鏡の心を持て
私が最近よく書いている、環境や状況のコントロールも、複雑で微妙な結果となることがある例を示す。
誰でも、学校や職場の中に、1人や2人、嫌な人がいるかもしれない。
正直、私も、今でも、苦手な人や、やや気に障るという人はいくらかいる。私の方は、そんな人達が特に嫌いな訳でもないが、あちら側が私をひどく嫌っていて、その反映である態度や行動が、未熟な私をやや悩ませることがある。
だが、そのような人達を、私はなるべくさりげなく扱うようにしているし、関わる必要がある時は、感じ良い態度を心がけている。
だが、私の爽やかなだけの態度というのは、私を嫌う人にはむしろ嫌なものであるかもしれない。見下されていると誤解されることも多いように思う。私が、もう少し愛情厚い人間であれば、彼らの心を穏やかにしてやれるのかもしれないが、残念だとは思う。
そして、大切なことは、私が平静さを保ちながら、心の中で決して彼らを嫌ったり憎まないことだ。これは、決してきれいごとを言いたいのではない。でないと、彼らを殺してしまう恐れがあるのだ。
嫌悪や憎しみの感情というのは隠せないものだし、隠そうとしない人が多いと思う。もし、嫌悪や憎悪を持ちながら相手にそれを感じさせないなら、ある意味、大した人だと思うが、そんな人は滅多にいないように思う。
私を憎んでいた人で、亡くなった人もいる。病気や怪我で済めば、まだ良い方だ。
エネルギーの大きな人間なら悲惨さは少ないように思う。エネルギーの大きな人間というのは、欠点はあっても、人の役に立っている場合が多いのだ。会社では、部長や役員に出世するような人達に多いと思う。
逆に、エネルギーの小さい人なら、憎む相手によっては、自分が重病になったり、大怪我したり、最悪、死ぬ。
「人を呪わば穴二つ」とか昔から言い、呪いは返ってくるので、たとえ呪いに成功しても穴(墓穴)は2つ用意しなければならないという意味だが、呪う相手が鏡のような心の持ち主であれば、呪いは全部返ってきて、穴は1つでも良いことになる。
会社の中で、私のような人間を憎む人がいた場合、非常に力ある人が近くにいると、彼は、憎む方と憎まれる方を分断することがある。それが最も良い方法かもしれない。
しかし、学校では、こういったことが絶望的なまでにできないし、教師の中に力ある者がいることは、まずもって無い。力ある人間は学校教師にはならない。力がないから学校教師になるのである。たとえ校長にまで出世しても、大企業で言えば、せいぜいが係長程度の器である。
今度、誰か殺しそうになったら、私が去ろうと思う。
しかし、ネット上ではそれもできない。私が嫌いなら、ここに来ないように。
とはいえ、実際は、嫌悪なんて好きの裏返しだし、憎悪なんて愛情の裏返しなのだ。
私も、子供の時、ひどく嫌っていた者といつの間にか友達になることがよくあった。
恋愛においても、最初から仲の良いカップルなんて、やがて破綻するし、下手に結婚なんかしたら悲惨なものだ。
最初は、相手を嫌なヤツと思うくらいが丁度良いのである。
すると、大勢いる、私を嫌いな人達が私を愛するようにすれば良いのだろうなあ。
しかし、私の子供の頃からの人嫌いが私の泣き所であろう。これが神の試練と言うわけである。
人を呪ってはならないし、嫌ってもいけない。いや、批判もしない方が良い。
そして、自分は鏡のような心でいることだ。
鏡のような心とは、子供のような心にも似ている。来るものはそのまま映し、去ってしまえば痕跡も残さない。それなら傷付くこともない。
荘子 上記の「鏡の心」は、この本の「応帝王編」にあるが、まさに「道(タオ)」の真髄を語った美しい詩だ。 この岸陽子訳の荘子は読みやすいし、非常に好感の持てる現代語訳だと思う。 |
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