2種類の思い込み
思い込みの力の恐ろしさについて聞いたことがあるかもしれない。
心から出来ると信じれば、平素の実力をはるかに超えることをやってしまうことがある。
悪い方に働けば悲惨なことが起こる場合もある。例えば、自分は心臓麻痺で死ぬと思い込めば、本当にそうなることになる。
人間の力なんて神秘なものだ。
窓から落ちかけた我が子を救うために、平凡な主婦がオリンピックの短距離ランナーでさえ不可能な速さで走ったり、トラックの下敷きになった息子を救うために、やはり小柄な女性が、大の男数人がかりでも持ち上がるはずのないそのトラックを持ち上げたなどという記録は少なくはない。
あるいは、催眠術を使って、怪力を発揮させるようなことも可能だろう。
江戸時代、病気になった農民や町人が、少しの白砂糖を与えられたらすぐに治ってしまったり、白米を振る音を聞かせるだけで具合が良くなったという話がある。
当時、庶民には、白砂糖も白米も、手の届かないものであったのだ。
しかし、ただ思い込めば良いというわけではない。
例えば、精神病院には、自分が神様だと信じ込んでいるような者もいるが、さっぱり神様らしくない。
以前、自分は最強の格闘家だと信じているらしい中学生をテレビで見たことがあるが、実際に戦わせると、やはりプロのK-1選手に指1本触れることすら出来なかった。
この2つの思い込みの違いは何だろう?
私は長い間、ずっと考えてきた。
そして、理解した。だが、説明ができない(笑)。
言葉で言えば、その人間を支配しているのが、自我かエスかの違いということになる。もちろん、こんな説明では説明になっていない。そもそも、自我とかエスは説明できない。ためしに、自我やエスを専門書で調べれば分かるが、訳の分からない説明が書いてある。Wikipediaでも同じだ。難しいからではなく、誰もはっきりとは分かっていないのだ。
あえて分かりやすく言うならこうだ。
普通の、つまり、日常の心で思い込んだところで無駄だ。むしろ逆効果になる。
だが、我々の知りえない、神秘な心で信じ込めば全て可能だ。この神秘な心を、潜在意識だとか言う者もいるが、潜在意識なんてのも、本当は分からないものなのだ。
この神秘な心は、通常の心からみれば、無である。
つまり、無心、無我になれば、何でもできるというわけである。
成功哲学なんてのは、あの手この手で、無心の心に願いを伝えようとするものであるが、上手くいったためしはほとんどない。
政木和三さんが、このあたりを実にシンプルに語ってくれた。欲望を捨てれば、不可能はない。即ち、思いのままであると。
それを真言にしたものが、内海康満氏の著書で公開されている。最初に本に書かれたのは、竹内満朋(たけうちまんぽう)氏の「ローム太霊講話集」である。
後は、自分で考え、試し、工夫するしかないと思う。それができる者だけが超人になるのである。そして、超人は少ないのである。
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