一番優しい人
あなたが、「一番優しい人」と思うのは誰でしょうか?
私なら、小説の中の人物ですが、ヴィクトル・ユゴーの「レ・ミゼラブル」に登場するミリエル司教です。私は、小学5年生の時にこの小説を読んだ時、ミリエル司教の行いに、おそらくは畏敬(心から恐れ敬うこと)に近いものを感じたのだと思います。
「第2の聖書」とまで言われるこの歴史的名作の重要な部分であるミリエル司教のお話は、ご存知の方が多いと思いますが、簡単にまとめると以下のようなものだったと思います(正確でないかもしれません)。
貧しさから、家族のためにパン1つを盗み、なまじ高い身体能力と家族を思う心を持っていたことから何度も脱獄を企てたために19年も牢に入った後、放免されたジャン・ヴァルジャンは、懲役人用の通行証のため、民家はもとより宿屋にも泊めてもらえず、長い道を歩き続け、寒さと空腹に疲れていた。野宿するにも雨が降りそうだった。その中で、1つの家の門を叩くと、中に入れてもらえた。ジャン・ヴァルジャンは、その家の者に、いきなり自分の素性を話して聞かせた。食事と宿を得る寸前に、素性を聞かれて追い出されるということを何度もされたので、どうせなら、最初から追い出されようと思ったのだ。
しかし、その家の主、ミリエル司教はそれを聞いても何事もないように、使用人にただ、「食事をもう1人分」と言い、さらに寝所の用意を指示した。使用人もただ淡々と従う。
驚き、感激するジャン・ヴァルジャン。しかし、ジャン・ヴァルジャンはその夜、この家から銀の食器を盗んで逃げる。だが、逃亡中、憲兵に目を付けられ、調べられて銀の食器が見つかってしまう。ジャン・ヴァルジャンは、苦しまぎれに、銀の食器はミリエル司教にもらったというが、憲兵にミリエル司教のところに連れて行かれてしまう。また牢に戻ることになるしかないという絶体絶命の状況の中、なんとミリエル司教は、銀の食器は確かに自分がジャン・ヴァルジャンに譲ったと言い、さらに、銀の蜀台もあげたのに忘れていったので困っていたのだと言って、それもジャン・ヴァルジャンに渡した。
ミリエル司教の行いについては、甘過ぎるなどの批判もあると思います。
ジャン・バルジャンが心を入れ替えたのは、あくまで小説の中のこととも言えます。
それについては何も言わないでおきましょう。
私の知る限り、人として最も優しいのがこのミリエル司教としても、それを上回るかもしれない存在が仏教の浄土教(浄土宗、浄土真宗、時宗の3つの宗派を合わせて、ここではこう書きます)の仏である阿弥陀如来です。
阿弥陀如来は、別名、無量寿仏(無限の寿命を持つ仏)、無量光仏(無限の光を持つ仏)とも言われます。
この阿弥陀如来は、ただ自分の名を呼びさえすれば、いかなる大罪でも赦され、死後は極楽浄土に生まれることができることを保証しています。これは、浄土教の聖典である阿弥陀三部教の1つ、「観無量寿教」に書かれてあることです。
ローマ・カトリック教会式のキリスト教はもちろん、仏教でも他宗の場合のような、天国や極楽浄土(極楽浄土は天国よりはるかに良い処とされる)に入るための厳しい制約は何もなく、懲罰的なものも一切認めないのが阿弥陀如来の絶対的ポリシーであり、このように、阿弥陀如来は限りない慈悲の心を持った存在です。
さて、この世、人生、宇宙、神・・・何と呼んでも構いませんが、それは、あなたにとって、ミリエル司教や阿弥陀如来のように優しいでしょうか?
この世は厳しいと思っているなら、その人にとって、この世は厳しいかもしれません。
人生はままならぬと信じているなら、人生はままならぬものではないかと思います。
あまり普通の人は、宇宙がミリエル司教や阿弥陀如来のように優しいとは思っている人はいないはずです。だから、世界は辛いものに満ちているのでしょう。
ミリエル司教は、人として神に最も近い存在であり、阿弥陀如来は宇宙の力そのものであると思うなら、質問に対する答はきっとイエスでしょう。
人は思うままに良いことや悪いことが出来るわけではないかもしれません。
それをさせるのは因縁の力であり、我々にはどうすることもできないかもしれません。
もしそうであるなら、罪は憎んでも、罪人を憎むことはできず、赦す力があるなら罪人を赦すのではないかと思います。
浄土教の「南無阿弥陀仏」という念仏は、阿弥陀如来に全てお任せしますという意味で、自分の力ではどうにもならないことを阿弥陀如来を信じ、命を預けるという意味です。
私は、別に何かの宗教教団に属しているわけではありませんが、自分の行いや思いを支配する限界を感じることがよくあります。そんな時は、大いなる力に全て任せる合図として、念仏や特別な呪文も必要なのかなと思うことがあります。
南無阿弥陀仏やアーメンでも良いですし、「ザ・シークレット」に書かれていたアインシュタインの秘法「宇宙は友人のように優しいか?」という自問でも良いと思います(答は「イエス」ですね)。
あるがままに―ラマナ・マハルシの教え マハルシの最大の教えは「私は誰か?」と常に自分に問い続けることでした。しかし、もっと易しい方法として、神への全ての明け渡し、すなわち全託を薦めています。人生の全ての責任を神様に持ってもらうというものです。神は安心して全託するに足る、強大にして万能、そして、限りなく優しい存在であるということと思います。 ラマナ・マハルシを最大の聖者と見なす人は、あらゆる立場の人に沢山いて、死後半世紀以上を過ぎても、世界中から、彼の過ごしたアシュラム(宿泊所を兼ねた道場)を巡礼する人は絶えません。 | |
いのちの教え―黒住宗忠に学ぶ自然体の生き方 江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠の教えもまた、神様に全て任せ、日々、面白く過ごせば面白いことばかり、有り難いで過ごせば、有り難いことばかりが顕れるというものでした。 | |
ザ・シークレット 最近、よくご紹介する本です。 今回のブログ記事の中で取り上げました、アインシュタインの秘法の自問は、もちろん、この本の中に書かれてありますが、偉大な考え方であると思います。 |
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Comments
はじめまして。過去の記事見させていただきました。
食が運命を左右すると強調されていますが、大変共感しました。
僕はkayさんのように頭もよくないし、神様とかについてもよくわからないけど、小さい頃から、価値観を押し付けてくる人間が嫌でしたし、自分の親にもそういった面があったので、そういった人間とはなるべくかかわらないで、自立した暮らしを送りたいと思っていました。
まぁなかなかうまくいきませんでしたが笑
いまになって、その原因が食と性にあったとやっと気づきました。
これからは特に食にだけは、一切妥協せず、自立した、安らかな暮らしを実現させたいとおもいます。
食の大切さを教えていただき、本当にありがとうございます。
もし、よろしければ、アドバイスなど頂けるとありがたいです。
Posted by: 夢追い人 | 2010.01.05 01:41 PM
★夢追い人さん
はじめまして。
食の慎みは、あまり無理をしてはいけませんが、決めたことだけは厳しく、そして、必ず継続することが大切です。
よく、食の慎みを宣言しながら、「今日はドカ食い(大食すること)してしまいました」「今日はチョコレートを食べてしまいました」と言う人がおり、それもたまになら仕方ないですが、たびたびそうなるようでは駄目です。
無理のない範囲で掟を定め、決めた限りは必ず実行すれば、必ず願いは叶うと思います。
Posted by: Kay | 2010.01.06 06:35 AM
ありがとうございます。
これからは自分に妥協を許さず精進していきたいと思います。
Posted by: 夢追い人 | 2010.01.06 10:50 AM