激しい後悔
我々は、やってしまったことを後で後悔し、ひどく心を痛めることがある。
1591年、伊達政宗は佐沼城を攻め落とすと、城にこもっていた武士はもちろん、百姓、女、子供にいたるまで、1万人を全てなで斬りにするよう命じ、その通りとなった。
一説では、政宗はその後、狂乱するほどに悩んだとされる。
信長や秀吉らも、武士ではない僧侶などまで皆殺しにした話はよくある。彼らとて人の子。平気であったわけでもないと思う。
南インドの聖者、ラマナ・マハルシに、ある男が言った。隣の家の若い娘が魅力的で、いつも淫らなことを想像する。それを実際にやってしまわないとは限らない。どうすれば良いかと。
マハルシは答えた。誘惑されているのは身体であって、お前は純粋である。仮に姦淫をしたとしても忘れよ。
ヒンズー教の聖典「バガバッド・ギーター」に書かれている。戦で人を殺さねばならないとしても悩んではならない。お前が殺すのではない。彼らは神によって殺されていたのだ。
全ては運命である。
起こるよう定められていることは避けられない。起こるよう定められていないことは、どうやっても起こらない。
だが、自己を行為者と同一化してはならない。あなたはただ、運命の目撃者に過ぎない。
あなたにできるただ1つのことは、純粋な自己として、ただ存在することだけである。
荘子は、全てをなりゆきにまかせ、一切の思慮分別をしてはならぬと言った。
全てを虚心に受け入れる者には、鬼神も従うであろうと。
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Comments
いつもどうもありがとうございます
大霊の分け御霊を宿す人間を殺すのは理由が国務であれ賛成しかねますよね。
その「戦う為に戦え」とか「自分を行為者と観るな」
と言うのは
自分が行為する意識を持つ事によって結果が自己に必ず返ってくるという輪廻の鎖を断ち切る方便なのではないでしょうか(*'▽'*)
平安でありますように
Posted by: 祈り | 2009.08.30 03:25 AM
★祈りさん
いえ、自分を行為者と見ないということに、意図や目的や作為は全くありません。
正しくは、行為者でないと見るのではなく、行為者でないと知ることです。
Posted by: Kay | 2009.08.30 07:43 AM