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2010.06.25

聖なる無関心

自分や、世の中に起こることで、私が気にするほどのことがどれだけあるだろう?
例えば、昨日は、私が見たり聞いたりしたことで、私が気にするほどのことは1つもなかった。
我々は、どうでも良い下らないことを、凄く重大なことであるかのように思い込まされてきたのだろう。
新製品や新作映画や、評判や流行や、学校の試験範囲やそれに出るかもしれない問題や、スポーツ大会の結果等といったことに。
路上や電車の中で見るマナーに著しく欠ける人間を気にしてしまうことはあるが、本当は、私が気にするほどのことでもないのだ。

中国古典の「荘子」の中に、兀者(ごっしゃ)といって、足(かかとから下だろうか?)を切られる刑罰にあいながら、道を修め、足を切られたことも気にするほどのことと思わなくなった人物が登場する。
足切りの刑罰にあった者自体はそのことを気にしていないのに、彼と同じ師に学ぶ地位の高い男は、足切りの刑にあった者と一緒に学ぶことを気にして嫌がっているのである。足はあっても、もっと重要なものに欠けているのだ。
貧困や飢餓を気にしているが、美味しいものをたらふく食べている者と、別に気にはしないが、必要以上の食べ物を取らない者ではどちらが良いだろうか?

良いことが起こっても、悪いことが起こっても、私が気にするほどのことは1つもない。
好きな人と別れても、理想のタイプの彼や彼女に告白されても、気にするほどのことではない。
もし死ぬとしても、それが運命なのであるから、気にするほどのことでもないのだろう。

何が起きても、何を見ても、「これは私が気にするほどのことだろうか?」と冷静に問えば、ほとんどのことがそうでないことが分かる。
そうして心が澄みきってくると、情や思考を超えたものが現れ、行いは自ずと正しくなり、本人にはそのつもりはなくても、真に人道的な者になっているだろう。
誉められても、馬鹿にされても、彼は気にしない。気にするほどのことでもないからだ。
誤解をされても意に介さない。世界を救いながら悪魔のような者と言われても気にすることもない。そのような誤解を受けている人物は歴史上にも、まだまだ数多くいるに違いない。だから、私は誰も非難しないこととしよう。本当は聖人である者を憎みたくはないからである。


【アイ・アム・ザット】
「誰かが、あなたの首を鋭利な刃物で切りつけたらどうなるでしょう?」「胴体が首を失う。それだけのことだ。私には何の関係ない」
インドの田舎町で小さな店を営む貧しい老人は、驚くべき偉大な聖者だった。彼の教えを、易しい対話で読める本書は、現代随一の聖典とも言われる。

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Comments

kayさんの記事はいつも私にとってタイムリーな事ばかりです
ちょうど今日「外部の評価など、その人の真価に対して何の意味もない」といった事を、ふとした時に思ったのです。
勿論そうだと言う事は以前から知ってはいたのですが、明確に自分の中に降りてきたような、そんな感覚がありました。

>誤解をされても意に介さない。世界を救いながら悪魔のような者と言われても気にすることもない。そのような誤解を受けている人物は歴史上にも、まだまだ数多くいるに違いない。だから、私は誰も非難しないこととしよう。本当は聖人である者を憎みたくはないからである。

素晴らしいですね。そこまで深い段階に私は達してはいません。
一部の権力者、支配者の情報操作の策略にどっぷり浸かっていて、拭いきれてない自覚はありますので、時期がくれば今日のように自然と降りてくると思って、気持ちの上では力まずゆったりと待つつもりです。

Posted by: りりぃ | 2010.06.26 12:20 AM

★りりぃさん
人間の能力の限界を考えれば、その判断など本当に頼りないものと思います。
内なる神は万能かもしれませんが、おそらく、人のような判断はしないと思います。

Posted by: Kay | 2010.06.26 10:29 PM

その言葉で目が覚めました!!
どうして気づかなかったんだろうか…
そうですね、仰る通りで、人間は進化の過程にある状態で神とは比べ物にならないほど未熟なものですものね。そんな人間に評価されたってちっとも嬉しくも悲しくもないですね
kayさん丁寧に返事をしてくれてありがとう

Posted by: りりぃ | 2010.06.27 08:24 AM

★りりぃさん
あまりものごとを斜めに見てもいけないでしょうが、人間に評価されるのって、案外、恐ろしいところもあります。
世俗でも、そういうところがあるようで、古いユダヤの格言には、全員一致は否決というルールがあるようです。
昔の賢い経営者は、全員反対なら、嬉々として実行したようです。

Posted by: Kay | 2010.06.27 09:45 PM

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