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2009.08.31

日本人である幸運

私は、幼い時に、魔法使いを志した。無邪気なせいもあったが、達成の確信はあった。
中学生になり、大人向けの書籍をなんとか解するようになると、有名な魔法使いである、W.E.バトラーやダイアン・フォーチュンの本を読み始めた。
しかし、これらの本は、西洋人向けと思われた。旧約聖書の思想が根付いていないと違和感があり、生活習慣や身体的条件も、西洋人に適したように書かれていた。
そこで、インドの超人ヨギ(ヨガ行者)に狙いを変えた。W.E.バトラーも、ヨガを研究し、修行に取り入れたが、西洋人の身体はヨガに向かないので工夫しないといけないと書いていたが、日本人なら、まだインドのものに適合しやすいと思った。
しかし、ヨガには、秘法とされるものが多い。数世紀に渡って現存すると言われるババジのクリア・ヨガという行法も秘法であり、曾孫弟子のパラマハンサ・ヨガナンダが一般に教え始めたというが、それでも、誰かに直接教わるしかないようだ。
そこで、次に目を付けたのは、さらに日本人に親しみやすい、中国の仙人や導師だった(仙人と導師に絶対的な違いはないと思われる)。しかし、これになる方法は、とにかく難解の一語である。
ただ、その中で1冊、「ローム太霊講話集」(霞ヶ関書房)だけは良いものだと思った。この本では、仙人になることも可能ではあるが、やはり実際は困難なので、仙人の術の1つでも修得して役立てよと教えているように思えた。
そして、何のことはない。我が国の神道にやっとたどり着いてみれば、日本人なら、大祓詞(おおはらえのことば)を上げれば、それで十分であることが分かった。そして、日本人は、元々が、神々の直系の子孫であり、最初から神なのである。
大祓詞を唱えていれば良いのであるが、本当かどうかはやってみれば解る。何事もやってみることが大事だ。決して失望はさせないと思う。
大祓詞を千数百回も唱えた時、この世を織り成す網目のようなものが見え、少しそれに手を入れるのだって、大変な責任があると感じた。そして、別に手を入れなくても十分なものだと感じた。
日本人とは、随分恵まれた民族であると思う。ただし、現在は、その恵みに完全に背を向けている状態のようだ。残念である。

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2009.08.30

薄いブラックコーヒー

私は、以前はブラックコーヒーが飲めなかった。コーヒーには、砂糖とミルクをたっぷり入れて飲んでいた。
しかし、ブラックコーヒーをごく薄いものにして、毎日夕食後に飲んでいたら、美味しいものであることが分かってきた。

ある、アメリカに留学していた人の話だが、ホームステイ先では、飲み物といえば、薄いブラックコーヒーしか無かったという。彼もブラックコーヒーは飲めなかったそうなのだが、それは非常に薄いコーヒーで、紅茶みたいな感じだったので飲めたようだ。そして、さらにしばらくしたら好きになったらしい。
私は、彼の話を参考にしたのだった。

私は、少し前は、ペットボトルに水道水を入れて持ち歩いていたが、私は、真水というのは、どうも飲みにくいと感じる。あるスーパーで、高価な浄水器で作った水を無料でサービスしていたが、飲むと思わず吐いてしまった。 持ち歩いているペットボトルの水も、結局はあまり飲まない。
自然界には、不純物の入っていない水はないそうだ。真水は表面張力が高くて、飲みにくいのかもしれない。
そこで、インスタントコーヒーを少し入れてみたら、これがかなり美味しい。500mlボトルを1日でちゃんと飲み干すようになった。にがりも数滴入れ、非情に健康的で経済的な飲料水を手に入れたと喜んでいる。
ブラック缶コーヒー等は、私には濃過ぎる。
人気の高い緑茶も、私は好きではない。何度飲んでみても、胸に痞える(つかえる。塞がる感じのこと)感じだ。単に体質の問題かもしれないが、まず、濃すぎるように思う。

インスタントコーヒーなら、コップ1杯に対し、スプーンの先に少し乗る(小さじ1/10~1/5)程度で十分だ。
他の飲み物(緑茶、ほうじ茶、玄米茶、ウーロン茶等)も、世間で普通とされるよりはるかに薄いものが良い。
そして、このくらいの微妙な味を味わえる感覚が人として実は大切であることを付け加えておく。真理には微妙な面があるからだ。

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2009.08.29

黄金期の人間

太古の時代は、人は生と死の区別を持たなかった。
だから、自分が死んでも、それに気が付かなかった。
その頃は、人と霊の交流は自然なことだった。
たとえ死のことを知っていても、生を良しとするのと同様、死も良しとした。

死を恐れず、生命が永遠であることを知っていたので、刹那的な欲望に囚われることもなかった。
自分の利益のために殺人を犯すことは考えられなかった。
また、彼らには時間の概念がなく、過去や未来はなく、常に現在であったので、過去を悔やんだり、未来を心配し煩わされることはなかった。
知識としてではなく、生の実感として、自己が身体や心を超え、時間や空間を超える存在であることを知っていた。自己とは、普遍的な存在であることを当然のこととしていた。
自分と他人との明確な区別も実際にはなかった。区別しようと思えば区別できるといったものだった。指導者はいたが、支配者、被支配者の関係ではなかった。それは役割の違いに過ぎなかった。

それは人間の黄金期であり、誰もが幸福で、羨むべき世界ではある。
しかし、我々にも、そのような世界の実現は可能である。そのような生き方をしている者は、現在は稀で、聖者と見なされるかもしれないが、実際は、人のごく自然な状態である。
そのようになるには、そんな世界を求める必要はない。不幸の原因を除くだけで良い。
生と死、自分と他人、善と悪の区別を付けたことが不幸の始まりである。それをするのは人の心である。心を静かに純粋にし、死んでいるようにすれば良い。
だから、現代でも聖者は、自分は既に死んでいると言うのだ。

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2009.08.28

この身体は私じゃない

なぜ、釣った魚(自分のものになった女)に餌をやらないか知ってるかな?
泳いでいる魚の方がきれいだからさ。

冗談ではないのだよ。

私は、9つくらいから天体観測を始めた。
当時、大学生だった私の叔父は、彼のほとんど唯一の財産だった天体望遠鏡を私にくれたのだった(彼は小さい頃から、親戚の家に居候する複雑な家庭環境にあった)。
私は、それで月や火星や金星や木星や土星を観測した。
天体望遠鏡で見るそれらの星は、確かに印象深いものではあるのだけれど、見ていて何か変化が起こるわけではない。でも、私は、飽きずに何時間でも同じ星を見つめ続けた。
人生で必要なものは全て星から学んだ・・・なんて言わない。私は、人生に必要なことなんて、いまだ何一つ知らない。
何も得はしないけど、星を見るのは素敵なことだ。星は美しい。
なぜだろう?
それは、星は私のものではないからだ。

星だけじゃない。
私は、子供の時、時計屋や文房具屋で、腕時計や万年筆、ボールペンを眺めるのが好きだった。1日中でも飽きずに見続けることができたと思う。
そして、大人になり、お金を沢山稼いだ時に気付いた。今なら、私はそれらをいくらでも買える。
しかし、ちっとも欲しいと思わない。
だが、ナイフに興味を持ち、何万円もするナイフを沢山買った。熱情と共にね。でも、手に入れてしまえば、嬉しくなくなってしまう。
「スタートレック」で、ミスター・スポックが言ったことを思い出す。彼は、一人の女性を巡って他の男と決闘し、敗れて、敵の男に女を奪われた。だが、スポックは彼に言う。「どんなに欲したものでも、手に入れてしまえば、さほどでもない」と。
女も、自分のものでないから美しいのだ。

吉行淳之介さんの「童謡」という小説をご存知だろうか?
昭和40年から中学や高校の国語の教科書に採用されているので、教科書で読んだという人も多いと思う。
16歳の時の吉行さん自身の投影と思われる「少年」は、病気で変わり果てた自分の姿を、彼が好意を寄せる少女に見られてしまい、嘆きながら悪友に教わった童謡を謳う。「嗚呼、この身体は私じゃない」
しかし、身長180cm、体重61kg、ウエスト70cm、胸囲88cmの、流行の美しい細マッチョの私は、笑いながら謳う。「この身体は私じゃない」と。
私は、私の身体と心に既得権を持っていない。それらをとっくに手放している。いや、そもそもが、もともと私のものでもない。
私は、身体と心に対し、超然と距離をおいて見守っている。
私は既に死んでいるのだ。
「童謡」の「少年」は、病気が治った時、得意だった走り高跳びをやってみたが、以前のように飛べなくなっていた。友人は「また高く飛べるさ」と言ったが、「少年」はもう惑わされない。「いや、もう飛べないだろう」
この他愛もないような小説を愛する人は案外多い。吉行淳之介が偉大な作家になった理由も分るように思う。
この小説の秘密を知りたいなら、あなたも、身体と心を手放してみればいい。ただ見守るのだ。

野で美しい花を見たら、ほんの一瞬、それを目で愛でれば良いのに、摘んで持って帰る者がいる。それは、世界から大きな美を奪う行為なのだ。
身体や心の影響を受けないようにしてみよう。身体と心に無関心になることではあるのだけれど、それらが驚くべきものであることが分るかもしれない。ほとんど食べずに過ごすことも出来るようになる。心は澄み切ってゆく。済み切った心に何が映るか、見ものである。

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2009.08.27

無垢の時代

幼い時の我々にとって、自分は誰でもなかった。
自分が何であるかなど、考えもしなかった。
私は私でしかなかった。

自分が、ある特定の何かであると思い始めた時に不幸が始まった。

再び、身体を、心を、世界を手放そう。
身体を、心を、世界を諦めよう。
再び、何かではない自分でいよう。
何かではない自分になるのではない。何かではない自分でいるのだ。
実際、我々は何かではないのだ。

再び、無垢な子供になった時に本当に幸福になったと言える。
表向きには、実業家でも野球選手でも、IT技術者でも乞食でも何でも構わない。
それは、たまたま我々の身体に起こったことに過ぎない。
幼い頃、たまたま自分が王子様であっても、そんなことはどうでも良かったはずだ。
ただ、自分が王子様であると思った時に不幸が始まるだけなのだ。

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2009.08.26

死にたい人へ

死にたいって?
全く同感だね。
他の国のことは知らないが、経済発展を至上目的としてきた、この欲望だらけの国で生きる意味など見出せないからね。

でも、飛び降りや、首吊りなんてのはやめたがいい。
どうでも良いことかもしれないが、回りに迷惑をかけるし、あまり格好良いものでない。
いじめた相手への仕返しが少しできるかもしれないが、トータルで言えばやはり愚かとしか思えないことなのだ。まあ、そんなこと、どうでも良いかもしれないけどね。

それよりも、立派に楽しく死ぬというのはどうだろうか?
だいたい、死ぬってことがどういうことか分かるだろうか?
死んだって、生きてるのとそんなに変わらないとしたら馬鹿みたいじゃないか?
実際、古代の人は、自分が死んだことに気付かなかったんだ。
我々は皆、生きている立場での死をイメージしているに過ぎないのだ。それは本当の死ではなく、死に対する単なる幻想だ。

死ぬっていうのはね、身体と心を手放すことだ。
それは分かるよね?
でも、飛び降りをしたって、身体や心を抱きしめたままなんだ。
本当の意味で、身体や心を手放さないといけないんだ。
古代の人は、生きていることと死んでいることの区別が付かないって言ったよね?
彼らは、ある程度の年齢までは身体と心を育てるのだけれど、ある時期を過ぎると、身体や心に関心がなくなったのだ。
そうなると、死んでも、ちっとも変わらないんだ。

身体や心の影響を受けないことが死ぬことだ。
身体や心がどんな状態でも、超然として距離を置くのだ。
ただ、それらを無関心に見ているがいい。
それが、身体や心を手放すことだ。
そうしてみると、我々の存在自体に関する、これまで押し付けられてきた観念と全く違うことを発見して驚嘆するはずだ。
身体も心も私ではないのだ。私は、身体でも心でもない。
自分が全くの自由で幸福であることも分かるようになる。
おかしなことに、そうなると、身体も心も、そして、それを取り巻く世界も、案外に良いものになる。望んだとおりのことは起こらないかもしれないが、全てうまく治まっていく。
だからといって、身体や心、あるいは、世界に執着することもなくなる。それは単なるショーか学芸会みたいなものにしか感じなくなる。子供の学芸会が楽しいものであったとしても、その内容をそう深刻に受け取らないはずだ。世界はその程度のものだ。

人生や世界に本当にうんざりするというのは、過去世も含め、あなたが成長してきた成果だ。
あなたは、いつまでも学ぶばかりではないのだ。
それに、世界はもうすぐ終わる。本当の意味で死に、それにより、本当の意味で生きなければいけない時が来つつあるのだ。

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2009.08.25

不和と争いの女神を清める

「エリスは神の子では・・・ない」

アニメ「エル・カザド」での、「魔女」ブルーアイズによるナレーションの言葉だ。
どう見ても人間の美少女にしか見えないエリスは、実はバイオテクノロジで造られた人工生命体だった。
彼女を造ったシュナイダー博士は、エリスを科学の成果として興味深く、冷徹に観察していた。

だが、博士はエリスを愛してしまうようになる。
もとより、エリスには博士しかいなかった。そんなエリスのひたむきな眼差しを受け、無垢に育ったゆえの精神の純粋や、それによる汚れ無き美しさに魅かれたのだろうか?
しかし、それが悲劇の始まりであった。
博士は死ぬことになる。

観察対象は、ただ冷徹に観察すべきなのだ。

我々の最大の観察物は、自分の身体と心だ。
シュナイダー博士が、エリスに対してそうすべきであったように、我々は我々のエリス・・・身体と心を冷徹に観察しなければならない。
超然と距離を置き、影響されてはならない。

博士と愛し合うことで、エリスもまた穢れた。
我々は、我々のエリスを手放さないといけない。
自分の身体と心に無関心となり、それらに対して死なないといけない。
手放すことが死ぬことである。博士は、エリスに対して死人であるべきだった。
すると、エリスもまた純粋になる。
その時、エリスは神の子となり、我々は神になるのである。

準惑星エリスは2005年に発見された。
エリスは、ギリシア神話の、不和と争いの神である。
宇宙にあるように、我々の内にもエリスはいる。我々は、内なるエリスを清らかにしなければならない。

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2009.08.24

安らぎと成就

ジョセフ・マーフィーの成功法則の本の成功事例の中に確実に共通する、最も重要な点に気付いたろうか?
それが分からなければ、これらの本を何千回読んでも、あなたは成功しない。

深い安らぎの気分の後に成功するということだ。

静かでありさえすれば、すべては上手く治まるのだ。
これは絶対的に真実だ。

今、不幸で、苦しく辛い状況で、お金がなく、争いの中にあっても、あなたが静かでさえあれば、状況は改善し、必要なお金やモノはやってくる。
これは確実な事実なのだ。

どんな成功法則でも全く同じだ。
静かさ、安らぎ、落ち着き・・・・これらがやってきたなら、確実にうまくいく。
それは、月のしじまのような、星の瞬きのような、エメラルドの輝きのようなものだ。
それを得られない望みが叶うことは決してない。

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2009.08.23

悲惨はいつもこうして始まる

2005年のスピルバーグ版「宇宙戦争」では、宇宙人は、地球人を、ただ冷徹に観察していたと言われていた。

そのまま観察していれば良かったのに・・・
そうしたら、宇宙人は災難を避けられたのだ。

宇宙人は、地球人を観察するうちに、地球人に影響を受けたのだ。
それが不幸と悲劇の始まりだった。

バクテリアを観察している科学者は意識の変化を起す。そして、バクテリアに影響を受ける。
そして、バクテリアと人類は共同で世界に災厄をもたらす。

モディリアーニがジャンヌをモデルにした時、モディリアーニはジャンヌに強い影響を受けてしまった。
ジャンヌはモディリアーニにのり移ってしまった。そこから不幸は始まった。

全ては同じだ。

そして、人が実際に観察しているのは自分の心と身体だ。
心と身体をただ冷徹に観察しなさい。
心と身体に影響を受け、それらを自分だと誤解した時に悲惨が始まる。
超然として、心と身体から距離を置きなさい。
そうすれば、決して不幸になることはないであろう。

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2009.08.22

日本人には大祓詞があるという有り難さ

私は、毎日、神道の代表的な祝詞である「大祓詞(おおはらえのことば)」を唱えておりますが、きっかけは、春日大社の宮司であられた葉室賴昭さん(今年1月3日逝去)の著書です。葉室さんは、日本人が正しい神道に目覚める道を開いた方であると思います。
葉室さんは、世界でもトップクラスの形成外科医(整形外科とは真逆というほど異なる医療分野の医師で、日本では数少ない)でしたが、50歳を過ぎてから通信講座で神道を学び、65歳で牧岡神社宮司、67歳で春日大社の宮司になられました。14冊の著書はいずれもベストセラーになりましたが、葉室さんは印税は一切受け取らなかったそうです。

葉室さんは、大祓詞を唱えると、神に近付くと言います。
もちろん、数多く唱える中で少しずつと思いますが、我の心が無くなっていくからです。
と言いますのは、大祓詞は、罪、穢れを祓うものであるからです。
ところで、この罪、穢れですが、我々が普通に考える意味とは少し異なります。
罪とは、「つつみ(包み)」であり、神の性質を包み隠してしまうものです。
穢れとは、「気枯れ」で、神の気を枯らしてしまうものです。
よって、罪、穢れを祓うことで、神の性質を顕わにし、神の気が甦るというわけです。

神や仏になるには、仏教やヒンズー教では、煩悩を払ったり、想念を滅却させるためにあらゆる苦行をします。
中国では、神に近い神仙(仙人や導師)になるためにすら、ほとんど食を断ち、あるいは、特定の植物や木の実、特殊な鉱石から作った秘薬を摂取したりの、危険を伴う秘法を行います。
しかし、日本の神道には、この大祓詞がありますので、これらの苦行や危険なことをせずに済みます。なんとも有り難いことです。葉室さんは、大祓詞を唱えることで、日本人のDNAのスイッチが入るといったことも書かれていますが、この日本人の特権を活かさないのは勿体無いことと思います。

さて、大祓詞の唱え方ですが、やはり葉室さんの「大祓 知恵のことば―CDブック」(春秋社)を買われるのが良いと思います。大祓詞が書かれているのはもちろん、これについて、葉室さんが分りやすく説明してくれています。ただし、大祓詞の意味を説明しているのではありません。大祓詞自体には意味はないとされます。葉室さんは、ひらがなで書かれた大祓詞で唱えることを薦めていますし、自身もそうされたそうです。
私は、この本についているCDと合わせて、1~2ヶ月の間、唱えました。その後は、文字を見るだけで唱えています。
これまで、元旦から7月末までの211日は、原則1日1回でしたので、211回。実際は、昨年末までにやりはじめており、7月末頃には1日3~5回唱えていましたから、実際は220回以上になると思います。
そして、8月になろうという時、8月1日から10月31日の92日間で千回を唱える目標を立てました。
私が氏子にしていただいております、神戸の生田神社では、今年、昭和34年以来、50年振りの式年造替(本殿などの造り直し)が行われます。本来は25年ごとに行うようです。それが9月19日に終るのと、私の誕生日の10月31日に合わせ、3ヶ月で千回と考えたわけです。
3ヶ月92日での千回なら、1日11回必要です。しかし、それは比較的簡単であることが分り、2千回に増やすこととしました。1日22回です。これには1時間半はかかり、やや厳しさはありますが、それが適当と思い、実施することとしました。

ところで、斎藤一人さんは「千回の法則」として、言葉を千回繰り返す効果を本に書かれています。「ツイてる」を千回言えばツクようになるし、「ありがたいなあ」「幸せだなあ」も千回言えば、良いことが次々起こるようになります。ただ、私の考えでは、現代の欲に塗れた日本人では、これらを千回では全く足りないと思います。まあ、10万回程度必要かなと思います。それでも楽なものと言わざるをえません。
後で書きます、黒住宗忠という神道の神人は、らい病(ハンセン氏病)患者に「有り難い」を1日百回言うよう指示しましたが治らず、1日千回でも治らず、1日1万回唱えさせたところ、7日で完全治癒の奇跡が起こりました。

ところで、私の大祓詞は、今月ですでに800回を超えました。最初に、月千回を考えたのですが、それはおそらく無理と思い、3ヶ月で千回としたのですが、月千回のペースを超えてきました。そこで、目標を3ヶ月で3千回。月平均千回に変更しました。
1日百回というのもやりたいのですが、それには6時間はかかり、なかなかです。

先に述べました、江戸末期の、神人と讃えられた偉大な神道家、黒住宗忠は、天照大神と一体となる体験(天命直授)を得た後の修行時に、1ヶ月1万回以上、日によっては千回以上、大祓詞を唱えたといいます。これは、普通の者には想像もできないことです。1回唱えるのに3分はかかりますので、千回なら最低50時間必要です。1分で唱えても16時間以上です。それも、忙しい神職をこなしながらです。奇跡と言って、全く差し支えないでしょう。

ところで、私の産土神社が神戸の生田神社であることは述べましたが、ちょっと面白い・・・と言うのは何ですが、興味深い神社です。
お祭りされている中心の神様は、稚日女尊(わかひるめのみこと)と申し上げます、稚(若)く瑞々しい日の女神様です。
日の女神様といえば、高天原(たかまのはら)の最高神である天照大神様がその代名詞と言って差し支えないでしょう。
生田神社では、稚日女尊は天照大神の御幼名で、同じ神であると説明しています。
ただ、「古事記」を読みますと、天照大神がイザナギノミコトの左目から生まれた時には、天照大神だったのであり、幼名と言うのも不自然かもしれません。
また、稚日女尊は天照大神の妹神であるという話もあります。
「古事記」、「日本書紀」のいわゆる「記紀」より以前に書かれたとされる「ホツマツタヱ」では、天照大神はアマテルという男神ですが、そのアマテルの妹神が、この稚日女尊で、後のワカヒメ(和歌姫)であるとされています。これが一番自然な感じがします。それでは、稚日女尊は正しく日の女神であるということになります。そして、少女神ということになるかもしれません。

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2009.08.21

幸福な死者

幸福な死者とはどんなものだろう?
それは、「現世に未練、執着、心残りがない」ことであると思う。

「新世紀エヴァンゲリオン」で有名なガイナックスのアニメ「まほろまてぃっく」で、一度だけ幽霊が登場した印象深いお話があった。
中学生の男女2人の幽霊だったが、2人は別々に全く同じことを言う。
「ねえ、何か心残りなことがあって、そこを離れられないことって・・・ない?」
2人は、放課後の教室で待ち合わせをしていた。少女は少年に告白するつもりだった。しかし、少年は事故で死に、少女は飛び降り自殺をする。長い年月が経ち、少女はいまだ少年を待ち続けるが、少年は死んだ場所から動けないと思い込んでいる。
まほろは、少年の霊を引っつかんで少女のところに連れて行く。少女はうまく告白できなかったが、心は通じ、2人は一緒に天に昇る。
2人は、現世に心残りのない、幸福な死者になったのだ。

蝶を死者の魂と考える神話が世界中にある。
蝶のゆらゆらとした飛び方や、その優雅な美しさ、儚げな雰囲気が、いかにもそのように感じさせるのかもしれない。
それに、蝶は意外に謎の多い生き物だ。海を越えて旅をする蝶すらあるが、なぜそんなことをするのかは分らないらしい。

昔の日本では、蝶を「ひひる」と言ったらしいが、語源は分らないようだ。
尚、蛾のこともひひると言った。つまり、昔の日本では、蝶と蛾は区別されていなかった。これは珍しいことではなく、フランスやドイツでは、今でも蝶と蛾を区別しない。
勝手なことを言えば、「ひる」は虫の意らしいので、最初の「ひ」は、霊(ひ)であると考えれば、いかにも死者の魂のようだ。

さて、最初に、幸福な死者とは、現世に執着のないことと書いたが、これは生きた人間でも同じだ。
この世の一切に執着がないことほど幸福なことはない。そんな人は自由に生きることができる。
「荘子」では、道(タオ)と一体になった至人(最高の境地に達した人)は、生死にことさらに区別を付けないと書かれている。
エマニュエル・スウェーデンボルグなどの書では、古代の人々には生死の区別というものがなく、自分が死んでも気付かなかったという話がある。だから、誰もが、霊と自由に交流していた。おそらく、一切のものに執着なく過ごしていた人間の黄金時代であったのだ。

死者は本来、幸福である。
この世の執着とは、つまるところ、身体と心への執着であるからだ。人のあらゆる苦難や不幸も、身体や心の問題なのだ。
しかし、死者に身体が無いことは分っても、心がないことを疑問に思う向きもあるかもしれない。
だが、死者があの世の者となる時、心は浄化されて純粋になる。仏教では、これを成仏と言う。成仏した者が幸福であることは間違いない。だから、我々は、死者が迷わず成仏することを祈るのである。
「チベットの死者の書」や「エジプトの死者の書」には、死者の魂が純粋な霊となっていく様子が描かれているように思う。

そして、実に、ここにこそ、この世における人の幸福の秘訣もあるのである。
それについて、今後、易しく書いていければと思う。

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2009.08.20

やってみることが大切だ

求聞持聡明法(ぐもんじそうめいほう)という、天才頭脳を作る秘法が、密教(仏教で、表の教えである顕教に対する秘密の教え)にあると聞く。
弘法大師空海が行じたことで有名で、その修行内容は、虚空蔵菩薩の真言を100日で100万回唱えるという、凄まじいものだ。1日1万回である。
虚空蔵菩薩真言は、「ナウ ボゥ アキャシャ ギャラバヤ オン アリキャ マリボリ ソワカ」のようなものであるらしい。

浄土宗の法然上人は、「南無阿弥陀仏」の念仏を1日6万回唱えたと聞く。

黒住宗忠は、らい病(ハンセン氏病)の武士に、「有り難い」を1日1万遍唱えるよう指示し、武士がその通りに行ったところ、7日で完治の奇跡が起こった。
黒住宗忠自身も、修行時、「大祓詞」の祝詞を、3ヶ月間、毎月1万回位唱えた。1日平均630回だそうだ。
1日千回を超える日もあったそうだが、大祓詞を1回唱えるのに普通は3分かかるので、千回なら休むことなく唱えても1日50時間必要になる。1回1分で唱えても16時間だ。いかに凄まじい修行かが分かる。

1回が簡単なことでも、それが貴いことであれば、大変な数を繰り返すことで得られる力は想像もできない。
「ローム太霊講話集」(霞ヶ関書房)という本を、10年以上かけて、閉じ糸が取れてボロボロになるまで読み、大賢者となった人もいる。
ドリール博士は「エメラルド・タブレット」を訳し、これを百回読めと指示していた。
仏典や聖書をボロボロになるまで読んだ偉大な聖者もいると思う。ある偉人は、貧しい家に生まれ、家に本は聖書1冊しかなかったので、それのみを繰り返し読んだそうだが、そこから大きな知恵を授かったと言う。

また、繰り返しやっているそのことが、本当に貴いものであるかどうかは実際には関係がないかもしれない。
「はしご仙人」という有名な話がある。愚直な男が、デタラメの仙人になる方法を教えられたが、信じて一心にやることで仙人になれたというものだ。
念仏、般若心経、大祓詞だって嘘かもしれない。しかし、親鸞は、「法然上人に教わった念仏の道が嘘でも後悔はない」と言った。
ニサルガダッタ・マハラジは「やってみることが大切なのだ」と言った。
何かを信じてやってみることは美しいことであると思う。

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2009.08.19

私の、食の慎みと祝詞の効果

江戸時代の偉大な観相家、水野南北は、食を慎みさえすれば福運に恵まれると断言してはばかりませんでした。
また、神道では、「大祓詞」を唱えれば、罪(神の性質を「包み」隠してしまうもの)、穢れ(神の「気を枯らす」もの)を祓うとされています。神道家には、これを唱えることで開運する、良いことが起こると説く人もいます。

私は、元々、飽食・美食で、甘いお菓子も大好きであったのが、丁度1年ほど前から1日1食の菜食とし、間食も一切やめました。また、昨年末から、大祓詞を毎日唱えてきました。
それで、現状どうかと言いますと、かなり苦しいです(笑)。
嫌なこと、辛いことが、怒涛のように襲い来ます。

心は状況の好転を期待していますが、起こるべきことが起こるだけのことです。
大祓詞は、今月千回を目標に唱えております。1回唱える時間は3分強ですので、1日平均2時間半かかります。
食はますます慎むつもりです。

しかし、苦難は更に続いています。
世界に完全に愛想をつかす・・・そうなってこそ、何も求めなくなるのです。
身体と心に影響を受けず、ただ死人のように生きるのみです。

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2009.08.18

経済発展は国民を幸福にしない

政府、特に自民党は盛んに経済成長を訴えますが、経済成長と我々の幸福とは全く無関係です。
それどころか、経済成長と共に、日本人は不幸になり、気品を失ってきました。
人間にとっての幸福とは、笑顔で楽しく暮らせることに相違ありません。
現在の大半の日本人がそうであるように、やりたくもない仕事を辛さに耐えてするのではなく、自分のやりたいことをやれることが幸せです。お金など問題ではありません。
経済成長など、全く必要ではありません。
経済成長のためには、国民の欲望を煽る必要がありますが、それが人間の不幸の原因であることをいい加減悟るべきでしょう。
ものを大切にし、助け合い、敬い合う心を持つことが幸福につながりますが、経済成長はそれらを全く否定する道であることは明らかです。即ち、ものは使い捨て、争い、自分や自分のグループの利益だけを考え、他を見下します。
真に幸福で豊かな国を作るのは、我々1人1人が足るを知り、欲望を捨てることから始めなければなりません。
これは、かつての日本では当たり前のことでした。我々は、学校教育で、経済大国化する前の日本の国民の暮らしが悲惨であったと洗脳されていますが、それは全くの嘘です。
もし、日本国民の不幸があったとすれば、江戸末期や明治政府の富国強兵策の犠牲としてでした。税収を妨げるような風習は全て廃止されました。
そして、敗戦により、外からも内からも、日本の美しい伝統は全て否定されました。
自動車だらけ、高速道路だらけ、レジャー施設だらけ、飽食・美食追及で食料の半分以上を捨てる大量消費による経済成長が国民を幸福にするはずが絶対にありません。
日本は、豊かな自然や四季を生かした農業を中心とし、回りを取り囲む海の恵みに感謝しながら漁業を大切にし、森林と共生しながらの林業を育んでいかなければなりません。
それには、農業、水産業、林業に従事する人々の意識の向上も必要です。
そして、日本人の繊細な感性を活かした工芸分野でも、それに携わる人たちが十分に楽しくやっていけるような政策も必要です。
さらに、世界に誇れる日本人の思想、哲学、技術、芸術、伝統を世界に知らせ、それぞれの国や地域の文化との共生のハーモニーを奏でていけば、経済や軍事力とは全く別次元で、世界に尊敬される国となるに違いありません。
しかし、それができないなら、日本には滅びしかないように思います。そして、今は日本は破滅に向かって突っ走っているのが現実と思います。

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2009.08.17

自殺のやり方が間違っている!

正しい自殺のやり方を言っておきたい。

まず、自殺したいと思う時、通常は、世の中に絶望した時ではないかと思う。
あるいは、自分に絶望したと感じているかもしれない。
しかし、それらは同じことなのだ。
世界は自分の心の反映だからだ。
だから、実際は世の中と自分の両方に絶望したと感じているはずだ。

そして、いずれにせよ本当の原因は自分の心なのだ。
心が先で、世界は後だ。心が世界を創るからだ。

思考の元、あるいは思考そのものである心を滅ぼしてしまえば、世界も終ると思うのだろう。
この認識自体は正しい。
問題は、何の関係もない肉体を滅ぼすことだ。
問題は心なのだ。
しかし、我々は心を滅ぼす方法を知らない。いや、心とは何かが分っていない。
そして、肉体を自分だと誤って思い込んでいるので、肉体を滅ぼそうとする悲惨な間違いを犯すのだ。

肉体は放っておくのだ。滅ぼすのは心だけで良い。
心はイリュージョン(幻想)を作り出す驚くべき魔術師だ。欲望と結びついた心は恐るべき悪夢を創り出す。荒ぶる神とは、まさにこのことだ。

心を消滅させる方法は2つある。
1つは、心の根源である「私」を消滅させること。
もう1つは、至高の力に全てを任せて、自己を放棄することだ。
権威と結びついた宗教ではそうではないが、純粋な信仰、例えば、本来の道教や神道が教えてきたのはこれらだし、元々は宗教の下僕であった芸術の極意もこれらだと思う。
簡単なやり方をそれぞれ述べるなら、「私」の消滅に関しては、常に、自分に「私、私・・・」と思い続けることだ。心は「私」に依存してしか存在できないのだから、「私」を押さえ込めれば消滅する。
自己放棄に関しては、何も求めないことだ。もし、神や道(タオ)といった至高の力を信頼するなら、こちらは易しい方法である。つまり、神に全てを任せて安心することである。

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2009.08.16

至高のマントラ

神道について調べていますと、色々な祝詞や呪文があるものだなと思います。
ただ、「この祝詞はニセモノ」とかいった話もよく目にします。
でも、デタラメで作られたものであっても、信じて唱えていれば絶大な効果があると思いますよ。
最初はニセモノであっても、時が経てば高貴な本物になっていることも有り得ますし、世の中、そういったものは沢山あるはずです。
逆に、「究極の祝詞」「秘法のマントラ」などというものに対しては、私は抵抗の方が大きいですね。それらもデタラメではないのでしょうが、どこか、「その究極の祝詞で得をしたい」という下心ばかり感じて、何か嫌な感じがします。
祝詞なら、「大祓詞」だけで良いと私は思っています。もちろん、好きなら別のものも唱えれば良いと思います。
私は、大祓詞を、昨年末から毎日。そして、今月に入ってからは500回以上唱え、やっと楽しくなってきました。1回唱えるのに3分程です。

ただ、私が最高のマントラ(真言)と思っているものがあります。
秘法でも何でもなく、すぐに言いますが、それは、「私は在る」です。
ただの民間人でありながら聖者と称えられるインドのニサルガダッタ・マハラジは、「私は在る」以外に人が確信できることはなく、これが至高のマントラであると言ったことがあります。
私は、マハラジの「アイ・アム・ザット」を繰り返し読みましたので、マハラジの言葉は正しいと信じられます。

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2009.08.15

少食と死の願望

1日1食など、超少食ができる人というのは、自殺願望といいますか、死の衝動というものがあるのかもしれません。
これは、必ずしも全面的に否定的なことではありません。
世の中に徹底的に嫌気がさしているといった状態ですが、本当は、自分や、自分の心に嫌気がさしているのだと思います。
世界は、自分の心の鏡ですからね。
それはきっと、自己変革のチャンスになります。
まずは望み通り、食を大いに慎めば良いと思います。
私も、ある時期は、1日に米を半合と豆腐一丁だけで数ヶ月過ごしました。
イェイツの「まだらの鳥」では、主人公マイケル少年(イェイツ自身の投影)は、乞食の老人に「身体と魂が離れないように、少しのパンを食べるように」と言われます。
その通りを続けたマイケル少年は、至高の美の幻覚を見ます。それはイェイツ自身が体験したことではないかと思います。

ラマナ・マハリシは、正しい食べ方を尋ねられると「清らかなものを適度に」と答え、良い食べ物としては「パン、フルーツ、野菜、ミルク」と答えました。そして、いったん、悟りを開いた後では、食べ物の影響はなくなるとも言っています。

特に、若い子が、極端な少食になった時は、自殺を疑っても良いかもしれません。
彼女達は、精神が不安定なので、極端で早急な手段を選ぶ恐れがあります。
そんな時、滅ぼすべきは自我であり、肉体ではないことを理解できればと思います。

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2009.08.14

幼児期に原因のある精神の歪みは改善不能である

幼児期を始め、成長期に原因のある精神的逸脱というものは、後での修正は困難であり、大方においては改善不能であると思う。

例えば、私に関して言うなら、人と上手く付き合えないことと、仕事にやりがいを感じないことがある。
これらは、慣れや成長してからの訓練不足という場合もあろうが、幼児期の家庭環境、そして、必要なしつけや訓練の欠如により、生涯改善不能なことも多いと思われ、私の場合は確実にそうであると断言できる。

しかし、いかに人付き合いが出来ないとか、仕事にやりがいを感じなくても、人付き合いせずに、また、働かずに生きていくことはできない。
よって、いかに苦痛であれ、人付き合いをし、働く必要が絶対にある。

だが、大切なことは、人付き合いが上手くできるようになる方法があるとか、いつか仕事が楽しくなるなんてことを信じず、諦めてしまうことなのだ。そんな希望が虚妄であることは私は今なら分る。
土台、いくらなんでも二十歳くらいになって人付き合いが、下手というのではなく、苦痛であるのなら、一生、人付き合いは苦痛であるし、1年も働いて仕事を全く楽しめないなら、一生、仕事は苦痛である。

仕方がないと諦め、義務感で働く以外に方法はない。働かずに食べていくことは赦されない。
しかし、神は、そのような運命を与えた者に、同時に宝剣を与えることもある。
アンデルセンが良い例だ。
彼は、人付き合いも働くことも出来なかったが、特別な才能が与えられていた。
ニュートンもそうだ。彼は、「神に才能を預かった」と言った。
彼らは、ハイエナの群に投げ込まれたが、宝剣を持っていた。
しかし、そうでない者もいる。いや、ほとんどの者がそうだ。
ハイエナの中に投げ込まれ、いかに嫌でもハイエナの機嫌を取って生きるしかない。
それが、私や、多くの引きこもりの運命であるが、そこから逃げれば逃げるほど運命は悪くなるのである。
これを修行と言うのかもしれない。

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2009.08.13

幸福になるには

幸福になるために、まずすべきこと。
テレビのスイッチを切る。できれば、テレビは無い方が良い。
やがて、アナログ放送が終わるが、デジタル放送が受信できないなら、そのままにしておこう。

次に、車に乗らないこと。新しい車を買わないこと。持っていても、できるだけ乗らないことだ。
買い物も歩いて行くか、自転車で行くこと。そうしたら不要なものを買うこともない上、運動にもなる。何とも素晴らしいことだ。

そして、エアコンのスイッチを入れないこと。エアコンを買わないこと。買うなら、せいぜい扇風機にすること。
私は、今年は、家ではまだ一度もエアコンを使っていない。おそらく、今後も使わない。全ての部屋に設置してあるけどね。撤去するのも面倒なので放ってあるけど、馬鹿なことをしたと思っている。

景気回復なんて知ったことじゃない。大企業の思惑に踊らされるな。
金を使わなければいいんだ。私は、食料品を買う時と、定期券を買う時以外はサイフを出すこともない。
政府が国民に無駄な金をどんどん使わせようとしているのは、馬鹿でない限り分かると思う。そんなそそのかしに乗らない賢明さを持とう。
金が無くなっても、欲望だけが残る悲惨さをあなたに味あわせたくない。
欲望が生み出した経済が国民を幸福にはしないし、世界から尊敬される本当に強い国を作りもしない。
欲しがらなければ幸せになれるのだ。

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2009.08.12

酒井法子さんの不幸

テレビはほとんど見ない私も、朝あたりに少しは見ることもある。
そうしたら、やたら酒井法子さんのニュースが放送されていた。
やはりテレビなんて見るものではないと思った。
視聴者の中に酒井法子さんの関係者や、酒井法子さんの今回の件が関係のある人がどれだけいるのだ?
ほぼ全くいないはずだ。仮にファンでも、自分とは何ら関係ないことのはずだ。

酒井さんが人気のある中国で、酒井さんのファンと思われる若い女性が「彼女(酒井法子)はそんなことをする人ではありません」とか言っていたのに呆れてしまった。
日本でも、酒井さんのファン達は「信じられない」といった判で押したような反応だ。
だが、私は完全に信じられる。人気芸能人なら、あまりにありえることだ。

芸能人は、自分の虚像を見せ、それで報酬を得ている。それがうまくいけばいくほど、人気が出て収入が上がり、贅沢な暮らしをする。
成功するには、自分の実体とは全く異なる虚像を強烈に作り出さねばならない。そして、それになり切らねばならない。それは天の刑罰と言えるほどの辛いことだ。
それはつまり、成功すればするほど、人間として異常な状態となり、心が落ち着かなくなるということなのだ。
余程の精神修養の出来た人でないと、その辛さをやわらげるために、まともでない手段に走ってしまう危険が大きい。
いや、修養の進んだ人でも、長年の間には、やはり相当な無理が生じる。
本当のところを言えば、芸能人での成功なんてしない方が身のためである。
特に若い内に成功して、幸福な生涯を送れる芸能人は、まあ、皆無と言って間違いない。

私は、今では人気芸能人を見るとぞっとする。
彼らの外見が自然でない虚像であることが分るからだ。
あんな恐ろしいものに憧れる人がいなくなれば、自分をあまりに大きく偽らねばならない芸能人はいなくなり、芸能人もファンも不幸にならずに済むと思う。

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2009.08.11

神らしくない神が人か?

キリスト教では、人類の最初の祖先はアダムとイブですね。
神道の根本的書物と言って良いと思われます「古事記」では、イザナギとイザナミが日本人の最初の祖先です。
両者の違いとしては、アダムとイブは人間ですが、イザナギとイザナミは神様であることです。

神様は土からアダムを創って魂を吹き込みました。そして、アダムのあばら骨からイブを創りました。
このように、ユダヤ教やキリスト教の聖書(旧約聖書)では人間は神様の創造物であり、神様と人間の違いは決定的です。

しかし、神道においては、人間は神様の直系の子孫となります。
ただ、実を言いますと、古事記を読んでいましても、神様の子孫がいつから人間になったかが、あまりはっきりしません。
ところで、イエスは神様のことを父と呼び、自分を神の子と言いますが、つまるところ、イエスは人は誰でも神の子だと言い、自分は確かに奇跡を起こせるが、それは誰でもやれると言っています。
そして、ヒンズー教では、人は本当はアートマン(真我)であり、これは神様と同じものとしています。
仏教でも、人は誰でも仏様の性質を持っているとし、悟りを開けば仏になります。

このように、多くの宗教や信仰では、人は本来は神様(あるいは仏様)ということではないかと思われます。
ただ、どういうわけか、人間が神様らしくなくなっているといいうだけのことです。
もしかしたら、その神様らしくなくなった神様を人間と言うといった程度のものかもしれません。

そして、神様にいくらか近付いた存在を、日本や中国では神仙と言うようにも思えますが、インドにも超人ヨギ(ヨガ行者)が、また、西洋にも、奇跡の力を持った聖人や神人の話が沢山あります。

実際、キリスト教であれ、仏教、ヒンズー教、道教、神道に限らず、その教えは、神様らしくない人間が、神様らしくなるためのもののように思われます。簡単に言えば、神様になる方法です。
ただ、人は自覚があろうがなかろうが、本来は神だし、神になるのではなく、神であることが大切なことのように思われます。

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2009.08.10

金に執着しない人

アインシュタインのお金に対する執着の無さはよく知られている。
そもそも、彼は収入を誰とでも分かち合った。たとえそれがろくでもない人間とでも。
ろくでなしに請われて金を渡した後で奥さんに怒られると、アインシュタインは「彼はやはり金が必要だったのだよ。だって、伊達や酔狂で物乞いなどしないからね」と平気だった。

黒住宗忠はある日、追いはぎに「十両出せ」と脅された。
宗忠は平気ではあったが、「悪いが五両しかない。残りは明日用意する」と言って五両を渡し、翌日、五両を用立てて約束した処に埋めておいた。
宗忠も、「誰も伊達や酔狂で追いはぎなどしない。よくよくの事情・・・」と考えたのだ。

アインシュタインが金を渡したろくでなしがどうなったかは知らないが、宗忠が金を渡した追いはぎは改心し、宗忠の門下に入ったという。
宗忠が恐れたのは、悪事をなす者が自分の心を痛めることだった。誰も人の心は、天照大神の心の分心であり、それを痛めることは、天照大神の心を損なうことであるからだった。
宗忠が怒ったり、くよくよすることは滅多に無かったと思うが、宗忠は、ちょっと恐がった時でも、天照大神に、その心を損なったことを詫びたという。

アインシュタインはアメリカに亡命してからは高収入であったし、宗忠も名士を多く含む多数の門人を抱え収入は少なくはなかった。しかし、請われれば誰にでも金を渡す彼らは豊かではなかった。が、いずれも平気であったようだ。

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2009.08.09

私が裁判員を絶対引き受けない理由

初めての裁判員制度の裁判で驚いたのは、裁判員の人達の以下の談話だ。
「だんだん緊張がとれてきて楽にやれた」
「休憩時間に、他の裁判員の方と雑談するようになった」

私には信じられない。
人を裁くという恐ろしいことに取り組みながらの、この緊張感のなさ。
裁判所や裁判官自体がそうなのだろう。
実は私も裁判に深く関わった経験があり、裁判官とはよく話したが、本当にそうだとしか思えなかった。
裁判官が資料をちゃんと読んでいない(自分で「よく読んでいない」と本当に言った)、独断を押し通す。
日本最高の地方裁判所でのことである。そんな態度で人や団体を裁く裁判官や司法は信頼に値しない。

私は、選任されても、絶対に裁判員を引き受けない。罰金が必要と言うなら払ってやる。
私に人を裁くことなどできないことは明らかだからである。
また、今回の裁判員制度裁判のやり方で、裁判員がしっかりとした判断などできるはずがないと思う。単に、まともな判断ができたと思い込ませるためだけの準備がされていたに過ぎない。

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少食の真のメリット

1日1食の菜食で、間食をやめて何が良かったかと改めて考えると、その1食を食べられれば満足だと思えるようになることだ。
食事の時は本当に空腹なので、ライスと豆腐とブロッコリー、ジャガイモ、それに、クルミでも食べられれば、それは天国の食事であり、その美味しさ、有難さは言葉にならない。
普段でも、「ジャガイモさえ食べられれば」「クルミさえ食べられれば」、後は別に何を望むでもない。

これが飽食の人なら、あれも食べたい、これも食べたいと、欲望は膨らむ一方だ。
さらに食欲を満足させると、あれも欲しいこれも欲しいと思い、旅行、レジャーも楽しみたいし、それらができないと不満でみじめに感じるまでになる。それが、経済至上主義の人民の飼い方である。
それで、心は落ち着かずにさ迷い、本当の安らぎを感じることは無く、身体も精神も疲弊し、速く老いてしまうのである。

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2009.08.08

目が覚めたら王だった

あなたが目を覚ます。
そして、自分が恐ろしいほどの豪華なベッドで寝ていることに気付く。
布団もまくらも最高級品で、贅の限りを尽くしている。
いや、ベッドだけではない。
部屋は途方もなく広く、調度品も含め、何もかも芸術的な造形のものばかりで、しかも全てピカピカに磨き上げられている。

さらに、それだけではなかった。
周りには、上品な執事やメイドが沢山控えている。
「ここはどこだ?」
とあなたが問うと、執事長らしい男性が言う。
「あなた様のお部屋でございます。ご主人様(あるいはお嬢様、若旦那様等)は、長い間、重い病気でうなされておられました。悪い夢でも見ておられたのでしょうか?」

西洋人はこんなお話が好きなようだ。
アメリカ最大の思想家ラルフ・ウォルドー・エマーソンは、こんな話が人気があるのは、これが実際の我々についてのことであるからと言う。
自分がいかに偉大であるかを、皆、知らずにいるのだと。

インドの偉大な聖者、ニサルダガッタ・マハラジは、師の「あなたは至高の実在である」という言葉を忘れなかったおかげで、何の努力もなしに真我の実現(悟りを開くという意味)を果たしたと言う。
真我とはアートマンであり、宇宙神ブラフマンと一体のものだ。即ち、真我の実現とは、自分が神であるという本来の姿に目覚めることだ。
ラマナ・マハルシは言う。
「あなたは真我(神と一体のもの)なのだ。悟ろうが悟るまいが、あなたは真我以外の何者でもない。真我であろうとしてならない。真我でありなさい」
神道黒住教の開祖である偉大な神道家、黒住宗忠は言った。
「人は、天照大神と一体である」
天照大神は、神話の女神であると共に、根本神である。
我々は自覚があろうがなかろうが、やはり神である。それであろうとしてはならない。それであらねばならない。

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2009.08.07

1日1食にして、1年経ちました

本日8月7日で、私が1日1食となってから、丁度1年である。
1年前のその日には、既に菜食主義となり、一切の間食もしなくなっていた。
1年よく続いたなという感慨は別にない。特に気を変えなければ一生そのままであることは明白だった。

私は、一体何を思って、1日1食にしたものか?
ダイエットだとか健康のためという目的はあまり無かったと思う。
180cmで94kgあったが、それは、プロレスリングのJrヘビー級選手の体格を理想としていたからで、本当は100kgくらいにしたかったし、そのための努力をしていた程だ。
健康については、健康診断では悲惨な診断結果が出ていたが、実際には体調が良く、そもそも私は医学を全く信用していないので不安はなかった。ただ、メニエール病と狭心症の症状がたまに出ていたが、それは確かに治った(先日、メニエール病の症状が出たが、非情に軽かったし、身体を休めたら2日で治まった)。
1年経った今、体重は61kgとなり、健康診断はオールA診断の超健康体。もっとも、栄養学的な栄養バランスなんてものは完全に無視した食生活のはずだ。
食べるのは、ライス、豆腐、豆類、根菜類、野菜、海草類、ナッツ(くるみかアーモンド)が中心で、魚介類や卵もたまには食べている。
お菓子は、正月だけはヨウカンを食べたが、それ以外は、大好きではあるが一切食べない。

人はなぜ食べる欲望が強いのだろう。
脳機能学者で計算機科学者の苫米地英人氏によると、長い歴史の中で、人のDNAには、飢餓に対する恐怖が刻み込まれているからで、そのために人は経済活動に血道を上げるのだそうだ。
なら、餓死を受け入れることができれば、食欲はあっても、私のように食を慎むことができるだろう。
確かに私は死にたがっているようなところがある。だがそれは、甘ったれたガキが「死にたい」などと言うのとは全く違う。本当に死にたいなら、私のように食を慎むことができる。
私の望む死は、肉体を自己と見なす心が生み出した自我の死である。イエスや釈迦が断食をしたのも、目的自体は同じだったと思う。
人間の本質は肉体や自我ではないはずだ。
ラマナ・マハルシは言った。「イエス(自我)が十字架(肉体)に磔にされて滅び、真我(本当の自己)であるキリストが復活した」
全てを天に任せ、自我を離れた者には堂々とした体格の者も多い。黒住宗忠や岡田虎二郎は100kg以上の巨漢だった。しかし、彼らでも、真の自己を知るまでは、重病で死の手前までいったり、元々は病弱であったりで、食の細い時期はあったのだ。

私は、餓死の恐怖を克服することで、自我を離れ、キリスト教の復活である神道のヨミガエリを果たそう。

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果て無き繰り返し

大きな力を得たいというなら、「果て無き繰り返し」に尽きる。

仏教の般若心経や神道の大祓詞を1万回唱えたなんて人が、さっぱり駄目な人間だということは、私には考えられない。
それが10万回なら、間違いなく神のような人と思う。
たとえ、そのお経や祝詞、あるいは呪文が、全くのニセモノであっても、きっと驚くべき効果がある。
「梯子仙人」といって、ある愚直ではあるが純粋な男が、騙されてデタラメの仙人になる法を教わった。しかし、それを大真面目にやったら仙人になったという話を、黒住宗忠はよくしたそうだ。昔話にも同様なものがあると思う。

ゲーテは果てしない年月を回り続ける地球に学びたいと言ったものだ。
新渡戸稲造の「武士道」や、日産自動車16年連続世界一セールスマンだった奥城良治さんの著書にも、長く続けることの力を示す例が見られる。

アメリカに、SMIという有名な自己開発プログラムがある。
音楽CD(以前はカセットテープやレコードだった)で教えを何度も聞き、潜在意識に浸透させるという形式のプログラムだ。
高価なものであるが、ユーザーの中には、効果がなかったと言う人も少なくは無い。いや、実際はそれが圧倒的かもしれない。
だが、ある成功した事業家は、それを数千回聞いたという。1つのプログラムを1通り聞くのに30時間はかかると思う。
1冊の本を、閉じ糸が取れてボロボロになるまで読んだという人もいるが、やはり大変な賢者となり、事業でも成功した。
エジソンや松下幸之助さん、本田宗一郎さんの研究開発の回数の凄まじさは聞いたことがあるかもしれない。

斎藤一人さんは、「ツイてる」「ありがたいなあ」「幸せだなあ」といった言葉を千回言えば運が開くと言った。しかし、悪いが、千回では全然足りないと思う。心汚れた凡人であれば10万回というところではないかと思う。
法然は「南無阿弥陀仏」の念仏を1日6万回唱えたという。
偉大な人間には、例外なく、必ず毎日続けていることがあるはずである。
人の真似をする必要はない。新渡戸稲造は、自分は何をしようかと考えた末、行水と決めるが、風邪で高熱のある日もそれを決行し、医者に怒られたという。あまり大変な行では続かないが、その位の意志の強さも必要かもしれない。

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2009.08.06

忘れないということ

何度か書いたかもしれないが、インドの偉大な聖者ニサルダガッタ・マハラジが、何の努力もせずに悟りを開いた話を再度する。
マハラジは、教養のない元農夫で、その後、町で事務員をやったが勤まらず、あまり上手いとも言えない商売人で一生を送った俗人である。
33歳くらいの時、師に「あなたは至高の実在だ」と言われ、その言葉を忘れなかったので、4年後に悟りを開き、神と一体となったと言う。

大切なことを忘れないために、多くの宗教では、毎日、決まったこと(お祈りや、賛歌などが多い)をして、特に執着のない方法でそれを思い出すのだと思う。
マハラジも毎朝のお祈りや賛歌は行っていたようである。
何を忘れなかったかということで、人生は決まると思う。

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2009.08.05

世界は心を映す鏡

「子は親の鏡」という言葉は、児童教育で世界的に著名な心理学者ドロシー・ロー・ノルト博士の詩の題名である。

「子は親の鏡」という言葉自体はよく使われるが、自分の姿の確認として子供を見るという人は少ないと思う。
では、子供がいない人は、自分を見る鏡はないのか?
いや、実は、全ての人が自分の鏡なのだ。
著名な作家の吉川英治さんは、「我以外皆我師」なんて立派な言葉を残しているが、「我以外皆我鏡」である。
人に限らない。
もっと分りやすく言えば、「世界皆我鏡」だ。
世界全体が自分の鏡なのだ。
世界は自分の心を映す鏡である。心が世界を創るのであり、世界は心の反映に過ぎない。
「自分の心が分らない」などと言うなら、世界を見れば良いのである。そこに、あますところなく、自分の心が現れている。

心が活動を止めれば何が見えるかというと、ただ輝きが見えるであろう。
天照大神が、鏡で自分の姿を見たように。鏡を自分の魂だと言ったように、自分の真の姿を自分で見ることはできない。
だから鏡を作ったのだ。
鏡(カガミ)である他人を、あるいは、世界を、我(ガ)を持たずに見れば、そこに見えるのは神(カミ)である。

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2009.08.04

久々にメニエール病が発症

長期間に渡って苦しめられたが、1日1食の少食、菜食にしてから、すっかり症状が出ず、完治したと思っていたメニエール病の症状が日曜日から出てきた。
平衡感覚が乱れて歩きにくかった。
そういえば、先週はどことなく体調が悪く、昼休みは、私は昼食は摂らないが、デスクでじっと寝ていた。
さすがに、以前、この病気の発作で倒れた時のような、地面が揺れているような感覚や吐き気まではなく、むしろ、宙を漂っているようで気持ち良いと言えなくもない。
日曜日はよく休んだこともあり、昨日は、立ち上がらない限りは、体調の悪さは特に感じなかった。

メニエール病の原因なんて分らないものらしいが、自己分析では、疲労、ストレスと、血行不良あたりだと思う。
この数週間、休日は炎天下の中、1日4~5時間、ひたすら歩き回り、平日まで含めプロレス式トレーニングまで開始する始末。忍耐を要する訓練により脳幹を鍛えようとしたのだが、ちょっとやりすぎだったかもしれない。
ストレスに関しては、やはりこの数週間、会社で相当なものがあった。
また、会社の冷房が過度で、身体がかなり冷やされてしまう。
これらが一度に重なってしまったことが原因ではないかと思う。

今朝はもう、悪い感じは全くなくなった。やはり、このところの無理が原因だったのだろう。運動はスワイソウだけにし、天然塩を少し摂取したのが良かったと思う。このくらいですぐに治るのが、やはり1日1食の菜食で、間食をしない効果と思う。
尚、このメニエール病の症状が出たことについて、すぐに感じたのは、やはり「ありがたい」である。

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2009.08.03

なぜ、ありがたいのか?

「ありがたい」という言葉に奇跡を起こす力があることを示す事例を、奇跡的なものまで含め数多く挙げることができると思う。
奇跡目的、ご利益目的というのも何であるが、私には、「ありがたい」という言葉の力は当然のことのように思う。
本来理屈は不要だが、この言葉になぜ奇跡的な効果があるかを簡単に説明した上で、より効果的に使うための方法を少し言っておきたい。

私は、1日中でも、「ありがたい」と唱えている。私の場合は心の中でだが、口で言うのが好きなら、もちろん、そうすれば良い。
実際、唱えるのは1日の特定の時間、あるいは回数を唱えるのではなく、いつでもどこでもが良い。
誤解してはいけないのは、良いことがあった時にだけ「ありがたい」と言うのではないということだ。
面白くないことや、被害的な状況でも「ありがたい」と言わなければならない。
それについても、誤解してはならないのは、悪いことを良い風に解釈して「ありがたい」と言うのではないということだ。全て有り難いと「思わねばならない」のではなく、全て有り難いと「知らないといけない」のだ。

なぜ、どんなことでも良いことで有り難く、幸せなのであろうか?
この世というのが、実体のない幻のようなものであるのは間違いないのだが、メキシコのナワール(シャーマン)であるドン・ミゲル・ルイスの言うように、芸術品と言えるかもしれない。
この世に起こる全てのことは偶然ではなく必然で、それはある力が起こすのであるが、その力を神と言って良いと思う。神という字は、「申して示す」という意味で、人生で起こることとは、神の示すことなのである。神が無駄なことを示すはずはなく、また、神は限りなく慈悲深い存在であるのだから、それは全て貴く有り難いことであるはずだ。

人の人生なんて、神の示すことに対し、どんな思いをするかだけのためにあるのである。
荘子は、「全て虚心に受容し、一切の思慮分別をしてはならぬ」と言った。神の示すことをそのように受け取れるなら、確かに至人、神人の名に相応しい。
だが、凡人には、あるがまま虚心に受容するのは難しい。それで、自分自身に、どんな出来事も「ありがたい」と念押しするのである。
1日千回を目標に「ありがたい」を唱えていれば、出来事に文句を言う暇が、ちょっとは少なくなる。悪いことが起こっても「ありがたい」と言うようになる。不愉快なことが起こった時こそ、「ありがたい」と言わなければならない。むしろ、悪く見える出来事の方がありがたいものなのである。
不愉快なこと、憂鬱なこと、困ったことが起こらない人生はないが、そういった出来事こそ、神の心尽くしであり、真に良いことである。なぜなら、それを受容してこそ、より神に近付くのであるから。

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2009.08.02

食を慎める者は、稀にみる幸運な人だ

食を慎んでいる者は、実に幸運であると思う。
なぜなら、自分の意思で食を慎むことなど出来ないと思えるからである。
それは私自身もよく知っている。昨年7月まで、飽食、美食の限りを尽くしていた(高級ではなかったが)。
だが、ある時、神様が降りてきて、何の努力もなく、1日1食の菜食主義者となり、間食もしなくなった。食欲は全く変わらないのにである。
私が食を慎めるようになったのは、単に「たまたま」であり、幸運であったに過ぎない。
食を慎むことの多くのメリットを享受した私は、浅はかにも他人にも薦めたが、直接薦めた人では誰も実施せず、悪い結果となった場合すらあった。
人は、思うように食を慎むことなどできないのかもしれない。
いや、もっと言えば、人は自分の意思では何もできないのだ。

ニサルダガッタ・マハラジは偉大な聖者であるが、解脱のためには何の努力もしなかったと言う。
なぜ解脱できたかというと、単に、師の言葉を憶えていて、忘れなかったからだと言う。その言葉とは、「あなたは至高の実在である」だ。
この言葉を聞き、忘れずにいたマハラジは幸運だったのだ。

水野南北は、食を慎む者は、富裕、健康、長寿は約束されると言う。
だが、人は自分の意思で食を慎むことはできない。
幸運にも食を慎むことができるなら、その幸運に感謝すべきである。

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2009.08.01

神の力を秘めたDNAのスイッチを入れる

私が、1日1食の菜食以外に続けていることの1つに、昨年末頃から、神道の代表的な祝詞である「大祓詞(おおはらえのことば)」を毎晩必ず1度上げている。先週からは、最低、朝、晩の2回上げるようにした。
最初の頃は、なかなかすらすらと唱えることができず、少し苦痛に感じることも無かったではないが、最近は何かとても楽しく感じるようになってきた。大和言葉の美しさも、少しは感じるようになったと思う。
大祓詞は、罪、穢れを祓うと言われる。罪とは、本来の心である神の心を包み隠すものであり、穢れとは、神の気を枯らすという意味だ。私は、これに関してはまだまだと思うが、心の安らかさは感じる。罪、穢れを祓うことができれば、我々は神になる。神道では、人間は神の直系の子孫であり、当然にして神の性質を隠し持っているのである。春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんによると、大祓詞を唱えることで、日本人の持つDNAにスイッチが入ると言う(葉室頼昭さんは医学博士で、世界最高の形成外科医でもあった)。我々は、神の力を秘めたDNAを持っているのだと思う。

大祓詞は、仏教のお経である「般若心経」よりはいくらか長い。
私は、般若心経も好きだ。これを10万回唱えたという人がいるが、やはり神と同じ力を持っているように思うし、そうであって当然と思う。
昔、日本一のセールスマンと言われたある男は、毎朝必ず般若心経を唱えた。自分がこんな活躍ができるのは、神仏やご先祖様のおかげと言っていた。立派な心構えと思う。
神道黒住教を開いた黒住宗忠は、修行時は、1日数百回の大祓詞を上げたといわれる。もちろん、私はそこまでは無理だが、1日十回で、3ヶ月余で千回の目標を立てようと思う。

無邪気過ぎると思われるかもしれないが、大祓詞や般若心経を毎日欠かさず唱えているから大丈夫だと信じていると大丈夫になる。
それは心を支える力になると思う。人間には、そんなものが必要なのだと思う。

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