ただ1つのルール
2000年に、プロレスラーの桜庭和志さんと、ブラジルのグレイシー柔術のハイアン・グレイシーの試合が行われたが、ハイアンは試合の2日前、練習中に腕を損傷していた。それは大怪我であり、とても試合が出来る状況ではなかったが、ハイアン側のメッセージが印象的だった。それは、大体の内容として、「何の支障もないので試合は行う。なぜなら、これは闘いであるからだ」といったものだったと思う。
当時は感動したが、今思うと少し違うと思う。もし、この試合がルール無しの本当の闘いであれば、その通りかもしれなが、実際は、かなりのルールの制約を受けた「試合」だ。
著名な空手家で、極真会館の創始者である大山倍達氏は、常々、空手最強論を唱えていたと思うが、何かの著書に、空手が最強である理由として、目潰し攻撃と金的(格闘技においては、男性性器、特に睾丸を指す)攻撃があるからだと書かれていたが、およそいかなる格闘競技においても、この2つは間違いなく禁止される。これが、競技としての試合と闘いの違いをよく現していると思う。
タイ王国にムエタイという有名な格闘技があるが、元サッカー選手の中田英寿さんが、タイでこれをやっている映像を見た人もいると思う。日本が相撲なら、タイならムエタイというほどの国技である。昔、タイでムエタイを見たボクシングジム会長の野口修氏が、その迫力に感動し、日本で試合を見せたいと思った時、対戦相手は日本人でなければならないと、上記の大山倍達氏に弟子を出場させて欲しいと頼んだが、大山氏は断わった。ムエタイをよく知る大山氏は、それと戦える弟子はいないと言ったようだ(ただ、大山氏は、著書に、もしムエタイに金的攻撃があったら、ムエタイの最大の特徴である派手な回し蹴りは不可能と書かれていたが)。困った野口氏は、学生空手で無敵だった白羽秀樹氏に相談し、白羽氏は空手選手を用意したが、出場予定の空手選手達は、ムエタイ選手の練習を見て、恐れをなして逃亡したらしい。白羽氏はやむなく自分が出場して勝利する。この白羽氏が、後に「キックの鬼」として知られる、キックボクサーの沢村忠だ。
キックボクシングを、キックありのボクシングと思っている方が多いだろうし、それで良いのかもしれないが、私は子供の頃、これのルールを聞いた時、そうではなく、いくつかの禁止事項以外は何をやっても良いので、自然、あんなスタイルになったのだと思ったが、実際はそうではないかと思う。ただ、それは、キックボクシングというよりは、ムエタイについて、より当てはまることかもしれない。この2つは、似てはいても異なる格闘競技だ。沢村忠が、タイに遠征し、ムエタイのチャンピオンと戦った際、やはりルールの調整に困難があったようだ。沢村は、タイの英雄である、その超人的な王者と大熱戦の末、引き分け、格闘家としての地位を確立したと言われる。
スポーツの場合は比較的分かりやすいが、およそ、人間のやることは、いかなることにもルールがある。
ビジネスにも、当然、厳格なルールがあるが、それを破る者が後を絶たないことはご存知と思う。人間は、恐ろしい貪欲の克服には、まだまだ程遠く、醜いルール破りは続くのかもしれない。
ところが、面白いことに、ルールを取り決めるはずのない動物や昆虫の世界をよく見ると、実際はルール無用の何でもありというわけではないと感じさせられる。動物や虫は、メスを巡ってオス同士が戦うことは珍しくは無いが、殺したり、致命傷を負わせることは滅多に無いらしい。まるでルールでもあるかのように、勝ち負けが一定の方式で決められており、その戦いは、終始、実にクリーンだ。
だからといって、人間は動物を見習えというのではない。動物は、別にルール遵守の精神があるのではなく、本能に従っているだけだ。人間は、知恵があるので、ルール破りといった弊害も大きいのであるが、それがフロイトが言うような「本能が壊れているという欠陥」とはとても思えない。知恵の欠点を乗り越えることで、人間は向上できる可能性があり、それは素晴らしいことであるはずだ。それは、必ずしも良い結果が得られるとは限らないというリスクがあるゆえに、進歩の可能性も大きいのであるが、現状は、あまり芳しい様子ではなく、人類の滅びも近いのかもしれない。
2007年に亡くなったアメリカの作家カート・ヴォネガットの最後の著書「国のない男」で、カートはこう書いている。
「私が知っている決まりはたったひとつだ。ジョー、人にやさしくしろ!」
キリスト教には、ゴールデン・ルール(黄金律)という、素晴らしいルールがある。「何事でも人々からしてほしいと望むことは、人々にもその通りにせよ」である。
カート・ヴォネガットは、これは本当は孔子の言葉だと言う。イエスは、孔子より、たった5百年ばかり年少だと思うが、「論語」を読んだとも思えないイエスも、確かそんなことを言っていると思う。いや、実際は、「して欲しいことをしろ」か「して欲しくないことをするな」の違いはあっても、多くの宗教で説かれていることである。
そして、それを端的に言えば、「人にやさしくしろ」であると思う。
ラマナ・マハルシは言う。「全ては神の現われであり、自分もその中に含まれる。なら、施しをせずにいられようか?」
実際、人に施すことは自分に施すことである。人に優しくすることは自分に優しくすることである。人を傷つけることは自分を傷つけることである。これは絶対的事実である。
ジョセフ・マーフィーの教えの要諦もこれである。願いが叶わないと嘆くなら、このあたりを振り返ると良いかもしれない。
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