審判の時
人が神によって最終的に裁かれるという「最後の審判」のことはよく知られている。イエスは、「いつ裁かれても良いように注意しろ」と言う。そして、審判の結果、地獄で永遠の罰を受けるか、天国で永遠の命を得るかだとされていることも、だいたい知られていると思う。
最後の審判を、もっと直接的に言うと、こうなると思う。
それは、「人として滅ぶか、神として永遠に生きるか」である。
それなら、人とは何か、神とは何かをはっきりさせたいと思う。
キリスト教とはいえ、ギリシャ神話の影響は大きいだろうし、ひょっとしたら、根本は同じかもしれない。
紀元前700年頃の詩人ヘシオドスは、詩の女神ムウサにこう言われたとされている。
「喰う腹しか持たぬ者よ」
と。すなわち、人間とはこれである。まさに、現代の日本人を完璧に言い表している言葉ではないだろうか?
別に宗教的概念を借りなくても、人は本来、神のようなものであることに気付いている人もいて、彼らが、それとなく言うこともよくある。
しかし、多くの人は、神として生きるにはどうしたら良いのかが分からないのであるし、分かると困る連中もいるのだろう。
今は、大衆に向かって、「お前は神だ」という弱い声と、「お前は喰う腹しか持たぬ人間だ」という大音響があるといった状態である。
神として生きるとはどういうことか?
ゼウスは、一応は、プロメテウスに騙されたという形にはしたが、牛の肉は人間に、骨は神にと配分した。しかし、ゼウスはわざと騙されたのだろう。なぜなら、このことでゼウスは、直接にはプロメテウスを罰しなかったのだから。ゼウスの気性から言って、それは考えられない。
喰う腹しか持たぬ人間に美味しい肉を与え、神は骨を取ることにしたのだ。
つまり、肉食を貪るのが人間で、美味しいことは知っていてもそれを人間共に譲るのが神である。
もちろん、譲られたからには、肉食を楽しんでも良いのだろうが、度を過ぎると、いろいろな問題が起こり警告される。かなり以前から世界中で頻発している、鳥や豚や牛のウイルス感染などは、最終警告に近いものである。
美味しい肉は、動物的な人間、喰う腹しか持たぬ、哀れで卑しい人間に譲ろうではないか?
さて、ギリシャ神話でも、日本の古事記でも、神様というのは、そんなにお堅い方々ではない(お堅い方もいるが)。
ただ、よく見ると、確かに人とは異なるところがある。
全ての神には役割があり、それに対して完璧な使命感を持っていることが分かる。
決して世間から押し付けられたものではなく、やるべきことを自分で見つけ、自分で決心してそれを果たしていくことである。
そして、それを見つけるにあたって、美味しい肉は人間に譲れ。
哀れで卑しい人間に使命など無いのであるから。
審判を行うのはまさに自分で、その時は今である。
【神統記】 紀元前700年頃の、農民である詩人ヘシオドスが美しい詩で語ったギリシャの神々のお話です。 丸暗記も可能な長さと簡明さです。 | |
【だまってすわれば】 水野南北は、荒行の末、伊勢神宮の外宮に祭られたトヨウケビメ(豊受大神)に、「食が全て」の啓示を受けた。 チンピラヤクザの南北が、天下に鳴り響く観相家となり、天皇に貴族にまで叙せられ、幸福に長命を得た。見事な時代考証をもって書かれた水野南北の伝承は見事と言うしかない。 |
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