豊かさと死の恐怖
実際はどれだけの国民が関心を持っているのかは知らないが、マスメディア(テレビ、新聞、雑誌等)ではサッカーのワールドカップの話題の割合がかなり多いようだ。
昨日は、日本は決勝リーグ1回戦でパラグライと対戦し、0-1で破れたようである。
今朝のテレビニュースで少し見たが、パラグライの選手、監督やスタッフ、そしてサポーター(特定チームを熱烈に応援する者の意)達の喜ぶ様子が印象的だった。それは、歓喜といった陽性のものではない。深刻な、切実な喜び様とでも言えるものだった。
変な喩えであるが、私が思いつくものとしてはこんな感じだ。夕食の時、バナナを食べようとしているとする。日本の場合は、沢山食べた後で、最後に食べようとしたバナナを逃して残念がっているような雰囲気だが、パラグアイは、ほぼ唯一の夕食であるバナナを得たような喜び方である。
私もそうだが、パラグアイなんて国のことをよく知っている日本人はあまりいないと思う。
長きに渡り、独裁か無政府状態と言われ続けた状態は、ごく最近、独裁状態から民主国家になったと言われるが、現在も軍の政治力が極めて強い。
戦乱、内戦、被植民地支配の苦しい歴史の痕跡は生々しく、現在も国は貧しい。国民の4割は貧困と言われる。
そんな国にとって、デリケートなスポーツと異なり、サッカーのような、肉体の能力と攻撃的精神が勝利の大きな要因となり得るスポーツは、他国と対等に渡り合い、国民のプライドを保つことのできる稀有なものであるのだろう。
いかに経済が落ち込んで生活が苦しくなったとはいえ、ボロを着た人や穴の空いた靴を履いている人はいないし、肥満は多くても痩せ衰えた人はほとんどなく、道端で倒れている人を見ることもまずない日本とは全く違う。
日本にとっての勝利は、上記のバナナの例のように、ある意味不要な追加の喜びであり、パラグアイにとっては、根本的で切実、深刻な喜びなのである。
豊かな人間と、貧しい人間で、死というものの感じ方は違うと思う。
豊かな人間にとっての死は、明日の楽しみを失う苦痛であるが、貧しい人間にとっては、未来への希望を持っていない限り、さして恐ろしいものではない。
英国のテレビドラマ「謎の円盤UFO」(原題は「UFO」)で、死の危険の最中に、大佐が司令官に、独り言のようにこう言う。
「昔は死なんて恐れなかった。しかし、今は死ぬのが恐い」
司令官が、「年をとったんだ」と言うと、大佐は、「どういう意味です?」と尋ねる。
大佐より10歳は年長と思われる司令官は、「年を取ると人生の値打ちが分かってくるのだ」と言う。
しかし、一般的に考えるなら、私が思うに、彼らが豊かになったせいと思う。大佐も昔は、何も持たなかったのだ。
アルベール・カミュの小説「異邦人」で、死刑を宣告された青年は、人生に価値はないと気付く。彼は豊かでもないし、未来への希望も持っていなかったのだ。
実を言うと、私も死は恐くない。
もし恐いとすれば、輪廻転生の思想において、ひょっとしたら、また今生と似た人生を繰り返さないといけない恐れがあるということだ。
【異邦人】 ノーベル賞作家アルベール・カミュが27歳で書いた恐るべき傑作。この翻訳の初版は昭和29年。 コリン・ウィルソンも「アウトサイダー」で、この作品を取り上げていた。 疑いもなく主人公の青年ムルソーが自分であると感じるなら、これは至高の作品となるだろう。私にはそうである。 |
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Comments
ご無沙汰してます。
今も 一日一食されてるのですか?
私は近く手術でパーツを沢山取り除くので
そうしたら 体重がかなり減ると思うのですが
未知の世界です(^_^;)
「なにそれ?痛いの?死ぬの?」…は
今しか知らない人のセリフって気がしてならないです(^^ゞ
Posted by: ネコちゃん | 2010.07.01 04:48 AM
★ネコちゃんさん
はい、一日一食はずっと続ける予定です。
私の母が先週、膝の大手術をしました。清原並・・・ほどではないですが。
お互い、人生変えませんか?
Posted by: Kay | 2010.07.01 10:46 PM