高貴なる幻想
我々は、単に作りものの権威を盲目的に信じていることに気付いていないこともある。
例えば、プロボクシングの世界王者にはWBC王者とWBA王者があることをご存知かもしれないが(他にもIBF王者があるがここでは省く)、これは、「WBCという団体の認定する世界王者」、「WBAという団体の認定する世界王者」といった意味である。では、そのWBCとかWBAとは何かというと、実際のところは、単にお金持ちのプロモーターが設立した団体に過ぎない。
いや、オリンピックを管理するIOCだって、単に規模の大きな私的団体である。
ボクシングの世界王者にしろ、オリンピックのメダリストにしろ、それをどのように評価するかは全く個人の自由である。何の評価にも値しないと考えたって、その価値観に何の欠点もないのである。
あなたがボクシングの世界王者を認定する団体を作り、そこで世界王者を認定しても良いのである。自分を世界王者に認定すれば、あなたもボクシング世界王者である。
プロレスリングでは、そんな雰囲気のことがよく行われ、世界王者という者が非常に沢山いたりするのである。ただ、その団体の営業力が大きいほど権威があるように見せられるに過ぎない。
さらに言えば、国家なんてものも、富や軍事力の運営団体に過ぎないとも考えられる。
ただ、国家に精神的な何かが存在することで、次元の異なる権威を持つことになるのかもしれない。とはいえ、その場合も、その権威が単なる幻想であると言えるかもしれないのである。いや、幻想と言い切っても良いのであるが、幻想が必ずしも悪いわけではない。幻想とは美しいものでもある。
日本のように、皇室の起源が、ほとんど国家の成立と共に始まるというのは、海外に例がない。しかも、歴史の中で、皇室に大きな財力や軍事力がなかった時期も少なくなかったにも関わらず、全く途絶えることがなかった。
さらに、実権のある将軍も、天皇には必ず平伏した。権力よりも権威を重んじる美徳がいかなる時にもしっかりとあったのだ。これを見ても、日本が、非常に精神性を重んじた国であることは間違いないと思われる。
だが、近年では、精神性よりも物質性を明らかに重んじ、精神を非常に軽く見なすようになった。
物質次元を超える幻想こそ芸術であり、そこに高貴な秩序を備えたものが本来の宗教であった。
物質を過剰に追い求めることが、日本という国の滅びに結びつくのである。逆に、日本が、本来持っていた高い精神性を発揮するようになれば、世界の精神的な主になるのであるが、現在のところ、それは有り得ないことであると言うしかない。
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