想像と空想
空想は心の表面でぼんやりと行うものだが、想像とは魂から発するものだ。
子供が、心の中で思考を楽しんでいる時、「空想を楽しんでいる」とか言うが、目がぼんやりとしていれば、それは空想だし、目が輝いていれば想像だ。
空想は、妄想とか空見(そらみ)と言う方が相応しいが、想像は神の精神が流れ込んでいる状態だ。
一流の文学は想像で書かれたものだが、単なる流行小説は空想で書かれたものだ。
空想は実現しないが、想像は実現する。
空想は大衆意識の中の亡霊だが、想像は人類の共通の意識の中で生き生きと踊っている。
坂井泉水さんの「突然」という歌の詩にある「この仕事(ゆめ)はどんな状況(とき)も笑っているよ」はそんな意味と思う。
大衆意識は妄信と偏見に満ちているが、人類の共通の心は宇宙の中心だ。
エマーソンは、ギリシャ神話は、想像ではあるが空想ではないと言った。
なぜ神話は不滅で偉大か?
空想の中でさ迷う、ぼんやりとした行き場のない心を想像の源に引きつけてくれるからに他ならない。
そこで心は純化され、力の輝きを発することになる。
神話を空想として捉えれば何の意味もないが、想像として捉えれば貴い聖典である。
学校で教える神話や、表面的に記述した神話は空想のものだ。イエスが言った「塩味のない料理」だ。
H.G.ウェルズのSF(サイエンス・フィクション)は、空想科学小説ではなく、想像科学小説だ。フィクションとは本来、想像であり、空想とはデイドリーム(白日夢)やファンタジーだ。
想像作品を選び、空想作品を避けよう。それが本物を選ぶという意味だ。
空想をやめ、想像しよう。
空想はゴシップと誤解しか生まないが、想像は洞察と希望を生む。
空想に満ちた世界は滅びを避けられない。滅びはそこまで来ているが、それを免れるには想像力を取り戻すしかない。
とりあえずは、想像の宝庫である神話を読むのが良いと思う。読みやすいもので、特に優れたものを下にご紹介する。
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