念仏の新しい考え方
およそ日本人で、「ナムアミダブツ(南無阿弥陀仏)」を唱えたことがないという人はいないと思いますが、これは、法然(1133-1212)の浄土宗や、親鸞(1173-1263)の浄土真宗、一遍(1239-1289)の時宗という、仏教の中でも浄土宗系と言われる宗派で行われていることです。それぞれにやや思想は異なるようですが、いずれにしても、この「南無阿弥陀仏」という、誰にでも出来る念仏を唱えることに大きな価値を置くばかりか、実際には、他に何もする必要がないとしていると言って良いかと思います。
さて、この念仏を唱えるとどうなるかと言いますと、死後、極楽浄土に生まれることが出来るというものです。極楽浄土とは、キリスト教で言うところの天国と考えて良いと思います。
念仏を唱えれば、生きているうちは幸福でなくても、死んだ後では、極楽浄土という素晴らしい世界で仏となり、自由自在に楽しく生きることができ、仏であるのだから、現世の人々を救うことも出来るとされます。
しかし、言い換えれば、死後はそのように素晴らしくても、生きている間は不幸を耐えねばならないという風に考えざるを得ないかもしれません。
ところで私は、宗教的な考え方ではないと思いますが、浄土宗の教えは現実に生きる上で素晴らしく、現世での幸福のために重要なものであると考えております。また、浄土宗系の仏教信仰者にも、そう考える人はいると思います。
私は、死とは、自我の死を意味し、自我の死とは、自我の束縛を免れたことだと考えています。
自我が死ねば、この世がそのまま極楽浄土となると考えているわけです。
浄土宗系の経典には、浄土三部教と言われる「観無量寿教」「無量寿教」「阿弥陀教」がありますが、それらにも、必ずしも、死後にだけ良いことがあるのではなく、念仏を唱えれば、仏はただちに菩薩達を派遣し、菩薩達は親身に世話を焼いてくれるとも書かれてあります。これは、象徴的な意味であるのでしょうが、現実的な素晴らしいことは約束されていると思います。
自我が滅亡すれば、新しい世界が開け、無上の幸福が得られるというのは、宗教のみならず、あらゆる聖者達の教えの結論もつまりはそれであると思います。
一見、世俗の幸福のみを説いているように思われるジョセフ・マーフィー(新興のキリスト教宗派の牧師です)の教えにしろ、神の力、あるいは、神そのものである潜在意識に全て任せれば不可能はないと説きますが、潜在意識に全て任せるという意味は、顕在意識(自我と言って良いと思います)の死を意味すると言えると思います。
最も純粋な賢者と言われる、南インドの聖者ラマナ・マハルシは、キリスト教の要諦をこう表現します。「十字架は肉体で、イエスは自我である。自我が肉体に磔にされて滅んだ時、キリストという真の自己が顕れる」
マハルシもまた、自我が滅んで、真の自己(真我と言います)が顕れることで、永遠の幸福が得られると説きました。
真の自己となることで得られるのは、精神的な平和だけでなく、物質的にも万能になるのですが、真我に達した人は物質的なものにこだわりませんので、無欲、無執着に見えます。逆に言えば、無欲、無執着であっても、実際は無限の力を有しているわけです。
「南無阿弥陀仏」を唱えれば、無限の力を得るというのも本当のことと思います。
明治、大正の偉人、岡田虎二郎は、法然を大変に崇敬していたと思いますが、念仏をするなら、生活しながら念仏するようではいけない、念仏しながら生活しないといけないと言っていたようです。これは、ひたすら念仏せよという意味にもとれますが、やはり自我意識を消せという意味と思います。虎二郎の教えた静坐も、念仏同様、「絶対他力」と言いまして、自己の力ではなく、無限の力に全て任せるというものだと思います。
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Comments
どうしたら、kayさんの様にお金をいくらでも生み出せるようになるんですか?
Posted by: アンパン | 2010.03.19 04:37 PM
★アンパンさん
お金は、誰かが支払うからこそ入ってきます。
よって、より多くの人により良いサービスを提供すれば、より沢山入ってきます。
Posted by: Kay | 2010.03.19 10:59 PM
ありがとうございます。
もう一つ質問があります。
人間の運命(寿命、配偶者、貧富、職業etc)は決まっているのでしょうか?
Posted by: アンパン | 2010.03.19 11:24 PM
★アンパンさん
ごまかすつもりはありませんが、「どの運命?」としか言いようがないことです。
Posted by: Kay | 2010.03.20 07:33 PM