白土三平作「消え行く少女」
1959年に発行されたという、白土三平さんの「消え行く少女」のハードカバー復刻版を購入した。
白土三平さんといえば、「ワタリ」「サスケ」「カムイ伝」など、忍者ものの第一人者として有名だが、本作品がデビュー作なのではないのだろうか(同年に「忍者武芸帳」、1961年に「サスケ」刊行)。
主人公は、雪子という中学生の少女だ。あの白土さんが、女の子を主人公にと意外に思うかもしれないが、後の忍者ものにおいても、白土さんの描く少女の愛らしさ、美しさは、芸術的と思うほどだ。とにかく言葉にできないほどなのだ。そして、その片鱗は、この作品にも顕れている。
雪子は、赤ん坊の時、広島で被爆する。雪子が中学生の時、母親は原爆症を発症して死ぬ。そして、雪子自身も発病する。だが、身寄りも家もない雪子は、病気の身体で、この世の悲惨を味わう。本当は美少女なのだが、服も髪もボロボロになり、乞食にしか見えない姿になりながら、ままならぬ身体を引きずってただ歩くしかない。
そんな雪子に、優しくする者は滅多にいない。白土さんは、それが世の中の人だと冷酷に宣言するが、同時に、なぜそうなんだという疑問と怒りをぶつけている。
雪子に優しくするのは、弱い立場の者か、心に深い傷を持つ者である。
人は誰でも、一度は弱い立場になるか、深く傷付く経験を持たないといけないのだろうかと思う。
人の痛みは想像ができないのだ。
このことについては、森山風歩さんの「風歩」(講談社)を読むとさらにそう思う。
筋ジストロフィで身体の自由が効かない少女を、親もクラスメイトも教師も総動員でいじめ、叩きのめすという読むに耐えない本である。
尚、風歩さんは、素晴らしい美少女である。風歩さんのオフィシャルブログはここだ。
尚、引きこもりを言い訳にニートとして親にいつまでも食べさせてもらっているマザコンのガキは、ただ甘えているだけなのに被害者のつもりでいるから始末が悪い。連中は、決して本当の痛みなど知らない。だから余計に不満を爆発させるのだ。
いや、あまり人を非難したくはないのだが、二人の悲惨な少女のことを思うと、目の前に甘ったれたニートがいると叩きのめしたくなるのだ。
「消え行く少女」の話に戻る。
石を投げられて怪我をし、さらに追いまくられ、病気に加え、空腹と疲労で気を失う雪子を面白がってロープで縛ろうとする中で、恐ろしい姿の山男が現れ、雪子を連れ去る。その山男の正体は、まさに21世紀の今、日本と北朝鮮の関係を象徴する存在だった。
後味の良い作品であるはずがないが、読むたびに、何かが心に起こるのではないかと思う。
内海康満さんの「霊止乃道(ひとのみち) 」には、悲惨な運命を生きてみせる人は、人々に大切なことを示す役割を背負って生まれてきた天使のような存在であると書かれていた。
The comments to this entry are closed.
Comments