デリカシー
制作国の英国では不評だったと言われるが、日本で大ヒットした映画「小さな恋のメロディ」(1971年)のアラン・パーカーによる原作の中で、ダニーは「デリカシーがメロディの代名詞」だと思う。ダニーは12歳の少年で、メロディはダニーが恋する美少女(おそらく、ダニーと同じ学年)だ。
デリカシー(delicacy)・・・優美, 繊細、 (感覚の)細かさ、 つつましやかさ、思いやり
本来は、日本女性の美徳であったのだけれど、この昔の西洋の物語の中の少女のデリケートさは、今の日本ではお伽噺だ。
いや、女性だけではなく、本来は日本人はとても繊細な民族であったのだが、現在の日本に、デリカシー(繊細さ)は見当たらない。
現在の日本人には、繊細と反対である、粗雑、露骨、エキセントリックなものしか受け入れられない。
商業的に、そのようなものでないと儲からないことが大きな理由だ。
不必要に経済発展を追求する国では、必ずデリカシーは消滅する。
イエスは、「金持ちが天国に入ることは難しい」と言ったが、天国とは、真の自己を知り、自然な状態に回帰して安らぐことだ。それは、真の、究極的な幸福である。
それには、精神的、霊的な意味においても、繊細な感覚が必要なのだが、物質的な欲望が大きいと繊細さを失ってしまうのである。
つまり、現在の日本には、天国・・・心の平和、安らぎ、温かさ、絶対的安心はない。
インドの聖者ニサルガダッタ・マハラジは言った。
「師の言葉を憶えていたので、私はわずか4年で悟りを得た。私は何の努力もしなかった。ただ憶えていただけだ。そして、私の指示はもっと易しい。ただ、存在の感覚を常に持っていなさい」
1970年代のインドでは、それは易しいことだったかもしれない。
しかし、今の日本人に「存在の感覚」と言っても無駄である。
なぜなら、それはとても微妙な感覚なのである。
繊細さの力は、スポーツを見てすら分かる。
イチローのバッティングが凄いのは、パワーだけでなく、感覚が繊細だからだ。天才というなら、その繊細な神経であると思う。
史上最高のプロレスラー、ルー・テーズは自伝で書いていた。
「私は特に身体が大きくもなく、筋力もさほどでない。ただ、才能というなら反射神経だと思う」
テーズはそう言ったが、反射神経というよりは、やはり繊細な感覚だと思う。テーズは自分でも言っていたが、その動きは猫のようであったと言われていた。それは、やはり感覚の繊細さを示していると思う。
私の知る、最も繊細なものは芸術だ。
絵画を見ても、単に上手いというだけなら、アニメーターの方が世界的画家より上手くてきれいな絵を描くことも少なくないと思う。しかし、圧倒的に異なるのは繊細な感覚だ。一般受けする絵は、ある程度エキセントリックさが優先する。池田満寿夫さんは、猥褻と芸術の違いは、ソフィスティケイト(洗練)と言っていたと思うが、確かに池田満寿夫さんの絵は上手くはなかったかもしれないが、繊細だったと思う。そして、池田満寿夫さんは、恐ろしく繊細な感覚の持ち主だったと思う。
電車の中で、平気で携帯電話を大きな音を立てて閉じるような者には繊細さの欠片もない。
我々日本人が、繊細な感覚を持ちたければ、大祓詞を丁寧に唱えれば良い。恐ろしいほどに、その目的に合うはずだ。
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