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2009.09.22

好きでも嫌いでもない

これまで、学校や会社で色々な人を観察したところによると、多くは無意識的にだが、人は他人に対し、「好きか、嫌いか」の判断をしているようだ。
そして、自分が嫌われることをひどく恐れるようだ。
だが、他人が自分を好きか嫌いかといったことは、本当のところはなかなか分からない。
その中で、
「自分は嫌われているのではないだろうか?」
「私は嫌われているに違いない」
と思っている人も非常に多い。

アニメ「新世紀エヴァンゲリオン」で、主人公の14歳の碇シンジが心の中で言う。
「どうせ、みんな僕が嫌いなんだ」
すると、同じ14歳のハーフの美少女アスカの声が答える。
「アンタが勝手にそう思ってるだけでしょ!」

このアニメの主要な登場人物達は、自分に価値がなく、愛されていないと思う気持ちが強い。
「誰も私を見てくれない。私はいらない人間なんだ」(アスカ)
「私が死んだって、代わりはいるもの」(レイ)
「自分が愛されるなんて、信じられなかったんだ」(碇ゲンドウ)
「だけど、僕は僕が好きじゃない」(碇シンジ)

引きこもりとか、心に傷とか病がある人というのは、大抵そんなものだ。

ところで、私に関して言うなら、私に嫌われていると思っている人が多いようだ。
攻撃的に「俺が嫌いなのか?」「あたしがそんなに嫌い?」と訴えてくる人もよくいた。
多くの人は、ポーズとして「私はあなたが好きだ」というフリをする。その見返りとして「私を嫌わないで」あるいは「私を好きになって」と訴えているのだろう。
しかし、私はそのようなことを全くしないので、私に嫌われていると思うのだろう。

しかし、本当のことを言わせてもらえば、こうだ。
「好きじゃない。でも嫌いでもない」
正直に言って、あまり関心がないのだ。
ところが、大抵の人は、このように言われることをひどく嫌う。おかしなものだ。
だが、もう1つ言うなら、自分に関しても同じなのだ。
「自分を好きじゃない。でも嫌いでもない」
自分にもあまり関心がないのだ。
ほとんどの人は、自分への無上の愛情を持つものだ。自分が幸福であることを望み、悲惨であることを嫌がる。
自己の本質が幸福(加えて存在と意識)であることを悟った時、自分や特定の他人への好き、嫌いは意味を持たなくなる。

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Comments

帰国のこと、覚えてくださっていてありがとうございます。
Kayさんのブログなんで、あえて個人的なことは控えていたのですが
一声戴くだけで、こんなにも嬉しいものだと、ちょっと感激しました。

さて。
一切は空であり無である以上、この世の全てに意味はない。いつか
そう結論して、気が楽になったことはあるのですが、しかし。
それを一つの結論であり理想としながら、私自身は、全てに
無関心になるには、またまだ器が小さいように思います。
実際、未だに「不公平」に心を煩わす、自分の弱さ、小ささには
いい加減愛想を尽かしそうな勢いです。

で。折衷案として私が採用しているのは、誰であれ、その人の
中に「尊敬できる部分を見つける」ということ。
そして、尊敬できる部分が見つかれば、自然、その人を好きになれる。

ですが、これが正しいのかどうか、それはわかりません。
この理屈を突きつめていけば、ドロボウや殺人犯でも
好きになりかねないわけですから(^^;;;

ですので、やっぱり無関心が最上なのでしょうか。
ちょっとリクエスト(あくまで、希望的な何か、ということで)
よろしければ

>自己の本質が幸福(加えて存在と意識)であることを悟った
>時、自分や特定の他人への好き、嫌いは意味を持たなくなる。

このあたりを掘り下げて、教えていただけると幸いです。
感覚としてはわかるのですが、頭がついていかないと申しますか
(頭で考えるのは悪いクセなのですが)なかなか
単純なようで奥が深いように思います。
頭わるくてすみません・・・

もっとも、メンドウなら放置してくださいませ。
実際、やっかいな質問だと思いますので(^^;;

控えようとおもいながら、どうしても投稿が夜になってしまいます。

せめて一日30分でも早起きして、その30分を座禅にあてる、
くらいの精神修養は必須なのかも、ですね。

P.S.
ヘカテーたんの「頂」は「神」として
「座」は「腹」かと思うのです。
というのは、座禅の本質は 腹で組む ように思うので。
(適当に言ってるように聞こえたらすみません)

よって「頂の座」=「神の腹」と解釈するのは・・・

すこし、ヘカテーたん贔屓に過ぎますかね(笑

Posted by: じゅん | 2009.09.23 12:36 AM

★じゅんさん

>実際、未だに「不公平」に心を煩わす、自分の弱さ、小ささには
>いい加減愛想を尽かしそうな勢いです。

たとえ聖者でも、ある程度はそうであると思います。
私は聖者でないので、バリバリそんな感じです。
ただ、聖者は、そんな自分を地平線の彼方に感じているだけと思います。

>この理屈を突きつめていけば、ドロボウや殺人犯でも
>好きになりかねないわけですから(^^;;;

私は、それに近いことをやろうとしています。
そのうちに大発表しますが(笑)、全宇宙の平和を願えば、その中に、ドロボウも殺人犯も私も(同じかよ)含まれます。


>>自己の本質が幸福(加えて存在と意識)であることを悟った
>>時、自分や特定の他人への好き、嫌いは意味を持たなくなる。
>
>このあたりを掘り下げて、教えていただけると幸いです。

ヴェーダ哲学の真髄部分ですな(笑)。
言葉で説明するのは無理でしょう。
例えて言えば、ほたるちゃんの柔らかさや温かさを言葉で説明できないように・・・


>せめて一日30分でも早起きして、その30分を座禅にあてる、
>くらいの精神修養は必須なのかも、ですね。

修養なんて真面目なものではありませんが、やってみることが一番と思います。
マハラジさんという、私の崇拝する聖者は、「まずやってみることが大切」と常に言っています。

>ヘカテーたんの「頂」は「神」として
>「座」は「腹」かと思うのです。

良いですね、これ。
ヘカテーたんのぽんぽんを見たいです<意味が違う

>というのは、座禅の本質は 腹で組む ように思うので。

はい。だから、日本人は昔、腹を切って誠意を示したのですね。
一番大事な腹を切ることで。
ただ、後におかしな誤解や歪みが多くなったかもしれません。

Posted by: Kay | 2009.09.23 02:48 PM

身の周りにいる人も自分の家も自分の身体も、体が死んでしまえば持ってい行くことが出来ないから、それらに対して無執着で生きるなら分かります。  無関心と言いますと少し冷たい感じがします。でもkayさんはとても愛情深い方だと思います。

Posted by: 祈り | 2009.09.23 10:51 PM

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