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2009.10.10

神に近付くということ

ノーマン・ヴィンセント・ピールや斎藤一人さんが教える、出会う人全てに対して、「この人に良きことが雪崩のように起こります」と祈るのは、神に近付くことでもあると思う。
なぜなら、それは神の意思と一致するものであるからだ。
ただし、自分の好きな人には祈り、嫌いな人には祈らないなら、それは悪霊の意思に一致するものであるから、くれぐれもご注意を。

神に近付くことを強く実感した話として、私は、「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが書いたとされる不思議な手記を思い出す。
あるアラブ人は、家を奪われた時、家族を殺された時、そして、自分に死期が迫った時、3つの喜びの詩を作った。
彼は言う。「神の意思(choice)を崇拝するのではない。神の偶然(chance)を崇拝するのだ。その時、私は限りなく神に近付く」
これは、ニーチェの言う運命愛と同じものと思う。大宇宙の偶然を自分の意思とすることで神に近付くのである。
ただ、その偶然は、「神の思し召し」ではなく、神が振ったサイコロの目であり、神のサイコロが無限の目を持つところが我々の小さな知恵を超えている。

これではあまりに分かり難いであろうから、以下にもっと易しい話をする。

人生を全て神に明け渡し、全ての責任を神に負わせることを教えたラマナ・マハルシや、やはり、全てを神(天照大神)にまかせて安心することを教えた黒住宗忠の教えは、イェイツやニーチェと異なるように思えるが、マハルシや宗忠は、人は元々神と一体であるとしているのであり、むしろ純粋な神との合一を目指したものと思える。
特に、日本の神道では、人は神の直系の子孫であり、元々が神なのである。ヒンズー教の信仰の基である古代インド哲学も似ているものと思う。
神道やヒンズー教、あるいは、中国の道教は、宗教と言うより信仰であり、キリスト教や仏教だって、宗教としては弊害も多いが、信仰としては貴いものであることは間違いないと思う。


あるがままに ラマナ・マハルシの教え
私にも、ラマナ・マハルシが本物の覚者であることは容易に認識でき、そのおかげで、偽者を簡単に見分けることができた。
そして、マハルシは人々を苦しみから救おうという慈愛に満ちていたことを強く感じるのである。
本書の巻末に収録された「私は誰か?」という、ラマナ・マハルシとの問答集は、至宝とされる小冊子であり、あまりに貴重なものである。マハルシが21歳の時、質問に対し砂に指で書いて答えたものだ(彼は数年の沈黙の行に入っており、話すことができなかった)。約20年後に出版されたが、その際、マハルシは読者に解りやすいよう多少手を加えたが、内容そのものに変化はないと思う。マハルシは、彼の教えを理解するに、これで十分であると言う。
本書自体がマハルシとの問答集であるが、私がそうであったように、自分と似た疑問がいくらか質問されており、非常にありがたいものであると思う。


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