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2009.10.31

世界を発展させた本当の偉人

以前も書いたことがあるのだが、フォード自動車創業者のヘンリー・フォードは、トラインの“In Tune with the Infinite”という本が自分の成功の大きな要因であると言い、この本を自宅にストックし、訪問者にプレゼントしたという。

トラインとは、ラルフ・ウォルドー・トラインで、アメリカの思想家・著述家である。
トラインは1866年生まれ。この“In Tune with the Infinite”を著したのは1897年というから、トラインが30歳くらいのことだ。
そして、この本は20ヶ国以上で出版され、書かれてから100年を超える現在も読み継がれている。
日本では、まず、1966年に、新興宗教団体「生長の家」の創始者、谷口雅春氏により、重厚な文語体で翻訳されて、日本教文社より出版されている。日本語タイトルは「幸福はあなたの心で」となっている。
原題の“In Tune with the Infinite”は、無限者(神)と調和して生きるといった雰囲気だろうか?
2005年には、サンマーク出版から『人生の扉をひらく「万能の鍵」』というタイトルで、通常の口語訳で出版されている。

尚、このラルフ・ウォルドー・トラインという名前であるが、トラインは「コンコードの哲人」と呼ばれるアメリカの思想家、詩人、哲学者であるラルフ・ウォルドー・エマーソンを崇拝し、その名をペンネームとしているようだ。
大変な憧憬振りであるが、実は私も、エマーソンに関しては同様の気持ちがある。

ヘンリー・フォードに関しては、私は昔、彼の自伝「藁のハンドル」を読んだが、素晴らしい人物と思う。
当時、庶民には全く手の出ない超高級品であった自動車を、自動車工場の労働者でも買えるものにし、アメリカの自動車社会の基礎を作った。
利益のためではなく、産業界のサービスを活かす試みとして病院経営にも乗り出した(実際、利益は出なかった)。
非常に若かった私が最も学んだことは、販売やサービスを行わずに利益を得るマネーゲームをやれば、必ず破綻するというフォードの言葉だ。それは、ある意味、あまりに常識であり、特にアメリカでは、過去、何度も派手に実証されたが、金の亡者達はまるで懲りないのだ。近年では、この点に関し、日本は主人の真似を繰り返す家来のごとしである。
伝説のビッグ・ビジネスマンで、ドクター・ハマーの愛称で知られるアーマンド・ハマーも自伝で「金儲けは正々堂々とやれ」と書いているが、彼は医学生であった23歳の時には巨万の富を得、そこから彼の壮大な人生が始まっている(23歳にして、彼は青春終了宣言をする)。そして、彼のその言葉は、正々堂々でない金儲けが不幸な結果にしかならないことを示唆しており、正々堂々でない金儲けとは、まともな販売やサービスを伴わないものであろう。
天才的な脳機能学者で計算機科学者の苫米地英人氏は、著書で「情報空間で稼いだ金で、物理空間のものを買ってはいけない」と書き、その本質を見事に明らかにしている。

尚、ヘンリー・フォードの後継者のフォード2世は、優れた人物であったはずだし、会社も発展させた。フォード2世会長とリー・アイアコッカ社長のコンビの時代は、2人で全米の高額所得者の1、2位になったこともあったようだ。
フォード2世がアイアコッカの首を切った背景は、アイアコッカの自伝でしか読んでいないので、正確なところはどうだったのか分らない。アイアコッカはフォード2世を陰湿なところがある、複雑で屈折した人物と見なしていたと思う。
アイアコッカは、フォードを解雇された後、経営の危機に瀕していたクライスラーの社長になり、見事に復活させたアメリカの英雄だったので、彼のフォード2世評が人々に受け入れられたようなところもあるが、フォード2世もまた、大変な実績を持つ経営者であるらしい。また、アイアコッカも、クライスラーその他で巨額の退職金を得たりと、後にやや評判を落とした感もある。
こうして見ると、フォード2世の時代には、巨大な利益を生む自動車産業に歪みが生じ始めていたのだと思う。

アメリカの自動車産業を築いたのはヘンリー・フォードであるが、フォードを成功させたのはトラインの著書であり、そのトラインはエマーソンの強い影響を受けた。
すると、アメリカの発展に関して、ラルフ・ウォルドー・エマーソンの貢献の大きさは計り知れない。
そして、エマーソンはスウェーデンの科学者、政治家、神秘家であるエマニュエル・スウェーデンボルグの強い影響を受けていることは間違いない。スウェーデンボルグの偉大さについて、ゲーテ、カント、鈴木大拙、ヘレン・ケラーらも最上の言葉を残している。

確かに、アメリカ始め、資本主義経済社会の弊害も大きく、それは近年、とみに顕在化している。
しかし、フォードも、鉄鋼王カーネギーも、鉄道王ヴァンダービルトも、石油王ロックフェラーも、彼ら自身は世界の発展に貢献したと言えると思う。
ウォレス・ワトルズは、歴史的著書“The Science of Getting Rich”(邦訳は『富を「引き寄せる」科学的法則』他多数ある)で、彼らは役割を終えて滅びた恐竜であるが、世界の発展のために必要があって神が登場させたと言う。そして、我々は彼らの真似をする必要はなく、また、してはならないと警告する。

では、資本主義経済社会の欠点を深く認識した上での、成功法則を我々は修得した方が良いかもしれない。
私なら、この意味でも、ストックして配りたい本といえば、苫米地英人さんの「本当はすごい私」だ。
正直言って、私は、苫米地さんの、膨大な数の著書の全てが良いとは思っていない。
これも、苫米地さん言うところのスコトーマ(心理的盲点)が私にあるせいなのかもしれないが、彼には胡散臭く思える部分もなくはない。
しかし私は、彼のおそらくは最も最初の著書である2000年の「洗脳原論」の時から、彼を最大評価していた。
それに、これだけ胡散臭く思いながらも評価するあたり、その理論は本当に優れたものである。
「本当はすごい私」には、「ドクター苫米地式タイス・カード」という素晴らしいツール(10枚の名刺大のカード)が付いている。それぞれのカードには、易しい言葉ながら、誰も知らなかったような重要な言葉が書かれている。それを使いこなせば、いかなる願いも叶うだろう。


本当はすごい私
ここまで読んでくれた人に紹介する。驚異的ツールである10枚のカードが付いた、あらゆる成功哲学の欠点を克服した恐るべき書だ。


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2009.10.30

食の慎みで、想像力を支配する

かつては、1マイル(約1609メートル)を人間が4分で走ると、その者は即死するというのが医学の常識でした。
しかし、1人のランナーがこの記録に達した後では、多くの選手が次々とそのタイムを上回り、現在の世界記録は、3分40秒台です。
コロンブスの卵のように、誰かが成し遂げた後では、その難易度は絶対的ではなくなります。

一日一食というものは、実際にそんな生活をしている人がいることを知っていたり、さらに身近にそんな人がいても、なぜか多くの人は自分には無理だと思ってしまいます。
それがなぜかと言いますと、多くの資本主義国家では国民は、食を節することが悪いことであると国家やマスコミに洗脳されているからです。
より美味しいものを、より沢山食べることが善であり幸福なことであると信じ、それを疑うことが決してできません。
洗脳というものは、本能的な欲望を利用して想像力と結びついています。
例えば、君主への忠誠は、必ずしも崇高な精神に基づくものではなく、本能的な安全欲求を利用し、身の破滅の想像である悲惨なイメージと結びついている非常に強力な洗脳です。
洗脳されてしまったことに対して、いかに意思の力で対抗しようとしても無駄です。
なぜかと言えば、意思の力は決して想像力には勝てないからです。
分りやすく言いますと、地上に置かれた、幅30センチで長さ10メートルの板の上を歩き切るのは簡単ですが、これが地上5階のビルの間に渡されたものでしたら、誰も決して渡れません。その理由は人間には強い想像力があるからで、自分が転落する想像を超えて、意思の力で板の上を渡ることは不可能です。このことからも意思の力は想像力に勝てないことがよく分ると思います。

しかし、意思が想像を超えることで、人間は高いレベルに進化することもできます。
西洋の昔話に、お姫様が猛獣の折の中に指輪を投げ入れ、一人の騎士にそれを拾ってくるように命じるというものがあるようです。騎士はそれに成功し、逆に姫を捨てます。
このお話は、神話的な比喩が込められています。
ところが現実にも、中村天風という哲人が、虎の折の中に入ったという話があります。虎は天風に危害を加えませんでした。天風に恐怖心がなかったからです。天風は想像力を高度に支配できたのでした。

一日一食を実現できるなら、ある程度の想像力の支配が可能と言って良いと思います。
そうなれば、同じく想像力に支配される性欲の克服は簡単です。性欲は確かに強力ではありますが、命と直結する食欲ほどではありません。
一日一食を1年以上続けている私でも、食欲の方が性欲よりはるかに手強いのです。
私は、決して性の本能を無くした訳ではなく、性欲も相変わらず強いですが、こちらの制御など他愛もありません。
ナポレオン・ヒルは性欲の昇華が成功に必要と言っていますが、食を慎むことでそんなことは簡単にできるのです。

おそらく、想像力を支配できれば、世界は意のままです。ジョセフ・マーフィーの潜在意識による成功法則の成就の鍵も想像力の支配です。長年、マーフィーの成功法則を実践しながらうまくいかない人は、想像力を支配できず、逆に、意志が想像力に支配されているのです。
そのための、何とか凡人にも手を出せる道が食の慎みです。
だからこそ、水野南北は、食が全てといい続けたのだと思います。


新修 南北相法・修身録(全)
水野南北の観相(顔、身体の相を観る運命鑑定法)の極意「南北相法」と、絶対的な開運法「相法修身録」を同時に収めた貴重な書。
「相法修身録」はさほど長くなく文章も平易なので、3度繰り返して読み、極意を掴んで欲しい。
手に入るうちに入手されることをお薦めする。


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2009.10.29

「働く」ことを「食う」と言わせた者の目的は何か?

生存のための飲食を一切必要としないという山田鷹夫さんは、この不食のメリットの1つに「働くことをやめることができる」をあげている。
働いてお金を得る大きな理由が食べることであるからである。
しかし、苫米地英人さんは、お金なんかなくても食べるのに困ることなんかあるはずがないと断言する。
苫米地さんも著書に書かれているし、私も実際に実感したこともあるが、ディスカウントストアでいくらでも安価な食料を買える。
また、私はホームレス関連の本で読んだことがあるが、1円もないとしても、今の時代、別に残飯をあさらなくても、コンビニやデパートで毎日、期限切れのお弁当やお寿司やパン、あるいはお菓子等が毎日大量に廃棄されている。それらは、何の問題もない、十分に新鮮で美味しいものばかりである。
かつては高給取りであったある男性は、そういったもののおかげで、食べるのに全く困らないので、ホームレスがやめられないと言う。デパートやコンビニだって、ホームレスが大挙して来てくれ、廃棄予定の食料を全部持っていってくれたら捨てる手間が省けて有り難いに違いない。
ちなみに、衣料品だって、十分に立派な古着を入手するのは難しくないようだ。
実際、テレビでホームレスの映像を見ても、痩せたホームレスをあまり見た覚えがなく、むしろ肥満が目立つほどである。
また、少し前、仕事がほとんどなく、経済的に困窮しているという男性派遣労働者の追跡レポート番組を見たが、私はその肥満振りしか憶えていない。さして背は高くないような男性だったが、体重は確実に100kgは超えていたと思う。
アメリカでも失業問題は深刻であるらしいが、その失業者の困苦を特集した番組を見ると、それに登場する失業者、あるいは、生活が苦しいことを悲痛な表情で訴える低所得者達が、ほぼみんなすごい肥満体なのを見て、いつも同情心など吹き飛んでしまうのである。

1968年から連載開始された、本宮ひろ志さんの歴史的漫画「男一匹ガキ大将」に、乞食というのは、実は良い生活をしているということが描かれているところがある。
乞食全てがそうとは言えないだろうが、「乞食は不幸、悲惨」という固定観念を破ったというだけでも、非常に価値のあるものであったと思う。本宮さんの漫画が優れているのは、彼が世間の常識を鵜呑みにしない人物であるところも大きいと思う。
そして、いまや、あの漫画のようなことが当たり前に実現している。
働くことを「食う」と表現する習慣は根強いが、上にいろいろ書いたように、実は、食うために働く必要はないのかもしれないのだ。
いや、働くことと食うということをくっつけたのは、国民を奴隷状態にしようという、資本主義国家の洗脳であったのかもしれない。


人は食べなくても生きられる
個人的には、あまり好きな著者ではないが、本書は食に対する意識改革に大いに役立つものであるとは思う。

年収が10倍アップする 超金持ち脳の作り方
今をときめく、天才脳機能学者、苫米地英人さんの膨大な著書の1つ。以前、新書で出ていたものが、安価な文庫版で登場。本書を読めば、お金から解放されるとあります。すなわち、誰でも無限にお金を得ることができるということです。私は嘘とは思いませんが、興味があれば自分でご確認下さい。


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2009.10.28

「007 カジノ・ロワイヤル」の問題

先日、地上波放送された、「007 カジノ・ロワイヤル」をHD録画しておいたものを、日曜に見た。
これは2006年のアメリカ、イギリス、ドイツ、チェコの合作だが、1967年に同じ題名のイギリス映画が制作されている。
共に、イアン・フレミングの007シリーズの小説の第1作のタイトルを使っているのであるから、同じであっても何の不思議もない。
1967年版は、パロディ映画であり、正式な007シリーズとは考えられていないが名作の誉れ高い。尚、今回は、こちらの映画は話題にしない。

さて、2006年版「007 カジノ・ロワイヤル」に戻る。
主演は、初めてジェームズ・ボンドを演じるダニエル・クレイグ。
まず彼に驚いた人が多いのはもっともなことだと思う。
いまだボンドといえば、ショーン・コネリー、ロジャー・ムーアという人も多いはずだ。彼らが、おそらく、小説とは全く異なるボンドの世界的なイメージになっていると言って間違いない。あらゆる面で洗練された英国紳士であり、プレイボーイではあっても、女王陛下への忠誠心と品格を忘れない。万能のスーパーマンで、常に沈着冷静。スパイのイメージを上げこそすれ、下げることはなかったはずだ。

ダニエル・クレイグに驚くというのは、まず醜さだ。美男子とは言い難く、おまけに時として下品と映るかもしれない。
また、コネリーやムーアも、肉体的には決して貧弱ではなく、むしろマッチョだったが、クレイグはほとんどプロレスラーで、上品さに欠ける。
クレイグはイギリス人で、映画制作当時37歳。映画の中のアクションは正に凄絶。歴代のボンド達とも桁違いの迫力だが、暴力的過ぎて嫌悪する人も少なくないはずだ。また、この映画の中のボンドが、歴代のボンド達と違い、エゴが強く、自己中心主義に感じさせる設定である。
ところが、面白いことに、視聴者がこのボンドの欠点と認識しそうなところを、今回のボンド・ガールで、当時26歳のエヴァ・グリーン演じるヴェスパー・リンドに厳しく、そして皮肉っぽく指摘される。なんとなく、制作者の意図的なものを感じないでもない。

ところが、このクレイブのボンドが大金持ちを演じる姿が実にサマになるのである。
はちきれんばかりのボディに、上品なシャツとタキシードが意外に似合う。ホテルの受付の女性との会話はまさにウィットのある上品な金持ちのものであり、それらに洗脳されてか、2シーターのスポーツカーだが、英国の超高級車であるアストンマーチン・DBS(6リッターV型12気筒DOHCエンジン搭載。3千万円を軽く超える!)が実に似合って見えた。
ここらが、クレイグのただものではないところではないかと思う。
余談だが、アストン・マーチンとは、アストン・クリントン村と、創業者のライオネル・マーチンの名前から取ったもので、DBは、一時期経営者であったデヴィッド・ブラウンのイニシャルだ。

さて、私はこの映画を面白く思ったかというと、それは全くない。
現実にはあり得ない世界をリアルに見せるのが確かに映画の面白さかもしれない。
しかし、映画というものは、ファンタジーであるなら作り物めかすのが制作者の良心である。
スターウォーズなんて、いかに優れたCGを駆使していても、見ている者の意識は、それが完全なファンタジーであることを認識している。
もし、現実以上にリアルなものを作る場合には崇高な目的が必要であるが、そんな傲慢な制作者はいない方が良い。
この映画は、崇高な目的なしに、いかに非現実的とはいえ、不適切な部分でリアルなものにしてしまった。それは視聴者に共有される幻想を作り出す。やがて大きな問題を生み出さないとも限らない。
これが制作者のエゴであるのか、誰かの意図を受けたものであるかは分らない。いずれにしても、私は影響は受けないのであるが、そうでない者も多いはずだ。

現実的ではないがリアルに感じさせて、幻想を与えたことが幸いした例として、世界的画家の池田満寿夫さんのことを思い出す。彼は、高校生の時、フランスの世界的画家モディリアーニの伝記的ではあるが、ただの三文小説を読み、それを信じてしまった。それは確かに池田さんのモチベーションになったかもしれない。
しかし、彼は言う。何を想像しても構わない。しかし、現実としては受け入れられないものがあるのだと。彼は、ある意味、醒めた男でもあったと思う。
醒めているとは、想像に必要以上の感情を持たないことである。
エロチックな想像もたまには良いが、あまり飲み込まれないこと。
美味しい食べ物の想像に感情を込めすぎれば、食の慎みは適わない。
想像力は強大だが、時に打ち勝たねばならない。それには、欲望を捨てなければならない。それができれば、宇宙は従うだろう。

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2009.10.27

大祓詞は神様の言葉

私は、昨年末から、神道の祝詞(のりと)である大祓詞(おおはらえのことば)を毎日必ず唱えてきました。
祝詞とは、辞書によると「神事に際し、神前で読み上げて神に申し請う内容・形式の文章」とあります。

大祓詞の原文はこちら

流派によって多少異なると言われますが、これで780文字ですので、般若心経が262文字ですから、ほぼ3倍となります。
般若心経は、最後の呪文の部分以外は、文章としての意味は、はっきりしているのですが、それに対し、大祓詞は意味を考えても仕方がないものらしいです。もっとも、般若心経だって、文章の表面的な意味が分ったところでどうなるものでもなく、やはり、ただ唱えることに意義があるのだと思います。

今年7月の終わりまでは、大祓詞を、基本的に夜1回だけ上げました。
しかし、8月から10月まで、毎月千回唱えるという目標を立てました。
平日はどうしても時間の制約があり40回がせいぜいですので、休日は百回唱えることが多くなりました。1回唱えるのに3分ほど必要ですので、百回だと300分、すなわち、5時間はかかります。
平日は5時起き、休日も6時までには起きて、なんとか励みました。
結果、8月は1500回。9月は1600回を達成しました。
そして、10月はさらに多いペースで進み、18日に140回唱えた時、8月も1105回となり、3ヶ月連続千回の目標を達成しました。140回だと7時間かかったことになります。
そして、さらに回数を重ねようと思いましたが、それよりも、大祓詞の、もっと正しい唱え方が分かったように感じました。

正確には、8月1日から10月18日までで、4332回唱えました。
良い唱え方をするには、心を静かにさせる必要があります。心が動いていると、大祓詞を上げると、それを感じます。
しかし、数回唱えているうちに、心が静まり、無我に近くなるように思われます。そうすると、神様の知恵が流れてくるように感じます。
大祓詞は、人が作ったものではなく、神様の言葉であると思います。
世界中で、太古の賢者が聞いた神様の言葉が残されていますが、これほど完全な神様の言葉が残されているのは稀、あるいは、日本以外では皆無かもしれません。


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2009.10.26

同じ名前と誕生日の少女たち

誕生日や名前が同じなら、運命や宿命に関して、何らかの共通点があるのかもしれないと思ったことがある。

仮に容子とするが、私は、容子という名前の女の子が好きだったことがある。
ところが、私は別の容子という名の少女と知り合ったが、二人の誕生日が同じだった。
そして、驚くなかれ、私もまた誕生日が同じなのだ。
尚、私の誕生日とは違っていたが、やはり同じ名前で私が好きになった2人の女の子の誕生日が同じだということは、もう一度あった。
とてもではないが、ただの偶然とは思えない。

最近、私がハマっている、自称「ポイっぽい仙人」のコー・ムーエンさんの「気持ちが少しだけ軽くなる本」という本で、子供というのは、名前を自分で決めているという話があり、コー・ムーエンさんは自分の子供でそれを確かめたらしい。
上記の同じ名前の少女達のこともあり、私は納得してしまった。

コー・ムーエンさんの本でじゅ文(呪文)を学ぶと良いと思う。
ただ、1つアドバイスするなら、斎藤一人さんの「千回の法則」を同時に読み、「力まない」じゅ文の唱え方に注意すると、願いは確実に叶うと思う。


ポイっぽい仙人の「いいこと」が起こり始める不思議なじゅ文
面白いイラストと共に綴られた、とても簡単なじゅ文の本。
「斎藤一人のツキを呼ぶ言葉」の著者、清水克衛氏推薦。

ポイっぽい仙人の「人生を『やすらぎ』にする知恵」
じゅ文が効く理由である、宇宙の原理を本当に分かりやすく納得いくように解説したという意味では初めての本ではないかと思う。

気持ちが少しだけ軽くなる本
ポイっぽい仙人さんの宇宙の真理のダメ押し。いくらなんでも、これで理解できると思う。
後はひたすらじゅ文を唱えて願いを叶えること。

普及版 斎藤一人の絶対成功する千回の法則
一人さんの本は、この後も沢山出ているのに、2003年出版のこの本は、安価な新装版が出て、売上も上位にある。確かに良い本と思う。
自己暗示や潜在意識の法則の本は、どれも素晴らしいのに、この本にある「力まない」「努力しない」に注意を知らないと叶わない可能性があると思う。


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2009.10.25

新車の匂い

昨日、注文していた新車が届いた。
私は、車の乗り換えはいつも新車なのだが、メーカー、車種に関係なく、室内に共通の匂いがする。
私は「匂い」と書いたが、これは「良いにおい」という意味の漢字だ。
つまり、私は、新車の室内の匂いは好きである。
しかし、これを「臭い」、即ち、悪いにおいと感じる人も多いらしく、中には、気分が悪くなったり頭痛がしたりと大変な人もいるようだ。
世界一の車のセールスマンとしてギネス認定されている、ジョー・ジラードの本を私は熱心に読んだものだが、ジラードは、見込み客に新車の匂いを嗅がせろと言ったくらいで、やはり良い「匂い」としているのだろう。でないと車を売れないだろうし、自動車メーカーだって、「臭い」と感じる人達が多数であれば、何か対策をするはずだ。

さて、新車の匂いの正体はVOC(Volatile Organic Compounds:揮発性有機化合物)のようだが、これは内装に使われる接着剤の成分だ。そういえば、確かに接着剤の匂いのようだ。
元はポップ歌手でアイドルだったが、演歌歌手になった長山洋子さんは、ディーゼル車の排気ガスの匂いが大好きだと言っていたことがあったと思うが、こんな人は珍しいに違いない。シンナーやベンゼンのにおいにしても、好きな人と嫌いな人がいるだろう。
また、薬品ばかりでなく、様々なにおいに関して、人の好みは様々である。
そして、においというものは、人にとって、とても重要なものだ。五感の中でも、においは特に記憶に強く残る。だから、何かの香りを嗅いだ時に、それが幼い頃の記憶に結びつくと強い郷愁にかられたりする。
それで言えば、私にとって新車のにおいというのは、初めて新車を手に入れた時の楽しく嬉しい気分を甦らせるから好きということもあるだろう。
以前も書いたが、私は楽しい時代にかいだ、ジンという酒の杜松(ねず)の実(ジェニバーベリー)のにおいが大好きであり、今でもジンのにおいをかぐと、嬉しい気持ちが甦る。

だが、最近はよく、電車の中で食べ物のにおいを撒き散らす者が増えてきた。ポテトチップスのようなスナック菓子でも、回りにどれだけ強烈なにおいを発散させているか気付いていないのかもしれない。香辛料のついた肉や卵なら、さらにそうである。
それだけでなく、最近は息の臭い人が多い。一般の人の嗅覚もかなり麻痺しているようにも思う。仕事でも、近い距離でのミーティングは私はかなりつらい。
肉や化学調味料が胃液で腐敗した臭いと思う。臭い息といえばニンニクを連想する人が多いかもしれないが、最近はことに悪臭の元になる食べ物が多いのではあるまいか?
これらに比べれば、新車の匂いはやはりとても良いと思える。

尚、今回私が買った車は、前に乗っていたものと比べ、コンパクトで排気量の小さい車だ。
環境のことを考えたということもあるが、私にはこれ以上は全く必要がない。私は滅多に車に乗らないし、駐車場等でも回りの迷惑になりにくいことが嬉しい。
それでいて、最近の車は、少し前なら超高級車でも付いていないような装備が満載である。
車幅も5ナンバーの規格限度まで広げて作られており、ちょっと昔の高級車と全く同じで、何の不満もない。むしろ、コンパクトカーだからといって、狭い道でさほど有利でないということだ。
現在は、軽自動車でさえ、エンジンは4バルブツインカム形式で、電子燃料噴射装置が常識だ。確かによく走るが、低速から高速まで(本質的には低回転から高回転まで)スムーズ過ぎ、運転好きには面白味に欠けるかもしれない。エンジンの回転速度を示すタコメーターが何のために付いているのか分からない人も多いような気がする。タコが「蛸」を連想させるので、私は英国式にレブカウンターと呼んでいたが、あまり通用しなかった。
ナンバーは斎藤一人さんのラッキーナンバーを取得できた。一般には縁起が悪いので、陸運局も申請されない限り、このナンバーは外して支給するらしい。


私に売れないモノはない!
ギネス認定される世界最高の自動車セールスマン、ジョー・ジラードの貴重な教え。
ジラードは、かなり昔に活躍した人だが、セールスの原則は今でも決して変わらない。
彼は、30歳までは最低の人間であった。
本書は、セールスマンに限らず、非情に参考になるし、その温かい人柄に惹かれると思う。

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2009.10.24

風歩

森山風歩さんをご存知だろうか?
肩書は作家であり、自伝も出版している。私は出版後、すぐに読んだ。
その自伝の中に、「1人殺して良いなら母親を。もう1人良ければ父親を」といった衝撃的な内容がある。
しかし、悲しいながら、読めば無理もないと思ってしまう。
小学生の時に、進行性筋ジストロフィー(PMD)という不治の難病となり、運動能力を失っていく恐怖に怯えるが、最も頼るべき母親も父親も、彼女の病気を決して認めない。そのためもあり、小さな少女は動けなくて辛いのに、学校では教師は彼女を無視し、クラスメイトは総動員で彼女をいじめる。歩き方がおかしいとからかわれ、力の入らない足もとにホウキを突き出されて転がされるのが日常になる。教師の信認厚い優等生も、教師がいなくなればいじめに参加する。いつしか、教室には、彼女をいじめる方法を選択するためのルーレットが用意されていた!
家では、自分で動けないので、喉が渇い時に水を汲んできてくれるよう頼むと、甘えるなと殴られる。
抵抗できない彼女の髪を掴み、顔を床に何度も叩き付ける母親。舌を噛まないよう、必死で歯を食いしばる少女。それを無表情に眺める父親。地獄とはこのことかもしれない。

風歩さんは28歳になるはずだが、美少女という言い方がぴったりとしか言いようがない。公式ブログでは、お茶目な彼女はセーラー服を着た写真などを載せているが、似合い過ぎている。彼女の母親はフランス人とのハーフで、町を歩けば、画家は必ず呼び止めてモデルを頼むほどの美女だったようだ。風歩さんは容姿に自信がないと本に書いているが、血は争えないというところか。

彼女の病気は今も進行している。余命がどのくらいかは分らない。
仕事はしているようだが、体調が悪いことも多いようだ。
しかし、明るく前向きに生きて見せている。

ただ、それでもこれは考えておきたい。
可愛い女の子が、過酷で非情な運命にあると、我々は無条件で彼女の言うことやることの全てを肯定してしまう。
私は彼女の全てを受け入れはするが肯定はしない。当然、学ぶべき貴重なことも多いが、批判的に学ぶこともある。
だが、風歩という名前は何とも彼女に相応しい。彼女が殺したかった母親が付けた名前だが、彼女はこの名前は気に入っていると言う(もともとは大嫌いだったようだ)。
信じなくても良いが、名前というのは、自分で決めるものなのである。

森山風歩オフィシャルブログ


風歩
表題と表紙の写真は、天才アラーキーこと、写真家の荒木経維さんによるもの。
私は、荒木さんのことは昔からよく知っているだけに複雑な気分である(笑)。


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2009.10.23

心身医学と食の運命学

NLP(神経言語プログラミング)の創始者であるリチャード・パンドラーは、全ての病気は心因性(心に原因がある)であると決め付けていると著書に書いている。
トム・クルーズが熱心に信仰する新興宗教であるサイエントロジーは、悪い評判も高く、フランスではカルト指定すらされているそうであるが、その開祖であるL.ロン.ハバート自身は天才で偉大な作家でもあることは、おそらく確かと思うし、世界的に傑出した人物にも、教育者としての彼を高く評価する人は少なくない。ハバートは、世界で1800万部以上も出版されたと言われる自己開発書「ダイアネティックス」に、全ての病気の少なくとも75パーセントは心因性と書いている。

「心身医学の父」と言われ、フロイトのエスの概念は、実は彼から与えられたと言われるドイツ人医師ゲオルグ・クロデックは、病気どころか、怪我や事故に至るまで、エスによらずに起こることはないと断言する。エスとは、人の心の中に潜む正体不明の存在であるが、クロデックのエスはフロイトのエスよりはるかに驚異的なものである。
尚、L.ロン.ハバートも、精神的な逸脱を起す要因(彼はエングラムと呼ぶ)を取り去れば、病気にならないことはもちろんだが、事故にも遭わなくなる可能性を示唆している。

それらはもしかしたら本当なのかもしれないけれど、では我々は何をすれば良いのであろう。
現在も精神分析医はフロイト派が多いと思うが、フロイト自身は、事実としては治療を成功させたことはほぼ全くない。
NLPやダイアネティックは驚異的な成果があると宣伝されており、嘘ではないのかもしれないけれど、関係者全てを信用する訳にもいかないし、費用や手間と時間もかかるに違いない。ことによっては、膨大な費用がかかる場合もあるはずだ。

彼らが、全ての病気や事故まで含めて心因性と言うなら、江戸時代の観相家、水野南北なら、全ては食と言う。
彼は、健康、経済、家庭、寿命、その他、一切の運が、食の多い少ないで決まると断言する。
彼は、それを生涯をかけて追求し、十分に実証したと思う。
10歳で飲酒を始め、15歳くらいには既にヤクザ者になり牢屋敷にも入れられた。当時の牢屋敷は今の刑務所どころではない恐ろしい所であり、現実的には人権が無いに等しい服役者が様々な理由で殺されるなど珍しくもなかった。つまり、牢屋敷に入れられるような者は人間ではない。
しかし、彼は牢屋敷から出所後、不思議な縁で観相の道に入り、それを極めて、その名を天下に轟かせ、富豪にもなった。しかし、その観相よりも重要なものが食の慎みであることを悟る。観相においても、人の運命の鑑定を誤ることがほとんどなかった南北であるが、百発百中とはいかなかった。しかし、食の多い少ないに注意するようになったところ、万に1つの外れも無くなったと言う。

南北の教えを実践するのは、外面的には極めて簡単で、お金もかからない。
ただ、食を慎めば良いのである。即ち、美食と飽食を避ければ良いのだ。
南北自身も厳しく食を謹んでおり、米は一切食べず、麦飯と粗食に撤し、酒は大好きであったが、1日1合(約180ml)と決めていた。
尚、徳川家康もまた、天下を取ってからも、生涯、麦飯と粗食で通したことが知られている。
とはいえ、南北と言えど、人にそこまでの厳しい食の慎みを薦めてはおらず、魚、鳥は、人に食べられることが本懐であり、特に老人に関して言うなら、消化の良い肉食は少量であれば良いとしている。とはいえ、美食、飽食は厳しく戒めていることは間違いはなく、現代の日本人の食生活が、恐るべきほどの異常な逸脱であることは間違いあるまい。

斎藤一人さんも、食の慎みについて語っておられることを最近知り、嬉しく思った。
1日3食なんて食べる必要はない。空腹な時間は必ず必要と講演で言っておられるようである。


新修 南北相法・修身録(全)
2009年に出版された、「南北相法」「相法修身録」を同時に収録した新訳。
これまでの南北の書、特に、より重要な「相法修身録」がそうであるように、いつまで購入できるか疑問である。本書も、2009年出版でありながら、現在既に入手困難になりつつあるように思える。本書は、分りやすい良訳であると思う。

だまってすわれば―観相師・水野南北一代
水野南北の痛快な伝記小説。
当然ながら、推測の部分も多いのであるが、詳細で深い歴史考証の上に書かれた名作である。こんな素晴らしい本が絶版になるとは嘆かわしい限りである。

斎藤一人15分間ハッピーラッキー―人生の成功者になる「ものすごくカンタンな道」
添付の講演CD「つやこ49」に、斎藤一人さんが食の慎みについて語る部分がある。その他も含めた講演の内容も、米国製の優れた百万円をはるかに超える自己開発プログラムを買った私は、千万円以上の価値と確信した。


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2009.10.22

魚もまた花

昔、「ラマー 愛と魂への旅」という本」を読んだことがある。手元に本はないが、その中に、「魚もまた花」という言葉を見た覚えがある。
トム・オサリヴァンの実に美しいイラストが数多く載った本だった。
読んだ時は解らなかったが、印象深く憶えているところを見ると、私の魂がその深い意味に感応したに違いない。
ただ、この言葉を、「魚は身体の栄養。花は心の栄養」といった表面的な理解だけで止まってはいけないと思う。
確かにそんな意味なのだろうが、それが実感されないといけないように思う。
魚が身体の栄養になることを当然と思うように、花が心の栄養になることをもっとリアルに認識したいと思う。
そうであれば、人が生きる上で、花の価値は食べ物に劣らないことが本当に解ると思う。
そういえば、イエスも「人はパンだけで生きるのではない」と言ったと思う。
明治、あるいはそれ以前の日本に来た西洋人は、庶民が花を買うことに驚いた。西洋では、花を買うのは金持ちと決まっていたのだ。
かつての日本人には、魂にとって大切なことがちゃんと解っていたのである。

私が、子供の頃に読んだ「星の王子様」で憶えている言葉は、「本当に大切なものは目に見えない」だった。
花は目に見えるが、本当に大切なのは、花を見る者の心であろう。それは、金持ちに豪華な花を貰ったというだけで心が満たされることはないことからも明らかだ。
岡本太郎は、30歳位の時、二等兵(最下級の兵隊)として中国に送られ、10代の兵隊達と一緒に訓練されたことがあった。特に身体を鍛えておらず、酒も飲んでいた太郎には過酷なしごきだったが、息も絶え絶えで気も遠くなりそうな中で見た小さな花の美しさに、命がしぼられるような感動に震えたと言う。
貧しい暮らしの中で、花にお金を使ったかつての日本人。
人間は、苦しい時、欠乏している時に、心が純粋になることがあるのかもしれない。
「若草物語」で、マーガレット達の母親も言っていたと思う。「足りないくらいが丁度良いのですよ」


ラマー愛と魂への旅
新品の入手は不可能と思うが、古書で良いものはありそうである。

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2009.10.21

18日の「真相報道バンキシャ!」より

18日(日)放送の日本テレビ「真相報道バンキシャ!」の特集、「在宅介護の"苦悩" 認知症患者と家族の生活」を見た。
認知症の家族を世話する人たちの実態を紹介したものである。

48歳の認知症の息子を世話する82歳の父親。
経済的には、父親の年金だけが頼りである。
昼食前に、息子は朝食を食べていないことを激しく訴える。しかし、父親はちゃんと食事をさせていた。全てにおいて、息子は、ついさっきのことも憶えていない状況なのである。

認知症の58歳の妻の介護のため、コンピュータ関連機器販売会社を辞め、介護ヘルパーのパートをしている61歳の夫。
会社勤めの時から収入は半減した。以前、勤めていたその会社から、勤務地の京都から東京への転勤を命じられ、妻のことを考えれば選択の余地なく、定年間際の退職となった。
少しでも間違いを指摘すると不機嫌となり怒りを爆発させる妻の介護は困難を極める。

ゲストで、やはり脳疾患の母親の介護をしている、ジャズ・シンガーの綾戸智恵(あやどちえ)さんも仰っていたが、介護の苦労はやってみないと分らない。

私も、脳疾患で、全身機能全廃となった父親の介護を数年行ったので、多少は語る資格もあると思う。
私の父親は身体の大きな人で、体重もかなりあった。
しかし、私の場合、自動車の後席から父親をお姫様抱っこで抱え、そのまま家に連れて入れた。つまり、介護者が若くて体力がある私のような場合はまだ良いが、上記のように、老齢の父親の方が介護をするのは並大抵のことではない。
私はその数年、一度も遊びに行くことはなかったが、元々があまり遊びに行くことのない引きこもり気質というのも、そんな時は有り難いものであった。

ところで、病院では、多くの要介護の患者を見たが、ご家族の悩みとして深刻なのは、自分で動けない患者をベッドから起こしたり、移動させるうちに、介護する者が腰を痛めることが非常に多いことである。看護師ですら、そんな場合が少なくないかもしれない。
そして、そのうち気付いた。ほとんどの患者がひどく太っているのだ。運動不足なのだから仕方がないかもしれないが、何かおかしい。
病院の食事は、入院患者では必ず3食出る。普通の人にとっては多い量ではないように思うが、ほとんど動かない人達にとってはやはり多いかもしれず、私の父親も、完食することはほとんどなかった。さらに、食事とは別に、点滴で栄養を補給する。さらにその上、家族や見舞い客らがお菓子等を差し入れることも多く、病院もそれを禁止することはあまりないし、そういったものは美味しいので、患者もよく食べる。しかし、それらは甘く高カロリーであることが多い。よって、患者はかなり太る。

その「バンキシャ!」の放送では、両方の家庭の食事の場面があったが、テレビ放送を多少は配慮したのかもしれないが、非常に豪華で多量に思った。
私の場合、少食・菜食という特例ではあるが、やはり私の食事とは比較にならないほどの栄養がありそうだ。しかも、あまり動かない人の食事であるのだ。
私は思ったのだが、多くの患者の症状が改善せず、むしろ悪くなるのは、栄養の与え過ぎが原因ではないかと思う。
そして、介護が必要な難病になるのも、食べ過ぎが大きな原因ではないだろうか?
食を厳しく謹んでいる者が、それほどの病気になるとは思えない。
私の父親も、年配でありながら、肉食が多かったし、飲酒もかなりする方だった。
いや、私自身、肉食・大食をしていた頃は、狭心症やメニエール病の発作で倒れたり、健康診断では、肝臓をはじめ、かなりの異常があったが、1日1食の菜食・少食にして数ヵ月後の健康診断では、異常ゼロの完全健康体となり、自然に治ることはないと言われるメニエール病の症状も全く出なくなった。

「バンキシャ!」のあの家族をはじめ、難病の介護をされている方々に言いたいと思う。
最初は心が痛むかもしれないが、思い切って、食事の量を患者が病気になる前より、はるかに少なくして欲しい。また、お菓子は一切与えないか、与えるとしても、決まったものを少しにすべきだ。
出来るなら、朝食は抜き、昼食と夕食は菜食中心とし、果物も案外に栄養価が高いので、控え目に食べさせてやって欲しい。

ほとんどの病院・医院では、全く逆に、患者に多くの栄養を与えることを奨励し、誰もそれが良いことであると疑わない。これは恐ろしいことではあるまいか?
また、カロリー摂取を控えるよう薦める場合ですら、満腹感を得ることを前提にしている場合が多いように思う。ここには、空腹を感じることが悪いことであるという誤った思い込みがあるのだろう。

少食療法を実施する病院・医院は少ないと思う。甲田光雄さん(故人)が院長をされていた甲田医院では、断食、少食を中心とした甲田療法で、多くの難病患者を奇跡的に回復させている。現在も甲田医院は甲田幹子氏が院長を引き継がれているようであるが、なかなかここで治療を受ける機会もないと思う。そこで、甲田光雄さんの著書などを参考に、素人が行うに無理のない範囲で患者に少食を実施させてはいかがと思う。
少なくとも、現在の患者達は食べ過ぎであると思う。

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2009.10.20

魔法使いになってしまう

なぜか身に余る難問といえる問題の解答を求められることがよくある。
「売上を上げたい」
「病気を治したい」
「子供の性格を治したい」

これに関しては、私はこう解釈した。
相手は、私に相談するつもりなど、ハナから無いのである。
ただ、誰かに聞いて欲しいだけなのである。
私は、独り言を言う相手として良さそうに見えるだけなのである(笑)。

ただ、そうとばかりは言えない相談もあるように思うこともある。
それで、真面目に考えを述べようとすると、相手は話を聞いていないように感じる。
ただ、相手は私の話は聞いていないが、全く何も聞いていない訳でもなさそうだ。
どうも相手は、私に、「一言」の解答を求めているように感じる。
私は、霊感占い師や魔法使いじゃないのですが。

しかし、やはり考え直した。
相手がそうであるということは、それは訳のないことでないかもしれない。

魔法使いかどうかは知らないが、斎藤一人さんなら、見事に一言で解答するだろう。
「顔にツヤを出せ」とか「ツイてるって言え」とか。

真似しても良いのだけれど、相手はもったいなくも、斎藤一人さんのところに行かずに私のところに来たのだ(笑)。
私が斎藤一人さんの教えを授けても、霊力が伴わず、効果がないかもしれない。

無門関という禅の公案集にあるが、倶胝(ぐてい)という和尚さんは、何を聞かれても、指を1本立てるだけだった。
ある日、寺にやってきた人が、小坊主に、あなたのところの和尚さんはどんな教えをするのかと聞かれ、小坊主は和尚さんの真似をして指を1本立ててみせた。それを聞いた和尚さんは、小坊主の指を切り落とした。泣いて飛び出していく小坊主を和尚さんが呼ぶ。小坊主が振り返ると、和尚さんは指を1本立て、小坊主は悟った。

私は魔法使いじゃないと思っていたが、魔法使いになっても良いと思う。
なぜかと言うと、何のことはない。魔法使いになるというよりは、魔法使いとしてカムバックするだけの話である。


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2009.10.19

3ヶ月集中修行のすゝめ

人生がうまくいっていないと思うなら、3ヶ月修行を実施してみればと思う。

私もまた、子供の頃から、ヒーロー的な人気者達に強い興味を持ってきたが、それは単に楽しませてくれたり、憧れを抱かせる者へのファン的心理ではなく、彼らの見えざるバックグラウンドを含め、存在の本質そのものへの強い関心だった。
その中で感じたのは、彼らがブレイクするきっかけは、集中的な一定期間の修行である場合が非常に多いということだ。その期間は、1年という場合が多いように思うが、それは、これらのヒーロー達が一般人をはるかに超えているからであると思うし、彼らの中ですらもっと短い期間の場合もある。

昭和の不世出の空手家、大山倍達さんや、かつて日本にキックボクシングブームを起こしたキックボクサーの沢村忠さんらは、1年間の山ごもりの修行の後で大飛躍している。
吉川英治さんの創作かもしれないが、宮本武蔵も山ごもりの修行を行ったとされている(ただし、五輪書にその記述がないことから、事実かどうかは不明と思う)。

空海は百日に渡って行う求聞持聡明法という密教の修行により超人に生まれ変わったと言われている。
神道では、黒住宗忠が、神道の代表的な祝詞である大祓詞を月に1万回上げる修行を3ヶ月行っている。

不思議な大飛躍を遂げた人を調べると、必ずや、そういった修行を実施した事実があるように思えるのである。
上にあげたようなものとは別に、ある期間、同じ本を毎日欠かさず繰り返し読んだとか、無報酬で毎日何かの奉仕をしたとかいう場合もある。ある国際的なスーパーセールスマンは、日本にやってきた外国の牧師さんの手伝いを無報酬で毎日やったことが自分の成功の大きな要因だと語っていた。

個人的な推測であるが、IT技術者として思うのは、ビル・ゲイツの成功の要因は、彼が「そのアセンブリ語コードを今でも暗記している」というほど熱心に 8080BASIC(インテル社の8ビットCPUである8080用のBASIC言語)を開発したことにあるように思える。その期間がやはり3ヶ月くらいであったと思う。全てはこのBASICからスタートしていた。

これらの修行の特徴は、多くの場合、休日などは設けず、毎日長時間、場合によっては起きている時間の大半を費やして行ったということだ。さすがに、そのようなことは、一定期間でないと難しいだろう。

著名人ほど華々しくはないが、私にもある。
19歳のニート時代、百日間の計画で肉体トレーニングの実施とジョセフ・マーフィーの著書を中心に自己開発の本を読んだ。無事、百日間、1日も欠かさずにやったが、不思議なことに、それ以降はずっと働き続けて、何事も概ねうまくいっている。引きこもり気質者としては驚異的と思う。
また、一般的に言うと良いことかどうかは疑問であるが、ある年、元旦からGW明けまで、1日の休暇も取らずに、朝7時から深夜0時までソフト開発を熱心に行い、倒れはしたが、不思議なことに、自分でも知らない間に一級の開発者になっていた。
今の仕事、あるいは環境が辛いなら、行と思って、可能なら1年、少なくとも3ヶ月は黙って耐えるのも良いと思う。
あるいは、こちらの方が重要かもしれないが、何かに取り組んで、なかなか成果が出ない場合でも、1年我慢して続ければ芽が出るものと思う。


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2009.10.18

聖者の秘密

悟り、あるいは、解脱とはどのようなものか想像もできないが、それを成し遂げた聖者は、何をするわけでもないのに、世界中から大勢の人たちを呼び寄せる。それは、聖者の死後も長く、あるいは、永遠に続く。

聖者は何もしないと書いたが、稀に、訪れた人に、いくらかの教えを授けることもあるかたもしれない。しかし、熱弁を振るって講義する聖者は本物ではない。
イエスや釈迦だって、庶民に対して、たとえ話で易しく語ったのであり、教えを授けるというほど物々しくはなかったと思う。彼らの言葉を記した聖典が難しいのは、学者達や宗教の権威者達のせいと思う。
大きな社会活動を行う聖者もいるのかもしれないが、私は、むしろ社会的に大きなことをしない聖者の方が、より偉大なことを行っているのではないかと思うようになった。
誰かが、ラマナ・マハルシに「あなたはなぜ講演をしないのか?」と尋ねた時、マハルシは「それが行われている間だけ楽しませてくれる講義と、長く続く平安を与える沈黙のどちらが優れているか」と答えた。

ところで、私が純粋な解脱者と考える二人・・・ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジが、なぜ悟りに達したかを長く考えていたが、ひょっとしたら、ある脳機能の異変や障害があったのではと考えている。これは、決して悪い意味ではない。天才というのは、概ね、精神や脳の障害がきっかけとなっているものである。
例えば、7歳にして、訓練したわけでもないのに、天才的なデッサン能力を発揮する子供がいたが、その子供も、脳の一部に発達障害があった。脳は、欠陥を補完するために、別の能力を発達させるのである。それが極端に顕れたのが天才である。
そして、この天才的なデッサンを描いた子供は、成長と共に脳の欠陥が治ると、その能力も消えた。
驚くべき計算能力を発揮する子供は時々いるが、やはりそれは大人になるまでには消えるのも同じ理屈であろう。幼いうちは、脳はアンバランスに発達することもあるのである。
アインシュタインの才能も、彼の幼い頃の言語障害により発達したものであると考えられることもあるのだ。
アレキサンダーやナポレオンの無限とも思える熱意も、やはり、ともすれば、脳に原因する精神疾患の影響であるかもしれない。

ニサルガダッタ・マハラジは、この世に現実性を感じないと言っていたし、また、自分を空の上から見ているように感じると言ったこともある。ラマナ・マハルシも、「現実と夢に何らの違いもない」と言った。
江戸川乱歩は常に、「現実が夢で、夜見る夢こそが本当」と言っており、色紙にも好んでそう書いていたようである。よほどお気に入りの概念、あるいは実感であったのだろう。
そして、こういった、世界に現実性を感じなかったり、自分を離れたもののように感じるというのは、割に最近の神経医学が発見した脳の疾患の症状と合致する。つまり、知覚神経と脳の情感を結びつける部分との連結が弱いので、見たり聞いたりしたことをリアルに感じることができないのである。
興味深い症例としては、自分の母親や妻などを偽物と感じるという人がいる。母親などの姿を見たり、声を聞いても情感を感じないので、そのように思うのである。
著名な精神分析学者の岸田秀氏は、子供の頃、クラスメイトの女の子を見て、彼女達は本当は男なんじゃないかとよく思ったらしいが、これも、女の子達の姿や声に異性としての情感を感じないためかもしれないと思う。

確かに、これらは、脳の障害かもしれず、これらの症状を持つ者は病人、あるいは異常者扱いされ、医師は治療しようとするかもしれない。
しかし、ニサルガダッタ・マハラジや、ラマナ・マハルシは、そのような余計なことをされずに済んだのである。
マハラジは、村での農作業は嫌になって町に出るも、事務職も勤まらず、商売をやっても下手だった。
仕事に意欲を感じない人というのは、やはり世界に現実味を感じておらず、働く意義や喜びを見出せないのではないだろうか?
一方、マハルシは、ある時期までは、頭脳明晰でスポーツに励む快活な少年であったが、ある日突然に、自分の肉体への現実味を失う。そして、不意に、アルナチャラという場所に意味不明の憧れを抱いてそこに向かい、そこに到着するも、食べるものを求めることもなく衰弱していった。幸い、親切な人に食べ物を与えられたが、その後も現実的な生活をすることはなかった。

しかし、彼らは、通常は脳、あるいは、精神の疾患とされるかもしれないことがあったことで、確かに何かを得たのだ。
そのヒントは、マハラジが一貫して主張した、悟りのためのある方法に見られるように思う。
それは、「常に、存在の感覚にしがみつけ」だ。
そう言われても、我々には、どうやれば良いのかまるで分らない。マハラジも、普通の人にはそれが難しいことに気付いたのか、「私は在る」という言葉をマントラのように使えと言ったかもしれない記述が、彼との対話集にもある。

聖者達は、現実感覚を持たないこと、つまり、感覚と情緒の結びつきが弱いことで、通常の人間には達し得ない精神世界の深みにまで達することができた。なぜなら、現実世界の邪魔が普通の人よりはるかに少ないからだ。
尚、こういったことは、単にものごとに無執着と言われる人にも見られる。
政木和三さんは、「欲望を捨てれば思いのままになる」と言ったし、実際、彼はそれを実証した。
しかし、本当は現実をリアルに感じないからこそ、欲望や執着を持たなかったのかもしれない。

では、精神の深みに達すると何が起こるのだろう。
それは、抽象的な表現にならざるをえないのであるが、現実世界の原因となる情報世界の住人になるということである。
南方熊楠が南方マンダラで顕したこの世の真の姿を実際に感じることになるのだ。

自分自身が視覚や聴覚を持たないヘレン・ケラーが、感覚は幻想と言ったのは、なんとも驚愕すべきことだ。
彼女は、観念だけが真実と言った。彼女は、聖者と同じ情報世界に馴染んでいたのである。

心とは、精神とは、意思とは何か?
いまだ、科学者の中にも、これらが、脳の電気的、化学的作用であるとする者もいる。
英国の天才的数学者・物理学者で、相対性理論の権威であるロジャー・ペンローズは、相対性理論と量子論を融合させたツイスター理論(仮説)により、意識は脳内の量子的作用であると説明したが、その理論の正確性はともかくとして、やはり、精神は量子論的なものである。
量子的と言うより量子論的なのだ。
普通の人にとって量子力学が難しいのは、ニュートンの機械的宇宙論により、科学的思考には、対象となる「もの」が必要と考えているからだ。
量子力学は、「もの」を扱うのは二義的で、本当は情報を扱っているのである。普通の人は情報を扱う意味があまり分らないのだ。
だが、聖者達は、当たり前のように情報世界を感じるのである。

そして、情報世界の中に世界の原因があるからこそ、それを感じ、ことによっては支配してしまう聖者は驚異的なのだ。
その、ほんの一端から導かれたのが、ジョセフ・マーフィーなどの潜在意識の法則で、最近人気のある引き寄せの法則なども基本的に同じものと思う。だが、ほとんどの人が、これで首尾よく成果を得ないのは、現実世界への執着が強いからだ。つまり、どうしても情報世界に馴染めないのである。
脳機能学者であり、計算機科学者という、まさに脳と情報の専門家で、しかも天才である苫米地英人さんはそれに気付き、本当に教える気があるのかどうかは不明だが、情報世界操作の方法を本に書いたりしている。個人的には、悪意かどうかは知らないが、あまり彼が本気でそんなことを教えようとしているとは思えない。私自身、理由は少し複雑だが、一般人に教えない方が良いと思っているくらいだ。

だが、あえてそのやり方を言うなら、ニサルガダッタ・マハラジの言った通りである。
即ち、「存在の感覚にしがみつけ」だ。
実を言うと、私もまた、この意味を教えようかどうかは迷うところだ。
ただ、この言葉を聞いて、それを行える人であれば、世界は意のままになるであろう。
マハラジもなのだが、世界で誰も、その意味を本当に教えていないのは、やはり情報世界の関与があるのだと思う。
私の場合、毎月千回以上、大祓詞を上げることで自然に理解した。同じことをやれば、誰でも分るだろう。
我国の神道とは何とも偉大なものである。


アイ・アム・ザット
ニサルガダッタ・マハラジとの貴重な対話集。
ほとんど教育を受けたこともなく、ただの貧しい老人であるマハラジが、実は驚異的な存在であることは、この本にある、世界中の様々な立場の人々の様々な質問に対する彼の返答に確と表れていると感じる。
しかも、1970年代でありながら、コンピュータやネットワークに関するマハラジの引用が実際的なことに、IT技術者である私も驚いたものである。

あるがままに
最も純粋な覚者と言われるラマナ・マハルシとの対話集。
極めて貴重な小冊子である「私は誰か?」が巻末に新訳で収録されている。マハルシ自身も、それが自分の教えを理解するに十分なものであると言う。繰り返し味わうことをお薦めする。
その他の問答の中にも、必ずや現在の自分に響くところがあるはずである。


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2009.10.17

劣等感がもたらすもの

最近、1999年1月31日に63歳で亡くなられたプロレスラー、ジャイアント馬場さんの本を集めて、時々読んでいます。
つくづく、馬場さんは偉大な人だなと思いました。

馬場さんのモノマネをテレビで見ることは少なくなりましたが、今でも笑いを取ることはできると思います。
猪木さんのモノマネとなれば、猪木さんは現在もご活躍中であると共に、現役時代から基本的にキャラクターは変わっておらず、長い間に広まり定着した、猪木さんのファイターとしてのモノマネはまだまだリアルでしょう。
ただ、猪木さんの目をむいた闘魂の表情のモノマネは「誇張」の面白さですが、馬場さんの、滑稽さを感じさせるモノマネは、本来なら、礼を欠く以前の人格を疑うものであるはずです。しかし、馬場さんは、生前、それを見て怒るということはなく、目の前でやられても笑っていました。私は、馬場さんが、なぜ笑っていたのかには、想像も出来ない深い訳があったのだと、今になって思い至りました。
実際には、馬場さんが不快に思わなかったはずはありません。まずは、こういった当たり前の感性を持たない人がいることが問題なのですが・・・。
(猪木さんも、若い頃はアゴの形で深刻に悩んだそうですが、私は、あのアゴのどこが悪いのか、子供の頃から今でもさっぱり分りませんが)

私が、小学生の時、クラスに、顔に大きなアザのある男の子がいました。生まれつきのものだったと思います。
ところで、小学校の美術の時間には、自画像に限らず、自分の絵を描くことになる機会はよくあります。4年生の時の美術の時間に、その子が私に聞きました。「僕のアザって、右側だよな?じゃ、この絵の僕の横顔は左側だから描かなくていいな」と。
私に聞くまでもないことでした。しかし、彼は言い訳をしたかったのではないかと思います。顔のアザを描くのがイヤで、わざと左側の顔を描くようにしたんじゃないという・・・。
彼に、顔のアザで劣等感や引け目がないはずがありません。彼は、明るく、それを感じさせませんでしたが、実際はかなり大きな苦しみを持っていたはずです。

馬場さんが、あの大きな身体のせいで悩んでいたことに気付く人は少ないかもしれません。
実際、馬場さんは、子供の時からそのことで心を苦しませ、大きいだけでなくスポーツ万能で、腕力も並外れて強かったにも関わらず、大変に大人しい内気な少年になり、ケンカをしたり、まして他の子をいじめたり、高圧的になるなど想像もできない子だったことが、元同級生の証言でありました。
写真撮影の時は膝を曲げて小さくなっていました。
プロ野球をクビになった時は、その目立つ身体のせいで、人に見られている気がして(実際に見られていたのでしょうが)ビクビクしていたようです。
そんな馬場さんは、自分の外見について他人が何か悪いことを言って、それがいかに悔しくても抵抗できないのです。だから、どれほどバカにしたようなモノマネをされても、黙って耐えていたようです。そして、それができるだけの心の広さ、強さも培った人ではありました。しかし、その時の心の重さは、到底、常人に想像できるものでは無いに違いありません。普通の人なら、生きるのが辛いほどではないかと思います。
ある旅館で、1つの部屋に大勢で寝なければならなくなった時、既に大物だったにも関わらず、馬場さんは、寒い季節ではありましたが、黙って自分の布団を廊下に出して寝たということがあったようです。馬場さんが、自分の巨体に罪悪感を感じていたエピソードであると思います。

馬場さんは、40代頃から、つとにスローモーさを笑いのネタにされることが多くなりましたが、それは誤解であるようです。
確かに、馬場さんも言うように、「大きいほど、動くのにエネルギーがいる」わけで、スローに見える部分がないでもないでしょう。飛んだり跳ねたりの軽量レスラーが人気のある中では、モノマネタレントには強調のしどころかもしれません。
しかし、馬場さんの動きは、晩年になってからすら、あの巨体からは信じられないほど、凄いものだったようです。
馬場さんとは敵対する立場のアメリカの超大物プロモーターすら、「馬場は大きいが、現在、あれだけ本格的なレスリングをやれるプロレスラーはいない」と言っていました。特に受身は抜群で、怪力レスラーに派手に投げられてもダメージは見た目ほどではなく、あの巨体で、ローリング・クラッチホールド(回転エビ固め)という軽業を見事にやれました。
ディック・マードックという、実力だけなら世界王者以上と言われた強豪レスラーの挑戦を受けたPWFヘビー級タイトルマッチでは、大変な苦戦となり、マードックが攻めまくり、馬場危うしと思われましたが、まさかのローリングクラッチホールドで大逆転勝利したこともありました。

元々が天才的な運動神経と体力のあった馬場さんが、プロ野球時代は走り込んで基礎を創り、プロレスに入門してからは、想像を絶する訓練で鍛えましたが、プロレストレーニングの凄さを表現する良い言葉として、「ぶっ倒れるまでやるのがスポーツの訓練と思っていたが、ぶっ倒れてから始まるのがプロレスの訓練だ」という馬場さんの言葉があります。そして、アメリカでは、フレッド・アトキンスという鬼コーチに、本格的なレスリングを毎晩「ボロ雑巾」になるまで叩き込まれたようです。
45歳くらいからは、当時無敵と言われたスタン・ハンセンとさかんに戦うようになりましたが、全く互角以上でした。60歳を過ぎてもかなりのファイトができたのは、レスリングを叩き込まれているので、受身が完全にできたからだそうです。
本当に強くなければ、あれだけの成功を収められたはずがありません。
また、プロモーターとしても偉大で、外国人レスラーはもちろん、海外のプロモーターからの信頼も抜群であったことはよく知られていますが、経営手腕と共に、常識を備え、決して人を裏切らない誠実な人であったようです。
最後に勝手な想像で申し訳ないですが、発表は遅かったながら、若い時に既に結婚していたに関わらず子供がなかったのは、わざと作らなかったからのようにも思えます。自分の巨体を遺伝させた子供を作りたくなかったのではと思います。実は、同じような理由で結婚しなかった、肉体的に大きな劣等感を持ったある人の話から、そう思うようになりました。


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2009.10.16

なぜ愛と真理に向かう必要があるのか

お釈迦様やイエス様のように、悟りを開いて絶対的な境地に達するのは最上であるとしても、そんなことが可能な者は1時代に何人いるのか分らないし、我々凡人には縁のないことかもしれない。
しかし、一方、社会的に成功し、富豪にもなった者の中には、聖者とは言えないまでも、人として偉大であると認識できる者は、いくらかはいると思える。例えば、松下幸之助さんやアンドリュー・カーネギー、あるいは、斎藤一人さんのようにである。ただし、やはりこれらの人達には世俗的欲望も十分にあるだろうし、残念なことに、晩節を汚したという人もいる。しかし、世の中に貢献し、多くの家庭に糧を与えたわけで、普通の人に比べれば、やはりはるかに偉大と言えると思う。

そうすると、我々は、実現があり得ないような聖人への道ではなく、社会で成功しつつ、人として出来る限りの向上を果たすべきであるのだろうか?

最も良いのは、やはり解脱を達成することなのだろう。
ただし、それは普通の人間には、ほぼ100パーセント不可能である。
だからといって、真理や愛を捨て、欲望のままに生きるなら、非常に悲惨な結果となる可能性が高い。
それがなぜかの説明は難しい。しかし、事実である。
人は、理想的なレベルでないとしても、愛や真理に向かなければならない理由があるのだ。
だから、最高の悟りの境地としての、愛や真理ではなくても、世俗レベルであっても、愛や真理に向かうことで、量や質において本当に聖なるものに劣るとはいえ、同じある何かを得るのである。
これらを完全に説明することはできない。しかし、ごく大雑把に説明すれば、人が、愛や真理に意識を向けた時、ある霊妙な存在から、ある種のエネルギーや光のようなものが注がれるように思う。そのエネルギーや光が、我々に幸福をもたらす作用を起こすのである。
だから、我々に欲望があり、それを実現させようとする場合にも、何らかの心構えをそこに持たなくてはならないのである。例えば、公正な競争であるとか、社会貢献、ユーザーの幸福への貢献、ライバルに対する慈悲とかである。そういったものを全く持たず、ただ自分さえ良ければ良いと考え行動すると、光が注がれず、別の存在から闇が注がれるのである。注がれる闇の量が増えると、その者は闇の住人となってしまい、闇が心地よく感じるまでになってしまう。
そうなると、一時期は力があって良い思いをするかもしれないが、やがては、闇をもたらした者に弄ばれたり、闇の力の代価を払わされるものである。
これらの理(ことわり)を解りやすくするために、人類は、天使と悪霊を光と闇の力の象徴として用いてきたのだと思う。天使や悪霊は、物語や絵画に表された通りではないかもしれないが、やはり確実に存在すると思う。ただそれは、私が最近よく言う、物理世界の存在ではなく情報世界、あるいは、抽象世界、形而上世界の存在である。


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2009.10.15

政木和三さんのオモチャ

政木和三さんがご存命の時、政木さんの研究所に行くと、政木さんは、針金で作った手作りの立体パズル(大きな知恵の輪)を見せてくれた。
よほどお気に入りと見えて、その際にお願いした後日の講演会にも持ってこられ、講演の小道具に使っておられた。おそらく、その頃の講演ではよく使われていたのだろうと思う。

一見すると、決して外れるはずがないと思うような形であるが、慣れれば簡単に外れる。

講演会後の懇親会で、政木さんはその立体パズルを気軽に人々に使わせていたが、ほとんど誰も外せなかったと思う。
そこにいたのは、多くは中小企業の社長さん達だった。
皆がその立体パズルを外そうと苦労しておられる中で、私がそれを受け取った。

政木さんは、科学者で発明家であると同時に、神人、あるいは、超能力者と認識されていることも多い。一度も練習したことがないピアノを見事に弾きこなしてみせる。その腕前は世界的なピアニストが絶賛したこともあり、ソロピアノ演奏のCDも出している。
そのCDのカップリング曲は、政木さんが作詞作曲した曲を、あの中国の天才音楽家ウー・ルーチンさんが日本語で歌ったものだ。さすがに素晴らしい歌である。

ウー・ルーチンさんのオフィシャルWebサイトはこちら

私は、立体パズルを数秒で簡単に外してみせた。
私も名刺で割り箸を切ったりする怪しげな人だ。
いや、名刺どころか、割り箸が入っている薄い紙袋で、縦4本の割り箸を切って見せたこともある。

これらは別に私の自慢ではなく、誰でもできることだ。
一見、出来そうにないことも、やり方が分れば簡単にできる。世の中、そんなものが多いのだ。
自分には不可能と思うことも、やってみればほとんど何でも出来る。
そのためには、先入観を持たず、無心で挑むことだ。
政木さんも、この立体パズルをやる際は、何も考えず、心を虚しくしてやれば簡単だと言われた。
政木さんは、心を無にすることの大切さを教えておられたのだろうと思う。

私は、子供用の知的玩具として売られているこの立体パズルを入手し、いろんな人にやっていただいた。
ほとんど、誰もすぐには外せなかったが、ただ一人、あっさり外して見せた人がいる。急成長していた学習塾会社の経営者の方だった。さすがだと思った。

この立体パズルを以下に紹介しておく。


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2009.10.14

現実世界と情報世界

私には、インターネットというものは、この世とあの世のはざ間にあるもののように思える。

あの世は、完璧な情報世界だ。
我々、この世の人間には、見ることも、聞くことも、指で触ることもできない。
あの世は霊の世界であるが、それは情報世界であり、あの世や霊があるとかないとかを、まるでこの世に存在するものと同等に考えたり議論しても全く意味はない。言ってみれば、有ると言えば有るし、無いと言えば無いのである。

しかし、インターネットは、物理世界と情報世界にまたがって存在している。
ところが、そのようなものは、インターネットが無い時代からあった。
金融取引である。
いや、そもそもが、お金自体が情報世界のものである。
人類は、文明の初期から、情報世界を扱ってきたのである。
お金というのは、コインやお札ではない。それらは単なる象徴だ。本質は情報なのである。

現在は、情報の扱い方が上手いと、お金は無限に稼げる。
ほとんど社会経験のない若者が株取引で月に何億円も稼ぐかと思えば、元証券マンで長い社会経験を持つ者が同じことをしても全く儲けられないばかりか、大損をしたりする。その違いは、情報の扱い方の能力である。

ただ、情報を扱って儲けたお金を物理世界で使うのは本来タブーであり、そんなことが横行すると、個人にも社会にも災厄が起こる。
金融破たんはその端的な例だ。
この現象は、インターネットなど比較にならない高度な情報世界の関与によって起こるものである。
毎日、長時間汗を流して働いて年収200万円の農家が作った作物を、家の中でパソコンを操作するだけで稼いだお金で買おうとすると、高度な情報世界の作用を受けるのである。それは罰とかいうものではないのだけれど、結果としては悲惨な現象となるかもしれない。


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2009.10.13

言霊

ハンセン病(らい病)は、現在でこそ完全に治癒が可能であるが、人類の歴史を通じて、特に昭和の初期位までは絶望的な難病であった。
もちろん、現在でも、適切な治療が行われないなら、やはり恐ろしい病気である。
江戸末期の神道家、黒住宗忠は、難病をまじないで治すという評判が高まってしまい、実際に治す力があり、頼まれれば断わらずに治療を行ったという。
その中に、ハンセン病の患者がいた。
宗忠は、患者に「有り難い」を一心に、1日百回唱えよと言った。
しかし、患者がその通りにしても治癒の気配はなかった。
そこで、宗忠は、「では1日千回」と言った。
患者は従ったが、それでも治らない。
すると、宗忠は、「1日1万回」と言う。
患者がその通りにすると、1週間後、患者は吐血し、眠りについたが、目覚めた時には完治していたという。

言霊の力について最近よく聞くが、この話が、その威力を最も端的に語っていると思う。
斎藤一人さんがよく、そういった言葉の力を説いているが、西洋でも、ノーマン・ヴィンセント・ピールや、「マスターの教え」、あるいは、ジョセフ・マーフィーの成功法則などで、良い言葉を口に出していうことを薦めているものもある。
「はじめに言葉ありき」らしい。

関連の書籍を紹介する。












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2009.10.12

アトムと8マン

手塚治虫さんの「鉄腕アトム」のハリウッド版である「ATOM」(CGアニメ)のニュースを時々見る。
しかし、アシモフの感動的な小説「アイ・ロボット(邦訳:われはロボット)」を超えたものではないと思う。

「鉄腕アトム」が日本で放送開始されたのは1963年。45年以上前の話だ。
同じ年に、「鉄腕アトム」(フジテレビ放送)に対抗する目的でTBSが企画したことから漫画、アニメが制作されたのが「8(エイト)マン」だ。原作に新進気鋭のSF作家であった平井和正さん。漫画は、脱手塚治虫を目指して、本格的イラストレーションを学んだ桑田次郎(現、桑田二郎)さんが共にオーディションで選ばれ、狙い通り、8マンはアトムに十分以上に対抗した。

アトムと8マンの顕著な違いは、共に1963年(あるいはそれ以前)の制作であるが、アトムは未来(2003年)の話であるのに対し、8マンはその時代の話であることだ。
共に、特に当時としては夢のような話であるが、8マンは、今見ても、案外に科学的設定が地に付いているところが面白い。当時は、LSIが発明されて間もない時代で、真空管が全盛であり、ロボットの電子頭脳を造れるはずもないのだが、旧ソビエトの誇り高き天才科学者デーモン博士が、8マンの電子頭脳に対し、「さすがのわしも、これだけは造れなかった」と言うところなど、何かリアルに感じるのである。漫画やアニメで出てくることは無かったが、8マンは超古代文明のテクノロジが採用されているという話もあり、谷博士が8マンをどう作ったかは謎の部分が多い。

ハリウッド映画「アトム」は、日本の元のアニメが遠い未来を想定していたこともあり、ストーリーはやや異なるにしろ、日本のアニメのままの感覚で見れると思う。
対して、8マンは、現在はどうなっているのだろうか?
実は、8マンであった、元探偵の東八郎、およびその開発者である谷博士はこの世になく、情報空間にいるのである。8マンの正統な続編である「8マンインフィニティ」は、今後の世界で更に重要度を高める情報世界を本格的に扱っている。日本の漫画、アニメでも「コレクター・ユイ」などは、21世紀直前の作品でありながら、情報世界主体の作品であり、なかなか面白かった。
「8マンインフィニティ」は実に素晴らしい作品ではあるが、世間から進みすぎていたかもしれない。どうも、制作が中断しているような雰囲気である。
かつての「8マン」にも登場した巨大コンピューター「超人サイバー」は現代風に進化して甦り、原作にはなかった(ただし原作者が脚本を書いたアニメで登場する)谷博士の息子ケンも登場して重要な役割を果たす。


8マンインフィニティ(第1巻)
2005年出版。現在、6巻まで出版されているが、ストーリーは未完。連載開始は2004年。
巻末に「8マン」原作者の平井和正氏と、平井氏が指名した「8マンインフィニティ」の原作者七月鏡一氏の対談前編と、「8マン」漫画作者の桑田二郎氏のインタビュー前編があり、非常に興味深い。

8マン(第1巻)
初版は1968年。全5巻。連載開始は1963年。
当時、手塚治虫的な絵が主流だった中で、完全なプロポーションの人体をシャープに描いた桑田次郎(現、桑田二郎)さんの絵は画期的だった。
プロポーションだけでなく、切れ長の目のさち子さんの憂いの表情は実に魅力的で、海外でも人気があったようだ。

8マン(6)(文庫)
事情で桑田二郎氏が執筆できなかった最終話を、1990年に桑田二郎氏が26年振りに執筆して完結させた。
この最終話「魔神コズマ」は、原作者の平井和正氏が最もお気に入りの作品であったと言われる幻の傑作である。


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2009.10.11

肉食について

キリスト教では、聖書の記述を根拠として、肉食を禁じてはいないと思われる。
新約聖書の中に、ペテロの幻視の中で、イエスがペテロに、獣を屠(ほふ)って食べよと指示している記述がある。屠るとは、殺すという意味である。
これにより、主によって全ての食べ物は清いと宣言されたと解釈されていると思う。

仏教においても、釈迦は肉食を禁じてはおらず、釈迦自身も豚肉料理を食していたと考えられている。

ただ、注意いただきたいのは、イエスは「屠って食べよ」と言っていることだ。
今の日本のように、まるで牛肉や豚肉が、畑で取れたかのようにパックで売っているものを食べよと言っているのではない。
自分で獣を殺せるなら、あるいは、せめて、死体からでも皮を剥ぎ、肉を切り取るなら、その肉を食べる権利があるかもしれない。
子供であっても、その様子を見ることが、肉を食べる条件であると思う。

肉を食べるなら、自分で狩猟をするのが最も良い。狩って殺し、皮を剥ぐことにより、生きていたものを食べているという自覚ができる。
「牛や豚に感謝して食べれば良い」と言う者もいるが、それらの動物が殺される様子を見て初めてそれができるし、感謝以上の荘厳さを感じるのだろうと思う。そうであれば、無駄に食べたり、ただ馬鹿みたいに喜んで食べることもないはずだ。
私にはいかなる動物も、鳥も殺せない。幸いにして、肉を食べなければならない事情もない。よって、肉は食べない。

ホツマツタエ(古事記や日本書紀以前に書かれたとされる日本の古代文献)では、アマテル(神でもある古代の皇子。古事記の天照大神と同等の存在)は、最も良い食べ物は野菜で、次が鱗のある魚と教えている。そして、鳥や獣は食べてはならないとし、その訳も示している。
インドの聖者ラマナ・マハルシは、肉食をしながら解脱した者は確かにいるが、それは難しく、好ましくないと言った。そして、良い食べ物は何かと聞かれると、「パン、フルーツ、野菜、ミルク」を上げた。彼は、魚、卵も食べなかった。
ただし、解脱した後では、食べ物の影響は受けないとも言っている。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジも少しであるが肉食をしていたが、単なるなりゆきであろうと思う。
しかし、やはり普通の人は、穀物等が全く入手できないといった理由で、肉食をしないと必要な栄養を摂取できない状況にあるわけでもない限りは、肉食をしない方が良いだろう。特に、我々日本人の胃腸は沢山の肉を消化吸収するようにはできていないと思う。
興味深いのは、岡本太郎は、縄文式土器を見て、彼の至高の感覚が教えるところでは、そこに認められる空間感覚は確実に狩猟民族のものであると言ったことだ。ただ、それは日本人が稲作を始める前のことであり、稲作をすることで、日本人は失うものもあったであろうが、やはり進歩したのであると私は思う。せっかくの進歩を無にしてしまうこともない。
ただ、日本にも、現在は少なくなったが、狩猟を行う人々は存在し続け、彼らはまた独自の進歩をしており、その一端に触れれば惹き込まれるような壮大で貴重なものがあることを付け加えておく。


ぼくは漁師になった
自分で獲って、さばいて、食べる漁師の手記。
もちろん、本を読むだけで分かることに限度はあるのだが、我々の知らなかった、知りえなかった世界を垣間見ることで、意識の変革の可能性につなげることができるかもしれない。


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2009.10.10

神に近付くということ

ノーマン・ヴィンセント・ピールや斎藤一人さんが教える、出会う人全てに対して、「この人に良きことが雪崩のように起こります」と祈るのは、神に近付くことでもあると思う。
なぜなら、それは神の意思と一致するものであるからだ。
ただし、自分の好きな人には祈り、嫌いな人には祈らないなら、それは悪霊の意思に一致するものであるから、くれぐれもご注意を。

神に近付くことを強く実感した話として、私は、「20世紀最大の詩人」W.B.イェイツが書いたとされる不思議な手記を思い出す。
あるアラブ人は、家を奪われた時、家族を殺された時、そして、自分に死期が迫った時、3つの喜びの詩を作った。
彼は言う。「神の意思(choice)を崇拝するのではない。神の偶然(chance)を崇拝するのだ。その時、私は限りなく神に近付く」
これは、ニーチェの言う運命愛と同じものと思う。大宇宙の偶然を自分の意思とすることで神に近付くのである。
ただ、その偶然は、「神の思し召し」ではなく、神が振ったサイコロの目であり、神のサイコロが無限の目を持つところが我々の小さな知恵を超えている。

これではあまりに分かり難いであろうから、以下にもっと易しい話をする。

人生を全て神に明け渡し、全ての責任を神に負わせることを教えたラマナ・マハルシや、やはり、全てを神(天照大神)にまかせて安心することを教えた黒住宗忠の教えは、イェイツやニーチェと異なるように思えるが、マハルシや宗忠は、人は元々神と一体であるとしているのであり、むしろ純粋な神との合一を目指したものと思える。
特に、日本の神道では、人は神の直系の子孫であり、元々が神なのである。ヒンズー教の信仰の基である古代インド哲学も似ているものと思う。
神道やヒンズー教、あるいは、中国の道教は、宗教と言うより信仰であり、キリスト教や仏教だって、宗教としては弊害も多いが、信仰としては貴いものであることは間違いないと思う。


あるがままに ラマナ・マハルシの教え
私にも、ラマナ・マハルシが本物の覚者であることは容易に認識でき、そのおかげで、偽者を簡単に見分けることができた。
そして、マハルシは人々を苦しみから救おうという慈愛に満ちていたことを強く感じるのである。
本書の巻末に収録された「私は誰か?」という、ラマナ・マハルシとの問答集は、至宝とされる小冊子であり、あまりに貴重なものである。マハルシが21歳の時、質問に対し砂に指で書いて答えたものだ(彼は数年の沈黙の行に入っており、話すことができなかった)。約20年後に出版されたが、その際、マハルシは読者に解りやすいよう多少手を加えたが、内容そのものに変化はないと思う。マハルシは、彼の教えを理解するに、これで十分であると言う。
本書自体がマハルシとの問答集であるが、私がそうであったように、自分と似た疑問がいくらか質問されており、非常にありがたいものであると思う。


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2009.10.09

人生は実験場

藤平光一さんの著書「氣の威力」に、自分の人生は氣の実験場であったと書かれていた。
これを書かれた時、藤平さんは70歳くらい。来年、90歳のはずだが、まだ実験を続けておられると思う。

我々の人生もまた実験だろう。
そう思えば、どんな状況も楽しいものだ。
潜在意識の力で金持ちになる実験だって立派な実験テーマだ。金儲けは厳しいものであるが、ある意味では、これは単なる実験だという醒めた気持ちも必要と思う。ジョセフ・マーフィーも「軽いタッチが必要だ」と言っていたが、私もその通りと思う。
実験だから失敗もあるだろうが、金儲けといったことに関しては、数多くの先達がやり方を見つけているので、信頼できる手法でしっかり実験する限り結果は得られると思う。ただ、実験にだって計画や要領、それに忍耐は必要だ。それに、上にも書いた、実験であるというある程度の冷静さや軽いタッチである。
石田純一さんは、女性にモテる実験をするために生まれたのかもしれない。ただ、当然、実験が上手くなるまでには、何度も失敗があったと思う。

自己啓発書や成功哲学、そして聖典や聖者の教えは実験の手引きのようなものだ。本当かどうかは、自分で実験しなければ分からない。
だから、何でもやってみることに価値がある。
では、楽しい実験を。


氣の威力

氣を出せば何事もうまくいきます。4つの簡単な氣を出す方法が書かれていて、藤平さんは、どれか1つやれば良いと言います。
私は、「氣が出ていると思う」というのが好きです。そんな簡単な方法が書かれています。
氣が出ていることを確認できる、驚くべき実験もいろいろ紹介されています。

あなたも金持ちになれる

あの渡部昇一さんの運命を変えた1冊です。
「神はあなたの年長のパートナーである」という考え方が新鮮だと感じました。
ジョセフ・マーフィーの成功法則の中でも基本的なものと思います。本書は、富に特化したものですが、マーフィーの成功法則自体がそうであるように、決して、我欲に凝り固まった教えではありません。

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2009.10.08

力の挨拶

「スタートレック」で、ミスター・スポックら知性と理性を誇るバルカン星人達は、挨拶の言葉として、「あなたに長寿と繁栄を」と言うようだ。
「スターウォーズ」では、ジェダイ同士の挨拶と思うが、「フォースと共にあることを」と言う。フォースとは、単純には「力」のことであるが、この作品では、神秘的戦士であるジェダイが操るある聖なるエネルギーのことで、一般的には宇宙エネルギーと言っても良いと思う。
「灼眼のシャナ」に登場する、シャナ以前の「炎髪灼眼の討ち手」であったマティルダ・サントメールは、死に向かう別れ際に「あなた達に天下無敵の幸運を」と言ったが、それが彼女の常用の挨拶だったと思う。

これらの話には、間違いなく、少なくとも世俗の成功者であろう、これらの作品の作者達のある種の信念がうかがえる。
人の幸せを祈ることが自らの力となるということだ。

ノーマン・ヴィンセント・ピールや斎藤一人さんは、毎日、出会う人ごとに、その人に良いことが雪崩のように起こることを祈ることを薦めている。
これも同じ思想と言って良いはずだ。

これらの人たちと同じようにやればもちろん良いのであるが、人の幸せを祈る限り、オリジナルでも構わないはずだ。人にはそれぞれ個性があるので、自分の気持ちよい方法でやれば良いと思う。
もちろん、素直に言われた通りやるというのも良いことだが、ただ下心や欲望だけでやっても・・・まあ、形から入るのも良いものではあるらしいのだが、ここらはやや微妙であるかもしれない。
五井昌久さんの世界平和の祈りでは、特に個人を限定せず「世界人類が平和でありますように。日本が平和でありますように」と祈るが、全ての個人は世界人類に含まれるし、我々が毎日逢う人は日本にいるので全てカバーできることになる。さらに、世界平和の祈りは「守護霊様、ありがとうございます。守護神様、ありがとうございます」で終る。
メキシコのノーシスという秘教的思想では、これと似た雰囲気の祈りがあるが、私は気に入っている。それは、「万物が幸福でありますように。万物が幸運でありますように。万物が平和でありますように」という、「万物の祈り」というものであるが、全ては万物に含まれるので、これはまさに万能の祈りと言える。

私の個人的な祈りはこうだ。「万物に平和を。全ての人に喜びを」
「平和」という言葉に全ての良きことが含まれており、特に人にとって、喜びとは良いものであると思うので、このように祈る。
新体道という武道の創始者である青木宏之さんが、人間は喜びの表現体だと言っていたのが印象的であったということもある。
私が神であれば、最も望むことを言葉にすれば、こうなると思う。
要は、自分の望むことを全ての人に対して祈るのがコツと思う。
お金が欲しいなら、「全ての人が豊かでありますように」となると思う。
私も、時として、「全ての人に、希望と生きがいと繁栄と心の安らぎを」とする。人として、私の望むものは、まあ、そんなところである。


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2009.10.07

ニートのような子供の感覚で幸福になれない訳

幸福や成功への道は連続的なもの・・・即ち、「毎日、少しずつ先に進んでいくもの」と思います。
一足飛びに成功したり、幸福になったりということは、心理的にはあるかもしれませんが、現実的にはありません。

エミール・クーエの「毎日、あらゆる面で、ますます良くなっていく」という言葉を、正しく自己暗示として活用すれば、必ずや何事もうまくいくはずですが、すぐに「この言葉を唱えたら、良くなったと思います」と言う人は、現実を生きていない可能性が高いと思われます。
早い話が、自分では何もしていない人でしょう。

例えば、お店を出すとします。
最初の段階では、成功とはほど遠く、失敗とは言いませんが、現象としては悪いことしかありません。
金はかかるし、面倒なことが山のようにあるし、トラブルが無い方が不思議で、むしろ数多くのトラブルがあるものと覚悟しておいた方が良いでしょう。
また、必ず必要となる業者との折衝は、なんとも根気や忍耐を要するものです。

私は最近、車を1台買いましたが、学生や無職者などに車を買ってやったりしてはいけないと思います。
車1台買うだけでも、それなりのお金や、複雑な手続が存在します。
しかし、学生や無職者は、それらに関る部分がそもそもないですので、ただ乗るだけの人になってしまいます。まるで魔法で車が出てきたような感じです。そんな経験をさせることは、その者の将来を損なうだけでありましょう。

言い古されてきましたが、幸福はやってくるものではなく、自分で創るものです。
それが分るくらい大人になってこそ、成功や自己実現があります。
子供の感覚を脱し、自己確立することが必要です。
残念ながら、ニートにはそれが不可能であり、彼らがいかに不幸か分るのです。


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2009.10.06

大祓詞の威力を斎藤一人さんの教えで実感する

斎藤一人さんが教える、幸福になるための方法の重要なものとして、毎日、百人の人に、「全ての良き事が雪崩のごとく起きます」と祈るというものがあります。
実は私は、これが大変に苦手でした。
どうしても好きになれない人や嫌悪感を感じる人が多い・・・と言うよりは、基本的に人嫌いですので、そのようなことをするのは非常に苦痛な訳です。
この祈りは、私の認識では、アメリカの牧師であるノーマン・ヴィンセント・ピールの「積極的考え方の力」という本にあるものとほぼ同じで、一人さんもこれを参考にしたのかもしれないと思います。
「積極的考え方の力」はアメリカでは3年連続ベストセラーの首位という記録的なセールスとなり、日本では1954年に相沢勉(桑名一央)さんの翻訳で出版されています。この翻訳は、やや文語調の古い言い回しが多かったのですが、2000年に相沢さんが分り易い文章に翻訳し直し、2003年に桑名一央さん名の翻訳で新装版となり、現在も販売されています。

私は昔、「積極的考え方の力」を読んだ時、この、逢う人ごとに良いことが起こるのを祈るのは、所詮キリスト教的(汝の隣人を愛せよ)で、クリスチャンでない自分には向かないと諦めておりました。

しかし、先日から、一人さんの講演CDである「つやこ49」を聞き、ここは1つ挑戦しようと思いました。
するとどういうわけか、これが楽々と出来る上、非常に快適であることに驚きました。
以前なら、少なくとも心の中ではキレてしまう、歩きながら煙草を吸う人や、人ごみの中で携帯電話を見ながらのろのろ歩く人にすら、「祈りの砲撃」を抵抗なく見舞いました(「祈りの砲撃は、「積極的考え方」にある表現)。
私は通勤での、駅までの道や、駅構内、電車の中だけで、百人は軽く突破できます。
相手が子供の場合は、「この子の人生に、全ての良き事が雪崩のように起きますよう」と祈ります。
そして、お年寄りの場合は、本当に心から、「全ての良きことが、この方に起きますよう」と祈れます。

これは、一人さんの講演CDのおかげかもしれませんが、8月から3千回以上、「大祓詞(おおはらえのことば)」という神道の祝詞を上げているためとも思われます。平均で、1日50回以上唱えていますが、1回に3分はかかりますので、単純計算で1日2時間半で、実際は3時間以上です。しかし、会社に行かないといけない平日はせいぜい40回ですので、、休みの日には6時間以上唱えています。用事のない時は常に唱えている感じです。
大祓詞の威力は本当に凄いかもしれません。そもそもが、これほど長時間、毎日欠かさず唱えることができるというのが、大祓詞の力であり、これが日本人である私の心、あるいは、DNAに作用するものであると思います。


積極的考え方の力
1952年にアメリカで出版された、本書“原題:The Power of Positive Thinking”は、全米で3年連続のベストセラーとなりました。
日本でも半世紀以上のロングセラーとなり、人気は衰えません。
著者のノーマン・ヴィンセント・ピールは牧師で、ジョセフ・マーフィーのように、聖書の教えの発展的理解により、世の中のあらゆる問題に対して人々を導きました。
ピールはマーフィーより11日だけ後に生まれ(1898年5月31日)、1993年のクリスマスイヴに亡くなっています。
「積極的考え方の力」は、マーフィーの著書も多く翻訳している桑名一央さんにより翻訳され続けています。

斎藤一人15分間ハッピーラッキー
本日もこの本をご紹介。
敢えて言えば、最も重要な、顔にツヤを出す具体的方法は書かれていません。
これに関しましては、私の勝手な意見ですが、銀座まるかんHPで、お近くの店舗を検索するか、同サイト内に、やむを得ず設置してある通販で(原則は来店購入が望ましい)、「セイケイ美容オイル」を購入されると良いと思います。

大祓 知恵のことば―CDブック
当ブログの左サイドにもご紹介しておりますが、私が大祓詞を唱えるために参考にした、春日大社宮司で、世界最高の形成外科医でもあった葉室頼昭さんの著書です。
大祓詞のひらがな書きとCDも附属し、すぐに大祓詞を始めることができます。
私は、現在は毎月千回を目標に大祓詞を唱えています。


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2009.10.05

掟が力の対価である

心安らかな悟りの境地は良いものだろうが、生きている我々には、パッション(情熱)やガッツも必要であり、生きがいや仕事も大切と思う。
そんな当たり前のことを時々思い知る。

人が力を得る原理は、私は「ローム太霊講話集」で学んだ。
それは、「自己制約」と明記されている。
人は放縦(勝手気まま)に生きるのが好きだが、そこに敢えて自分で制限を加えることで、神は加えた制限に倍する力をくれるのである。
それは、自分に誓った約束、自分に課した掟である。
自己への制約を自分に誓約するとは、面白い言葉であると思った。

そして、水野南北の書を読めば、最大の掟が食の慎みであることを感じるのである。
誰でも、美味しいものをお腹いっぱいに食べたい。
しかし、エマニュエル・スウェーデンボルグは満腹して自分を甘やかしてはならないことを霊に教わり、斎藤一人さんも、お腹一杯食べてはいけないことを講演で言われていたが、本当に優れた人物は皆知ってることのように思う。
ただ、力が来るより先に試練が訪れる。楽天家はこう言う。「私を試練に導け」と。
明けない夜はない。それもまた原理である。
もっとも、世界的事業家のチン・ニンチュウ(台湾出身のアメリカ人女性作家)によれば、試練は、神様が我々を楽しませるために与えるもののようである。
では、せいぜい楽しもうではないか。


霊界日記
エマーソン、ゲーテ、カント、ヘレン・ケラー、鈴木大拙、宮沢賢治らに大きな影響を与えた、天才科学者、政治家、思想家エマニュエル・スウェーデンボルグの日記の重要部分。

誰でも小さなことで大切な願いがかなえられる
母国台湾で不遇な少女時代を送りながら、事業家、作家として大成功したチン・ニンチュウの教えは、日本人にも非常に共感しやすいと思う。
こんな良い本がなぜ絶版になるのか不思議である。


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2009.10.04

「つやこ49」がなぜ60万円以上でないのか

別に過大に持ち上げようというわけではなく、本心なのだが、斎藤一人さんの講演、講座のCD「つやこ49」に60万円以上の値が付いていないのは不思議に思う。
「つやこ49」は、舛岡はなえさんの著書に付いているCDである(後で紹介する)。

私は、米国のある自己開発講義のCDをほぼフルセットで購入した。
その基本部分が約60万円であった。
英語の講義を日本語に翻訳し、CDにしたもので、1回が30分位のものが20近くある。
このプログラムの開発者は若くして億万長者、そして世界的事業家になったというだけでなく、非常に誠意ある人物だ。
彼は、日本語に訳された講義をさらに英語に訳させて聞いたところ、納得がいかなかったので、再度、日本語訳をやり直させ、さらにまた英語に翻訳させて聞き、納得したので、日本で販売したという。

素晴らしい講義であり、60万円の値段には私は心から納得している。
他の2つの部分も追加で購入したほどだ。

しかし、「つやこ49」を聞くと、この1200円の本に付属の1枚のCDの方がずっと良いのだ。
正直、その価値は60万円どころではないと思うが、とりあえず世界的な自己開発プログラムと比べたのである。
斎藤一人さんは、百回聞くよう言っているが、それはわけないと思う。

約束通り、その本を以下に紹介する。


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2009.10.03

やる気のない自動車会社の販売員

私は自動車に関しては、「必要なければ買うな」「乗るなら長く大切に」と書いてきたが、今回はかなり違うことを書きたい。

アメリカに、ロス・ペローという大富豪がいる。
1992年と1996年の2度、アメリカ大統領選に立候補したことで憶えておられる方も多いと思う。
現在までのところは大統領にはなれなかったが、選挙戦では「お金の問題で負けることはない」と言われるほど、他候補を圧倒する潤沢な資金をつぎ込んで、政治経験が無い割にはよく戦った。

彼が、自分の車を点検に出した時のことだ。
大富豪には珍しく、自分で車を持ち込んだのかもしれない。
点検の完了を待っている間、自動車会社の人はコーヒーを薦めてはきても、新しい車を買えと言わないことがペローには疑問だった。
そこにいるのはロス・ペローである。いかなる高級車でも、ポケットマネーで、配って回るほど買えることは誰でも知っているはずだ。
しかし、誰も彼に新車を薦めない。
その時のペローの不満が雑誌か何かに掲載された後、ペローの家から遠い場所にある自動車販売会社の若いセールスマンが、最高級の新車を運転してペローの家に行き、帰りはペローの持つ別の車の後部座席に坐って帰ることになった。

私は高級車は不要だし、買えないが、前回も書いた通り、新車を注文した。
これまで乗っていた車の販売会社やセールスマンは、私に新車を買えと一度も言わなかった。
それで、何だか、買って欲しくないのかなという気分になり、別の自動車会社であるS社の車を見に行った。
展示されていた車の中の、私が気に入った車について、応対していただいた販売員の方といろいろ話し、見積りももらった。
私は、今は契約しないが、買う気はあるから、いつでも連絡してくれて構わないと言って引き上げた。
しかし、数日経っても、電話の1本もないので不思議に思っていたが、さらにその後2週間以上も音沙汰なしだった。ある平日、あの時の販売員が私が外出中に訪問してきたようだ。しかし、それからも連絡は全くない。

そのS社が全くアクションを見せないので、D社のWebサイトで、新車のオンライン見積りを申し込んだ。名前も住所も書き込んだ。
「1ヶ月以内に新車を買う」と書いた。
しかし、このD社も、家に来ないばかりか、電話の1本、メールの1つもして来ない。

今の自動車会社って、こんなものなのか?
大不況で車が売れなくて困っているはずではないのか?
私も営業は素人ではない。こんな体たらくで車が売れないと嘆くなど片腹痛い。

さて、そこでM社に行った。
やはり目当ての車を見つけると、見積りをもらった。
さて、今度はどうだろう?
その日、夕食が終わった頃、応対してくれた販売員の方が来てくれた。
私は、家の中に招き、「色で迷っている」と話し、次に店に行く日時を伝え、その時に契約をしたのだった。

日本の自動車はどれも素晴らしい。
しかし、販売員がやる気がないのではないだろうか?
こんなやる気のない自動車会社を援助する必要があるとは思えない。


強豪セールスの秘密
時代錯誤もいいところかもしれないが、確実に何かを得られるに違いないと思う本。
日産自動車16年連続世界一の伝説の強豪セールスマンの自伝。
何も持たない者が、セールスという仕事に賭けて激しく生きた記録。本物の迫力に圧倒されて血が燃えるか、ただ冷笑するかはその人次第。


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2009.10.02

コンパクトカーに買い替える

世の中、男女に限らず、乗っている車の値段を自分の価値と思い違いしている人は多いと感じます。
いい加減、こんな馬鹿げた観念は、きれいさっぱり世の中から無くしたいものです。
500万円以上の車を楽々買えるのに、軽自動車やコンパクトカーに乗っている人も沢山います。立派なことと思います。
もちろん、本当にその良さが分かって高級車に乗っているなら良いことかもしれませんが、私には猫に小判です。

鳩山総理は、国連気候変動サミットで演説し、温室効果ガス排出について2020年までに1990年比で25%削減を目指す中期目標を表明し、海外の賞賛を受けました。
政治には疎い私ですが、良いことなら出来る範囲のことで賛同する行いをしたいものです。

で、私も車を買い替えます。昨日、契約してきました。
自動車に関して、環境のために我々にできる最良のことは、何といっても車に乗らない、車を所有しないことです。
私も、必要がなければ車を所有しないでしょう。
次に良いのが、なるべく排気量が小さく、コンパクトで軽い1台の車に、できる限り長い期間乗ることです。そして、本当に必要がなければ走らせないことです。
ハイブリッド車に関しましては、私は疑問に思っております。少なくとも、重くて排気量が大きく、実燃費もさしてよくありません。車の製造、廃棄に関しても、普通の車より環境に悪いと思われます。
せいぜいが、同じ排気量の普通のガソリン車に比べて少し燃費が良いという程度のことと思います。

多少言い訳っぽいですが、私は、母親が脚が少し悪いですので、買い物などに車で連れていくことがあり、他の必要もあって、とりあえず車を持っておきたいと思います。
現在は無用に大きな車に乗ってますが、次はコンパクトな車にします。
今はCVT方式のオートマチック車が多く、1つの規定上の試験では燃費が良くて、エコカー減税やエコカー補助金の対象となる場合が多いのですが、実用上の燃費が良いとは思えません。
レスポンスや耐久性も、最近のは良くなっているとは思いますが、根本的に効率が悪く複雑な構造で、性能を維持するにはメンテナンスに気を付ける必要があると思います。

以上のような理由から、私は、コンパクトサイズの4速オートマチック車を選びました。
国産車です。ほんの少しですが、イギリスのミニを買おうとも思いました。私も、少しは車好きなところもあるかもしれません。
ただ、ミニクーパーでなくても、ミニワンで十分と思っています。
値段は、同じ位の排気量の日本車より百万円高いですが、それよりも、私の家の近所に販売店がなく、早々に諦めました。近くに販売店が無くてもちゃんと買えるのですが、すぐに話の通じる担当の方が近くの販売店に居ないのは非常に不便だということを経験していることもあります。

世間では、子供ができたら大きな車が必要なんてよく言われますが、それはとんでもない話で、車の無い家で育つ方が子供には絶対に良いことでしょう。
逆に、生まれた時から家に車があり、外出はいつも車なんていう子供は、よほど気を付けないと困ったことになりかねません。
たとえ家に車があっても、やたら使わないことです。遅刻しそうになったから車で送るとか、帰宅時に駅に付いたら雨だったから車で迎えに行くとかいうのも考えものと思います。子供相手にそんなことを度々していたら、その子供はろくな人間に育たない恐れが非常に大きいに違いありません。
天皇陛下は、皇太子殿下達が小学校に入学された時、当然に車での送迎となるはずが、「車を出すような距離ではない」と歩いて通学させたそうです。
立派なことであると思います。


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2009.10.01

朝青龍のガッツポーズの何を責めたいのか?

大相撲の朝青龍が、秋場所、横綱同士の優勝決定戦で白鵬を下した直後に見せたガッツボーズについて、私も少し考えを述べてみましょう。
もし、朝青龍に非があるとしても、彼のマナーや品格ということが問題なのかはやや疑問です。今の時代、いかに格式ある競技でも、プロスポーツでのガッツポーズ程度で騒ぐことはないと思います。
問題は、負けた相手への配慮がなかったということです。
日本には、敗者を思いやる伝統があり、それは日本人にとって非常に大切なものです。これがなくなれば、もう日本はなくなると言って良いくらいです。
ただ、朝青龍も白鵬も、現実問題、日本人ではなく、日本で育ったわけではなく、日本の心を強要するのはどうかとは思います。

昔、プロボクシングで辰吉丈一郎選手が、相手をKOした直後、腕を振り回し、リングを走り回って勝ち誇るといった派手なパフォーマンスを延々と見せたことに違和感を覚えた人は多かったはずです。正直言いまして、私も非常な嫌悪感を覚えました。
しかし、サッカーでゴールを決めた選手やその仲間が、例えばカズダンスのように、派手なパフォーマンスをすることは何の問題もないばかりか、むしろ、やらない方が問題なくらいです。ただし、世界的にはね。このような場合でも、日本人としては、相手チームのGKの無念の表情を見れば、やはりそのようなパフォーマンスに違和感を感じるのではないかと思います。

ドーハの悲劇と呼ばれる1993年のサッカーワールドカップのアジア地区最終予選で、日本チームは、ほぼワールドカップへの切符を手に入れていたはずが、ロスタイムにイラクに同点ゴールを決められてワールドカップ初出場を逃し、グラウンドに座り込んだ選手達の絶望の様子が今でも思い出されるくらいです。しかし、イラクチームの選手達はワールドカップ出場を逃したことで、国に帰ると鞭打ちの刑を受けたと言われ、もし、あそこで日本に負けていたら、より厳しい拷問が待っていたかもしれません。
また、北京オリンピックで、読売ジャイアンツに所属しながらも、日本戦でホームランを打って歓喜の様子をみせたイ・スンヨプには、「これで若い選手達の兵役が免除される」という理由もあったのでした。

我国には、幸い、こういった事情がありませんので、世界にはいろいろ複雑で辛い事情があるということをつい忘れてしまいます。いわゆる平和ボケです。
しかし、日本には、敗者の辛さを深く洞察し、いたわる伝統があったということを忘れてはなりません。


「あしたのジョー」という高森朝雄(梶原一騎)さん原作、ちばてつやさん漫画の伝説的な漫画があります。
正直言いまして、梶原一騎さんは、人間のクズと言われても仕方がないような部分もあるかもしれません。しかし、彼が天才的な作家であったことや、重い人生経験に裏付けられた人間に対する深い洞察があったことは疑いようがありません。
この作品の中にも、それが随所に見られますが、「敗者に対する想い」を考えるのに良いシーンがあります。

丈が紀子(食品店の娘)と、なりゆきではありましたが、初めてデートのようなことをした時です。
紀子は丈に強い好意を持っていましたし、よく考えると、丈も紀子が嫌いな訳ではないことが明らかでした。
紀子は丈に、ボクシングをやめるよう、言葉ではさりげなくであっても、おそらく心では切実な想いで伝えます。
丈がボクシングを続ければ悲劇的な結果になるだろうことは、紀子だけでなく、葉子という、やはり因縁浅からぬ女性(大富豪の令嬢。やはり丈を愛している)も感じており、葉子もまた後に丈に引退を勧めます。
紀子の言葉を丈は、わざとでしょうが無視します。しかし、紀子に返事をうながされると、丈は語ります。

拳闘(ボクシング)は弱肉強食の世界だ。噛み付かないと噛み殺されてしまうから、俺も必死で、死に物狂いで噛み付くんだ。
だが、相手の流した血に対して、とまっちまった心臓に対して、ある負い目が残るのも確かだ。
人の世には、殺した者は死刑になるという掟があるように、いまさら中途半端な形で、疲れただの、拳闘をやめたいだのって贅沢は言えないような気がするんだ。
死んだ力石、アゴを砕いて再起不能にしてしまったウルフ金串、廃人にしちまったカーロスに対してもな。

丈は、複雑な子供時代を送り、心理的には屈折していました(梶原一騎さんがまさにそうであったと思います)。
しかし、敗者に対する思いやりや尊厳の気持ちを歪んでいるなりに持っていたように思います。
それは、歪んでいるとは言っても、とても純粋です。
丁度、梶原一騎さんが、時と場合によっては子供のように純粋になるようにです。梶原一騎さんは、普段は傲慢、尊大で、ヤクザのボスのようでしたが、自分を慕ってくれる後輩や、憧れる女性に対しては実にぎごちなく対応したものでした。

紀子は、ボクシングはスポーツなんだから、死刑だの負い目などという感覚はおかしいと言います。
丈は、確かに、これは俺だけの感じ方かもしれないと認めます(ここらにも、紀子への配慮や好意が感じられる)。
紀子は、丈に、人生を楽しむように言いますが、丈は、自分は負い目だけでやっているわけではなく、やはり拳闘が好きで、それを楽しんでいると言います。そして、それは、そこらの若者のような不完全燃焼の楽しみ方ではなく、一瞬燃え上がり、後には真っ白な灰しか残らない、完全燃焼の楽しみ方だと言います。
紀子は、丈は自分にはとても手に負えない相手であることをはっきり悟ります。おそらく、丈への気持ちはこの時に諦め、それは丈にも伝わった様子でした。ある意味、紀子は丈を見捨てました。しかし、葉子は最後まで気持ちを貫いたようでした。
西との結婚式で、丈を見る紀子の表情には、何か複雑なものを私は感じましたが、ちばてつやさんの力量も、こういったさりげないところに顕れるように思います。

プロスポーツのような世界ではなくても、誰しも競争を免れることはできません。
学校では成績で争い、仕事でも、ほとんどの場合、誰かと争っています。自分では争っているつもりではなくても、自分がうまくいった時、誰かが辛い目に遭うことがよくあります。
それに気付いた時、やはり、自分のために苦しむことになる人に負い目を感じずにはいられません。
日本人は、特に、こういったことを感じる微妙な感覚を持っているのです。
今は、どちらかというと、朝青龍を擁護し、朝青龍を批判する者を批判する風潮が、この日本の中でも強いですが、もう一度、新たな目で見直したいものです。

相手を思いやる気持ちをもっと考えて見ましょう。
戦争では、敵国の捕虜を処刑することもやむを得ない場合があります。
その時、歓声を上げ、面白がって処刑を行うなら、もはや人間ではありません。
処刑は、殺す相手やその家族を思いやり、荘厳に行うこと。よほどの事情がない限り、女、子供を処刑しないこと。
これらは、いかなる国においても、人間であるなら守られているはずです。

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