朝青龍のガッツポーズの何を責めたいのか?
大相撲の朝青龍が、秋場所、横綱同士の優勝決定戦で白鵬を下した直後に見せたガッツボーズについて、私も少し考えを述べてみましょう。
もし、朝青龍に非があるとしても、彼のマナーや品格ということが問題なのかはやや疑問です。今の時代、いかに格式ある競技でも、プロスポーツでのガッツポーズ程度で騒ぐことはないと思います。
問題は、負けた相手への配慮がなかったということです。
日本には、敗者を思いやる伝統があり、それは日本人にとって非常に大切なものです。これがなくなれば、もう日本はなくなると言って良いくらいです。
ただ、朝青龍も白鵬も、現実問題、日本人ではなく、日本で育ったわけではなく、日本の心を強要するのはどうかとは思います。
昔、プロボクシングで辰吉丈一郎選手が、相手をKOした直後、腕を振り回し、リングを走り回って勝ち誇るといった派手なパフォーマンスを延々と見せたことに違和感を覚えた人は多かったはずです。正直言いまして、私も非常な嫌悪感を覚えました。
しかし、サッカーでゴールを決めた選手やその仲間が、例えばカズダンスのように、派手なパフォーマンスをすることは何の問題もないばかりか、むしろ、やらない方が問題なくらいです。ただし、世界的にはね。このような場合でも、日本人としては、相手チームのGKの無念の表情を見れば、やはりそのようなパフォーマンスに違和感を感じるのではないかと思います。
ドーハの悲劇と呼ばれる1993年のサッカーワールドカップのアジア地区最終予選で、日本チームは、ほぼワールドカップへの切符を手に入れていたはずが、ロスタイムにイラクに同点ゴールを決められてワールドカップ初出場を逃し、グラウンドに座り込んだ選手達の絶望の様子が今でも思い出されるくらいです。しかし、イラクチームの選手達はワールドカップ出場を逃したことで、国に帰ると鞭打ちの刑を受けたと言われ、もし、あそこで日本に負けていたら、より厳しい拷問が待っていたかもしれません。
また、北京オリンピックで、読売ジャイアンツに所属しながらも、日本戦でホームランを打って歓喜の様子をみせたイ・スンヨプには、「これで若い選手達の兵役が免除される」という理由もあったのでした。
我国には、幸い、こういった事情がありませんので、世界にはいろいろ複雑で辛い事情があるということをつい忘れてしまいます。いわゆる平和ボケです。
しかし、日本には、敗者の辛さを深く洞察し、いたわる伝統があったということを忘れてはなりません。
「あしたのジョー」という高森朝雄(梶原一騎)さん原作、ちばてつやさん漫画の伝説的な漫画があります。
正直言いまして、梶原一騎さんは、人間のクズと言われても仕方がないような部分もあるかもしれません。しかし、彼が天才的な作家であったことや、重い人生経験に裏付けられた人間に対する深い洞察があったことは疑いようがありません。
この作品の中にも、それが随所に見られますが、「敗者に対する想い」を考えるのに良いシーンがあります。
丈が紀子(食品店の娘)と、なりゆきではありましたが、初めてデートのようなことをした時です。
紀子は丈に強い好意を持っていましたし、よく考えると、丈も紀子が嫌いな訳ではないことが明らかでした。
紀子は丈に、ボクシングをやめるよう、言葉ではさりげなくであっても、おそらく心では切実な想いで伝えます。
丈がボクシングを続ければ悲劇的な結果になるだろうことは、紀子だけでなく、葉子という、やはり因縁浅からぬ女性(大富豪の令嬢。やはり丈を愛している)も感じており、葉子もまた後に丈に引退を勧めます。
紀子の言葉を丈は、わざとでしょうが無視します。しかし、紀子に返事をうながされると、丈は語ります。
拳闘(ボクシング)は弱肉強食の世界だ。噛み付かないと噛み殺されてしまうから、俺も必死で、死に物狂いで噛み付くんだ。
だが、相手の流した血に対して、とまっちまった心臓に対して、ある負い目が残るのも確かだ。
人の世には、殺した者は死刑になるという掟があるように、いまさら中途半端な形で、疲れただの、拳闘をやめたいだのって贅沢は言えないような気がするんだ。
死んだ力石、アゴを砕いて再起不能にしてしまったウルフ金串、廃人にしちまったカーロスに対してもな。
丈は、複雑な子供時代を送り、心理的には屈折していました(梶原一騎さんがまさにそうであったと思います)。
しかし、敗者に対する思いやりや尊厳の気持ちを歪んでいるなりに持っていたように思います。
それは、歪んでいるとは言っても、とても純粋です。
丁度、梶原一騎さんが、時と場合によっては子供のように純粋になるようにです。梶原一騎さんは、普段は傲慢、尊大で、ヤクザのボスのようでしたが、自分を慕ってくれる後輩や、憧れる女性に対しては実にぎごちなく対応したものでした。
紀子は、ボクシングはスポーツなんだから、死刑だの負い目などという感覚はおかしいと言います。
丈は、確かに、これは俺だけの感じ方かもしれないと認めます(ここらにも、紀子への配慮や好意が感じられる)。
紀子は、丈に、人生を楽しむように言いますが、丈は、自分は負い目だけでやっているわけではなく、やはり拳闘が好きで、それを楽しんでいると言います。そして、それは、そこらの若者のような不完全燃焼の楽しみ方ではなく、一瞬燃え上がり、後には真っ白な灰しか残らない、完全燃焼の楽しみ方だと言います。
紀子は、丈は自分にはとても手に負えない相手であることをはっきり悟ります。おそらく、丈への気持ちはこの時に諦め、それは丈にも伝わった様子でした。ある意味、紀子は丈を見捨てました。しかし、葉子は最後まで気持ちを貫いたようでした。
西との結婚式で、丈を見る紀子の表情には、何か複雑なものを私は感じましたが、ちばてつやさんの力量も、こういったさりげないところに顕れるように思います。
プロスポーツのような世界ではなくても、誰しも競争を免れることはできません。
学校では成績で争い、仕事でも、ほとんどの場合、誰かと争っています。自分では争っているつもりではなくても、自分がうまくいった時、誰かが辛い目に遭うことがよくあります。
それに気付いた時、やはり、自分のために苦しむことになる人に負い目を感じずにはいられません。
日本人は、特に、こういったことを感じる微妙な感覚を持っているのです。
今は、どちらかというと、朝青龍を擁護し、朝青龍を批判する者を批判する風潮が、この日本の中でも強いですが、もう一度、新たな目で見直したいものです。
相手を思いやる気持ちをもっと考えて見ましょう。
戦争では、敵国の捕虜を処刑することもやむを得ない場合があります。
その時、歓声を上げ、面白がって処刑を行うなら、もはや人間ではありません。
処刑は、殺す相手やその家族を思いやり、荘厳に行うこと。よほどの事情がない限り、女、子供を処刑しないこと。
これらは、いかなる国においても、人間であるなら守られているはずです。
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