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2010.01.27

全ては幻(唯波動論)

精神分析学者の岸田秀さんの「唯幻論」という思想に、私は一頃、夢中になったことがあります。
文字通り、「この世の全ては幻(幻想)」という考え方です。
ただ、それ自体は、特に新奇な説というわけではなく、古代インド思想でも、全ては幻(マーヤ)であると言われます。
ところが、岸田さんが大学に勤務されていた時、岸田さんの唯幻論の本を読んだ男性が、「全部幻なら痛くないだろう」と言って、岸田さんを殴りに来たようです。この男には、唯幻論に対する強い反感があったのでしょう。この世の全てが幻であるというのは、かくも納得し難いものでしょうか?

私にとっては、全て幻というのは少しも不思議なことではありません。ただ、幻が何を意味することをはっきりさせる必要があると思います。
養老孟司さんの「唯脳論」という、岸田秀さんの「唯幻論」とどっちが先なのか、私もよく分からないものがありますが、知覚の認識なんてのは、全て脳内で起こっているだけのことですから、知覚内容が真実の姿と一致しないという意味では、知覚内容も幻と言えると思います。例えば、催眠術を使えば、実際には存在しないものでも見たり聞いたりさせることができますが、それは、五感を通さずに脳内に直接認識反応を生じさせたということで、まさに幻を見せるわけです。そして、本当の認識と思っているものも、実際は、はなはだ怪しいものであり、デカルトは「確からしく思える程度のものは全て虚偽」と断定しました。言ってみれば、デカルトもある意味、唯幻論者ということになります。ただ、デカルトは、それでも確かなものだって必ずあると考え、それを追求し、最後に、「これも虚偽ではないか?」と疑っている私が存在することだけは確実なものと気付きました。
吉本隆明さんの「共同幻想論」では、幻想を「個人幻想」「対幻想」「共同幻想」に分けて、個人から国家の規模までの幻想を論じています。吉本さんのベースはフロイト心理学というところは岸田さんと同じなのですが、吉本さんは、岸田さんと違い、フロイト説にはかなり意を唱えています。

しかし、いろいろ研究しましたら、私は、量子物理学の立場や、脳や人工知能の研究、神経科学などの分野の研究でも、行き着く先は、「全て幻」になるように思います。

私は、岸田さんは、「全て幻」の意味を、もっと親切に説明すべきだと思います。なぜ一部の人の中に岸田さんの唯幻論を嫌う人がいるかというと、救いというものが全くないからだと思います。集団がなぜ一緒にうまく生活できるのかというと、たまたま同じ狂い方をしているから・・・といった感じなんですよ。幻想の中に真理は何もない。だから、絶対的真理を語るイエスは大嘘つき・・・それを愚直に捉えてしまう人もいるわけです。
デカルトは、「これも虚偽(幻想)かもしれない」と疑う私の存在だけは幻想でないとしますが、岸田さんの唯幻論では、それも幻想となるのだと思います。

では、「全て幻」の意味を、可能な範囲で説明してみましょう。
我々が現実と感じるのは物質世界です。そして、全ての物質は分子で出来ています。分子は原子から出来ていますし、原子は素粒子から出来ています。そして、素粒子は大きさがあるわけではなく、波動として存在します。
つまり、全ては波動から出来ていて、本当は、赤く見えるものが赤いわけではなく、硬いと感じるものが硬いわけでも、熱いと感じるものが熱いわけでもありません。
五感で感じている様子が、実際の姿とは全く異なるという意味で、全て幻想であるというのは、全く正しいことになります。

しかし、幻想とはいえ、あらゆる生物の中に見られる、自律進化さえ果たす驚異的な構造や機能、複雑で壮大な自然現象の背後に潜む、恐ろしく精妙なカオス理論を見ても分かる通り、それらを創り出す素粒子の波動は、なんとも驚くべきものです。
そして、幻想や夢すら知覚認識させる感覚器官や脳さえ素粒子の波動から構成されています。

こうして見ると、素粒子の働きには、極めて高度な意識や思考が影響していることを認めないわけにはいかなくなります。
そして、そのような意識や思考がどのようなものかは、現在の我々にはさっぱり分からないわけです。
人類というものは、そういった、想像もつかないものの存在を認めず、「無い」としてしまうクセがあります。それが科学的態度であるとし、想像もつかないものの存在を語るのは宗教であるとして、科学と宗教が分離してしまったわけです。
ところが、大胆にも、宗教でしか認めなかったものを有るとするだけでなく、その中に科学的な普遍的法則を見出そうとするのが、錬金術、神仙術、魔法、そして現代では潜在意識の法則や引き寄せの法則です。
古代に書かれた「エメラルドタブレット」は科学かもしれませんが、現在の我々のように、それを全く理解できない者から見れば宗教になります。

幻想というのもそうで、上に見たように、現象世界は素粒子の波動が生み出す驚異的なものですが、その仕組みがあまりにも分からないために、幻想という言い方をするに過ぎないわけです。
以上で、「全て幻」という意味の説明を終わります。

「荘子」には、浅はかでしかない人間の知を捨てれば、本物の知恵である明が現れるとあります。
また、「エメラルドタブレット」を英訳したドリールは、「これを百回も読めば、少しは分かるようになる」と言いますが、それはやはり、通常の知で歯が立つものではないぞと言っているのだと思います。
しかし、荘子もドリールも、我々の内には、全てを理解する高度な知恵があることも暗示しています。
我々が、その知恵の本体そのものになるのは難しいのですが、錬金術や引き寄せの法則などの秘教的技術では、その知恵の本体とのチャンネルを開くことまでを目的とします。そうすれば、世俗で奇跡と言われる程度のことの達成は他愛もないことです。
究極の知恵を体現する聖者、ニサルガダッタ・マハラジやラマナ・マハルシらは、自分達は全くの無欲で、人々にも欲望を捨てることを教えますが、時には願望を叶える方法を話すこともあります。ただ、願望を成就するには、不要な欲望を全て捨てなければならないことも確かなようです。

岸田秀さんの唯幻論が非常に興味深いながらも、殴りに行かなければならないほど嫌われることがあるのは、世界がただ幻であるということで終っているからでしょう。岸田さんは、ニーチェは頭が良過ぎて、幻の奥まで進もうとしたが、いくら賢くても、それは人の分を超えるので発狂したと言います。その通りですが、荘子やドリールの言うように、知を捨てることで、その奥にある高度な知恵に触れられるのかもしれません。


唯幻論物語
岸田秀さんの「唯幻論」の本は何十冊とあり、本来、代表的なものは最も最初の本である「ものぐさ精神分析」と思いますが、入門にはこれが良いかもしれません。私もこれを最初に読みました。
唯幻論というのは、大変に面白いことも確かです。岸田さんはとおに大学を定年退職しておられ、殴りには行けないと思います(笑)。

唯脳論
「バカの壁」などで有名な解剖学者の養老孟司さんの2003年のベストセラーで、養老さんの純粋な思想が感じられる本だと思います。

アイ・アム・ザット 私は在る
本文でも書きましたが、マハラジは庶民を理解する慈愛に満ちた聖者でもあり、至高の知恵を語りながらも、人生が本当は楽であることや、世界は自由に創れることも必要に応じて語ることがあります。
昨今の成功哲学の本質も知ることが出来るかもしれませんが、欲望を持って読むには勿体無いものであると思います。まあ、その判断はお任せしますが。

エメラルド・タブレット
2種類あると言われるエメラルドタブレットのうち、このアトランティス人トートが書き、ドリールの訳したものが純粋なものと言えると思います。
究極の知恵ですので、かなりの心構えを持って読む必要があるかもしれません。

荘子
「荘子」の翻訳も数多いのですが、これは初心者でも非常に読みやすく書かれています。
おそらく、荘子自ら書いたとされる内編と、外編、雑編の中で純粋な荘子の思想に符合すると考えられる重要なものを選んで、1冊にまとめてあるように思います。

共同幻想論
吉本隆明さんの歴史的と言える名著です。改訂して読みやすくしたとありますが、それでも、正直言って分かりやすいとは言い難いかもしれません。
先に、柳田国男さんの「遠野物語」と、「古事記」を読んでおくべきと思います。

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Comments

柳田国男さんときて、政木和三さんと柳田国男さんの生家がけっこう近いことに気がつきました。

政木さんの生家の辺りから一山越えると横尾忠則さんの出身地になります。

この辺りから少し南下すると橋本健さんが確か東大にはいる前に、またMRTの内海さんがかつておられた姫路になります。

これは何か意味があるのでしょうか?
ただの偶然でしょうか?

兵庫県生まれの者としては少し気になります。

Posted by: ニャン・クン | 2010.01.28 04:51 PM

★ニャン・クンさん
私も兵庫県生まれで兵庫県在住です。
姫路のMRTオフィスには通っていました。内海さんの次のリーディングガーの方がおられました。
柳田国男さんの生家や、橋本健さんが兵庫県に住んでおられたことは存じませんでした。
政木さんの家には、友人が泊まったことがあります。横尾さんが大きな目玉を描いた電車は見たことがあります。
なるほど・・・面白い縁ですね。
世の中に偶然はありませんので、やはり意味があるのでしょう。
まあ、私も以前は唯偶然論者で、ある意味、それはそれで正しいと思っています。

Posted by: Kay | 2010.01.28 09:34 PM

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