魂の誕生日
江戸末期の神道家で、黒住教開祖の黒住宗忠は、観相家(人相等で鑑定する占い師)に見てもらったところ、観相家に「貴殿は阿呆(アホウ)の相」と言われました。
普通なら怒るところかもしれませんが、宗忠は、「長年の阿呆になる修行の成果がいよいよ出た」と大喜びしたようです。
この話を「太陽の神人 黒住宗忠」で読んだ時、私は非常に感激しました。
浄土真宗の開祖、親鸞聖人も、自らを「愚禿親鸞」と名乗りました。愚禿(ぐとく)とは、「愚かなはげ頭」という意味です。
良寛さんは、号(道号)を大愚と言い、大愚良寛が僧としての正式名です。どんな経緯からこうなったのかは分かりませんが、自らの意思であったことは間違いないと思います。
宮沢賢治は、有名な「雨ニモマケズ」の詩で、
ミンナニデクノボウトヨバレ
ホメラレモセズ
クニモサレズ
サウイフモノニ
ワタシハ
ナリタイ
と詠んでいます。
アルベルト・アインシュタインも阿呆を自覚していました。
彼は難しいことは一切苦手で、洗濯石鹸でひげを剃り(石鹸の使い分けは複雑過ぎると言いました)、靴下を履かずに靴を履き、いつもヨレヨレの服を着て満足していました。
再婚した奥さんは、学歴はなく世間的な教養はなかったかもしれませんが、アインシュタインは奥さんの方が自分よりずっと賢いと思っていました。自分には難し過ぎるエレベーターの操作を簡単に行う奥さんを敬服していました(彼の最初の奥さんは数学者でした)。
一休さんは、「狂雲子」と名乗り、アイルランドの大詩人イェイツは生涯、不良老人であり続けようとしました。
荘子は、世間の人々が有用な者であろうと願う中で、無用であろうとする者達を聖人と称えます。
私は、およそ、本物の教えの中で「阿呆になれ」以外のものは無いことに気付きました。
「阿呆」と「馬鹿」の違いなんて小賢しいことはあまり言いたくないですが、阿呆は、自然や宇宙、あるいは、神仏を信頼し委ねきって、楽しく面白く生きることと思いますが、馬鹿は小知のことです。小知は損を極端に嫌がり、いつもクヨクヨし、後悔や不安を免れません。
ただ、学校や企業で強制される「愚者」には決してならないように。
大企業やマスコミに扇動された馬鹿にもならないように。
簡単になれるものかどうかは分かりませんが、私も今後は阿呆を目指そうと思います。
そう決心した2009年1月11日は、まさに、魂の誕生日になったと思います。
太陽の神人 黒住宗忠 「阿呆の相」と観相家に言われて喜んだ黒住宗忠のエピソードはこの本で見ました。 もちろん、宗忠は馬鹿ではありませんが、彼の愛すべき阿呆振りを見て、明るい心になっていただけるのではないかと思います。 |
The comments to this entry are closed.
Comments
黒住宗忠の本は読んでおりませんが、私はこの記事に感激しました。
魂の誕生日、おめでとうございます。
これからも拝読させていただきます。
Posted by: 納豆会計 | 2010.01.12 10:47 PM
★納豆会計さん
ありがとうございます。
いまのところ、馬鹿であっても阿呆ではないかもしれませんが、阿呆を目指していきたいと思います。
Posted by: Kay | 2010.01.13 06:34 AM