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2009.08.07

1日1食にして、1年経ちました

本日8月7日で、私が1日1食となってから、丁度1年である。
1年前のその日には、既に菜食主義となり、一切の間食もしなくなっていた。
1年よく続いたなという感慨は別にない。特に気を変えなければ一生そのままであることは明白だった。

私は、一体何を思って、1日1食にしたものか?
ダイエットだとか健康のためという目的はあまり無かったと思う。
180cmで94kgあったが、それは、プロレスリングのJrヘビー級選手の体格を理想としていたからで、本当は100kgくらいにしたかったし、そのための努力をしていた程だ。
健康については、健康診断では悲惨な診断結果が出ていたが、実際には体調が良く、そもそも私は医学を全く信用していないので不安はなかった。ただ、メニエール病と狭心症の症状がたまに出ていたが、それは確かに治った(先日、メニエール病の症状が出たが、非情に軽かったし、身体を休めたら2日で治まった)。
1年経った今、体重は61kgとなり、健康診断はオールA診断の超健康体。もっとも、栄養学的な栄養バランスなんてものは完全に無視した食生活のはずだ。
食べるのは、ライス、豆腐、豆類、根菜類、野菜、海草類、ナッツ(くるみかアーモンド)が中心で、魚介類や卵もたまには食べている。
お菓子は、正月だけはヨウカンを食べたが、それ以外は、大好きではあるが一切食べない。

人はなぜ食べる欲望が強いのだろう。
脳機能学者で計算機科学者の苫米地英人氏によると、長い歴史の中で、人のDNAには、飢餓に対する恐怖が刻み込まれているからで、そのために人は経済活動に血道を上げるのだそうだ。
なら、餓死を受け入れることができれば、食欲はあっても、私のように食を慎むことができるだろう。
確かに私は死にたがっているようなところがある。だがそれは、甘ったれたガキが「死にたい」などと言うのとは全く違う。本当に死にたいなら、私のように食を慎むことができる。
私の望む死は、肉体を自己と見なす心が生み出した自我の死である。イエスや釈迦が断食をしたのも、目的自体は同じだったと思う。
人間の本質は肉体や自我ではないはずだ。
ラマナ・マハルシは言った。「イエス(自我)が十字架(肉体)に磔にされて滅び、真我(本当の自己)であるキリストが復活した」
全てを天に任せ、自我を離れた者には堂々とした体格の者も多い。黒住宗忠や岡田虎二郎は100kg以上の巨漢だった。しかし、彼らでも、真の自己を知るまでは、重病で死の手前までいったり、元々は病弱であったりで、食の細い時期はあったのだ。

私は、餓死の恐怖を克服することで、自我を離れ、キリスト教の復活である神道のヨミガエリを果たそう。

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Comments

私が厳格な食事制限を苦痛なく出来ない理由がわかりました。それは、生きる執着心が強いからです。
気に入ったブランドの服は欲しいし、車も高級車の方がいいし旅行も同じ行くならファーストクラスで…

物欲満載です。

それに性欲も封印することは出来ないです。

物に溢れ、情報に溢れた中で生活するには雑食でないと対応出来ないのかもしれません。

俗物から離れた仙人や修行中の方は山奥の洞窟などで自分と向き合う。
一般的な生活と切り離した場所でないと自分の内面と真剣に向き合うのは無理なのかと思います。

私は卵、乳製品を含め肉食はマクロビオティックの精神でしなくなりましたが少食は生きるテンションが高いのか目標には至っていません。

Posted by: カナリア | 2009.08.08 02:55 PM

★カナリアさん
いえ、私も、超少食を始めた時は、物欲、性欲共、とても強かったです。
そんな自分を滅ぼし、殺したくて少食になったのかもしれないと思っています。
少食にする中で、欲望は小さくなっていきました。
最近、神道の「大祓詞」という祝詞を毎日20回以上唱えるうちに、驚くほど欲望が消えていきました。
それに、私もまた、思いっきり俗界に住んでおります。

Posted by: Kay | 2009.08.08 08:12 PM

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