最も近くて最も遠いもの
幼い頃に聞いた話にこんなものがあった。
ある老夫婦が、神様に出会い、事情は分からないが、願い事をいろいろ叶えてもらう。多分、それまでに良い行いをしたのだと思う。
しかし、どんな願いを叶えてもらっても満足できなかったのだろう。老夫婦は、最後に神様にしてくれるよう頼むが、それで見捨てられ、全てを失う。そこまで思い上がることは赦されないということなのだろう。
だが、考えてみれば、神には、その結末は分かっていたはずである。
このお話は、こんな風に例えることが出来そうに思う。
自分が不幸だと思ってる人に、いろいろなことをしてあげる。その人は、何かしてもらう度に喜ぶが、自分が不幸だという思いは変わらない。そしてある時、その人は「私を幸福にして欲しい」と頼む。それは愚かな願いなのだ。
我々も、本当は神であるのに、神にしてくれという願いは赦されるものではない。
だが、そのお話は、こういうことも教えている。
人は、外面的な願いは、どんなに満たされても満足することはない。望みが叶うごとに欲望は増大し、止まることはない。
そして、人の真の願いは、神になることしかない。しかし、その願いは叶わない。なぜなら、最初から自分は神であるからだ。これは極めて困難な逆説で、迷宮に閉じ込められたように感じる。
だがそれは迷宮でも何でもない。言ってみれば、最も簡単なことであり、最も難しいことである。
部屋の中に青い鳥が飛び回っている。しかし、部屋の主は青い鳥を探したいと言う。「そこにいるじゃないか」と言ってやったら、彼は、「是非とも探し出したいと思っているのです」と言い続けるのだ。
彼のやるべきことは、青い鳥を得たいという欲望を手放し、見たままを受け入れるだけである。
同じく、神になるために必要なこともただ1つである。虚心に全てを受け入れるだけだ。是非、好悪の判断をせず、思慮分別を捨て、ただあるがままに見ることだ。肯定も否定もしてはならない。
あれは好き、これは嫌いと思うと、神は離れていく。神に、「これは自分のもの」という思いはない。
あまりに簡単であり、あまりに難しいことである。
神は最も近くにいて、同時に遠くにいる。
ギリシャ神話にヘカテーという名の女神がいる。その名は「遠くにいる」という意味である。しかし、この女神の像は三叉路にあり、どの家の戸口にもいると考えられている。
つまり、最も身近にいる神なのである。
ヘカテーは星の女神アステリアの一人娘で、アステリアは、アポローンとアルテミスの母レートーの姉妹である。つまり、ヘカテーはアポローンやアルテミスの従姉妹である。
アルテミスと同じく、たいまつ持つ月の女神である。アルテミスが新月、ヘカテーが暗い月、セレーネが明るい月と言われることもある。
ヘカテーはゼウスでさえ尊ぶ、三身一体の全能の女神である(3つの顔を持つ像として表されることも多い)。
それほど偉大な女神でありながら、オリュンポスの女神にならなかったのは、姿が小さいからだとも言われる。
近くて遠い。大きくて小さい。
何か非常に感じるものがあると思う。
【神話学入門】 実に、世界的宗教学者カール・ケレーニイと、偉大な精神医学者、心理学者のカール・グスタフ・ユングの共著である。やや難しいが、恐るべき重要な書だ。 |
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