私が絶対にニートを認めない訳
今回は、久々に、引きこもりとニートの話題です。
私は、今でも強い引きこもり気質で、2年程のニートの経験があります。
世間で、引きこもりとニートを一緒くたにしていることがよくあります。
私は、引きこもりは気質の問題であり、良いも悪いもないですし、優れた面も大変に多いと思いますが、ニートは問題と思います。
ニートを容認しないとかいうと、ちょっと殺伐とした話になりかねないのですが、非常に重要な問題であることは確かでしょう。
ニートを養う親御さんや家族の負担は大変なものであるはずです。
人間一人の生活に必要なお金は、特に我が国では大変なものです。そして、ニート自身が、それを自覚していない場合が圧倒的ではないでしょうか?
私もある期間、ニートであったのですが、本来は、親が楽しみのため、あるいは、安楽な老後のために使うべきお金を、自分が全く非生産的に使うのです。それに気付けば、とてもではありませんが、気楽ではいられません。つまり、ニートである自分を肯定できるはずがないわけです。
私は、子供に、卒業だろうが中退だろうが、学校に行くのを終えたら家を出て自立しなければいけないことを教えるのに早過ぎるということはないと思います。
遅くとも、小学校の3年生くらいになれば教え始めるべきです。そして、度々、重々しく教えるべきです。そうすれば、成長するにつれ、大人になれば自分で稼いで食べるのが当然だと自然に思うようになります。
邱永漢さんは、夕食の時、いつも子供達に「お父さんが死んだら・・・」と話をしていたそうです。こんな家庭の子供がニートになることはないでしょう。
確かに、私も身にしみて知っていますが、引きこもりが、普通の職場で働く厳しさは大変なものかもしれません。
一人でできるような作業であればまだ良いかもしれませんが、チームでやるような仕事や、ましてや、積極的に話しかけ、相手に気に入られないと仕事にならない営業であれば、苦痛も大きいでしょう。また、最初から最後まで一人でできるような仕事は世の中に稀で、よほどの駆け出しのうちはともかく、少しすれば一人でやる仕事の部分はどんどん少なくなり、そのうち全くなくなることも珍しくはありません。
しかし、確実に言えるのは、若いうちなら、あらゆる意味においてマシだということです。
若いうちは気力も体力もありますし、更に良いことに、周りも若いということは未熟なことと同意ということで、ある程度は大目に見てくれるものです。誰だって、自分も若い頃は、思い出せばどうしようもなく恥ずかしい位馬鹿であったはずですから。
また、最近は何もできないのにプライドだけは高い若者も多いですが、余程の人格者でない限り、年をとってからのプライドは若い頃とは比較にならない程巨大なものになるのが普通です。
このようなことからも分かるように、スタートするのは、年をとればとるほど困難になります。
そして、若い時の苦しい状況は、やっている時は辛いと思うかもしれませんが、後で思い出すと、実に楽しかったことが分るのです。これが理解できないとしても、少なくとも、後で素晴らしい思い出として楽しむことができます。それは満足すべき経験です。
私自身、何をトチ狂ったのか、最初の仕事を、外交的な性格の人間でもほとんど勤まらないフルコミッション(完全歩合制)のセールスマンにしました。当然、その苦しさは半端ではありませんでした。それまで、親に衣食住を全て与えてもらって甘えて生きていたのですから。
しかし、苦しさが大きいほど、喜びも大きいというのは普遍的真理です。振り返ると、心から満足しています。
この喜びを味わえないとは、なんとも勿体無い話です。
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