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2010.05.12

神という言葉を取り戻す

ジョセフ・マーフィーの潜在意識の成功法則には、神という言葉がよく出てきます。マーフィー自身が牧師であり、マーフィーの潜在意識の法則の教えが、純粋な精神分析学ではなく、聖書の教え(ただし、伝統的なものではない)なのですから当然なことです。
そして、マーフィーの本の翻訳書には、翻訳者があとがきなどに、「神という言葉に違和感があれば、法則など、別の言葉で置き換えて下さい」などと書いています。しかし、私はそれはどうかと思います。神を置き換えることができるような言葉があるとは思えません。なんと言っても、神というのは全ての全てですから、本当は極めて重要な言葉です。むしろ、神という言葉を貶めているのは、大衆心理の中にある妄想や偏見です。純粋な神という言葉を取り戻すなら、これほど強力な言葉はありません。
神という言葉が宗教的で抵抗がある人は多いと思います。しかし、それは宗教団体の問題で、本来は宗教は良いものだったはずです。宗教の兄弟であるはずの芸術も、権威的立場の人々によって歪められてきました。岡本太郎をエキセントリックに感じる場合もあるでしょうが、実はあれで正常なのだと思います。確かに、汚れてしまった芸術界を革新させるには、それなりの喧騒も起こさざるをえませんでしたが、岡本太郎を異端視しているようではいけないと思います。岡本太郎が全てではありませんが、少なくとも、彼の芸術なごくまっとうなものの1つですし、芸術とは、絵や彫刻といった作品を指すのではなく、本当はもっと日常的なものです。宗教も、教会や神社の中にあるのではなく、生活の中にこそあるべきで、その点、日本の神道は、本来は自然を崇拝し、空気のような存在であった優れたものでした。そういえば、ルドルフ・シュタイナーは、良い教師は空気のようなものと言っていたと思います。
第二次世界大戦により世界恐慌を完全に脱し、繁栄を謳歌していた1950年頃のアメリカでは、実は国民はストレスと不安に苦しめられていました。そんな時には、自由の国とはいえ、国家の思想統制は厳しいものでした。そんな中、1952年に出版された、ノーマン・ビンセント・ピールの「積極的な考え方の力」という本が驚異的なベストセラーとなり、現在に至るも読み続けられています。この本の最後にこう書かれています。「なぜ神の力を求めないのか?」
神という言葉に深くまとわり付く偏見、迷妄、逸脱を壊せば、それが我々の内にあり、宇宙で唯一の力であり、一切の一切であることが純粋に分かるかもしれません。


【積極的考え方の力】
1952年にアメリカで出版され、3年間ベストセラー最上位を記録しました。日本では1964年に初版が出版されました。

【あなたも幸せになれる】
ジョセフ・マーフィーも、ノーマン.V.ピールと同じ1898年の5月生まれです。また、この本も「積極的考え方の力」と同じく桑名一央さんが翻訳されています。
まずは、この本で、自分が無限の力を持ち、それを使う権利があることを知ることが大切と思います。世間や学校はそんなことは決して教えてくれませんので。

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Comments

はじめまして


kayさんの博識さに いつも感心しております

恥ずかしながら 私は本をあまり読まないのですが ある時 ふと感じた事があります

人は あらゆる事(物)を 日々を通して 覚えた(覚える)と言いますが 実は 日々を通して 思い出しているのではないのかと‥


同じ時期に 朧気ですが『神』の存在も感じました

それは どこにいるという訳でもなく 自分の『内』に感じたのです

誰もが その『神』を内に秘めていると思います

そして それは すべて繋がっていると思うのです

それからの私は あらゆる事(人・物)に感謝する気持ちが更に強くなったと思います


駄文 失礼しました


追伸

ブログの更新 楽しみにしています

素晴らしい内容に いつも感謝しています

ありがとうございます


Posted by: moon | 2010.05.12 08:32 PM

私の母方は仏教徒なのですが、物心つくころから私の母は天国は自分の心の中にあるんだよ、と
よく言っていました。(一種の洗脳ですが(笑)今でも変わらないどころか最近は確信めいているようです。

その教えは母の一番尊敬しているという私の曾祖父からの影響だと思うのですが
そういうことを教えられるお年寄りが今は残念ながら少ないのかもしれません。

神様を身近に感じられない人が多いのはなんとも悲しい現実です。

身近に神様を感じられる人は、本当に幸せな人間だと思います。
友人の友達が自分の夢のために、身を落としてしまった話を聞いて、
何かを信じて頼りきれないもしくは、目で見える現実しか信じられない
混沌とした今の時代の犠牲者のよう思えてとても悲しかったです。

あまりに目に見える物しか信じられない世界に住んでいる人は精神世界に信じ切れる物がなく
安直な行動に走る可能性を大いに秘めているのかもしれません。

神様や芸術がもっと身近な所にあったなら世の中の多くの人が色んな場面で救われるのかな、と思ってしまう今日この頃です。

まぁ、芸術があればそこには神様が宿っているというか、感動があればそれは文字通り神業だと思うので
芸術=神(の心)であると思うのですけどね。個人的に。

Posted by: ゆり | 2010.05.12 08:57 PM

★moonさん
moonさんのお話を読み、とても感動いたしました。
日々を通して思い出すというのも非常に心を動かされました。
実は、私も、おぼろにそう感じております。
神が内にましますこと、一切が神であること。それこそが、人類の希望であると思います。
私も、日々、そのものになるために生きているようなものです。

Posted by: Kay | 2010.05.12 10:56 PM

★ゆりさん
昔見たアニメで、美樹という名の少女が、「神様なら、私達のここにいる」と言って胸を押さえるシーンを非常に鮮明に憶えていますが、それはとりもなおさず、実は私も知っていたということと思います。

そうですね。神様をもし見るとしたら、超感覚的なものでしょうねえ。でも、そんなに難しいものでもないと思います。今はみんな、目に見えるものばかり追うので分からないだけなんでしょうねえ。
星の王子様も「本当に大切なものは目に見えないんだ」と言ってましたが、それは間違いないでしょうね。

Posted by: Kay | 2010.05.12 10:57 PM

初めまして。

いつも多くの気づきをこのブログから頂いています。
ありがとうございます。

ひとつ気になったのですが、僕はいつも自分の内というと純粋に体の内側とか胸の奥のことと思っていたのですが、この体だけが自分じゃないよな、とふいに思いました。

Kayさんは「自分」とはどんなものだと考えていますか。

Posted by: チクタク | 2010.05.13 04:50 AM

★チクタクさん
はい、私とは身体ではありません。
ただ、そのあたりを考えはじめると、人間の知的能力ではすぐに行き詰ります。
また、いかに自分が身体でないとは言っても、身体も大切なものであり、実に素晴らしいものです。
よって、とりあえずは、内と言った時、身体の中と考えても良いのではと思います。

私とは・・・私であるもの。言葉では、このあたりが限界かもしれませんね。

Posted by: Kay | 2010.05.13 09:35 PM

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