偶然と必然
こんな話がある。
外国で列車に乗っていた男が、トイレに行こうとしたら、乗っている車両のトイレが、たまたま使用中だった。そこで、他の車両のトイレに行ったところ、元いた車両が爆撃されて大破し、そこに乗っていた乗客の多くが死傷した。
また、彼は、あるところで、たまたまある人物に出会ったことで、世に知られる仕事をするようになったそうだ。
これらの出来事を振り返り、彼は、人生とは偶然の連続でしかないことを強く認識したという。
私には、こんな思い出がある。
7つか8つくらいの頃だったと思う。
住んでいた団地の前は交通量の激しい車道だった。
おやつ等を買いに行くには、その向こうに行かないといけないのだが、信号機は随分向こうの方にあった。
私はいつも、信号機のところまでいかずに、ひたすら車が途切れるのを待ったが、車の数は多く、いつもひどく待たされた。
そうするうち、私はなぜか、物陰から目をつぶって飛び出せば車は来ないと思い込んだ。
そして、その信念のもと、いつもそうしていたのだ。
上記の人と同じように考えれば、私が車にはねられて死ぬか怪我をすることが全くなかったのは偶然ということになる。
しかし、車が途切れるのを待ち続けた時のことを考えると、もし偶然というなら、かなり稀な偶然だったと思う。
さらにこんなこともあった。
中学生の時、たまたまテレビで見ていた1時間番組の時代劇のある回が気に入り、その回をビデオ録画できればいいなと思い、さらに、ビデオ録画を決意するまでになった。その時、私が取った行動が変わっている。
ただ、ビデオのリモコンを握り、次にそれが放送されたら録画しようとしたのだ。そのために、放送に関する何の情報を調べたわけでもない。また、常にそうしたわけでもなく、思い出した時にチャンネルを気紛れに変えながら、目的の番組が始まるのを待ったのだ。
全く馬鹿げたような話だが、私はこれで目的の番組2つをちゃんと録画した。しかも、そのうちの1つは、およそ再放送もありえないような番組だったのだ。
これらは偶然ではないと感じた。
そして、この世のあらゆることが全て必然である。
確かに、「この世に偶然はない。あるのは必然のみ」と言う人は時々いる。しかし、彼らだって本当は分っていないのだと私は思う。
必然しかないと言っている人が、実際は偶然も認めているとしか思えないことを言う。
船井幸雄氏は「この世に偶然はありません。全て必然です。そう思わない人は勉強して下さい」とか本に書きながら、本山博氏に、人の運命は全て決まっていると言われたことに対し、「それでは面白くない」などと書くありさまだ。
人生というのは、何年何月何日の何時何分何秒に何が起こって何をするかまで、全部確実に決まっている。ついでに言うと、その時、自分がどう思い、どんな感情を持つかまで決まっているのだ。
全てが必然と言うような人でも、その必然が決まるスパンを短く考え過ぎているのである。1ヶ月や1年、あるいは、10年先といった、ある程度の期間のことまでしか決まっていないと思っているのだろう。しかし、実際は、人生まるごとで、いかなる些細なことまでも全部決まっている。
それを認めてこそ、人は欲望を離れ、真の自己を発見し、宇宙の真理を知るのである。
それを書に顕したものとしては、私が知る限りでは「荘子」だけだった。
ラマナ・マハリシもまた、当然に認識していたと思われる発言をしている。
だが、最近出た、内海康満さんの「霊止乃道(ひとのみち)」(たま出版)では、それを、普通の言葉で教えてくれているのに驚いた。お薦めしたい。
« 一番高貴な美徳 | Main | 孔子 VS 荘子 »
Comments
おはようございます。
私自身が人にびっくりされた偶然の出来事は↓です。
http://yumenotuduki.cocolog-nifty.com/dream/2007/06/on_time_3152.html
> その時、自分がどう思い、どんな感情を持つかまで決まっているのだ。
これもそうだったのかしら…↓
http://yumenotuduki.cocolog-nifty.com/dream/2007/07/post_7e7e.html
昔の日記ですが、ふとkayさんに読んでいただきたくなりました。(^^ゞ
もしよかったらお暇な時に読んでください。(現在ブログは放置プレイ状態です^_^;)
Posted by: 桃太 | 2009.05.28 08:50 AM
それはつまり、kayさんの言う「次元移動」の瞬間まで決まっているということですか?
Posted by: ニック | 2009.05.28 08:13 PM
★桃太さん
両方、読ませていただきました。
ええ話やなあ^^
リスクを背負うということは、人生において、どうしても必要なことと思います。
「夜空の星を掴み取ることは危険なことです。でも、それをしないと、もっと愚かな危険を冒すことになります。もしかしたら、なれたかもしれない偉大な自分になりそこねる危険です」
ええ話や!
★ニックさん
次元移動に関しては、決まっていないかもしれません。
Posted by: Kay | 2009.05.28 09:46 PM
こんにちは。
阿部敏郎さんのいまここ塾コメント欄からおじゃましました。
人生は些事に至るまですべてが最初から決まっている、
というご意見に同感です。
私がこの考えを知ったのはインドの覚醒者
ラメッシ・S・バルセカール(ニサルガッタ・マハラジの弟子)
『人生を心から楽しむ』〜罪悪感からの解放 (マホロバアート)
という本を読んだのがきっかけです。
人間には自由意志はなくすべては神の意志と受け入れることこそが、
究極の自由に至る道であると理解した次第です。
正直言って「神の意志」かどうかは分かりませんが、
すべては必然と思えば後悔や罪悪感から解放されることだけは
間違いありません。
ご参考までに。
余談ですが、エハン・デラヴィさん、以前はよく
京都のイルカ寺(妙蓮寺)でお話会をされてました。
懐かしいです。
少食のお話など興味深く参考になります。
少しずつ楽しみに拝見したいと思います。
長々と失礼致しました
Posted by: 白猫庵 | 2009.09.20 01:40 PM
★白猫庵さん
私は、ニサルガダッタ・マハラジは敬愛しながらも、彼の弟子については全く存じませんでした。
彼との対話集を読んで解脱した人はいるとは聞きます。
全ては必然ですね。確かに。
ただ、それが「神の意志か」となると、ちょっと微妙です。
ニーチェやイェイツは、偶然を自分の意志とすることで神に迫りました。
このあたりの解釈は難しいのですが、イェイツは、はっきりと、「神の意志を尊重するのではない。神の振ったサイコロが出た目を尊重する」といったようなことを言っています。
いや、私にも、まだまだ分かりません。
エハン・デラヴィさん・・・ちょっと怪しいですが、私は好きですよ。
2012年12月12日のアセンションの日が近付く中で、何をするか楽しみです。
Posted by: Kay | 2009.09.20 08:14 PM