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2010.06.15

鬼神に道を譲らせる

誰だろうと、にっちもさっちもいかないという状況におちいることがある。
にっちもさっちもいかないとは、2でも3でも割り切れないという意味で、ものごとがうまくいかないことをそう言うようになったようだ。
そういう時は、身動きが取れないと感じるものだが、心の方は動き回って、荒れ狂っているものだ。
ところが、古代からのいかなる聖者、賢人であろうと、例外なく、そんな時に心が静かであれば無敵であることを説いている。
その鍵は、全てを虚心に受け入れることであることも間違いない。
荘子は、虚心に見たままを受け入れるなら、鬼神も道を譲ると言う。
荘子はまた、最高の人間の心は鏡のようなもので、来たものはそのまま映すが、過ぎ去ってしまえば何の痕跡も残さないと言う。
ラマナ・マハルシは、賢者はある意味で子供に似ているという。子供は、遊んでいる時は夢中になるが、終わってしまえば忘れているからだ。
ある賢者は、あるがままを肯定しろと言い、またある聖者は、事物や自分の心をただクールに観察しろと言う。それは、外的には非暴力や無抵抗という形になるのかもしれない。
表現は違っても、意味するところは同じことだろう。
そして、やはり、時々、にっちもさっちもいかないような状況にならないと、それを忘れてしまう。
いつもこの心構えを忘れないなら、特にそんな状況を創るつもりもないのだけれど、人間、欲があったり不満を持ったりするものである。
法然が1日6万回も念仏を唱えたのも、そこから外れないためだったのかもしれない。岡田式静坐法を教えた岡田虎二郎が、「生活しながら念仏してはならない。念仏しながら生活するようでないといけない。生活しながら静坐するようではいけない。静坐しながら生活するようでなければならない」と教えたのもそんな意味だろうと思う。
そして、それは弱い状態を意味しない。鬼神は弱い者に道を譲らない。
最も易しく、最も難しいことであるが、憶えておくべきことは少ない。虚心にあるがままを受け入れるということだ。是非、鬼神にひざまずかせようではないか。

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