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2009.12.31

心安らかな年の暮れ

何度かここに書きましたが、私の夢は、安らかな気分で年越しをすることです。

江戸末期の偉大な神道家、黒住宗忠の門弟かと思いますが、岡本りんという人が、ある年の暮れに次のような歌を詠んだそうです。

何事も神に任せて世に住めば
いと心地よき年の暮れかな

私にとって、なんとも感慨深く、有り難い歌です。
ところで、添削を頼まれた宗忠は、次のように改めました。

何事も神に任せて世に住めば
いと心地よき今日の暮れかな

解説するまでもなく、神様に全部お任せしていれば、いつも心安らかであるということです。
そして、宗忠は、なんと死の数日前、すでに自分の死を悟った中で、この歌が今の気持ちであると言ったそうです。

宗忠は、天照大御神の御心は「面白い、面白い」であると言ったようです。
よって、神様に全て任せ、日々、面白く過ごせば面白いことばかり、有り難いで過ごせば、有り難いことばかりが顕れると常に教えていたようです。

宗忠は、さほど昔の人ではなく、具体的な記録もよく残っている人ですが、いかなる難病も、自分がまじないで治すだけでなく、弟子にもそれを行わせたり、荒れた海を鎮めるなど、新約聖書のイエスのような奇跡も数多く起こしました。しかし、イエスと違い、懲罰的な言行が全く見られず、おいはぎに「十両出せ」と言われると、「悪いが五両しかない。残りは明日、用立てる」と言って、本当に翌日に残りの五両を渡したことがあったようです。(ただ、私は、新約聖書は後の改ざんがかなり多いと考えています)
このあたりは、ユゴーの「レ・ミゼラブル」のミリエル司教や、自分の収入を誰とでも(ろくでなしの他人とすら)分かち合ったアインシュタインを思い出して楽しく感じます(おいはぎは楽しくないですが)。
世界的ベストセラー「ザ・シークレット」には、アインシュタインもまた、シークレット(宇宙の神秘な働き)を知っていた人物として取り上げられていますが、宗忠を知れば知るほど、宗忠こそシークレットそのものの生き方をしていたように思います。日本人は、無意識の中に神道がごく自然に沁み込んでおり、彼の教えを学ぶ意義は実に大きいと思います。

私も、いよいよ安らかな年の暮れとなりそうです。


いのちの教え―黒住宗忠に学ぶ自然体の生き方
第二次世界大戦で航空隊経験もある教育者、山田隆雄氏が、宗忠の教えを分かり易く解説しています。
帯に、黒住教副教主、黒住宗道氏の推薦の言葉があります。

太陽の神人 黒住宗忠
神道教師であり、神道のみならず精神世界全般に非常に詳しく実践家でもある山田雅晴氏による黒住宗忠の教えの斬新な解説です。宗忠直筆の書などの写真やイラストも豊富で、大変に興味深い。

ザ・シークレット
世界で1000万部を突破したと言われる成功哲学書。
シンプルで読みやすく、非常に分かりやすい。問題なく、真理だと思います。

富を「引き寄せる」科学的法則
今から丁度百年前になる1910年に書かれ、今でも世界中で読み継がれている成功哲学書です。
「ザ・シークレット」の著者ロンダ・バーンは、絶望的状況の中、娘にこの本を贈られて読み、「シークレット」を探求しました。

エメラルド・タブレット
「ザ・シークレット」の最初に引用されている謎の書。
紀元前3万6千年のものとも言われる聖典。
「ザ・シークレット」の本当の原点は何かというなら、これかもしれません。私は、本当に紫色をした霞ヶ関書房のものを持っていますが、それは絶版と思います(古書なら入手可能)。


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2009.12.30

企業も人も発展するマルチタクス制業務

日曜日に、たまたま見たテレビで、観光地の旅館だと思うが、「マルチタスク制業務」の効用をアピールしていた。
一人のスタッフが、調理補助から接客、給仕をし、事務をこなし、さらに舞台で演奏をし、新人研修もする。
つまり、何かに特化した専門業務だけをするのではなく、一人で出来る限り何でもやるという仕事の形である。
(コンピュータにおけるマルチタスクとはやや意味が異なる)

私は、非常に感じ入るところがあった。
誰でも、専門の仕事に特化して働きたがるものだと思う。早い話が、「あれもこれもやる」という仕事を嫌うと思う。
確かに、その仕事が高度に専門的な場合であれば、そうならざるを得ない場合もあるだろう。例えば、医者やプロスポーツ選手などだ。
しかし、普通のサラリーマンの場合は、99.9パーセント、専門に特化しなければならないような仕事ではない。
「専門、特技はありません」といった人の場合、仕事は雑務が当然と思うが、それでも、なるべく決まったパターンの仕事をしたがる理由は、「すぐに慣れ、その後は考えずに出来て楽だ」「予想外のことがあまり起こらず、面倒や不安がない」というものだと想像できるが、これこそが、自己の成長を妨げ、結果として、仕事自体が退屈で面白くないものにする原因であると思う。
高度な仕事の場合は、専門化していると言っても、「一人前になるのに長い訓練、経験が必要で、常に創意工夫も必要。つまり、なかなか慣れず、楽にはならない」「予想外のことだらけで、面倒も不安も多い」のである。

以前、大手コンピュータシステム会社が、ある団体にコンピュータシステムを導入した時、私はその団体側のオブザーバーとして関ったことがある。
設置の日、そのコンピュータシステム会社から十名近いエンジニアが来たことに、私は面食らった。
大した規模のシステムではないが、サーバー担当、ネットワーク担当、アプリケーションソフト担当等とに分かれていた。
そして、言っては悪いが、それぞれの「専門家」が、ことごとに大したレベルではない。それに、サーバーやネットワークのインストールや設定は私がほとんど済ませていたのだ。ちなみに私はサーバーやネットワークの専門家ではない(専門はソフト開発だ)。
私なら、あの程度なら、全部まとめて一人で十分できるし、実際、やっている。私の知っている、小規模であるが実力ある開発会社では、かなりの規模のものでも一人でやることがよくある。
また、技術者はよく、お客様に、「それは営業に聞いて下さい」とか、社内でも「それは営業の仕事だ」といった言い方をする者がよくいる。そういうのに限って、技術は大したことはない。私は、システムエンジニアは半分営業と心得ているし、受託システム、流通システム(パッケージソフト)の仕事を、大抵自分で取ってきている。

さっき、医者やスポーツ選手の場合は専門家であって良いと書いたが、こんなこともある。
王貞治さんが現役選手時代の1974年、彼の所属する巨人軍はリーグ9連覇を達成し、王選手自身も3冠王となったが、その年の日本プロスポーツ大賞には、キックボクシングの沢村忠選手が選ばれた。
沢村選手は、その数年前までは、選手として戦うと共に、道行く人に、自らキックボクシングとは何かを説明しながらチケットを売っていた。当時、キックボクシングという格闘技ができたばかりだったのだ。また、沢村選手のジムの会長やトレーナーは、女子プロレスのリングを借り、自分達で会場に運んで組み立てていた。
沢村選手は、引退するまでファンを大切にし、徹底したファンサービスを行った。有名芸能人並の人気者になってしまった頃には、練習時間やプライベートな時間が犠牲になっても、営業が取ってきたどんな仕事でも一切文句を言わず、淡々とこなした。文句どころか、「せっかく取ってきてくれた仕事」と思ってやっていたようだ。試合会場に観客が入らなかった頃のことを憶えており、人気の有り難さを痛感していたということもあるだろう。

医者と言っても、規模の大きくない病院や、ましてや小さな医院では、経営はもちろん、雑多な仕事の一切合財を医者自らがしないといけない場合も多い。
一流芸術家もほとんどは自分で営業しているし、歌手や俳優、その他のタレントも、大物でない限り、仕事を待っているだけでは駄目だろう。

本来、仕事とはマルチタスクなものであると断言できる。
専門家気取りで、1つの仕事しかしないと非常に効率が悪い。そんな社員ばかりの会社は、今の時代、すぐに潰れるはずだ。
逆に、従業員がマルチタスクで仕事をすれば、収益が少なくても案外にやっていける。それどころか、生産性やサービスが大きく向上し、結果として収益が大きく増える場合が多いはずだ。

今は改善傾向にあるが、役所では市民への対応が不親切で、しかも無駄が多かった。これは、公務員に専門家意識があるからだ。「お役所仕事」とは、効率やサービスの悪さの代名詞であり、企業の中でも、お役所仕事をしてはいけないとよく戒められることをご存知かもしれない。
また、公務員にとって、市民はお客様である。リー・アイアコッカの父親はハンバーガーショップを経営していたのだが、客への態度が悪い従業員は即クビにしたと、アイアコッカの自伝に書かれていたのを読んだことがある。ましてや、市民への態度の悪い公務員は、即クビにするのが当然かもしれない。

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2009.12.29

なぜ暇な人には時間が無いのか

私が小学校低学年の時に、腕時計に興味を持ち始めた頃、貿易船の船員であった叔父さんが家に来たので、腕時計を見せてもらいました。
1年の大半を海外で過ごす叔父さんの外国製超高級腕時計は秒針がなく、しかも、あまり正確な時間を指していませんでした。そのことを言うと叔父さんは、「俺はそんな正確な生活をしていない。君もそうだろ?」と言ったのを、実に印象深く憶えています。

そもそも、時計の秒針とは、ほとんどの場合、時計が動いていることの確認用でしかないと思います。
高級腕時計には秒針の無いものも多いのですが、心の優雅さを大切にする金持ちには愛好者が多いようです。
クォーツ時計の登場により、時計は安価で極めて正確になりました。さらに現在は電波時計も普及し、何もしなくても、常に正確な時間を示してくれます。しかし、そうだからこそ、時計は単に時間を知るための道具でないことや、時間というものが興味深いものであることに気付くかもしれません。

少しくらい不正確でも、ネジを手で回す機械式の時計にどこか惹かれることもあるのではないかと思います。
それに、月に数十秒の不正確さが問題になるような生活は確かにしていません。いえ、実は、時間に縛られない自由な生活をしたいと誰もが思っているのではないでしょうか?
ただ、自由というのは、必ずしも怠惰を意味しません。

時間管理なんて言葉がありますが、それは、本質的には自己管理でしょう。
「時間がない」と言っている人は、自己管理が出来ていないだけのことだと思います。
暇を持て余している人ほど、「時間がない」と言うのではないかと思います。
逆に、世界で最も忙しい人が「時間はいくらでもある」と言います。
時間は速く過ぎると感じることも、ゆっくり過ぎると感じることもあり、その違いが極端な場合も少なくありません。
時間は過去から未来へ流れるものというのが一般的概念ですが、未来から過去へと流れていると言う人もいます。
未来は変えられると言う人も、変えられないと言う人もいますが、過去を変えることが出来ると考える人もいます。
時間は幻想であり、本当は無いとする考え方もあります。
人は皆、幻想の中に居るというのは本当かもしれませんが、時間の幻想を打ち破ることが目覚めのきっかけになるかもしれません。


大きく考えるための小さな本
「ザ・シークレット」にも登場した世界的量子物理学者フレッド・アラン・ウルフが書いた、世界一易しい量子物理学の本。翻訳者の竹内薫氏は、文系の人には最適な量子物理学の入門書になると序文に書いていますが、その理由は、ウルフの話は、易しいことと同時に、量子物理学に必要な思想が説かれているからと言います。
ウルフも過去は変えられると書いていますが、固定観念を打ち破り、人生を変えるきっかけになる本となると思います。

本当はすごい私
今をときめく脳機能科学者、計算機科学者であると同時に万能の天才、苫米地英人氏の本の中の私のお気に入りです。苫米地氏は、時間は未来から過去へ流れると一貫して主張します。
過去は現在で決まり、現在は未来で決まる。未来を自然に幸福なものにするには、その結果である現在が幸福であれば良い。一見不可思議ですが、古代から賢者達が教えてきたのは、そのことかもしれません。
簡単に携帯でき、一瞬で最強の脳を作ることができると言う、簡単な言葉が書かれた10枚のタイスカードが付いています。

風待ちジェット
坂本真綾さんが自ら作詞して歌う、アニメ「ツバサ・クロニクル」のエンディング・テーマ曲。
私は、彼女は神秘な声を持つ霊的アーチストだと思っています(声優としても人気が高く、神秘的な存在の声を演じることが多い)。
「昨日さえ変える力が2人にある」という言葉がはじめにあり、その世界観を表現しています。
「ザ・シークレット」でも音楽の効用は説かれていますが、それに適した歌と私は思います。

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2009.12.28

感謝する秘訣

およそいかなる宗教、信仰、あるいは、成功哲学、それに、勉学、スポーツ、武道、芸事において、成就の秘訣は「感謝の心」であることは間違いなく、感謝の心なしくて満足な成果を得ることはない。
ある聖者は、望みを聞かれると、ただ1つ、「感謝する魂」と答えた。
宗教、哲学、神秘学の根本的教義に適合する共に、科学的論理性を主張し、世界的科学者も登場する「ザ・シークレット」においても、感謝の重要性を訴えている。
しかし、感謝することは簡単なことであろうか?

数多くの本に書かれている通り、「ありがとうございます」「感謝します」と言ったり、書いたりしている人は多いと思うが、実はそんな人ほど苦しい状況にないだろうか?
恵みを求めて感謝するフリをするなら、それは欺瞞(ぎまん。だますこと)ではないだろうか?自分に対して、神や法則に対して。
たとえ形だけでも、千回、「ありがとう」とか「感謝します」と言えば、本当に感謝することができるという話もあるが、私はそれでは本当の感謝の念は起きなかった。他の人は出来るのだろうか?

では、どうすれば良いのだろう?

私は、江戸時代の観相家、水野南北は、もしかしたら、「ザ・シークレット」で取り上げられた歴史的人物達より偉大なのではと思う(釈迦だけは例外とするが)。
運命鑑定では万に1つの間違いもなく、同じ原理でもって、助言を受け入れた人全てを間違いなく幸福にした。それも、おそらくは因果因縁を超えて。
南北の一番の弟子であった八助(元浪人。南北のチンピラ時代の弟分の手下だった)がそうであったが、南北の教えを聞いたとしても、必ずしも大長者になったわけではない。その縁の無い者、あるいは、器の無い者もいる。しかし、八助は、十分に豊かになったし、何より彼は本当に幸福であったはずだ。

南北の教えは、ただ、食の慎みだけである。彼は、食さえ慎めば良いとした。遊女遊び結構!食を慎み、どんどん(遊郭に)行けと言った。多分、女好きも因果であろう。

私の話をする。
一日一食とし、間食もせず、しかも、食事は簡素なものとし、また、決して満腹しないように食べる。
すると、食事の時には、大袈裟かもしれないが、飢餓に近い状態だ。その時に食べる食事は、最高に美味で、まさに天国の食事である。その時には必ず、疑いようのない感謝の念が沸き起こるのである。
さらに、そういった食事をしばらく続けると、スリムな美しい身体、最高の健康、さらに、それまで経験したことのない能力の高まりを得、ますます感謝することになる。
そして、食を慎むことのできた幸運と、その意志を持った自分への信頼と感謝も得られる。
その時に、「シークレット」を実践すると、たちまち上手くいくかもしれない。しかし、それが必ずしも必要かどうかは分からない。豪邸やベンツがなくても満足するからである。


新修 南北相法・修身録(全)
至高の観相学である「南北相法」と、食の慎みの重要性を説く「相法修身録」を併せて収録した分かりやすい現代語訳。今年(2009年)出版された日本の至宝といえる書。
相法に興味がない場合でも、後半の相法修身録は楽に読める。さして厳しい内容でもなく、それでいて、最上の効果を得られると思う。

だまってすわれば―観相師・水野南北一代
見事な時代考証の上に書かれた、水野南北の痛快な伝記の傑作。
南北は、もともとは牢屋敷にすら入ったチンピラで、しかも、極端な貧窮短命の相であった。
それが、ただ、食の慎みから運命が大きく変わっていく。天下に鳴り響く観相家、大富豪、千人の弟子、そして貴族に。成功が現代と比較にならないほど難しかった時代のことである。

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2009.12.27

愛という言葉への抵抗

日本人の、特に男性が「愛」という言葉に、どこか抵抗を感じるのは、気恥ずかしさもあるだろうが、もっと深い原因があるように思うし、それは実はまともな感覚ではないだろうか?

日本人の意識の奥には、神道、仏教、儒教、道教が深く共生しているように思う。
ところが、これらはどれも愛を説かないのだ。
今回は少し、仏教を少し取り上げる。
仏教では、愛してはならないとさえ言う。愛は、人が言う限りは執着でしかない。道教もそうであるが、仏教は執着を強く警戒する。
仏教では、愛ではなく、慈悲が重要である。慈悲の「慈」とはいつくしむことであるからよく分かるが、「非」がわかり難い。これは、あわれむことである。人の中に苦が見えるから、仏(如来)はそれをあわれむのである。
普通にも、「お慈悲を」と言うとき、それは、「あなたには私の苦しい状況が分りますでしょうから、情けをかけて下さい」という意味であろう。

私は、愛などという言葉を無神経に使う輩が、はっきり言って好きではない。
わけの分からない言葉で独断を押し付ける傲慢な者と感じてしまうのだ。
それについて、以下に説明する。

「20世紀最大の詩人」とも言われる、アイルランドの詩人、劇作家であるW.B.イェイツ(1865年生。1923年、ノーベル賞受賞)は、おそらくは、ロマン・ロランの言う大洋感情と同じと思われる意識状態をよく体験し、それについて詩はもちろんエッセイを書いてもいる。
大洋感情とは、万物と一体化したような没我の体験である。その時、「全て良し」と感じ、ほとんどの場合、至福を感じる。イェイツはもちろんだが、ドストエフスキー、ショー、エリオット、夏目漱石等、世界的作家の作品には、それであろうことが、おそらくは必ず出てくると言えるものである。
私は、アメリカの著名な心理学者のマズローの言う「至高体験」も同じものであると思う。尚、マズローと親交のあった英国の作家コリン・ウィルソンによれば、至高体験は実際はありふれたもので、誰でも経験していると言う。マズローも後にそれを認めたようだ。
以下では、この意識状態を大洋感情とする。

※「至高体験」は、英語で“peek experience”であり、「絶頂体験」と訳した人もいる。絶頂体験は性的エクスタシーを感じさせる言葉だが、実際、そのようなものでもあるとも言われる。また、英語のエクスタシーとは没我という意味である。ロマン・ロランの大洋感情は没我の状態を示すのであるから、まさに大洋感情と至高体験は同じものであると言える。イェイツは、芸術の目的はエクスタシーであると言ったが、これは岡本太郎の「芸術は爆発だ」とも通じるように思う。岡本太郎も親交のあったフランスの作家ジョルジュ・バタイユは、性的エクスタシーは小さな死の体験と言ったが、言うまでもなく、死は没我の典型的状態である。

イェイツは、大洋感情のような没我的体験がどのように起こるのかは分らなかったが、、「憎むのをやめた時に起こるように思う」と言ったようだ。さらに彼は、「愛は神の領域であり、人には分からない。しかし、憎しみは人の領域であるからよく理解できる。人は愛することはできないが、憎むのをやめることはできる」と言う。
イェイツは、自伝的小説「まだらの鳥」で、絶世の美少女マーガレットの美しさについて、「あまりに美しいと、かえってあわれみを感じる」と書いていた。私にはこれが仏教的に感じる。あまりに美しいと、苦があるのである。イェイツ自身を投影した主人公マイケルは、真の意味でマーガレットを愛していたのかもしれないが、マイケルにはどこか戸惑いがあった。しかし、慈悲の心を感じたのだ。マーガレットが別の男に嫁いでも、マイケルのマーガレットに対する気持ちに変わりはなかった。

このように、慈悲は、いつくしみ、あわれむことであるが、仏や菩薩の特性も慈悲にある。
法然や親鸞、あるいは、一遍が民衆に説いた教えは、ただ「南無阿弥陀仏」の念仏を唱えれば、死後、極楽浄土に生まれることができるというものであることをご存知かもしれない。
それだけでも、民衆には非常に有り難い教えであるが、では、死ぬまでは何も恵みはないのであろうか?
実は、現世においても、念仏を唱える者には、観世音菩薩や勢至菩薩といった菩薩(仏になる前の段階にある者)が、その者がいかなる悪人でも決して嫌うことなく、常に寄り添って守護するとされていることは、あまり知られていない。
これこそ、仏の慈悲の心であるが、法然や親鸞の著書には、そのことが、経典に書かれていることを指摘する箇所もある。また、一般にもよく知られている「歎異抄」(親鸞の言葉を弟子の唯円が記した語録)も、注意深く見れば、そういったことが確かに書かれているのである。

これらの証拠である、法然や親鸞の書を以下に紹介する。
尚、「歎異抄」については、非常に多くの現代語訳があり、どれが最も良いか私には分らない。歎異抄は、その素晴らしさと共に、分かりやすく親しみやすいので、仏教の信仰を超えて人気があるのである。この書の最後に「門外不出」とあるに関わらず、海外でも広く読まれ、マルクス主義者にも愛読者がいるほどである。
このように、歎異抄自体が平易なものなので、現代語訳はどれを選んでも大差は無いのではと思う。とりあえず、私が読んだものを紹介する。いずれも、読みやすい現代語訳で、詳しい解説も付き、分りやすかった。


選択本願念仏集
法然の論文です。全16章から成りますが、決して長いものではありません。
内容は、「浄土三部経」(「無量寿経」、「観無量寿経」、「阿弥陀経」の3つの経典)と、中国の高僧である善導の文章から選択して引用し、さらに、自分の意見を含めて、念仏の意義を明らかにしたものです。
内容は難しくはなく、少し根気があれば誰でも十分に読めると思います。

唯信鈔文意
法然の兄弟子である聖覚(せいかく)の書いた唯信鈔の中の重要な部分について、親鸞が注釈したものです。
唯信鈔は、念仏の意義を語ったものであり、親鸞は弟子にこれの熟読を薦めていたと言われます。短く、易しい文章であると思います。

歎異抄(本願寺出版社)
浄土真宗の本山である本願寺が出版した歎異抄です。非常に分りやすい現代語と解説の文庫本です。

歎異抄(梅原猛訳)
神道、仏教の研究者として名高い梅原猛さんの歎異抄です。非常に分りやすい現代語訳と、丁寧な解説により理解しやすいものです。
梅原さんは、年を重ねても、研究の姿勢は恐ろしく情熱的、献身的で、妥協がありません。それを私は、2006年の「歓喜する円空」で思い知ったように思います。

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2009.12.26

成功哲学を超えた悟り

億万長者になれると信じ切れれば、億万長者になれます。
プロサッカー選手になれると信じ切れれば、プロサッカー選手になれます。
末期癌になっても、治ると信じ切れれば治ります。

しかし、思いのままに信じ切ることができるわけではありません。
訓練によって、それができるようになる、あるいは、少なくとも向上するかというと、よく分りませんが、私は難しいのではと思います。

確かに、この世は、因果の法則に支配されており、縁の無いことは起こりません。
いくらプロ野球選手になりたいと思っても、その縁がなければなれません。
ただ、その縁があるかどうかの判断はなかなかつきにくいものです。
だから、プロ野球選手になりたかったら、懸命にトライしてみれば良いと思います。縁があれば嫌でもなれますし、なければどうあがいてもなれません。
とはいえ、努力して願いが叶わないとしても、得られるものは実に大きいでしょう。
恋愛も同じで、どんなに好きな人でも、縁がなければ結ばれません。
逆に、嫌な相手でも、縁があれば、どうあろうと結ばれてしまいます。

最も良いのは、自分の運命に従うことです。それであれば、充実した人生を送れます。
別の言い方をするなら、命を運命(さだめ)という神の手に預けることです。
荘子は、思慮分別を捨て、なりゆきにまかせろと言います。
人生は夢のようなものです。夢とはいえ、自分の好きなように出来るとは限らない。しかし、夢を楽しむことは確実にできます。

運命に従うとは、必ずしも残念なことではありません。
スターや金持ちや英雄にはなれないかもしれませんし、美女や美男と結ばれないかもしれません。
しかし、もっと良いことがあるのです。
伊達政宗は天下を取ることを夢み、奮闘しましたが、その運命にありませんでした。しかし、ある時、ふと天下を諦めます。だから彼は、後世で、秀吉や家康とは全く異なる輝きを持つ武将として知られることになるのです。彼の魅力は、彼と同等程度に成功した武将はもちろん、秀吉や家康をも凌駕します。そして、彼は天下を取るより幸福だったのです。政宗は政宗であったからです。


荘子
何度かご紹介した、徳間文庫の荘子です。
私は、これのハードカバー版を長く愛読していました。竹村健一氏や邱永漢氏が、荘子を無条件に賞賛するのに興味があったからでした。彼らは孔子もよく理解していますが、どうも荘子の方を高く評価しているように感じます。
私は、荘子はある意味、仙人養成書と感じますし、成功哲学書より壮大な成功哲学書であるとも思います。本当に価値を知る者から見れば、世界的な成功哲学書も、これに比べれば卑小に感じるに違いありません。
よく読めば、あちこちに魔法のような秘法すら、いともさりげなく教えています。このさりげなさが本物の証のように思います。

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2009.12.25

イエスの誕生日は本当は不明である

一昨日(23日)、スーパーに食品を買いに行きました。
いつもなら置いてある野菜コロッケを買いたかったのですが、揚げ物売り場には、牛肉コロッケ、メンチカツや、鳥のから揚げといった肉類しかありませんでした。
せめて、やはり普段は置いてある、カボチャかサツマイモの天ぷらでもと思ったのですが、天ぷらもエビ、イカ、魚などしかありません。
特に最近では、普通の店の食品売り場はどこに行っても、肉製品が圧倒的に多く、ベジタリアンが食べられるものはとても少ないようです。

いつもなら置いてある野菜コロッケ等、野菜類の食品が無いのは、どうやら、鳥肉製品が大量に並んでいる影響のようでした。
そうえいば、本日はクリスマスです。
クリスマスといえば、西洋では七面鳥を食べる習慣があるようですが、それはクリスマスとは関係のない事情で、中世に始まったことのようです。
日本では、鶏肉や鳥料理を扱う食品会社等が、「西洋ではクリスマスに美味しい鶏肉料理を食べるのですよ」といった感じで利用しただけで、「なぜクリスマスに鳥料理?」などと考えたこともないでしょうが、日本の人々にしても「楽しくて美味しければいいじゃない」ということなのでしょう。

さて、では、クリスマスとは何でしょうか?
もちろん、イエス・キリストの誕生日だと言う人が多いと思いますが、それは違います。
イエス・キリストの誕生日は、今では誰にも分かりません。
また、イエスが生まれたのは、紀元0年ですらありません。歴史学者が、イエスが生まれた年を計算し、それを紀元元年としたのですが、後に間違いが分りました。しかし、間違いが改定されずに時が流れ、いまさらどうしようもなく、西暦が採用され続ける限り、未来永劫間違ったままです。
ハンガリー出身の英国の科学ジャーナリストであり、天才的思想家でもあったアーサー・ケストラーは、著書「ホロン革命」で、西暦はもう古く、広島に原爆が投下された年をPH(ポストヒロシマ)元年とすると書いていました。原爆が実際に使用された日は、人類にとって、イエスの誕生日(それも間違いの)より重大な日であるというのは、大いに納得できることと思いますがいかがでしょう?

12月25日をイエスの誕生日としたのは、4世紀のローマ・カトリック教会です。この日は、太陽神であるミラトの生誕日とされる日で、それをイエスの誕生日と決めただけのようです。
尚、ローマ・カトリック教会は、イエスの教えとは全く無関係なものと言って間違いないと思います。
良いとか悪いとかの話ではなく、あくまで政治用に作られたものでしょう。
それは、普通に考えれば誰でも分るはずです。
権力を誇示する豪華絢爛な大聖堂や、国王や大統領のように偉い聖職者達のきらびやかな衣装と、その専制国家のような身分制度と権力構造、ものものしく作為的な儀式・・・これらが、イエスの教えの精神に適うとは、どこをどう叩いても思われません。
イエスは「貧しき人は幸い」と言ったのですから。
もし、ローマ教皇(以前は法王と呼称)のお家である、壮大で贅を尽くしたバチカン宮殿を見たら、イエスは何と言うでしょうか?
ユゴーの小説「レ・ミゼラブル」で、ミリエル司教は、国家から与えられた豪華で広大な住居を、貧困な人々の小さくて不衛生な施療院(簡易な病院施設)と交換しました。そこまでせずとも、あれだけの広大な宮殿、いくらでもいるヨーロッパの貧民達を住まわせると良いですね。

では、イエスの教えが聖書にあるかというと、それも疑問です。おそらく、聖書はかなりローマ・カトリック教会用に改ざんされているでしょう。
できるだけ古い写本の中から、イエスの純粋な教えを抽出しようという活動もあるのですが、困難な上に、ローマ・カトリック教会にとって都合が悪いものは世に出ることはないでしょう。
このあたりの事情は、他の宗教も似たようなものかもしれませんが、ローマ・カトリック教会ほど、開祖の教えから逸脱したものはないでしょう。

どうも私には、クリスマスやキリスト教に良いイメージがありません。
クリスマスを楽しく過ごした記憶はないですね。引きこもりなもので、楽しいクリスマス・パーティーの思い出があるはずもなく、なりゆきで無理矢理参加させられたクリスマス・パーティーは苦痛なことしかなかったですから。
そして、クリスマスではありませんが、雰囲気は非常に似ていると感じる大晦日の夜に寒さと飢えで亡くなったマッチ売りの少女の話まで鮮烈に印象付いてしまっているのですから。
マッチ売りの少女のお話は、アンデルセンの創作ではありますが、アンデルセンは現実的な世界をテーマにしたのであり、あの少女のモデルになった子供も実際にいます。
イエスの教えは、本当はそんな貧しい人達のためのものでした。


運命を変える思考の力
著者トラインの代表的著書“In Tune with the Infinite”(邦訳『人生の扉をひらく「万能の鍵」』)は、フォード自動車創業者のヘンリー・フォードが、自分の成功の要因と言い、多くの人に無償配布した100年を超えて読まれる成功哲学書で、本書も、成功哲学書と言えるかもしれません。しかし、世界は自己の精神の反映であるとの主張は、たとえば、同時代の思想家ジェームス・アレンと同じでありながらも、正しく考えることの大切さを教えるため、あえて、現代のキリスト教の誤りを厳しく指摘したユニークな書です。
「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが、「再来(再臨)」という詩で示した、キリスト教の「2千年の悪夢」から目覚め、真理を知るためにもお薦めします。我々だって、クリスチャンでなくても、キリスト教の影響は大きいはずですから。

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2009.12.24

ポップ歌手と交響楽団

人気のあるポップ歌手がオーケストラを従えて歌うコンサートが行われることがある。
大規模オーケストラである交響楽団が使われることもあるかもしれない。
それに関し、私は、何とはなく複雑な思いを抱く。
オーケストラは、クラシック音楽の演奏がメインであるが、これら人気歌手のイベントに呼ばれるのは、決まって最高クラスのオーケストラだ。楽団の名前そのものも、そのコンサートの売り物であるはずだ。

有名オーケストラの団員になるには、相当な才能を持った者が幼少の頃から、長時間の厳しいレッスンに耐え、難関の音大に進学し、さらに大学院に進学したり、海外の有名な音大、音楽学院に留学する場合も多いと思う。
方や、人気歌手の方は、確かに特別な才能を持ち、それを開花させたものではあるが、ある意味、時流に乗ったという部分が大きく、必ずしも音楽的に秀逸とは限らない。時代が少しずれていれば、世の中にさっぱり受け入れられなかった場合がほとんどかもしれない。そして、彼らのファンの中には、音楽そのものはどうでも良いという人も多いだろうし、そうでなくても、彼らのファンにとって良い音楽とは、単にご機嫌にさせてくれる音楽なのだ。
早い話が、音楽的にはレベルが違うという言い方をしても間違いではないと思う。
私は、彼らに「身の程を知れよ」と言いたい気持ちは確かにある。

しかし、こういったイベントが、オーケストラの方にメリットが無いわけでもないと思う。
海外のことは知らないが、日本では、最高の交響楽団とはいえ、ほとんどの団員の収入は決して多くない。しかも、彼らが必要とする楽器は高価であり、その購入費用は当然ながら自腹である。
有名ポップ歌手と共演すれば、クラシックファン以外にも楽団の名前が知られる可能性があり、その上、一時的な収入が楽団にもたらされるだろう。そして、何より、その卓越した演奏技術を披露できる。
しかし、だからこそ、オーケストラにとっては不条理なところも大きい。とんでもない高収入の人気ポップ歌手の背後で、常に厳しい練習を欠かさず、腕は超一流だが、平均的サラリーマンと同じか、それよりも劣るかもしれない収入のオーケストラの団員。もし平常心を保てるなら大したものだと思う。

今では、どのくらい行われているのかは分らないが、日本では、大晦日にベートーヴェンの「交響曲第9番」、通称「第九」を聴く風習があった。これが日本特有のものであることを知らない人も多かったはずだ。
そもそもこれは、主に終戦後まもない頃の話ではあろうが、貧しい楽団員が年越し費用稼ぎに行ったことから始まったもので、近年でも、重要な収益源であるのだと思う。
能力は必ずしも収入と比例しないし、ことに、クラシック音楽の世界では、大きな収入を得る可能性は極めて低いに違いない。それに、まかり間違って音楽で高収入を得ることにでもなれば、その者が純粋な芸術家でいられる可能性は、あらゆる芸術分野の中でも、最も低い方だろう。だが、彼らは、世の中に貴いものを与えてくれているはずである。経済的苦労もまた芸術に必要なものだと私は思うが、一般の人々に芸術の価値がもっと理解されるなら、少しは状況は良くなるかもしれない。そのためには、高名な芸術家も傲慢さを捨てる必要があるかもしれない。


今日の芸術
岡本太郎さんは、一般の人々が芸術に親しみ、自ら創作し、歌い、演奏することの必要性や価値を強く訴えていた。
「絵の先生が描くような絵を素人が描くのは不可能だが、私のようなのは誰にでも描ける」と言い切り、「あなたも、本日ただいまより芸術家になれる」と保証した。
岡本太郎さんは、一般的なイメージとはかなり違う人と思う。その岡本太郎さんが、芸術の真髄を誰にでも分かるように説いたのが本書だ。岡本太郎さんは、芸術により、人々が元気になり希望を持つことを強く望んでいたのである。

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2009.12.23

安パンとサンマの缶詰

以前、NHKで見たが、中国から、李さんという40代後半の男性が、日本で博士号の学位を取得するために、奥さんと娘さんを連れて日本に来ていた。中国では、学位の取得に年齢制限があるからだった。
しかし、彼はただの中年中国人でしかなかった。生活のために肉体労働などのアルバイトをし、奥さんも働いた。収入は少ないし、安定しているわけでもなく、一家は貧しかった。彼の食事はいつも、一番安いパンとカップラーメンだった。
クリスマスには、李さんは全財産である1万円を銀行から降ろし、12歳くらいの娘さんと外で食事をした。彼はラーメンを、娘さんは中華風ヤキソバを食べただけだった。娘さんへのクリスマスプレゼントを買いに店に入ったが、彼女はシャープペンシルの芯と消しゴムしか取らなかった。

李さんは、ある時、とうとう体調が悪くなり、大変な決断をして、サンマの缶詰を買う。夕食はサンマの缶詰とパンだった。彼は、「大変に美味しい」と言いながら、缶詰の汁も大切に飲み干す。当時、飽食、美食であった私には抵抗があったが、1日中空腹な今では、それが非常に美味しそうに感じる。実際、美味しいに違いないと思った。私は、魚もほとんど食べないが、真似してサンマの缶詰を時々食べるようになった。サンマの蒲焼や塩焼きの缶詰は、安価なものが普段は百円だが、時々、安売りで88円位になっていたら5つほど買う。大変に美味しいと思う。
また、魚の缶詰は、EPAやDHAという不飽和脂肪酸を多量に含むものが多く、非常に健康的だそうだ。
尚、私は、パンとカップラーメンが悪いとは思わない。大リーグのホームラン記録を持つバリー・ボンズは、毎日必ず日本のカップラーメンを食べるらしい。非常に良質のタンパク質が摂取できるそうだ。
李さんの体調が悪くなったのは、別の原因と思う。しかし、たまに少し美味しいものを食べるのも良いことと思う。
それと、李さんは「この年で勉強するのは無理があるのです」と、文化大革命のために学問を続けられなかった過去を嘆いたが、学問に年齢は関係ないと思う。また、過去は決して否定してはならない。
彼の制限された思考に問題があったとは思うが、人間は自分の潜在的な考え方を疑うことは出来ない。そうやって、人は自ら閉塞された、辛い世界を創り出す。それを打ち破るのが人生である。

李さんの2度目の学位試験の時、彼はアルバイト先を解雇されていた。奥さんもまた、仕事を失っていた。そして、李さんはまたも試験に落ちる。
八方ふさがりであったが、家族にはどこか開き直った明るさがあった。
とても可愛い彼の娘さんが笑って言う。「神様は、夢を諦めずに追いかける人を見捨てないのよ」と。
さらに翌年も、李さんは合格できなかった。しかし、その翌年、最後のチャンスでついに経済学博士号を取得し、中国の大学で助教授の職を得て帰国した。
今も、彼のはるかな旅路は続いているのだろうか?

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2009.12.22

ドラゴンの夢

深夜に、ブルース・リー主演の「燃えよ!ドラゴン」を放送していたので録画して観た。
ブルース・リーとは、1973年に32歳の若さで亡くなった中国人俳優で武道家であり、現在も人気は衰えない。
リーの映画がヒットした後、彼のように上半身裸で肉体美を披露しながら戦うアクションドラマが流行ったが、他の俳優は、筋肉の量そのものは遜色なくても、リーの肉体やアクションの美しさや迫力とは比較にならなかった。
リーの肉体の美しさは、筋肉の量よりは引き締まり方が素晴らしく、特に下半身の細さが印象的だ。おそらく、普段から低カロリー、高繊維質の食事をしていたのだと思う。実際のことは全く知らないが、肉や菓子の類は、ほとんど食べない人ではと思う。
また、本格的な武道家であるリーの動きの速さ、機能性は、やはり、普通のアクション俳優とは別次元のものだと思う。
演技における彼のオーバーアクションは、西洋人ともやや異なる感じがするが、日本人がやるような滑稽さはない。彼がアメリカ生まれで、アメリカで生活していたということもあるが、彼の明確な演技ポリシーや、個人としての信念が特別な雰囲気を持たせているのだと思う。

彼の時代の、西洋における東洋人差別は、現在では考え難いほどのものだったようだ。アメリカのTVドラマで人気が出ても、ロケでは、同じ番組に出演していた西洋人俳優とは別の安ホテルをあてがわれるなどは当たり前だったと聞く。
俳優としても、武道家としても苦難の人生だったようだ。
彼も、成功哲学を実践していた。
西洋の成功哲学では、明確な目標設定が重要だ。
彼が望んだのは、2千万ドルの資産と武道を極めることで得られる心の安らぎだった。
武道家としての望みは純粋なものだったかもしれないが、資産については、ビジネスに関わる煩い事から逃れたかったからではないかと思う。彼の死因は不明だが、間接的にはビジネスでのストレスの影響が大きかったようにも思う。

武道で痛めた後遺症に苦しみ、強い痛み止めを常用していたようだ。
異なったタイプであるが、肉体と技の美しさ、薬の常用と急死、私生活の謎、そして、道を究めようとするストイックさと強い思想に、マイケル・ジャクソンとの共通性を感じた。

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2009.12.21

日本に楽しい仕事はない

日本には、我々庶民が就いて楽しい仕事は無いと思います。
ほとんど全て、嫌な仕事ばかりです。あまり嫌だと思わない仕事であれば、極端に低収入です。

なぜなら、日本は経済指向の国であり、しかも、現在は、それ以外の目的は何も持たないからです。
経済の発展のみを目指す国では、国民がする仕事は楽しくないものしかありません。
経済の拡大のためには、合理性、効率性が第一で、それは心の満足と全く関係ないからです。
私の仕事(コンピュータソフト開発)の場合で言えば、コンピュータプログラミングは楽しいものだと思いますが、効果的に収益を上げるためのソフト開発は苦痛でしかありません。

例えば、自動車を見ればよく分かります。日本の車は、製品も、製造方法もとても合理的です。
でも、本当に車が分かる人なら、日本の車を選びたくないはずです。
もし、車を完全に道具としか思わないなら、日本の車で良いのかもしれません。
しかし、実際には、人間は、持ち物、着る物、食べるもの等、いかなるものにも心を注ぎます。その中でも、車は大きな愛着を持つものの1つです。
でなければ、これほど多種多様な車があるはずがありません。
車にさほどのこだわりを持たないような人でも、日本の車に本当は満足しません。妥協するだけです。
不況になると、日本やアメリカの車は極端に売れなくなります。あえて新車を買うほどのものではないからです。
しかし、ドイツのフォルクスワーゲンなど、合理性以上の車を作るメーカーの車は逆に販売が絶好調になっています。

経済のためでしかない仕事に生き甲斐など、間違っても求めないことです。
ただ、一見、収益以上の目的を持っているように見えて、その目的が大嘘である事業も、特に日本やアメリカには沢山あります。むしろ、そういったものの方が問題が大きいかもしれません。
しかし、それが分かって働くなら、あまり不幸にはならずに済むと思います。
生きるためには、そういった仕事をせざるを得ないのが、ほとんどの人の場合です。できるだけ無関心に働くことです。騙されて熱狂してはいけません。ところが、そうであってこそ、親切さや穏やかな態度が守れます。
面白いことに、仕事もあまり苦痛に感じなくて済むかもしれません。あまり心をあれ狂わさずに済むからです。
そして、それこそ、本当の高度な修行です。自分が行為者でないことを自覚すれば幸福になる道が開けます。


あるがままに―ラマナ・マハルシの教え
重要な仕事を責任感を持って行っているように見えても、実は、あなたは何もしていない。自分を行為者であると見なしてはならない。
自己の探求を通して、それを自覚すれば、幸福の内に留まることができる。
1950年に亡くなったマハルシの教えが忘れられることは決してありません。

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2009.12.20

無限の宇宙

子供に、天体望遠鏡を与えることの価値は計り知れません。
別に高価なものでなくても、さほどの高倍率である必要もないと思います。
勉強道具というよりは、遊び道具として使えば良いと思います。

数十倍以上の高倍率で目標を捕えることがいかに難しいかを体験するのは良いことです。
映画やアニメなどで、天体望遠鏡でUFOなどの飛行物体を見るシーンを何度か見ましたが、それが馬鹿げたことであることが実感として分かります。
また、NHK教育テレビのアニメで、小さな男の子が、無造作に接眼部分を手で掴んで天体望遠鏡を覗く場面を見て驚いたことがあります。望遠鏡のほんのわずかな動きでも、高い倍率では捕捉している位置が大きく変わってしまいます。
今の子供達は(大人もですが)、ゲーム機や携帯電話を乱暴に扱っています。駅や電車の中で、携帯電話を床に落っことす人もよく見ます。天体望遠鏡は、そんな無神経な扱いはできません。
現代人がデリケートな感情や細やかな神経を全く持たない原因は、そのようなものを必要としない状況であるからだと思います。

また、宇宙に目を向けることにも大きな意味があります。
古代の賢者も、現代の科学も、世界が意識の反映であることが真理であると認めています。
宇宙は限りなく広く、精妙で、美しい。ならば、意識も本来はそのようなものであるはずです。
現代の我々は、精神が極めて限定されたものであり、合理的と言えば聞こえは良いですが、つまるところ損得を計算することにのみ使うよう教育されています。地獄(hell)という言葉は限定を意味しています。現代の我々は地獄にいます。
宇宙に心を向けることで、我々は自分が自由で無限の存在であることを思い出すきっかけを得るかもしれません。


宇宙―太陽系とその惑星から銀河宇宙の果て、地球外生命探査まですべてがわかる
最近、この本を買いました。
さして大きな本ではありませんが、美しいカラー写真で望遠鏡や宇宙探査機が捕えた星の映像を見るのは楽しいものです。
直接、映像で捕えることができないものや想像物については、豊富なイラストが使われています。
また、天文学や、それに関連した最先端物理学を一般向けにではあっても、かなり詳しく解説してくれています。
大人向けの本と思いますが、中学生以上なら良いと思われ、小学生が見ても楽しいと思います。

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2009.12.19

極楽浄土に行く方法

法然上人や、その弟子であった親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏」を唱えれば、死んだ時に極楽浄土に生まれ変わることができると言った。
伝記などを見てみると、2人とも知能指数は大変なものであったと思う。
その大天才の法然上人が何十年も貴い書を学んで確信した結論だし、人間的にも本当に聖人だったそうだから間違いあるまい。
親鸞聖人は、それは信じているが、やはりこの世にも未練がある。それが煩悩だなあと言われたらしい。
しかし、私は、行けるものならさっさと極楽浄土に行きたいという気もする。
そこで、さっさと死ぬことにした。
だが・・・
死ぬって、どういうことだろう?
ビルの屋上から身を躍らせたら本当に死ぬのだろうか?
私には、とてもそうは思えない。
信じてもらえないことが多いと思うが、私はそこかしこに、死んだ人が見えるのだ。彼らは・・・死んでない!
だがある時、誰もその人が死んでいるとは思わないのだが、確かに死んでいる人を見た。
彼は、普通に生活している。つまり、働き、食べ、話し、遊んだりしている。
しかし、死んだ人のやることは少し違う。主張もしなければ文句も言わない。人並に何か欲しがることもあるがあまり執着しない。買い物をする時も、必要なものは買うが、他人に印象付けるために買うことはない。着心地が良ければ、何も着ても平気だ。
つまり、彼は心が死んでいるのだ。
早速、彼に死に方を教わり(そのために少しは苦労したが)、南無阿弥陀仏を唱えて死んだ。
思った通り、世界は極楽浄土になった。
世間の人は、私が死んでいるとは思わない。そりゃそうだ。私だって、自分が生きているか死んでいるかなんて区別が付かないのだ。

ああ、そうだ。死ぬ方法だが・・・・
「南無阿弥陀仏」自体が、それになっている。
この言葉の意味は、「阿弥陀仏様に命を捧げます」って意味だ。
昔の人の場合、そんな説明をしても分らないので、法然上人も親鸞聖人も余計な説明はしなかっただけでね。
つまり、全て、阿弥陀仏様におまかせしますっていうことだ。
尚、阿弥陀仏は、心を向ける対象であり、仮の姿であり、何でも良いと言えば何でも良いのではないかと思う。
黒住宗忠は、天照大神様に一切合財まかせよと教えたし、ラマナ・マハルシは、神様に自分を全て明け渡すのが、一番簡単な幸福になる方法と言った。本当の教えってのは、全て同じと思う。
ラマナ・マハルシは、神様に全託したからには、人生の責任を全部、神様に負ってもらえと言ったらしい。随分勝手な言い草にも聞こえるが、人生失敗続きだった35歳のクリスチャンのある男性は神様に、「これまでの失敗は私の責任だが、これからはあなたが責任取ってよ」と祈り、翌日に奇跡が起こり、その後、大成功した。

余談だが・・・
阿弥陀仏、天照大神が共に、AMの音で始まっており、共に、マントラ(真言)になっている。
南無阿弥陀仏は、前に南無が付くが、これもAMに近い。南無は、インドの言葉では「オン」となるらしいが、英語ではAUMで、更にAMに近い。
※天照大神(アマテラスオオミカミ)と唱えることを十言の神咒(とことのかじり)と言い、神道の流派の中には、最も貴い真言としているものもある。
キリスト教の「アーメン」(ヘブライ語)もAMの音で始まる。
上の、「南無」あるいは「オン」と関連するかもしれないが、インドのヒンズー教だと思うが、宇宙最高とされる真言、あるいは聖音は「オーム」だが、英語ではAUMと綴る。
偶然としても面白い。尚、英語のAMは、「愛」を意味するらしい。
ただ、ラマナ・マハルシは、最高の真言は「私」と言った。「オーム」でさえ2番なのだそうだ。自分に対し、常に「私」と心で呼びかければ、神と一体となると言う。
「マスターの教え」「アイ・アム・ザット」「ヒマラヤ聖者の生活探求」などの書には、最も貴い言葉として、“I AM THAT I AM”、“I AM THAT”、“GOD I AM”が上げられている。


マスターの教え
著者、来歴不明の1929年にカリフォルニアで出版されたらしい不思議な知恵の書。人生の状況を支配する、最も簡単で確実な方法とされる。

アイ・アム・ザット
インドの小さな町の小さな家に、ごく普通に暮らしていたその老人は偉大な聖者だった。世界中から彼を訪れる者が増え、出版されることになった、人々と彼との対話集がこの本だ。
彼は、慈愛に満ち、易しく素朴に人々に教えを授けたが、その言葉の、単純ながら驚くべき貴さ、深遠さには驚くばかりだ。

ヒマラヤ聖者の生活探究 第1巻
19世紀、アメリカの科学的な調査隊がヒマラヤを訪れ、驚くべき存在と出会った。著者はアメリカに戻り、その記録を書いて本書として出版したが、調査隊の中にはヒマラヤに残った者もいた。
人は決して、地上に縛り付けられたみじめな存在ではない。イエスのように水の上を歩き、時間も空間も超える人達。いかなる時を経ても老朽化しない太古の建築物。それらの秘密が全て明かされる。そして、調査隊の者達も、やがて、これまでには考えることもなかった能力を自然に発揮しはじめる。

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2009.12.18

超楽観論と超悲観論

現在、不況で、自分が勤務している会社が危ないと思っている人は多いでしょうし、そうでなくても、自分がリストラされてしまうことを恐れている人も少なくはないでしょう。

プラス思考とか楽観思考と言うなら、「会社はきっと大丈夫だ」「私がリストラされることなんて絶対ないはずだ」となるのでしょうか?
しかし、大丈夫なように行動するとか、確固とした根拠があるわけでもなく、ただそう思いたいだけ、つまり、現実逃避しているだけなら、リストラされるのは、そのような人達ではないかと感じます。そして、会社が潰れた時にどうにもならなくなるのも、そんな人達だと思います。

逆に、「うちの会社も潰れる可能性は十分ある」「私もリストラされても仕方がない」と思っている人は、案外にリストラされませんし、会社が潰れても、なんとかやっていく場合が多いのです。しかし、「では、そう思うことにしますから、私は大丈夫ですね?」などと言う人が一番駄目でしょうね。
本当に、「会社の倒産はある。その時は路頭に迷う」「私程度の者はリストラされて当然。その時は食べていけなくなる」という覚悟ができていることが大切なのです。いわゆる、「腹が出来ている」ということです。

ノストラダムス研究家で名高い五島勉氏の本にこんなお話がありました。
若い騎士が、ノストラダムスのところに相談に行きました。
彼は、愛する美しい姫を争い、他の騎士と決闘することになっていました。
立派な騎士ではありましたが、まだ若く、不安も感じ、予言者として名高いノストラダムスに、自分の運命や、もしそれが悪いものであればその打開策を聞こうとしたのでしょう。
しかし、ノストラダムスは冷酷に、「貴方は負けて死ぬ。姫は敵の騎士のものとなる」と断言し、もうどうにもならないと若い騎士に告げました。
若い騎士はノストラダムスの言葉を受け入れました。実は、敵の騎士の方がはるかに武術に優れていることは分っていました。そして、ノストラダムスは王室からの信頼も得る大予言者で、そのノストラダムスが完全なまでに断言した言葉の重みは大きなものでした。

しかし、決闘は、奇跡的に、この若い騎士が勝ちました。
彼は、再びノストラダムスを訪ねます。ノストラダムスの返答によっては切り捨てるつもりでした。
ノストラダムスは、「貴方は死ぬはずだった」と言います。
私は、それだけで、この騎士は理解したと思いますが、五島氏は読者のために説明を付けてくれています。
敗北し、名誉を失って死に、愛する姫も敵のものになるという悲劇の全てを、若い騎士は覚悟したのでした。その刹那、勝負は逆転しました。

こういった話は、実話、創作を含め、実は沢山あります。私も多く知っています。
諦める力。
捨てる力。
覚悟する力。
腹を据える力。
それらは凄まじいものです。
政木和三さんが常に言われていた、「欲望を捨てれば不可能はない」も、そんなことではないかと思います。

ただ、1つ付け加えておきます。
楽天主義でも、同じことになる場合もあります。
上のお話で、この若い騎士が、もう少し年を取っていて、モノが分っていれば、ノストラダムスはこう言ったかもしれません。
「なんとかなるでしょう」
こう言われて、「では私が勝つ」と解釈するようでは駄目です。それなら最初から、「貴方が勝つでしょう」と言うはずですから。
なんとかなるとは、結果は分らないということです。そして、「結果を案じてクヨクヨするな」という励ましでもあり、「この程度の不幸、世界全体から見れば些細なこと」という戒めでもあるのですが、その中にほんのわずか「勝つかもしれませんよ」という意味も含まれるのです。
しかし、基本的には、やはり、腹を決めることを促す言葉に違いはありません。
一休禅師は、死の間際、弟子達に、本当に困ったことがあればこれを開けよと言って、封をした文書を渡しました。
数年後、大変な事態が起こった時、弟子達がそれを開いたところ、そこには、「心配するな。なんとかなる」と書かれていました。これは、一休さんが弟子を信頼するからこその言葉でもあったと思います。だからこそ、弟子達の問題は奇跡的な解決を得られたのです。
楽天主義とは、心の強さもまた要求されるのだと思います。


ノストラダムスの超法則死活の書
今回のエピソードは、この本にあります。もっと詳しく説明されていますし、他にも多くの示唆に富んだ事例(現代のものもあります)があります。
絶版ですが、素晴らしい本です。推薦は、舛添要一氏、竹村健一氏です。

心配するな、なんとかなる―学校・職場に背を向ける人へ
成功法則を説く仏僧、無能唱元さんの名著。
1999年出版ながら、不況、リストラ、失業、登校拒否、引きこもり、いじめ問題など、まさに今現在の世の中に実に相応しいものです。
こちらも絶版ですが、古書なら入手可能と思います。

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2009.12.17

民話の知恵

明治、大正の偉大な思想家で、「岡田式静坐法」で知られた岡田虎二郎は、明治34年に米国に渡航し、膨大な数の優れた文献を読破した。
虎二郎は、ソクラテス、孔子、イエス、二宮尊徳を師としていたというが、ある時、「聖書よりイソップに良いことが書かれている」と言ったことがあるようだ。

イソップとは、言うまでもなくイソップ寓話のことで、古代ギリシアの奴隷であったイソップが書いた寓話(教訓を秘めた短い物語)である。
イソップ寓話はイソップ自身が創作したものばかりでなく、古くから伝わる民話が多数取り入れられているようだ。
17世紀のフランスの詩人シャルル・ペローによる「ペロー童話」や、19世紀のグリム兄弟による「グリム童話」は民話を収集したものである。ただ、話によって程度の違いはあるが、彼らによって脚色されていることが多い。
「アンデルセン童話」はそれらとは違い、アンデルセン自身の創作作品であるが、アンデルセンは若い頃から神話、民話を愛していたし、文学者として名を成して後は常に世界中を旅した。そんな彼の発想の中には、世界中のあらゆる民話の影響があることは想像に難くない。

尚、民話、寓話、神話、伝説、童話、御伽噺といった言葉をここでは正確には使っていないことをお断りしておく。
大体の意味で言えば、

民話・・・民衆により伝承されてきたお話
寓話・・・道徳的教訓のためのお話
伝説・・・特異な事実を伝えるお話であるが、本当に事実であったかは実際は問われないことが多い
神話・・・伝説との区別は難しいが、ものごとの起源に関るお話
童話・・・上記のもので、特に子供向きのもの
御伽噺・・・日本の童話

とでも言えようか?
普通には、これらにさほど明確な区別は無いと思う。
以下では、民話に統一する。

実際、民話というものは知恵の宝庫である。
中国には、「列子」という、「老子」や「荘子」と共に道教に含まれるとされる本がある。民話を多く含み、これにも素晴らしい知恵が満ちている。また、荘周(荘子)の作とされる「荘子」にも民話がところどころに取り入れられている。
日本にも非常に多くの民話があるが、それらに深い知恵が秘められているのは確かであろう。
民話を子供達に聞かせることの意義は決して小さくはないと思う。そして、我々大人が、これら古くから伝わり、日本人の感覚で理解しやすい民話の知恵を学ばないことは勿体無いことである。
世界のいかなる国にも、民話はある。その国の民話は、やはりその国の人々が最も理解しやすいと思う。もちろん、外国人が読んでもためになるものも多いが、まずは、自分の国の民話を知るべきと思う。

吉本隆明氏の「共同幻想論」では、岩手県の民話を集めた「遠野物語」や、日本最大の神話である「古事記」を題材に、その意味を鋭く洞察しているが、やはりそこに秘められたものの深遠さに驚愕する。


日本昔話百選
選りすぐりの日本の民話百選です。懐かしく感じるお話も多いに違いありません。
お話のリズムを大切にして、古い表現も使用していますが、分かり難い言葉には現代的表現を並べて書く配慮がされています。
非常に分りやすく、面白く書かれてあり、著者の苦心、工夫がうかがえる評価の高い良書です。

老子・列子
おそらくは、最も分りやすい「老子」「列子」ではないかと思います。
「老子」は全文ですが、「列子」は元々はかなり膨大な書であり、一部を選択したものですが、それでも非常に深く雄大な知恵を感じさせ、また、とても面白いです。
漢文、読み下し文も付き、原文の美しさも味わえます。


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2009.12.16

健康診断の結果から考える

11月11日に受けた健康診断の結果がやっと出ました。
当然、オールAと思っていましたが、ちょっと面白く感じた診断結果でした。

ダイエットや、コレストロールを減らすことに興味のある方の役に立つかもしれません。

まず、HDLコレストロールの量が、昨年、一昨年と比べ、急激に高くなっていました。
HDLコレストロールは、善玉コレストロールと呼ばれ、余分なコレストロールを肝臓に運ぶためのもので、多い方が良いとされるものです。
いわゆる、悪玉コレストロールというのはLDLコレストロールで、これは私は前回の検診でも低かったのですが、今回はさらにぐっと減ってました。
ただ、善玉のHDLコレストロールも、多い方が良いとはいえ、あまり多いと問題があるように言われます。そして、私は多過ぎるようです。
しかし、早い話が、悪玉コレストロールが減ると善玉コレストロールの方が増えるものであるらしく、私は単にそのようになっただけと思います。
1年で体重が約10kg減ってますしね。

私は、クルミやアーモンドが好きで必ず毎日食べているのですが、これらは高カロリーとはいえ、悪玉のLDLコレストロールを低下させます。それでいて、善玉のHDLコレストロールは減らさないようです。私は、そのような効果を期待する意図は全くなく、単に好きで食べていたのですが、その影響かもしれません。
ダイエットをしたい人や、悪玉コレストロールを減らしたいなら、クルミやアーモンドはお薦めできる食品であると思います。
特にアーモンドは、ポリフェノールやビタミンEを多く含みますので、強い抗酸化作用があります。私は、大半の病気や老化の原因は活性酸素のせいだと思っていますが、それを抑える抗酸化作用のあるものは、当然、身体に良いわけです。

私も、総合的なコレストロール判定はAでした。
尚、悪玉コレストロールが多くても問題ないと考える医師や研究者もい多いですし、彼らの論理の方が私には納得できます。

次に、赤血球が基準より少なく、血液検査自体がC判定(注意を要する)でした。
2年前からの資料しかありませんが、毎年減ってきています。
これは貧血を意味するらしい。
確かに私は立ち眩みが多く、歩いていて、足元がフラつくのを感じることはあります。
ただそれは、ソフトウェア開発という、独特のハードワークのせいと思っていましたけどね。
貧血といえば、対策は鉄分の補給というのが定番ですが、赤血球増加の方法もやはり同じであるようです。
最も効率よく鉄分を吸収できるのは肉類(特に牛や豚のレバー)だそうですが、私は一切の肉は食べません。
卵、牛乳、チーズも良いそうですが、私はこれらはたまに食べる程度で、牛乳は全く飲みません。
野菜では、ほうれん草、パセリ、もやしが鉄分を多く含むそうですが、考えてみれば、私はほとんどブロッコリーかキャベツしか食べません。

ただ・・・
私は、確かに、現在は多少の体調不良はあると思っています。
しかしそれは、現在、非常にストレスのある状態だからです。
とはいえ、体調も気にするほどのものでもなく、検診の結果を重視するとしても、検診結果からの報告は単に「注意せよ」です。
よって、心の平静を心掛けることで対策としたいと思います。それには、心を磨き、意識を理想的な方向に導けば良いのだと思います。


医学常識はウソだらけ 分子生物学が明かす「生命の法則」
著者の三石巌氏は物理学者で、「医学は科学ではない」と警告し、分子生物学に基づく分子栄養学の立場から、科学的に健康を考えます。
300冊以上の著書の大半は60歳を過ぎてから執筆したもので、90歳を過ぎても元気で活躍され、95 歳で亡くなられましたが、その95歳まで元気にスキーを楽しまれていました。本書も、「私は95歳になった」から始まる遺作でもあります。推薦を兼ねた前書きは、私がマーフィー法則関連で度々取り上げる渡部昇一氏で、渡部氏は著者が93歳の時の講演の見事さに感服されたようです。
著者は、自分は重症の糖尿病であるとあっさり明かしています。しかし、カロリー制限、運動奨励などの医学常識は一切無視していると言い切ります。
減量に意味なし、コレストロールが少ないとかえって危ないといったことを科学的に説明し、自らの身体で証明する等、医学の定説を科学的に否定することで医療常識の嘘を切り捨てています。

ほとんど食べずに生きる人―「引き算」の生き方革命
60歳を過ぎた男性が、超低カロリー食の生活を自らの身体で実験し、世界的医師が検証した貴重な記録です。
一般医師からは、「そんなことを続ければ死ぬ」と言われながらも果敢に実践し、全く逆に最高の健康を得ました。
少食で痩せると、脚が長くなってズボンを直すことになった、白髪が増えた頭髪が再び黒くなった等も興味深いと思われます。

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2009.12.15

哀れ日本

病気などの大きな障害があるわけでもないのに、不幸な状況に陥っている人が多くいると思います。

その原因の多くは、直接的には経済的な理由、つまり、お金の苦労や不安であると思います。
人間は食べなくては生きていけないし、その他にも、快適な家に住み、心地よい服を着るには、日本ではかなりのお金が必要です。
ところが、それよりも、我が国では、お金が無いと、恥ずかしい思いをしなければならないことが多く、世間体を気にする日本人にはそれに恐怖を感じるのかもしれません。
日本人が世間体を気にするのは歴史的なもので、村落社会では、所属する集団からの評価が生命すら左右したということが、人目を恐れさせる民族にしたのかもしれません。

日本には、面白い仕事がないことは確かと思います。経済至上主義の国に、精神性を満足させるような仕事はないでしょう。
売上競争に強い興味が持てる人間でないと、どんな分野の仕事を選んでも、収入が低いか、そうでなければ大きなストレスを背負うことになります。
それは、技術職を選んでも同じです。日本の技術は、心を豊かにするためのものではなく、ただ、利益のためだけのものだからです。
例えば、日本の自動車はコストパフォーマンスの高さや合理性はあっても、本当に良いものが分る者には選ばれない。いや、普通の人だって、日本の自動車には本当の喜びを感じていません。スペックに表れない部分のこだわりや品質はドイツ車と比べて非常に貧しいのですが、人の感性はそれを感じるからです。

純粋な精神を保っているような人では、莫大な収入を目指せば、精神が破綻するかもしれません。
かといって、誰しも、低収入で満足するのも難しい理由が色々あります。
先ほども申し上げました通り、我が国では、世間の慣習に従い、さらに世間体を保つにはひどくお金がかかり、ことによっては天井知らずになる場合もあります。

最近、エコカーブームのおかげで、必要もない大きな車を買わずに済むようになりました。
それまでは、気も向かないのに、世間体のためにそこそこの車を買う人も多かったと思います。それなりの地位にもなれば、乗りたくもないのに、クラウンあたりに乗らないといけないという風潮も確かにあったと思います。自動車メーカーも、そのあたりは大いに利用したはずです。
このような、奇妙な風習のために、それなりの収入を得るよう追い立てるのもまた、経済至上主義社会を維持するための仕組みと思います。
そのため、多くの人は、なるべく精神の健康を保ちながら、本来は向いていない仕事を毎日ハードにやるしかありません。

こんな国で生きるには、精神的にデリケートな人間であれば、何らかの拠り所が必要です。
本来であれば、それが宗教の役割なのですが、権威化、あるいは、形骸化した宗教はほとんど何の役にも立ちません。
そこで、元々は、宗教の下僕としてスタートした芸術に取組むのが良いことと思うのですが、岡本太郎が日本の芸術界を罵倒したように、日本では芸術の素晴らしい恩恵は得にくいと思います。自分で芸術を理解するよう努力するのは良いのですが、決して、芸術の権威筋に近付いてはいけません。しかし、岡本太郎も指摘したように、子供達は逃れる術のない学校の美術教育で芸術感覚を破壊されてしまうのです。それは、現在も岡本太郎の時代から全く変わっていないばかりか、、むしろ悪くなっているように思います。

私の場合で言えば、幸いニューソート思想に救われました。
具体的には、19歳の時にジョセフ・マーフィーの成功法則の本に巡りあい、経済的な苦労からは決別しました。重度の引きこもり気質な上、社会の権威を認めない人間には奇跡的なことと思います。
ジョセフ・マーフィーの良いところは、少なくとも、自分は無力ではなく、力をもっているという可能性に目を向けることができることです。
そして、ほんの少しの忍耐と勇気があれば、程度の違いこそあれ、自分に力があることを知ることができるようになります。いったんそれを認識できると、後は実践次第で自信を深め、発揮できる力も大きくなります。
全ての問題を解決できるかどうかは分りませんが、こと経済的な問題でしたら解決できるはずです。
ただ、お金というものは、得れば得るほど、より多く欲しくなり、もう十分に得ているにも関らず、不満を感じるものです。
健全にお金持ちを目指すというのでしたら、それはそれで良いと思いますが、お金を渇望する気持ちのまま求め続ければ、お金を得るごとに大きな問題を抱えることになると思います。

日本が幸福な国になるためには、経済成長ではなく、まず国民が行き過ぎた虚栄心や欲望を捨てることが大切です。それらを捨てると、驚くほど必要なお金は少なくて済みます。そうなると、日本が強大な経済大国であることはなくなりますが、人々は幸福になれるに違いありません。人々の幸福のためには、過度の経済力は必要ないはずです。
防衛力の心配をする向きもあるかもしれませんが、私には金満な軍隊がいざという時に役に立つとは思えません。それは、これまでにバレてしまっているように思います。
国家の海外に対する立場の強さという点はどうでしょうか?経済大国として君臨していた時の日本でも、海外からは軽く見られ、馬鹿にされていたのではないでしょうか?一方、経済力は劣っても、非常に重く扱われる国も多くあります。虚栄心ではない実際的な方策を考えると共に、やはり思想があるからです。日本にはいずれもありません。日本に必要なのは、経済力ではなく、知恵と思想と思います。

まずは、日本の思想よりも、個人の経済的問題ということで、引きこもりのニートであった私を、その方面で解放した本を下にご紹介します。


あなたも幸せになれる
私が初めて読んだジョセフ・マーフィーの本。正直言って、胡散臭さも感じていました。それでも振り返ると、絶大な効果がありました。
渡部昇一氏は、留学先のロンドンで、マーフィーの本に巡りあって運命を変えたと、著書に書かれていました。
マーフィーの本は、基本的にはどれもそんなに変わりはないのですが、この本では、神という言葉を「宇宙の活力」と言う場合が多く、キリスト教に馴染みの薄い人にも良いかもしれません。

マーフィー 努力嫌いの成功法
上記の本の文庫版です。上記のものに比べ小さいですが、現在はこちらの方が入手が簡単で、値段も安いので、こちらをお薦めします。

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2009.12.14

好みの夢を見る方法

ビジネスに浸りきったり、技術的な仕事に没頭していると、ついつい、これら外側の世界の現実性を強く感じてしまい、煩いや鬱事が増えてしまったりする。
世界なんてみんな心が作り出した幻影であり、夢でしかないのであるが、そのリアリティはあまりに強力なので、普通の人は、それが現実であると思って疑わない。
そして、世界は強力で動かし難く、自分は無力だと思い込んでしまう。

ところで、夢を自在にコントロールするにはどうしたら良いのだろうか?
無理矢理は通用しない。緊張した心は創造しない。
思いのまま信じ切るなどは出来るものではない。
祈っても願っても無駄だ。

一番良いのは、コントロールしようと思わないこと。
つまり、なりゆきにまかせることだ。
そして、その中に、可能性を割り込ませると、ぱっと実現してしまう。
一度ではうまくいかないかもしれないが、何度かやってみれば、そのうちうまくいく。
だが、これには、本当にさり気なさが必要だ。
天才心理療法家のミルトン・エリクソンが、手の付けられない不良高校生をあっという間に更生させた時のようにだ。
彼は、その子が急に更生したら、みんな驚くだろうなと言っただけだった。

だが、必死で夢をコントロールしようなんて思っている間は駄目だ。

たかが恋 浅い夢なら 暁に目覚めるでしょう
~「咲き誇れ愛しさよ」(Wink)より。作詞は大黒摩季さん。~


誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる
世界的事業家、作家、自己啓発指導家である、中国系アメリカ人女性チン・ニンチュウさんの、極めてユニークな自己啓発書である。
夢のコントロール法についても、一章を割いて、極めて実際的に説いている。実例としてそれをやったのは、科学者で経営者というのも印象的だ。彼は、たった3千万円だった年収を3億円にした。
最初に、C.G.ユングが好きだったレイン・メイカー(雨乞い師)の話から入る本書は、類書と全く異なるユニークなアイディアに満ち溢れている。
新品での入手は困難だが、古書なら、良いものが安価に購入可能だ。私が最も好きで、最も実際的と思う成功哲学書である。

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2009.12.13

日本人の秘法「うけい」

西洋の成功哲学は、もちろん日本人にも有効と思うが、全く異なった歴史、文化によって持つことになった大きな考え方の違いにも注意した方が良いと思う。

欧米では、ごく近年まで、成功しなければ生命すら危ういが、成功すれば良いことだらけで、現在でも、成功というものに対する肯定的なイメージは日本とは桁違いだ。
しかし、日本では、かつての地域共生社会の風潮は、全体としては現在でも決してなくなってはおらず、むしろ成功することで地域に住み難い場合すらある。

欧米では、手段を問わず、成功すれば良いといった面も確かにあるが、日本では、アイディアやテクニックで大儲けした人を金の亡者扱いせずにいられないようなところが絶対にある。
日本では、余程の信念があるか、面の皮が厚くないと、西洋の成功哲学の理念では華々しい成功はできない。

では、日本人は日本人にあった方法で成功すれば良いのである。
西洋では、金や力は正義であるが、日本ではそうではない。真、善、美が正義であり、それがあってこそ、他人はもちろんだが、自分の成功すらやっと受け入れることが出来る。逆にいえば、正義なく成功しても、周囲の反発や自らの葛藤ですぐに転落するのである。
では、日本人に相応しい成功法とは何か?
実は、古事記にはっきり書いてあるといえば驚くだろうか?
けっして、特別の読み方をしないと分からないような書き方ではない。
それは、「誓約」である。「うけい」と読み、古代日本で行われた一種の占いである。
以下に説明する。

私の認識では、古事記では、誓約の場面が4つある。最も有名なのは、最高位の女神である天照大神(アマテラスオオミカミ)と、その弟である須佐之男命(スサノオノミコト)の間で行われたものであるが、これは実はやや変則的に行われたもので複雑なため、別のもので説明する。
天照大神の孫であるニニギが、天界である高天原(タカマガハラ、あるいは、タカマノハラ)から地上に降りた、いわゆる天孫降臨をするのだが、そこでニニギは、木花咲耶姫(コノハナサクヤビメ)という、地上の神の娘である可憐な乙女に出逢う。
ニニギはコノハナサクヤビメに一目惚れし、妻にした。そして、コノハナサクヤビメは身ごもるが、ニニギは、その子は自分の子ではなく、どこかの地上の神の子であるに違いないと言う。
怒ったコノハナサクヤビメが誓約を行う。
コノハナサクヤビメは、大きな御殿を作って、その中にこもり、内側から塗り固めてしまう。そして、出産の時には火をかける。子供がニニギの子であるなら、必ず無事で生まれると定めた誓約であったのだ。
子供は無事に生まれ、コノハナサクヤビメの潔白は証明される。

誓約では、「もしこうであるなら、こういう結果になる」と定めるのが決まりである(天照大神と須佐之男命の誓約では、結果の方を定めずに行った)。
コノハナサクヤビメの場合は、「もしお腹の子がニニギの子であるなら、どんな状況でも無事に生まれる」である。
この「もし」のところには、心の正しさといった、正義や善が表されるのが良いと思われる(単に事実を占う場合もある)

例えば、「もし、私の歌が人々を勇気付けるのであれば、私は歌手として成功する」といった誓約が考えられる。
西洋の場合は、とにかく歌手として成功するというのが成功哲学だ。この方式では、日本人は成功し難い。
先にも書いたが、西洋では、成功そのものが善であり正義であり、人は楽しむ権利があると信じられているからである。
しかし、日本では、成功し、楽しみを得るには、それに値する正しさ、心の美しさが必要なのである。ホリエモンがバッシングされる訳がお分かりと思う。

西洋式の成功法則でなかなか成功しないなら、誓約を行ってみると良いと思う。
そうすれば、心の葛藤が起き難く、自然に成功できる。
また、自分の願いが、誓約に値しない、幼い、あるいは、自己中心的なものでしかないことが明らかになり、実に有益であると思う。


本日は、明治、大正、昭和に渡って活躍された児童文学作家、鈴木三重吉氏による「古事記物語」をご紹介します。
鈴木三重吉氏は、子供達に美しい童話を授けることに使命感を持ち、自らも優れた作品を書くと共に、世界中の童話を紹介しました。
古事記は、そのまま翻訳すると、そこに意味はあるのですが、難しい固有名詞が延々と並ぶ箇所も多く、当惑したり退屈に感じるところは確かにあります。また、やや露骨な性的描写もあり、これらは、特に子供に読ませる上で問題があります。
鈴木三重吉氏は、実に美しい言葉使いで、古事記を、古事記らしく格調高い見事な文学作品にすることに成功しました。これは、子供はもちろん、大人が読むにも素晴らしいもので、私も愛読しています。
現在、3種類も出版されている通り、その価値は高く評価されています。
この端正で美しい文章は音読にも最適で、我々の精神を高めてくれるはずだと思います。
現在出版されている3種類を以下にご紹介します。






原書房版。ハードカバー版で文字も大きく、小学生からお年寄りまで楽しめます。

全ての漢字にフリガナが付き、私も有り難く思い、手放せない1冊です。




PHP研究所版の新書です。




角川ソフィア文庫版。持ち歩くのに最適な文庫本です。

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2009.12.12

ランドセルは必要か?

私は、テレビはあまり見ないのですが、ランドセルのCMを何度も見ました。そして、不本意ながら、不快感や怒りを感じてしまいます。

私は、割に最近まで、ランドセルの値段を知りませんでした。
甥っ子、姪っ子が小学校に入学する時になってやっと分ったのですが、高価であることに驚きました。
安いもので3万円前後、テレビで宣伝するものなら5万円前後。それ以上のものも珍しくはありません。

小学校に入る子供に、そんな高価なものが必要なはずがないと思います。そもそもが、ランドセル自体が良いものとは思えません。
しかし、恐ろしいもので、甥っ子や姪っ子に、積極的に、そして、なるべく良いものを買ってやろうという気が起こります。
少なくとも、誰しも、顔馴染みである自分の親戚の子供、ましてや、自分の子供に、他の子より劣るものを持たせたくないとは思ってしまうものかもしれません。これは美しい心情でしょうか?あるいはエゴでしょうか?

ところで、ランドセルとは何でしょうか?
Wikipedia等を見ると、兵士用の背負いカバンが基になっているようで、それをオランダ語でランセルと言うのがなまったとあります。
ランセルにも色々な種類がありますが、まさにランドセルと似たものも確かにあります。
明治時代に、当時は官立学校(国が設置した学校)であった学習院で、子供達の体力作りのために歩いて通学させる目的で、背負い式のカバンが使われるようになったようです。
そして、伊藤博文が後の大正天皇の小学校入学の際に献上したことから全国的に普及が始まったとあります。

背負い式カバン自体は、教科書等を入れて運ぶにはバランスの点で良いのかもしれませんが、背負い式カバンが通学用に使われるドイツやイギリスでも、日本のランドセルのように高価で高級なものは使わず、子供用リュックサックのような簡素な素材で出来ているようです。
また、多くの国では、日本の小学校のように重いものを持って通学することはなく、アメリカなどはほとんど手ぶらで通学します。よって、手さげバッグで通学する場合が多く、それぞれが思い思いのカバンで通学する国も少なくなりません。荷物の多くない国では、通学カバンとして背負い式のものは人気がないようです。それはそうだと思います。背もたれのある椅子では外さないと座り難いですし、そもそも着脱が不便です。また、電車の中など、人ごみでは回りの迷惑になります。子供でなくても、電車の中でリュックを背負い、周りに迷惑をかけているのに平気な人が沢山いますが、これも子供の頃にランドセルを押し付けられた影響かなと思ったりします。

学校によっては、ゆとりのない家庭に配慮し、全員同じランドセルを一括購入するところもあります。
本来は、全員が同じものを使うのは、個性を育てないという意味でよろしくないのですが、こうまで高価であると、私も賛成するしかありません。しかし、それ以前に、なぜランドセルなのか?また、なぜ子供に重い荷物を持たせて通学させるのかを考えた方が良いと思います。
ドイツやイギリスのように、簡素な素材で機能的なものを誰かが作って流行らせればと思います。
いえ、ひょっとしたら、学校がランドセル使用を義務付けているような気もします。そして、大人も子供も、それに何の疑いももたず、当たり前のこととしている。学校を利用した、国家による強力な思想統制(洗脳)の手段となっていることは確かです。
では、自由に考え、賢くなる一歩として、ランドセルの存在を疑い、これを無くす方向に持っていくべく考え、話し、行動することが大事であると断言します。


ぼくたちの洗脳社会
最近では、ダイエットで有名になってしまった岡田斗司夫さんのかつての名著。
「新世紀エヴァンゲリオン」で有名なガイナックスの元社長で、元東大非常勤講師でもある岡田斗司夫さんは、社会が洗脳者と被洗脳者の関係で成り立っていることを昔から訴えていました。
世界の隠れた実態を知る本として優れており、お薦めいたします。
岡田さんのダイエットの本の副題に「いつまでもデブと思うなよ」と書かれていますが、この本には「いつまでも支配者に騙されるなよ」と付けたいものです。

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2009.12.11

ケルト文化と日本文化

ケルト人とは、ケルト語系と総称される言語が話される国の人々のことで、現在では、アイルランド、スコットランド、マン島、ウェールズ、及びブルターニュといった国々がそれに当たります。
ケルト人は、1つの定まった国があるわけでもないのに、古代から現在に至るまで民族意識を持ち続けるばかりか、ケルト神話やケルト音楽などの世界中の多くの人々を虜にする文化を持っています。
やはり祖国を持たず、放浪と迫害の苦しい歴史を耐え抜いた民族にはユダヤ人があります。
ユダヤ人は、科学の重要な理論を構築した天才科学者を多く輩出し、ビジネスでも、世界経済を支配すると言われるほどの力ある者が沢山います。また、一般の人においても、ユダヤ人は頭脳が優秀であると言われます。
このように、ユダヤ人には知恵と力のイメージが強いのですが、ケルト人には芸術等に、深い精神性を感じます。

対して、日本人は、古代から、海に囲まれた1つの島国に住み続けていますが、現在では日本人の多くが日本人である自覚を失い、愛国心も希薄になってきているように思われます。ただ、それは政治的な理由も大きく、日本人が自ら祖国をないがしろにした訳でもないように思われます。
しかし、ケルト人や、あるいは、ユダヤ人のことを考えると、民族としての強さ、豊かさは、国家体制ではなく、文化や精神性によって決まるのかもしれないと思います。そして、実際に日本はひ弱な国に成り下がり、そして、ますます、崩壊に向かって進んでいるように感じられてなりません。

ユダヤ人は、そもそもがユダヤ教を信仰する人々のことであると言われるほど、ユダヤ教を固く守り続け、聖典タルムードの権威は衰えません。
ケルト人もまた独特の宗教を持ち、それは自然崇拝の多神教でした。確かに、キリスト教が普及した時代もあり、現在では、独自のキリスト教を信仰する人々も増えているようですが、独自の文化は生き続けています。

日本にも、かつては、海外から賞賛される独自の文化がありました。
宗教においては、現在はほとんどの日本人が仏教徒ですが、実質的には無宗教と言って良いかもしれません。しかし、多くの日本人が新年の初詣や子供の七五三には神社にお参りをし、家を建てる時には神主さんにお祓いをしてもらう等、ごく自然に神道の行事が行われています。
日本の神道は、宗教というよりは民族信仰と言った方が良いのですが、ケルトの宗教と同様、自然崇拝の多神教と言えます。そして、神道には共生の心があり、仏教や儒教、あるいは、道教と結びつきましたが、神道としての独自性は失っていません。
現在、神道は、宗教としては普及しているとは言えませんが、上にも述べました通り、日本人にとっては、まるで空気のように自然に存在するものです。しかし、その伝統も、形骸化してきており、本質を失っているかもしれません。
その他の日本の文化も消え去りつつあります。
対して、ケルト人の文化は、最初に述べました通り、世界的な評価を持つ独自のものもあり、決して失われる様子はありません。

日本という国がなくなっても良いというのも1つの考え方ではありますが、もし素晴らしい国として存続を願うのであれば、やはり風土や伝統に根ざした独自の精神性や文化がなくてはなりません。
日本の文化は、ユダヤ文化やケルト文化のように、何かに集中したものがなく、柔軟に外部のものを取り入れ、独特ではあっても、複雑で分り難い面もなくはありません。しかし、やはり非常に素晴らしいものがあり、海外からの訪問者を虜にする場合も少なくはありません。ただ、日本人にとっては、やはり空気のように自然なことであるせいか、文化の継承のための特別な努力をしなかった点があるかもしれません。
そして、第二次世界大戦で敗戦国となり、日本の伝統文化を否定されて西洋文明を押し付けられ、精神的にも西洋崇拝に陥ってしまいました。
葉室頼昭さんのように、神道を通して日本文化の復興に尽力された方もいますが、何が日本本来の文化であるかというと難しいところが無いとは言えません。葉室さんは、世界最高の形成外科医として活躍する傍ら、50歳を過ぎてから神道を猛勉強し、春日大社の宮司にまでなると共に、全くの無報酬で数多くの著書を書いて神道の教えを分り易く説きました。

現代日本の最高の思想家である、吉本隆明さんは、国家とは実に民族の中の幻想であると言い、「共同幻想論」という歴史的な思想書を書きました。
それでいえば、ユダヤ教も、ケルト文化も、神道も、民族の中の共同幻想であるということになります。
ただ、特定の支配者の都合、あるいは自我により国民に植え付けられた幻想ではなく、自然に民族の潜在意識に刻み込まれた伝統文化であれば、やはり民族にとって自然で、幸福に繋がるものかもしれません。

尚、葉室頼昭さんは、「古事記」を読むことと、神道の祝詞である「大祓詞(おおはらえのことば)」を唱えることを強く薦めておられました。
私は、葉室さんの本の大半を読んで納得し、今年、大祓詞を5千回以上唱え、「古事記」も何種類か読みました。
「古事記」は、一見御伽噺のようですが、深い意味が込められているのだと思います。しかし、それが分らなくても、心の中に感応するものがあるようです。最近では、素晴らしい気付きも得られたように思います。
大祓詞は、最初の頃は、一日一回唱えるのもおっくうで、唱えるのを忘れてしまうこともありましたが、現在は、これを毎日十回唱えるのが至福の時になっています。
一頃、日本政府が国民の思想統制のために作り上げた国家神道ではなく、教義も聖典も持たない、自然と共生する日本人に息づく神道の心を学ぶことで、我々は日本人らしさを取り戻し、独自でありながら世界に優れた影響を与える国になるかもしれません。


「神道」のこころ
春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんの、おそらく一番最初の著作です。これほど、神道を形式ではなく、その真髄を分り易く教えてくれる人はいないと思います。
葉室さんの他の本も読んでいただければと思います。葉室さんは、数多くの神道の本を書き、ほとんどがベストセラーでありながら、報酬は一切自分のものにしなかったようです。

大祓 知恵のことば―CDブック
私も、大祓詞を、この本とCDで始めました。
この本に書かれた葉室頼昭さんの「大祓詞」の説明や、唱え方は読んでおかれることをお薦めします。

ケルト妖精物語
アイルランドに何世紀にも渡って語り継がれる民話の中から、特に妖精に関するものを、W.B.イェイツが編集した名著です。
イェイツは「20世紀最大の詩人」と言われるノーベル賞も受賞(1923年)したアイルランドの詩人・劇作家で、自らをケルト人であると言っていました。イェイツは日本の能に魅せられ、劇に能の手法を取り入れていました。

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2009.12.10

デジャヴが理解できれば世界を自由に創造できる

デジャヴ(既視感)というのは面白い感覚だ。
実際には体験していないのに、体験したことがあるように感じることだ。
多くの方が何回か、あるいは、かなり頻繁に体験していることと思う。

心理学や神経科学では、デジャヴを解明することはできないと思う。多分、錯覚としてカタをつけ、錯覚のメカニズムを説明するのだと思う。
説明できるとしたら、量子力学においてになると思う。
なぜデジャヴが奇妙に感じるかというと、我々に時間感覚の幻想があるから・・・早い話が、時間に関する嘘を信じているからだと思う。

なるべく分かりやすく説明したいと思う。
我々は、体験したことを記憶する。だから、後でその記憶によって、「あんなことがあったなあ」と言う。
しかし、記憶が先にあって、体験が後に起こるとぎょっとする。これがデジャヴだ。
つまり、体験と記憶の順序が逆になっているのである。
なぜこんなことが起こるのだろう?

我々は心で想像したことを外の世界に投影しているのである。だから、本当のことを言うと、記憶が先にあるのが当たり前なのだ。しかし、創造の記憶は隠されてしまうのだ。
目の前で現実が展開された時、我々はそれを心の中の関連した記憶と結び付ける。例えば、叔父さんに逢ったら、幼い時におもちゃを買ってもらったことを思い出すようにだ。しかし、叔父さんを、その場その時に出現させる想像をした心の記憶は隠れてしまっているのである。だから、自分が叔父さんを出現させたことに気付かない。だが、叔父さんは、あなたの心の許可なく出現しないのだ。

UFOというものを知らない人にはUFOは出現しない。彼の心にはUFOを認識する記憶情報がないからだ。
江戸時代末期に日本に来た、ペリー艦隊である黒船が多くの日本人には見えていなかった。また、コロンブスが乗った船がアメリカに付いた時、アメリカの原住民には、コロンブスが乗った船が見えなかった。そんな大きな船の記憶情報が、当時の多くの日本人や大半のアメリカの原住民になかったからだ。
心の中で想像できないことは、外界に現れない。
幽霊がそうだ。心の中で幽霊を想像できる人に対してのみ幽霊は現れる。
UFOを想像できる人は、UFOを作り出すことができる。それは客観的に外界に出現し、写真に撮ることも可能だ。しかし、その人の前にUFOが現れても、その場にいるUFOを想像できない人には見えないのである。

「天使も悪魔も、人の心の中にしか存在できないのよ」
~アニメ「ぴたテン」(コゲどんぼ原作)の天使の早紗(さしゃ)の言葉~

我々は何かを見ると、それと関連した馴染みの記憶を呼び起こす。そのために、我々は、時が経つにつれ、一定の記憶を強化し、根深い偏見を持ったり、慣習的な考え方に縛られるようになる。年を取れば取るほど頭が固くなる理由はそれだ。
だけど、何かの拍子で、心が澄み切っている時には、心は、出来事とそれに関連する心の中の慣習的な記憶を結び合わせ損なってしまう。その時、出来事を創造した記憶が浮かんでくることがある。それがデジャヴなのだ。
デジャヴが起こる時は、心が活発に活動していないはずだ。頭がからっぽで、何も考えていない一瞬に起こるのである。

それで、記憶が先にあって、体験が後になるという現象になる。
しかし、これでは、驚くべきことではあるかもしれないが、単に、予想や期待が実現したという程度の感覚で、さほどには奇妙に感じないものだ。
例えば、3本の切り株の、真ん中のものに石を投げて当てようと思ったとする。
見事命中したら面白いと思うし、当てるのが難しいほどの距離や的の小ささであれば驚きも感じるかもしれない。しかし、奇妙とは思わないだろう。
しかし、何も考えずに石を投げたところ、どれかに当たったとする。そして、実は当たった切り株を狙ったことを後で思い出したら不思議な感じがすると思う。
「あれ、確かに私は、今当たった的を狙ったように思う。しかし、本当にそんなこと考えただろうか・・・?」
デジャヴとはそんなものだ。
なぜそんなことが起こるかと言うと、我々は、時間というものが存在し、それが過去から未来に流れていると感じているからだ。しかし、それは実は幻想なのだ。時間なんて本当は存在しない。時間も心が作り出した幻想だ。実際は、後先なんてものはない。

心が静まっている時、我々の意識は時間の束縛を離れる。その状態で、記憶や体験を意識したとする。
その時、不意に「正気に」戻ったとする。心はまだ活発に働いていないので、関連の記憶を呼び出さずに、出来事を作り出した記憶を少しだが見てしまう。しかし、時間感覚は戻っているので、記憶が後にあるように感じて驚愕する。これがデジャヴだ。

イツァク・ベントフの「超意識の物理学」という本に、これと関連した面白い実験が載っている。
目を閉じ、心を静かに落ち着かせて、かつて訪れたことのある場所の光景を心に思い浮かべる。その時、薄目を開けて時計をそうっと見てみる。すると、時計の針が止まっていたり、ひどくゆっくり回っていてぎょっとすることになる。

デジャヴは、心が世界を創り出していることを認識する手がかりになる。
私なんて、1日24時間、デジャヴにすることだってできる。気持ち悪いからやめているけどね。
デジャヴの感覚を憶えておけば、世界を自由に創造するコツも分かってくるだろう。楽しいことである。
実を言うと、聖書や我国の古事記なんて、そんなことが沢山書いてあるのだが、普通の人にはそのことが分らないので、聖書や古事記は意味が分らんということになるのである。

ここに書いたことを頭の片隅にでも置いて、新約聖書や古事記を読んでみて欲しい。
そうすれば、世界を自在に創造する方法も分ってくるだろう。

いくつかの古事記や新約聖書の現代語訳を読んだが、いずれも最高の研究者による、驚くほど分りやすいと思った2冊をご紹介する。
また、本文で取り上げた名著「超意識の物理学入門」も併せてご紹介する。

現代語訳 古事記
小説家、詩人である福永武彦氏による、高く評価されると共に、最も分りやすい古事記の現代語訳と言われる名著。
福永武彦氏は、フランス文学にも詳しく、また、「モスラ」の原作者の1人でもある。
本書は、ややもすると退屈に感じる古事記を面白く読ませる配慮にも満ちているが、文章表現には、古事記の雰囲気を大切にしていることが感じられ、福永氏も「原典のリズムを伝えることに重点を置いた」と書かれていて納得した。無条件にお薦めできると思う。

新約聖書 福音書
無協会派の新約聖書研究家として著名な塚本虎二氏の翻訳。
1963年に書かれたものだが、これも分りやすいことに驚く。純粋に新約聖書を深く研究した著者が素直に訳したことと、適切な言葉を最低限補うことで意味が分り易くなっているのだと思う。

ベントフ氏の超意識の物理学入門
イツァク・ベントフの世界的ロングセラー。幼稚園中退の華々しい学歴を持つ天才医療エンジニアのベントフ氏が、宇宙、生命、意識の謎を解き明かす。

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2009.12.09

学ぶほどに世界は混乱する

翻訳に関わったことのある者なら、その限界を感じているに違いない。

ゲーテやイェイツなどの偉大な詩人の詩を翻訳で読んでも、それはすでに半分以上、翻訳者の詩であると思って良いのではないだろうか。
高遠な思想や哲学なども、翻訳される際に、大部分が歪められてしまう可能性があると思うし、それらの奥深くにある重要なもののいくつか、あるいは、大半が失われることもあるに違いない。
写真で言えば、微妙なコントラストに意味がある美術品も、性能の低いレンズで撮影すれば平均化されぼやけてしまうようなものだ。ドイツのカール・ツァイスのレイズが高価なのは、解像度よりもコントラストの再現性が高いからだ。

それなら、苦労してでも原語で読めという人もいる。日本人なら英語はある程度は学んでいるはずだから。
しかし、ほとんどの場合、低い英語能力で原文を読むのに比べたら、専門の翻訳者が訳したものを読むほうが数百倍マシと思う。
プロが訳したものに50パーセントの齟齬があるなら、英語に慣れていない者が読んだら90パーセントの誤読で済めば奇跡ではないだろうか?

同じ日本人が日本語で書いたものですら、著者の真意の30パーセントも伝わらないものなのだ。
ましてや、言葉の問題だけでなく、環境や慣習といったバックグラウンドの全く異なる人の書いたものなど、まともに理解できると考える方がおかしいと思う。

これらのことは、もちろん、技術書のようなものは含まないが、ご存知と思うが、日本の役人が書いた我が国の法律を外国語に訳した場合は、この程度で済まない。日本人にさえロクに理解できないのであるから。
尚、日本国憲法は翻訳なのである。日本人が作ったのではない。解釈に大きな相違が出るのは当然である。

しかし、だから翻訳を読むなというのではない。
翻訳を読むなら、そんなものだと認識して読めば良い。
そして、大切なのは、自分の考えであるのだ。何かを学んだ後、自分が何を知り、自分の考え方がどうなったかに注意しないといけないのだが、学校では、そのようなことは決して教わらなかったはずだ。ただ、権威ある知識や考え方を憶えさせられただけではないだろうか?
そして、世界は、自分が知ったことや考え方を反映するものだ。世界に違和感があり、心地良くないなら、我々の知ったことや考え方がおかしいのかもしれない。世界と自分の心をよく観察してみることだ。

ある程度客観的と思われる科学や技術は大いに学ぶべきである。
ただし、それすら、ある程度の疑いの気持ちを忘れてはいけない。
技術は古くなるし、科学は間違いがバレることも多い。
ただ、時代を超えて生き抜く真理もある。それを見出したいものであるが、それは我々の内側にあるのだと思う。大切にしないといけないのは、我々の内側にあるものである。


自己信頼
著者エマーソンは、幼い時ですら、教会の権威に疑いを持ち、闇雲に従うことを拒んだ。それが悪魔のやることとと言うなら、悪魔になり切ろうと思ったと言う。そんなふうに自己を信じることは、アメリカの学校でも日本の学校でも決して教えていない。だが、本当は、あなたもそんなふうに生きたいのではないだろうか?

精神について (エマソン名著選)
上にご紹介した「自己信頼」を含む、エマーソンの9つの論文。やや難しい翻訳であるが、本文に書いたことからも考えられるように、異なる翻訳を読むことには意味がある。
また、本書の最初の「歴史」は、これまで見たことも聞いたこともない教えであるが、私は驚愕と感動を憶えた。そして、これは自己信頼を増す上でも非常に有益な考え方と確信した。

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2009.12.08

晩節を汚す原因は

晩節を汚すという言葉があります。
高く評価されてきた人物が、年をとってからの不名誉な失敗でイメージを失墜させることを言うのだと思います。
そのような言葉が一般的であるということは、成功した人間ほど、晩年に過ちを犯しやすいということではないかと思います。
栄光に輝いたスポーツ選手なら引退してすぐの過ちで、栄光を台無しにすることもあり、さほどの年でなくても晩節を汚したと言われることもあります。彼らは、引退した後にどんなに偉くなっても、現役時代の活躍で評価され勝ちですし、現役復帰して再び栄光を掴むのは極めて難しいことから、そうなってしまうのでしょう。
しかし、小室哲哉さんや酒井法子さんのような場合は、まだ将来がありますし、その後の生き方によっては、むしろより偉大な人間になることもあるかもしれません。

英国の作家、評論家のコリン・ウィルソンは、同じ英国のSF作家であったH.G.ウェルズを、単にSF作家としてだけではなく、思想家、哲学者として非常に高く評価していました。しかし、そのウィルソンですら、晩年のウェルズに対しては辛らつです。ウェルズは年を取っても性欲をコントロールできませんでした。
現在(2009年12月)、Wikipediaに、晩年のウェルズの写真がありますが、相当腹が出ているように思います。実際、ウェルズは糖尿病に苦しんでいました。性欲過剰であったことと合わせ、美食、大食家だったのではと思います。子供時代は貧しく、上流階級への憧れを持ったことが悪く作用した面もあるのではと思います。

ゲーテに憧れる若者が、ゲーテの自宅を訪ね、念願の対面を果たした時、若者の顔には明らかな失望の色があったと言われます。若い頃は美青年だったと言われるゲーテも、晩年はすっかり肥満し、醜くなっていました。ゲーテが、晩年になっても若い美少女にしばしば夢中になったことはよく知られていますが、これを大詩人らしいと良い評価をする向きもあるのですが、単に飽食のせいで異常性欲になっていたのかもしれません。老人の美少女狂いなんて、いかに芸術家であっても、みっともないとしか言えません。
もっとも、ゲーテの日常についての本当のところは、ほとんど分かりません。

ゲーテは、自慢は老人の過ちなのだから、若い時は奥ゆかしくすべきだといったことを言っていますが、老人の自慢程度なら、度を超さない限り、笑って済ませることができます。
しかし、美食、飽食で肥満し、身体を壊し、女狂いになった老人であれば、過去にいかに立派なことをしていても、その評価は地に落ちかねません。
逆に、特に大したことはしていなくても、節度を守った生活をし、ましてや、自慢癖のない老人であれば、実に立派な人であったと言って良いのではと思います。
イェイツや一休禅師のように、老人になった自己の狂気に向き合うことで精神を深めた者もいると思いますが、それは別の話にしないといけないでしょう。

性欲過多は、飽食から生じると思います。食を慎んでいれば、性欲を簡単に支配できるようになります。
ナポレオン・ヒルも指摘していますが、多くの男性の失敗の原因には押さえることのできない性欲があると思います。
食を慎んでいれば、そういった致命的な失敗を避けられ、それどころか、必ず成功する要因になると私は思います。


超越意識の探求―自己実現のための意識獲得法
75歳になっても変わらぬウィルソンの探究心はすごい。それでいて、「アウトサイダー」を書いた23歳の時の初志は現在も変わらないと言います。
本書でも、沢山の超一流の人物を取り上げ考察するというウィルソンのスタイルは踏襲されていますが、年をとるごとに洞察は深まっているように思います。
尚、本文に書いた、H.G.ウェルズの晩年についても、本書に書かれています。

ゲーテ詩集 (新潮文庫)
この高橋健二さん訳の「ゲーテ詩集」は、半世紀以上の歴史がありますが、今後も永遠のロングセラーとなると思います。
彼の晩年についてはともかく、彼が人類史上最高の詩人の1人であったことも確かだと思います。


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2009.12.07

阿久悠さんの秘訣

阿久悠さんの成功の秘訣を見て、非常に印象深く感じたことがあります。
すぐに憶えられ、誰でもできることですが、注意深く考えてみますと、それが完璧なものであることが分かります。
こんな大事なことを、簡単に教えて良いものかと思いましたが、やはり良いのでしょう。教えたって、別に阿久悠さんが損をするわけではありません。
その方法とは、息を吸って止め、願望が実現した様子を思い描き、息を吐いたら全て忘れてしまうというものです。
普通の人は、最後の、忘れてしまうという部分で失敗します。私もそうでした。

息を止めると、思考が停止します。ただし、停止するのは、論理的な左脳、あるいは、顕在意識の方です。右脳や潜在意識はむしろ活発になります。
その状態は、イメージを描くのに良い状態であると共に、論理思考による批判が起こりません。つまり、「そんなこと実現するはずがない」という理由が浮かばなくなります。
さらに言えば、現実が希薄になります。どういうことかと言いますと、呼吸を止めれば生命の危機ですので、心が現実世界を維持する働きが少し弱まります。つまり、世界は揺らぎます。
世界というのは、客観的に存在するものではなく、我々が認識するものでしかありません(これは、このブログでも何度も取り上げた大きなテーマですので、分からなければ読み飛ばして下さい)。
イメージしたことは速やかに潜在意識に送り込まれます。
では、その後、なぜ忘れないといけないのでしょうか?
願望を考え続けると、結局、左脳による論理的思考に批判され、自信を失くすからです。論理的に考えて実現するような願望なら、こんなことをやるまでもなく、さっさと実現させれば良いだけの話です。
論理的には不可能か、難しい、あるいは、うまくいくかどうか分からないから、こんなことをやるのです。
いかに阿久悠さんが優れた作詞家でも、次の曲がヒットするかどうかなんて分からないものです。
一流スポーツ選手だって、これまでは勝ってきても、次も勝つなんて確証はないものです。だから、多くのスター選手が、むしろ庶民には奇異に思えるようなジンクスを大事にすることが驚くほどよくあるのです。

イメージを潜在意識に送り込む方法としては、(1)ひたすら反復する、(2)うとうとした時を利用する、(3)脳波を強制的にアルファー波以下に落とす・・・が多いと思います。
尚、マントラやじゅ文を繰り返すのは、(1)よりは(3)に入ります。
(1)は、かなり信念の強い人向けです。普通の人ではすぐに挫折します。
脳の専門家には、もっと巧妙な方法を提示する人もいますが、難しすぎて、専門の訓練を受けないとうまくいきません。
阿久悠さんのは、(2)と(3)を瞬間的に行うものです。目的意識がはっきりしている人には、実に素晴らしいものだと思います。
もちろん、これで私も奇跡的なことを何度も起こしたことがあります。割につまらないことで使いましたので、具体的には書かないでおきますが。


強くなる瞑想法
上の阿久悠さんの話は、この本の表紙の折り返しに書いてありました。
それだけ読めば、もうこの本を読む必要もないかもしれませんが、25年以上のロングセラーである本書を侮ってはいけません。阿久悠さんも、自分の方法は、この本に書いてあることと同じと書いていますから、理解を深めてから実践すると良いと思います。また、その隣には、糸川英夫氏が、この本を「魔法の杖」と絶賛しています。
成功法則を説く仏僧として有名な、無能唱元さんの本です。

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2009.12.06

天使のように軽くなる秘訣

謙虚とは、自分を低く見積もることではありません。
他人に対して、自分が劣っていると思うことでもありません。
現在の自分が本来の自分でないことを認識することです。
自分は、いくら高く見積もっても構いません。
極端に言えば、神様だと思っても差し支えない。実際にそうなのですから。

対して、慎みとは、欲望を捨てることです。
欲望とは重力です。
捨てれば軽くなります。
ある世界的な作家は、天使が飛べるのは自分は軽いと思っているからだと言ったようです。
これを、天使は自分を重要視していないという意味に解釈した人もいます。
確かに、最も大きな欲望とは虚栄心です。それを捨てれば、最も軽くなり、空だって飛べます。

虚栄心を捨てるのは難しいものです。
年を取った立派な人格者が言います。物欲などの大方の執着は捨てられたと思う。しかし、名誉欲だけはなかなか捨てられないと。

昔から、「心が軽くなる」とか「重荷を背負う」といった表現をよくしますが、これは人間の実感です。
また、仏教で、死と人間の完成を共に成仏と言うように、西洋では昇天と言いますが、これも欲望を捨てて重力の支配を免れたことです。
日本でも昔から、神人が空中に浮かんで消える伝説がよくあります。

食を慎めば、当然身体は軽くなります。それとは別に、心も軽くなります。
不自然なダイエット食では、仮に痩せても身体も心もかえって重くなります。痩せればいいってものではありません。
さらに、性欲や物欲が消える度に、どんどん軽くなります。
私は、ニサルガダッタ・マハラジがよく人々に指示していたように、「私は在る」という感覚を持ち続けていましたら、階段を下りるとき、まるで重力が消えて、そのまま空に浮かんでしまうのではないかという気がして驚いたことがあります。我々が最終的に確信できることは、「私は在る」ということだけです。それにしがみ付く限りは欲望はありませんから。


アイ・アム・ザット 私は在る―ニサルガダッタ・マハラジとの対話
煙草屋を営む、貧しいただの老人は、実は驚くべき賢者だった。彼の存在が知られるようになると、小さな街の裏通りにある、彼の小さな家には世界中から人々が訪れた。
最終的な解脱のための教えも説くが、問われれば、ごく世間的なことや、親との葛藤についても、驚くべき英知で答えた。
よって、1973年の出版以来、現代随一の聖典と絶賛される本書は、あらゆるレベルの人間に有益であると思う。

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2009.12.05

ただ1つの願い

ただ1つの願いが叶うなら、何を望むでしょうか?

家や車や宝石やドレスといったものは、特殊なものでなければお金があれば手に入ります。
そして、お金は、優れた能力があれば、後はいくらかの経験とノウハウがあれば沢山稼げます。
ただ、お金は、持つ者に知恵がなければ不幸をもたらすことも多くあります。

旧約聖書では、古代イスラエルの王ソロモンは、夢の中で神に願いを聞かれ、知恵と答えました。その答に神も喜び、彼は「ソロモンの知恵」と呼ばれる至高の知恵を得ました。
ところが、新訳聖書によると、イエスは、自分がソロモンに優ることを宣言しています。
そのイエスは、「信じる者はなんでもできる」と言いました。
またイエスは、難病患者や悪魔付き(精神障害者と思われる)を治癒させるのは、病人本人、あるいは、病人の治癒を願うものの信仰であると言っています。ここでの信仰とは、イエスが治してくれることを信じて疑わない心と思われます。これは今日でも、薬の効果は大半がプラシーボ効果、つまり、それを飲む者がそれで治るという思い込みによるものであることや、暗示療法で病気の治癒が実際に起こることはよく知られています。

さらにイエスは、弟子達の前で、海の上を歩いて見せ、感動したペテロが「主よ、私にも海の上を歩くことをお命じ下さい。あなたが命ずれば私にもできます」と言うと、イエスは「私は命ずる。来い」と言い、ペテロも海の上を歩きます。しかし、風で波が起こり、恐くなったペテロが自信を失って沈みかけて助けを求めた時、イエスは彼の信じる心の弱さを叱りました。
イエスは、数々の奇跡を起こしましたが、自分の行ったことは誰でもできると言いました。
そのために必要なものは信仰、つまり、信じる心のようです。
信じる心があれば、どのくらいのことができるとイエスは言ったのかと言いますと、イエスは、「あの山に、動いて海に入れと命じ、その通りになると信じて疑わないなら、そうなる」と言いました。これは、信仰が強ければ、叶わぬことは無いということを象徴的に言ったものと思います。

合氣道の最高位である藤平光一さんは、毎日鏡を見て、「お前はますます信念が強くなる」と念じているそうです。あれほどの人物が、信念をそれほど大切に思っているのです。
信念とは、「固く信じて疑わない心」であり、それが特に神仏や何かの教えを対象とした場合を信仰と言うような感じですが、特に違いはないと思います。

普通の人間の信念は弱いものです。そのため、将来が不安になり、他人を恐れ、自分を取るに足らないものと感じます。
それで、安心を得ようと、学歴や地位、肩書き、そしてお金を得ようと必死になり、他人を蹴落とすことも平気になってしまいます。
しかし、思いのままにそれらを得ることはないですし、たとえ一時的にうまくいって傲慢になることもありますが、不安は去らず、さらに沢山のものを求めます。

しかし、信念があれば不安がなく、よって、普通の人のように、不安からものを渇望することがありません。しかも、必要なら何でも手に入れることもできます。
信念が強くなれば、心は不動となり、雄大な人間になります。そうなれば無敵であり、ものへの執着がなくなります。

ここで最初の問いに戻れば、私の答はやはり信念となります。敢えて言うなら、冷静な信念ということです。
それを得るには多くの道があると思いますが、上にも書いた通り、強い信念を持てば、もはや無敵と言って間違いないと思います。


信念の魔術
1948年に書かれた、成功哲学の古典的名著。素朴で誠実な語り口と、元々は事件記者であたっという著者の冷静で客観的な態度に好感が持てます。
取り上げられている成功の事例は、例えば、ジョセフ・マーフィーの本とはやや違い、非常に具体的で、その気になれば調査可能なほどのものです。また、著者自身、実業界に転向し、巨万の富を得て、彼の言う信じる力を証明しています。

自己信頼[新訳]
160年以上に渡って読み継がれる、アメリカ最大の思想家ラルフ・ウォルドー・エマーソンの至高の知恵の書の読みやすい新訳です。
上に紹介したブリストルも、エマーソンの言葉を度々引用していますが、信念の根幹は自己を信ずることであり、そのためのエマーソンの神的な知恵を借りるのは、読者に対して誠実と言えると思います。エマーソン自体は贅沢を嫌い、素朴に暮らしましたが、自然の中にある彼の家は素晴らしく、物質的にも不自由はなかったようです。
ブリストルに限らず、ジョセフ・マーフィーやトラインなど、多くの優れた思想家がエマーソンを尊敬し、彼の言葉を紹介しています。

マスターの教え
このブログでも何度かご紹介した、著者の情報も不明な古い本ですが、斎藤一人さんの本を読むと、明らかにこの本からの引用のあるものが、私の分かる範囲で2冊ほどありました。
著者は、マスターと呼ばれる驚くべき人物から学んだ教えの効果を読者に確実に伝えるよう注意してこの本を書いたことがよく分かります。普通の人は、願いを叶えるための難しい方法しか知りませんが、マスターは易しく確実な方法を知っているだけで、自分は少しも偉くも優れているわけでもないと言います。

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2009.12.04

インナーマッスルと無意識

以下の文章を書いているうちに、これは実に重要なことであると気付き、自分でも興奮を感じました。
なぜなら、少食の達成や、それに伴った健康やダイエット、そして、心の平和や願望成就等に対して大きなヒントになると思えたからです。


インナーマッスルという言葉をよく聞くようになりました。
インナーマッスルとは、アウターマッスルに対する言葉で、アウターマッスルは普通に言う筋肉を指します。
対して、インナーマッスルは、身体の深部にある筋肉のことのようです。
日本語では、インナーマッスルを内筋、アウターマッスルを外筋と言うことが多いようです。

ただ、インナーマッスルとアウターマッスルには厳密な区別がないとか、インナーマッスルというものは実際には何なのか、はっきりとは分らないと言われることもあります。

私は、アウターマッスルとインナーマッスルの関係は、意識と無意識の関係に似ていると思います。
意識という言葉を、表に現れた意識である顕在意識と潜在意識に分けることもありますが、ここでは、表に現れた部分を単に意識と呼び、奥に隠れた部分を潜在意識と呼びます。
意識は自分の自由になりますが、無意識はそうではありません。例えば、高い場所が恐いというのは無意識から来ていますが、意識の力で恐がらないようにしようとしても無駄なことです。
心理学的に、無意識の方がはるかに大きく、強いもののようです。
同じく、インナーマッスルは自分で制御できないものですが、実に重要なものであると思います。
私は、普通に言う筋肉であるアウターマッスルをあまり多く身体に付ける必要はないと思っています。
我々はともすれば、クリスタルカットと言われるようなくっきりとした胸の筋肉や、いわゆる割れた腹筋を有難がりますが、プロの格闘選手や優れた健康指導家からは、それらは実用的でないし、必ずしも健康に良いものではないと言われることもよくあります。
対して、例えば、マイケル・ジャクソンがミュージック・クリップ作品で、スーパーモデルのナオミ・キャンベルと共演した時に見せた身体は、全く筋肉質ではありませんが、形も動きも実に美しいものでした。
マイケルの自在な動きは、インナーマッスルと関係する部分が多いように思われますし、彼のあの動きを可能にしたのは、筋肉の鍛錬ではなく、繊細で神経の行き届いた運動の果てしない反復訓練でした。

ロシアなどにある世界の一流のダンサー養成所でも、無駄な筋肉を付けないことは大切なことのようです。筋肉というものは、それが受け持つのと反対の動きではむしろ抵抗になり、無駄に付けると自在な動きができないからのようです。

時々、インナーマッスルを鍛えると運が良くなるという突飛な話も聞くのですが、あながち嘘でもないのではと思います。インナーマッスルが無意識と通じるなら、意識よりはるかに強大な無意識に、身体の動きを通じて何らかの影響を与えることになるかもしれないからです。
私は、インナーマッスルを鍛えれば痩せるというのは、結果としてはそうであっても、それは普通に考える運動の結果ではなく、無意識の作用であると思っています。

静かな反復運動を繰り返すことで心を静め、無意識の領域に入る方法を訓練に取り入れた武道などもあります。無意識を好ましい状態にすれば、身体や意識にも良い影響があるなら、それは実に良い訓練であると思います。
運動でなくても、マントラ(呪文)を繰り返すことで同様な効果をもたらす方法もあると思います。
そういえば私は、スワイソウという、立ってただ腕を前後に振る運動を数年間、毎日欠かさず続けていましたが、何の努力もなく、一日一食の菜食主義者となったのも、それをやっていたせいかもしれないと思うようになりました。
また、軽い運動の繰り返しは、意識だけでなく、物理的な身体の調整にも役立つという実感もあります。例えば、肩こりや腰痛への良い影響があります。

さっき書いたスワイソウは、早島正雄氏が指導する健康法である導引術で知りましたが、これを実践して、癌などの難病を治してしまった人もいるのも私には分るような気がします。私は、現在、毎日千回(朝3百回を2セット。夜4百回を1セット)やっています。関英男さんという世界的な科学者は、末期の胃癌を、スワイソウで治してしまったと言います。彼によれば、病気治しのためには、1日2千回くらいはやった方が良いらしいです。彼は、多くの奇説を唱えたことでも知られていますが、電気通信の分野での実績は大変なものを持っています。

インナーマッスルを鍛えるコツは、ただ、軽い運動を丁寧に数多く繰り返すことです。
普通の人は、運動といえば、それなりに激しくやらないといけないという思い込みがありますが、それは避ける必要があります。例えば、腰回し運動のようなものでは、私は、1回腰を回すのに5秒くらいかけたって良いと思うくらいです。ただし、きれいに回すことです。
また、腹式呼吸をゆっくりやるのも良いと思います。呼吸は普段は無意識に行っていますが、これを意識して行うことで、やはり無意識の領域に近付くことができると思います。
無意識は自分の世界を作り出すものだと思います。それならば、インナーマッスルを鍛える、あるいは、調整することの意義は大変に大きなものであると思います。

インナーマッスルの鍛練や調整は簡単です。是非、これを実践し、健康やダイエットはもちろん、あらゆる面に役立てたいものではないかと思います。

早島正雄氏の導引術の本は、私も昔から読んでいました。中国の道教や仙道の流れを汲むものだと思います。いくつかご紹介します。


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2009.12.03

まず願うこと

少し前、波動ブームというものがありました。
成功や幸福といったものの原因を波動という考え方で説明しようというものですが、まさに玉石混交(優れたものとつまらないものが入り混じっていること)という状態でした。
その頃に書かれた本だと思いますが、中島孝志さんの「波動経営」(ダイヤモンド社)という本があります。
その中で、それが波動とどういう関係があるのかまでは憶えていませんが、非常に印象に残っているお話があります。
松下幸之助さんが、講演会で、今後の企業にはダム(蓄え)が必要と言ったそうです。すると、受講していた1人の経営者が「私のところのような中小企業ではダム経営は難しい。最初に何をすれば良いのですか?」と質問したところ、松下幸之助さんは、「それは簡単です。ダムが欲しいと願えば良いのです」と答え、爆笑を誘ったそうです。しかし、それを聞いて、「まず願うこと・・・そうか!」と納得したのが、京セラの稲盛和夫さんでした。

稲盛和夫さんは、「まず願うこと」で納得したのだと思います。しかし、他の受講者はそうは思わなかったようです。
松下幸之助さんや稲盛和夫さんにはそれで良いのでしょう。なぜなら、願ったことを実現させることが出来る可能性があると考えているからです。
しかし、普通の人は、「どうせ無理」と考え、可能性を認めないことが多い。
松下幸之助さんには、このあたりの普通の人の感覚が分からないのではないかとも私は思います。
普通の人には、まず、「どうすれば、可能性があると思えるようになるのか?」の説明が必要かもしれません。
これを無理に、「可能性はある。絶対できる」などと自分に言い聞かせても無駄です。なぜなら、凡人には、それを納得する理由はないからです。百回肯定しようが千回肯定しようが同じで、むしろ、無理矢理肯定することで心の葛藤を生みかねません。

しかし、誰でも、人生の中で、奇跡的に想いが叶った時が、かならず一度や二度はあるはずです。それを思い出せるかどうかが大事ではないかと私は思います。
誰かに逢いたいと思った時、そのすぐ後に偶然出逢った。
誰かに電話をかけようと思った時に向こうからかかってきた。
そういった、なにげなく見過ごしてしまいそうなことを思い出し、想いを巡らせてみれば、それが偶然でなかったことが分かるかもしれません。
それを思い出せば、どんなこともひょっとしたら可能性があるのではと思えてきます。あくまで可能性です。わずかでも良い訳です。そして、わずかな可能性ならあって当たり前と思えるはずです。
その時に、成功への道は開けていくのだと思います。

尚、波動に関しては、かつてはやはりおかしな理論がまかり通っていたかもしれません。
意識と関連した波動については、量子物理学の中の考え方と捕え、現実世界の波動とは区別した方が良いと思います。


大きく考えるための小さな本
何度もご紹介しますが、世界的量子物理学者フレッド・アラン・ウルフの量子物理学に基いた思想書です。
「思いや考えは物質化する」ことを量子力学の考え方で説明しています。決して難しい本ではありませんが、頭の固い人にはわけが分からないかもしれません。
翻訳者の「99.9%は仮説」で有名な竹内薫さん(理学博士)は、文系の人には、本書が量子論の考え方の入門書になると前書きに書いています。実際、「量子力学が簡単に分かる」といったタイトルの本は少なくありませんが、実際によく分かった人はあまりいないと思います。その理由は、「考え方」をすっ飛ばして理論を分からせようとするからかもしれません。本書は、量子力学の思想を語るものです。
成功法則についても、本書を学ぶことでよく理解できるかもしれません。私はそう思います。

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2009.12.02

私が魔法の杖を使わない理由

実際に魔法の杖を与えられると、予想できなかったことでもないが、どう使うか、なかなか決められないでいる。
ただ、別に何もしなくても、これを持つ最大のメリットは安心だと感じる。
そして、安心を得れば、特に何かを得たり、何かをする必要もないのではないかと思われてくるのだ。
それなら、安心してさえいれば、つまり、不安がなければ、特に魔法の杖なんていらないのかもしれない。
それに、ひょっとしたら、魔法の杖なんて、不安を克服した者にのみ与えられるもののような気もする。
なかなかうまくできているじゃないか。

昔、正直者の漁師がいた。
正直者というのは、心に不安がないものだ。
それで、天狗がその漁師に術の棒を与えた。私の言う魔法の杖のようなものだ。
その棒の力は、H.G.ウェルズの小説の「奇跡を起こせる男」の能力と同じようなものだ。つまり、思ったことは何でも実現できる。
ただ、魔法や術をいきなり与えられると、使い方の加減が分らなくて、最初はその漁師も馬鹿なことをやってしまう。
しかし、だんだんとコツを掴み、術の力で魚を出すので猟に行かなくてもよくなった。欲張って、あまり多くの魚や高価な魚を出して余分な金を得ることはない。元々が欲のない漁師だし、術の棒があるなら、大金など必要もない。
しかし、人の良い漁師は、仲間の漁師のために魚を出すようになったからいけない。みんな仕事をしなくなってしまう。
そのことを天狗に指摘されて、漁師は目覚めた。
結局、漁師は天狗の仲間入りをして、漁村を去ったのだった。

私は、この話を知っていたので、他人のためと思っても、奇跡の力を使う際は思慮が必要と分るので、やはりうかつに使えない。
魔法の杖が欲しいって?
それにはまず、「幸せの青い鳥」の話でも思い出した方が良い。
人のDNAの中には、元々、魔法の力が封じられている。魔法技術や成功法則のようなものは、そのスイッチをオンにするためのもので、昔から、それに成功した者が、動機は様々であろうが、自分の方法を教えてきた。しかし、これほど個人的信念の影響を受けやすいものはなく、ほとんどの者は教えられてもうまくいかない。昔なら、衣装や装飾品や、部屋の雰囲気や音楽などに凝り、気分を高めて儀式としてそれを行うことで成果を上げたものだし、幻覚剤の使い方に通じたシャーマンの助けが大きな力になることもあった。これらは当然、リスクが伴うが、うまくいけば確かに効果は大きいに違いない。
しかし、日本人であれば、神道の祝詞である大祓詞を唱えれば、個人的信念を透明にし、本物の信念に目覚めることで神的な力のスイッチを入れることができる。まあ、外国でも、民族に伝わる同じようなものがあるのかもしれないが、日本のように神の言葉がこれほど純粋に残っている例は稀有だと思う。
いろんな人がいると思うが、大祓詞を唱え続けているうちに道を示され、それで力に目覚める場合が多いのではないかと私は思う。


ローム太霊講話集―心霊秘話
上記の、術の力を授けられた漁師の話は、この本から引用した。このような話を含め、術に至る方法、仙人になる方法、妖精と近付き援助を受ける方法等、多くの秘法が百の講話で語られた貴重な書だ。
入手の際には心して求め、謙虚に学ぶべきと思う。

タイム・マシン (創元SF文庫―ウェルズSF傑作集)
「塀についたドア」「奇跡をおこせる男」「ダイヤモンド製造家」「イーピヨルニスの島」「水晶の卵」「タイム・マシン」といった名作が収めらている。
「堀についたドア」は、上記の「ローム太霊講話集」に度々取り上げられる次元界のことを描いているように私には思わた。ウェルズ自身がその世界を覗いたことがあるのではないかと思えるほどである。「奇跡をおこせる男」は本分で取り上げた。その他の話も、面白いといえば実に面白いが、それだけでなく、文脈の中に、人間存在に纏わる実に奥深い洞察が秘められている。コリン・ウィルソンが「賢者の石」という小説の中で、主人公に、ウェルズが最も偉大な作家であると言わせたことも頷けるように思う。現代の世界的な作家にも、ウェルズこそ最高と絶賛する者は少なくないと思う。また、ウェルズは科学者で通用するほどの学識があり、実際に、科学書籍も執筆している。

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2009.12.01

人生を最高に生きる本当のじゅ文

この世というのは本質的に不安定だ。
化学的に極めて安定しているように見える物質もあるのだけれど、それも長い時間で見れば不安定だし、十分に起こりえる何らかの作用で変化してしまう。
ましてや社会、世間は不安定だ。景気や国力、人の富や健康なんてのは、ちょっと先のこととなると全く分らない。
人々の不安の原因はそこにある。
明日も、今のような暖かい住居、心地よい衣服、立派な車、胸を張れる職業とそれに伴う収入があるだろうかと不安になる。
一方で、世間知らずの奥様や坊ちゃん、お嬢ちゃんは、今の幸せが永遠に続くと思っている。しかし、彼らこそ、やがて大きな不安を抱えることになる。

法則というものは安定していると言えるかもしれないが、「現象界は不安定である」というのが法則だ。
この世で人は不安から逃れられない。

しかし、不安定であるということは、可能性があるということでもある。
実際、この世において、人の可能性は無限だ。
ヘレン・ケラーは、「人生は無謀な冒険か無のどちらかである」と言ったが、全く同感だ。
我々は、心を決めて冒険に挑むしかないのだ。
だが、多くの人は冒険をためらい、一歩を踏み出さない。
しかし、神は慈悲深い。いくら冒険を避けても、ちゃんと冒険を用意してくれる。
平穏無事を決め込んでいても、必ず予測不能なことが起こる。それは一見不幸な出来事に見えるが、本質はスリリングな冒険だ。
なぜなら、神である自分自身が、自分を表現するために仕組んだものだからだ。

偶然は密かに仕組まれた、いっそ必然?
~“Re-sublimity”(詩:KOTOKO)より~

なら、最初から、冒険を選んだ方が良い。その方が楽しめるに違いない。
いい学校に入って、良い就職先を探すなんてのはこれに反するのである。そんな道を頑なに進んでいると、ある日突然、ドカン!と何かが起こるはずだ。それは一見、災いに見えることも多い。あまりに当然なので、最初から気付けば良さそうなものだが、ちょっといい思いをしていると、大半の人はそこから離れない。いや、今がそう悪くないなら、やはり人は現状維持を望むのだ。それで言うなら、悪い状況にある者は幸いかもしれない。

「予期せぬ出来事よ来たれ」
これこそが、人生を最高に生きるじゅ文である。
そして、こう宣言する者は勇者である。

「予期できぬことでさえあれば、何事も起こることが最善だ」
~W.B.イェイツの戯曲「カルヴァリー」で、ローマ兵士がイエスに言った言葉~

「この世で一番楽しいことは何か知ってるかね?スピネル」
「何ですか?エリオル」
「予想しないことが起こることさ」
~CLAMP「カードキャプターさくら」のエリオルとスピネルの会話~

「行け!そして俺を試練に導け!」
~CLAMP原作「レイアース(OAV)」の、フェリオの言葉~


最後のロマン主義者―イエーツ訳詩集 (加島祥造セレクション)
「20世紀最大の詩人」W.B.イエーツ(イェイツ)の数多い詩の中から、英文学者、詩人、画家でタオイストである加島祥造さんの、わずか12作品しかできなかったという懇親の訳である。
著者による挿絵も美しい。
また、イエーツに関する著者のエッセイが、非常に面白い上、味わい深かった。
珠玉の詩集と私は思う。

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