思います。
食に関しては、僕の場合は、
何か食べる前に、意識を良い状態に持ってくと、
なんとなく何を食べれば良いのかがわかるので、
それに従うようにしています。
(主に、お腹のより底のあたりの意識に従うと、上手くいくことが多いです。)
他にも色々とありますけど、
まだまだ模索中です・・・
以前教えて貰った、kayさんのルールも、非常に参考になりました。
ただ、僕の場合は、どうも割と変動が激しいので、
kayさんや南北さんみたいにいかないみたいです・・・
Posted by: Raimu | 2010.06.23 08:16 PM
★Raimuさん
食に関しては、一定しないことが最も良くないことです。
食事の時間、量が定まっていない人は全く進歩しません。
Posted by: Kay | 2010.06.23 09:49 PM