ホツマツタヱを読む
少し前から、鳥居礼さんの「ホツマ物語」を読み始めました。
「ホツマ物語」は、「ホツマツタヱ(ホツマツタエ)」という、日本の古文書を基にしたものです。漢字が伝わる前に書かれたもので、日本独自の文字で書かれています。
「ホツマツタヱ」は五七調の歌で書かれたものですが、それが膨大で難解なので、鳥居礼さんが、誰でも読めるように、内容を選択し物語風に書かれたものです。
古事記や日本書紀の原典とも言われますが、捏造されたニセモノという説もあります。むしろ、現在では、それが一般的かもしれません。
私は、「ホツマ物語」を読み、驚愕しました。
とてもニセモノとは思えません。
私は、古事記も愛読しています。ホツマタヱと古事記や日本書紀は類似点も多いのですが、似て全く非なるものです。
古事記等は、お話自体は、あまりに荒唐無稽で不自然な部分が多くあります。
例えば、有名な、高天原(タカマノハラ。天上界のこと)でのアマテラスオオミカミとスサノオノミコトのウケヒ(誓約。一種の占いによる勝負)の場面は、古事記では、アマテラスがスサノオの剣を3つに折り、それを噛み砕いて吹き出すと3人の女神が生まれたとあります。ここは、ホツマ物語では、アマテルは夢の中で、剣を噛んで3つの玉にしたとなります。それは、アマテルに3人の女の子ができるという予言になっています。ホツマツタヱでは、アマテルは美しく聡明な皇子です。
また、古事記では、イザナミは死んで黄泉の国に行った時には、化け物になっているのですが、ホツマ物語では、それは、死んだイザナミに執着するイザナギの見た悪夢で、イザナギはそれで反省します。
ホツマ物語は、古事記に比べ、非常にしっかりとしたストーリーになっています。また、大変な高貴さにも溢れているように感じました。
私は、昨年末から、神道の代表的な祝詞である「大祓詞」を毎日唱えておりますが、大祓詞は古事記よりもホツマツタヱにはるかに適合しています。
実際はどうなのかは、もちろん私には分からないと思いますが、私には、ホツマツタヱが本物であると思われます。
私が興味のある、食についても、アマテルが語る部分があります。
アマテルは、最上の食物は野菜、次が鱗のある魚と言い、獣はもちろん、鳥も良くないとし、その理由も明解に述べます。
古事記では語られなかった、オロチの正体についても詳しく述べられています。
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Comments
はじめまして。いつも勉強させていただいております。ホツマツタエをより深く知るために、歴史ブログの、 縄文文字ヲシテを 復活! をお勧めします。これからも素晴らしい記事を楽しみにしております。
Posted by: mo-no | 2009.09.09 03:43 PM
★mo-noさん
はじめまして。
興味深いブログをご紹介いただきまして、ありがとうございます。
ホツマツタヱを含む、ヲシテにさらに興味が出てまいりました。
Posted by: Kay | 2009.09.10 06:35 AM
ホツマツタヱの真偽説も含め、こういう「偽典」関連の話題が
のぼる度に何時も思うのですが、
私個人の(あくまで個人的な主観にすぎませんが)正典が偽典かなど
どうでもいい、と思うのですが…どうでしょう。自分で自分を
ちょっと飛躍しすぎだなぁ、とは思います。
どっちかというと、正典よりも偽典が好きな私の、身内贔屓な
意見かもしれません。(日本書紀を読む前に、先代旧事本記とか
神道五部書には、一通り目を通してました、何故か。
但し意味は分ってませんけどー)
しかし、身も蓋もない言い方をすれば、ホンモノであれ、ニセモノであれ
「誰かが書いた」ものには違いない。
実際のところ、中途半端に考古学の知識のある私にとっては、古事記も
風土記も、朝廷側の恣意を感じてしまう部分が多々あります。
だからといって、思想的文化的な価値を否定するものでは
ありませんし、純粋にそれらに対して、なんというか
神聖な畏敬の念を抱かずにはおれません。
なんてまあ、乱暴すぎるので、もうちょっと補足させて戴きますと、
書物の値打ちというものは、半分は著者の責任なのでしょうが
のこり半分は読み手側の意識の問題だと思うのです、個人的に。
どんなに立派な書物であっても、どんな素晴らしいことであっても
読み手側にそれを理解する能力や知識や経験がなければ…、
もっと言えば、読み手にそれを生かす「徳」がなければ
立派な書物も 枕か焚付けにしかならないと思うのです。
逆に、一般に卑俗とされるマンガからでも、読み手次第で
得るものはあるように思います。
いずれにしても、本を読むということは著者との真剣勝負
みたいなものであり、なおかつ、そのほとんどは、読み手の
自由解釈(=読み手の人生の深さ、器に裏打ちされた
「不」自由解釈?)に委ねられているような、つまり、
本は、その人の好きなように読める。
しかし、本は その人の好きなように『しか』読めない。
結局、本もまた、自己を映す鏡(されど、倍返しの鏡)みたいな
ものだと思うのです。
だから、ホツマツタヱからKayさんが感じられたことは、あるいは
Kayさん自身の素晴らしさだと思います。
そして、Kayさんのブログを読んで、ホツマツタヱが
読み返したくなり、さっそく図書館に直行した私でした(笑
Posted by: じゅん | 2009.09.10 11:26 PM
★じゅんさん
嬉しいお言葉をありがとうございます。
サルトルが、本を読むことは、その本を自分で書くことだと言いましたが、まさにその通りと私も思います。
ショパンを聴く時はショパンになりますし、ゴッホを見るときはゴッホになります。
実はニセモノだったものが、いつか大変な価値を持ち、崇拝されていることもあります。
どこかの英文学者が、荘子は大嘘つきだと言ってましたが、その後で、彼は、嘘のない本物は無いとも言いました。
大嘘、大いに結構ではありませんか!
漫画、アニメ・・・良いですね(笑)。
萌えキャラにだって、皆、自分の理想や思想、あるいは、自己を見るのでしょう。
アステルのともにあらんことを!
Posted by: Kay | 2009.09.11 06:38 AM
ヲシテの勉強がんばってください。
豊かな世界がひろがっていますよ。
Posted by: うまやど | 2009.09.22 03:39 PM
★うまやどさん
ありがとうございます。
ぼちぼちやっていきます。勉強という感じではありませんけどね。
Posted by: Kay | 2009.09.22 07:25 PM