マハルシが教えた、悟りを開く最もシンプルな方法
インドの聖者ラマナ・マハルシに、ある女が尋ねた。「私は教養がなく、聖典を読んだこともない。こんな私でも真我を実現(悟りを開くのと同じ意味と言って良いと思う)できますか?」
マハルシは「当然できる」と答えた。そして、そのための最もシンプルな方法を教えた。「自分に対し、私、私・・・と心の中で言い続ければ良い。そうすれば真我を実現できる」。
「私」は、あらゆる想念の源である。いかなる想念にも、まず、「私」という想念が先立つ。どんな想念も「私」に起こるからだ。
その「私」に意識を集中すれば、どんな想念も起こらず、やがては、「私」という想念も破壊される。それが自我の終焉であり、真我の実現である。
だが、マハルシは、もう1つの易しい方法として、「明け渡し」を教えている。これは、一切を神に任せ、神を信じ切るということだ。任せたからには、何が起ころうと不満を言うことは赦されない。
私の知る限り、明け渡しの方法を選択した人の方がうまくいっているように思う。
明け渡しは、絶対他力である。自分の力は無力として放棄している。これは、運命論に近いか同じと思う。
仏教学者のひろさちやさんは、子供の頃、毎日、祖母に仏前(神前だったかもしれない)にお祈りをさせられたが、お祈りの内容を報告させられた。お祈りの内容が「ありがとうございます」以外であれば、やり直しを命じられた。
私は、なんと素晴らしい教育であることかと感動した。
春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんも、神様へのお祈りは、ただ感謝するのみと著書に書かれていた。そして、取り越し苦労や持ち越し苦労(後悔)は、神様への侮辱であると言う。神様が良くしてくれないはずがないからだ。
ただ、見返りを求めての感謝では全く意味がないはずだ。下心があれば、いかに形ばかりの感謝を示しても神様にバレないはずがない。まあ、それでも大目に見てもらえているのだとは思う。だから、政木和三さんは、「欲望を捨てれば不可能はない」と言ったのだと思う。
しかし、考えてみれば、それを宗教、あるいは、宗教的と言おうが、あるいは、古代の英知、真の知恵、至高の哲学と呼ぶかは人それぞれであろうが、およそ本物の教えで他力でないものはないと思う。
最も徹底した他力であるのは、親鸞の弟子の唯円が書いたと言われる「歎異抄」と思う。ここでは徹底して自力が排除される。
無為を徹底して説く老子、荘子もそうであるし、「天の父はお前達に必要なものなどとっくにご存知で、それは必ず与えられる」と言ったイエスの教えもそうであるはずだ。
だが、ニサルダガッタ・マハラジが言ったように、「不要なものを求めなければ必要なものが与えられる」のであることを忘れない方が良い。
そして、不要なものを求めて、それが得られたとしたら、それは単に人生における借金のようなものと思う。
どこかの国で、ある富裕な人たちの社交界に入る条件は「働かずに2億円以上の年収があること」だそうだが、昨今、「働かずに高収入」といった不労所得が人気である。これらは宇宙スケールの借金であり、その結末は、我々の知る普通の借金と変わらず、ただ、前世、来世も含めた壮大なものなので、見え難いだけのことかもしれない。恐ろしいものである。
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Comments
いつも、深く関心をしながら、学ばせていただいております。マハルシが教えた、悟りを開く最もシンプルな方法は、私も思うところがあります。今まで私は、本を沢山読み、知識を詰め込んできましたが、こんなもの、価値の無いものと
気がつきました。マハルシは、私といっていますが、小生の場合は、内へ内へ、自分の中の魂の響きを感じるようにしています。
「明け渡し」いいですね、使わせてもらいます。
またコメントさせていただきます。自分への学習にもなるので
Hidesaburou
Posted by: Hidesaburou | 2009.07.22 10:45 AM
★Hidesaburouさん
マハルシの本を読むと、マハルシは、真我探求には、「私」の探求と、明け渡しの2つしかないとしています。
「私」の探求以外では、結局失敗することを詳しく説明しています。
私も、明け渡しが好きです。
全て神様にまかせ、神様を絶対的に信頼する道です。宗教家のみならず、あらゆる分野の人に、この道を行く人が多くなっていると思います。
Posted by: Kay | 2009.07.22 09:35 PM