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2009.05.31

至福の前の苦難

何事も、我慢の後に喜びがある。
食後のケーキを美味しく食べるためには、食事を控え目にしないといけない(甘いものは別腹論というのもあるが)。
私は、1日1食で間食もしないので、食事の時は、どんな質素な食事でも、王侯貴族の食事に優る美味しさ、楽しさ、喜びである。
ある程度禁欲を保ってこそセックスも大いに楽しいものとなる(さらり)。

さて、そういったことが、もうすぐ人類規模で味わえることになるかもしれない。
大きな苦難の後、人類の至福に満ちた意識のブレイクスルーが起こり、それは物質次元にも大きな影響を与えることになる。
これまでの人類の文化には終焉が訪れ、旧来の価値観から抜け出せない人々は破滅することになると思う。
だが、新しい世界で素晴らしい人生のスタートを切る人々だって、それまでには大きな試練を味わうことになるのだ。

例えばの話であるが、大気中のプラズマの異変で、地上では生存できず、地下に逃れる必要があるかもしれない。
一説では、権力者達は、すでに地下シェルターを建設中、あるいは、建設済みとされる。
しかし、我々庶民の分は当然ない。
ただ、権力者の中にだって、自分のためではなく、他の人々のためにそれを作っているという人や、政治家の中には、庶民と運命を共にしようとする人たちも出てくるのである。あまり多くはないかもしれないが。

それよりも、まずは食料危機が早いうちに訪れるだろう。
「金があれば大丈夫」と思っている人もいるに違いないが、いくら金があっても食料はどこにもない。
もちろん、ある場所にはあるかもしれない。しかし、単に金を持ってても駄目である。
多少の少量の備蓄をしても、飽食・美食に慣れている人は大変に苦しむだろう。
いざとなれば、餓死できる心構えがあれば安らかでいられる。それには、日頃から食を慎む必要がある。
うまくいけば、食べずに生きられるボディーに生まれ変わるかもしれない。

某国が戦争を仕掛けてくるとしたら日本だ。それは明日かもしれないのだ。
彼らは、核ミサイルを持つ上、利害関係にある中国には絶対に攻撃しない。また、アメリカに届くミサイルは持っていないので、アメリカにも攻撃しない。アメリカは攻撃したら大反撃してくる国だ。いくら某国でも本当に攻撃するはずがない。
だが、日本に届くミサイルは沢山用意されており、その発射基地の場所は不明だ。
核弾頭はまだ持ってないとしても、恐るべき化学兵器や細菌兵器はいくらでもある。化学兵器なら、そこそこの設備があれば、作るのは難しくない。
軍事力そのものは大差で我が国が優るが、そんなことは何の関係もない。我が国の兵士は実戦には全く慣れていない。それは、先の某国による長距離ミサイル発射時に暴露してしまった。某国が、韓国ではなく日本を攻めてくる理由はそこだ。兵力では劣るが、徴兵制のある韓国は日本よりずっと手強いということは明白である。
我が国は、首相自ら、先制攻撃は合法と言ってしまった。これも某国を刺激した。もう遅い。
日本が戦争状態になることは、おそらく確かと思う。アメリカは、自国は安全なのと、今はそんな余力がないので、日本に構ってなどいられない。せいぜいが、国連に訴えるだけになると思う。
覚悟だけはしておくのが良いと思う。

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2009.05.30

ヘミシンクでも幻覚剤でもない異次元との交流

日本の「古事記」をはじめ、世界中の神話を現代の人間が理解できないのは、文明の発達によって、人間が物質次元以外のことをますます感じることができなくなってきたからだろう。
スウェーデンの偉大な科学者・政治家・神秘家であったエマニュエル・スウェーデンボルグは、太古の人間は、普通に霊と交流していたと言う。
現代のアメリカ人の半分が守護天使の存在を信じているという調査結果がある。もっとも、守護天使を信じている人にとっても、守護天使がどのくらいリアルなのだろう?

神、天使、霊といった存在は、物質次元の存在ではなく、肉体の目で見たり、耳で聞いたり、手で感じたりすることはできないだろう。
それらの高次の存在と交流するには、肉体次元の感覚とは異なる感覚器官を働かせる必要があるに違いない。では、人間にそのような感覚器官があるかというと、それが物質次元のものではないのだから、物質次元において、あると証明することは不可能なので、各自、自分で使ってみるしかないのである。

高次の存在と交流するには、自身が高次の世界に踏み込む必要がある。
そして、それを行った者が、全くの別人に生まれ変わってしまうことがある。
多くの場合、高次の世界に入るのは、異常事態の中で、精神が強制的な停止に追い込まれたような状態である。例えば、事故や病気で死に掛けたり、大きな精神的ショックを受けたりである。
もっと穏やかな方法としては、何らかの精神誘導技術、例えば、瞑想や催眠術、あるいは、ヘミシンクといったものがある。
しかし、最も効果が高いと思われるのは薬物(幻覚剤)の使用で、ベストセラーにもなったシャーマンのカルロス・カスタネダが用いたのもそれである。スティーブ・ジョブズなどの著名人の本でも、その効果については、かなりリアルに描かれているし、画家の横尾忠則氏も海外での体験を本に書かれていた。
だが、特に日本では、LSDやアヤワスカなど、あらゆる幻覚剤の使用が法的に禁じられていて、日本にいる限り試すことはできない。
コリン・ウィルソンは幻覚剤の効果は認めながらも、弊害の多さを指摘し、それに変わる方法をいろいろ紹介しているが、その効果は幻覚剤のように劇的でないばかりか、よほどの探究心がない限り、何らの効果も認められない者が大半である。
近年、精神世界でリーダー的な役割となってきた感の強いエハン・デラヴィ氏は、所詮、幻覚剤の使用に優るものはないと言う。そして、幻覚剤による危険は、実際はさほどでなく、また、何か大きなものを得るのに危険がないはずがないことも同時に主張する。
デラヴィ氏は、釈迦やイエスも薬を用いたはずだと言う。また、モンロー研究所のヘミシンクは、自分も熱心に実践した上で、効果は限定的だとの認識を示していた。

ヘミシンクについては、私はモンロー研究所関連のものは試していないが、政木和三さんの発明したパラメモリや、その後継製品のアルファシータやバイオソニックを長く試した。これらは、ヘミシンク効果を利用したものである。しかし、健康面には大変に大きな効果があったが、異次元との交流は開かされなかった。
ただ、政木さん自体は神霊や宇宙人との交流があり、私になかなか効果が現れないのは、欲望があるからだと言っておられた。

上に書いたように、デラヴィ氏が、釈迦やイエスも薬を使ったと著書(5次元世界への超扉-徳間書店)に書かれているが、この2人は長期の断食をしたのであり、幻覚剤の類は類は使っていないと私は思う。
食を断つことで、物質次元とは異なる存在との交流が開かれることは、アイルランドの詩人W.B.イェイツの自伝的小説「まだらの鳥」に実に生き生きと描かれている。
この小説で、イェイツが自らを投影した主人公マイケル・ハーンは、少年時代、10日の間、ほとんど食を断つことにより、神秘な異世界を訪れることができた。それも、ある貧しい老人に、食べなければ神秘的な存在に逢うことが出来るかと尋ね、老人が、当然ですと答えたことを信じたからだった。老人は、ただ、身体と魂が一緒にいる、つまり、死なないために、少しパンを食べるよう言った。
イェイツ自身は、他にも度々神秘的体験をしているが、多くの世界的文豪・・・ドストエフスキー、ショー、エリオット、夏目漱石などが、それを作品に表現したりしている。
イェイツは、それがどのように起こるかは解らないとしながらも、憎むのをやめた時に起こりやすいと言ったようであるが、私は、それこそが本質であると思う。

水野南北も、長い断食の後、伊勢神宮の外宮で天啓を得た。天啓とは、高次の存在との交流であると思う。
異次元世界との交流者の多くが、食を慎むことの重要性を訴えていないのは残念であるし、欠点であると思う。
食の慎みほど、優れたものはないからだ。たとえそうは言えなくても、食の慎みの上に何かを行えば、より効果は高まるはずと思う。
霊界の中でも高次な処である天国にまで行くことができたエマニュエル・スウェーデンボルグも、霊界への扉が開く前に、霊によって、「お腹いっぱい食べて、自分を甘やかしてはいけない」という警告を受けている。

最も優れた異次元との交流の手段は、食の慎みであると思う。
そう遠くもない将来、日本も食糧危機となり、いくらお金があっても、食べ物が手に入らなくなるだろう。それに備え、今から食を慎んでおくことを強くお薦めしたい。
そうすれば、僅かな備蓄食料でやり過ごせるかもしれないし、ことによっては、全く食べずに生きられるブリザリアンと呼ばれる人間になれるかもしれない。
そして、食の慎みによって、異次元の世界に参入できる可能性もあるのだ。
逆に、飽食・美食の欲望から抜けられない人は苦しむことになると思う。

尚、このブログで何度か取上げた、「ローム太霊講和集」(霞ヶ関書房)にも、異なる次元の世界に入る方法がいくつか書かれているが、とても面白いものであった。
いくらか行を積めば入りやすい世界としては、この世と幽界の間にある次元界と呼ばれる世界である。
H.G.ウェルズの「堀についたドア」という作品でも、ドアというシンボルを通して、不思議な世界に入ることが描かれているが、ウェルズにそのような想像を働かせたものが何であるか興味のあるところである。

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2009.05.29

運命の星

1955年の西部劇の傑作映画に「星のない男(Man Without A Star)」というものがある。
監督は、西部劇の神様、キング・ヴィダー、主演はカーク・ダグラスだ。
アメリカではDVD化もされているようであるが、日本では発売されておらず残念である。

「星のない男」の星とは何であろう。
流れ者の凄腕ガンマン、デンプシー・レイは、若いジェフに、「人は誰でも1つ、星を持っている」と言うが、俺の星はないと言う。

そういえば、「セーラースターズ」(アニメ「美少女戦士セーラームーン」最終シリーズ)で、アイドルでイケメンの夜天光(やてんこう)が、セーラームーンこと月野うさぎに、「人は誰でも1つ星を持ってるんだ。そして、特別に強く輝く星を持ってるやつがいるんだ」というようなことを言っていたと思う。
原作者の武内直子さん自ら作詞した、このアニメの主題歌「セーラースターソング」では、「誰だって運命の星を持つ」とあるが、普通にも「運命の星の下」なんて言うとおり、星とは運命を意味するのだろう。
もちろん、古代にあらゆる場所で発生した占星術は、人の運命は星の影響を受けるのであると見なしているはずだ。
セーラームーンは、当時、「新世紀エヴァンゲリオン」と並び、終末論的アニメと言われたものであるが、特に原作は極めて深いものがある作品だ。
幼い頃から不幸な人生を生き、11歳でセーラームーンの娘のちびうさの魂を救った後に消滅した美少女、土萠(ともえ)ほたるに対し、ほたるの唯一の友達になったちびうさは、「こんな悲しい運命もあるんだ。そして、そんな運命を生きないといけない人もいるんだ」と思う場面がある。
運命というものが変えられるかどうかは分らないが、人には誰でも大枠では運命は決められているという主張が感じられる。
だが、作者は土萠ほたるの運命をただ悲しいものとはしなかった。ちびうさは泣くのをやめて勇気を出して戦いに赴き、地場衛(月野うさぎの未来夫で、ちびうさの父親)もまた、ほたるから不思議な力を得たことを実感した。
作者は、土萠ほたることセーラーサターンを「メシア(救世主)の一人」とし、セーラームーンことプリンセス・セレニティを「もう一人のメシア」と呼ぶなど、全く対等に扱ったこともある。

「星のない男」で、デンプシーが「俺に星はない」と言ったのは、自分の運命が分らないという意味だろう。大きな不幸や不運を経験すると、人は自分の運命を信じられなくなってしまうものだ。
「俺は、人生でいったい何をすればいいんだ」という悩み、迷いの姿である。

しかし、いかに不幸であろうが、嫌であろうが、目の前で展開される世界や自分の心の動きこそが運命だ。
いかなる運命であろうと、虚心に受け入れて、運命と共に流れていくと、真の安らぎに到達するのである。

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2009.05.28

孔子 VS 荘子

孔子の人気は根強い。
そもそも、日本は武家社会において儒教思想を大いに取り入れたこともあり、伝統的な馴染みもある。
そして、現在の日本のリーダーにも、「論語」を崇重する者は多く、その全編(20巻)を百回読んだとか、さらには暗記しているとかいう、変な、もとい!立派な人の話も聞く(笑)。
ところで、なぜ、「論語」が「孔子」という書名にならなかったのか不思議なものである。

孔子より百年ほど後の時代の人と言われる荘子が書いたとされるのが「荘子」だ。
「荘子」の中には、孔子が度々登場し、さんざ馬鹿にされている。
人によっては、それは荘子が孔子を認めているからこそ噛み付いているのだとか、実際、「荘子」の中に、「我々は孔子に適わないのだ」という記述もあることから、本当は荘子は孔子を崇拝しているとか言う人もいる。
もちろん、荘子とて、知における孔子の優秀さは認めていたに違いない。しかし、荘子がその害を最も警戒したのが人の知であるのだ。荘子は人知を超えたものを大切にしたのである。

そりゃ、世俗で成功者になろうと思ったら、「荘子」ではなく「論語」を読むべきだろう。
「荘子」の愛読者に成功者がいないわけではないが、荘子を本当に理解すると、世俗の成功にさしたるこだわりがなくなることは確かと思う。
邱永漢さんや竹村健一さんらは荘子が好きなようだが、世俗でも成功している。しかし、彼らはエコノミックアニマルでなく、節度を心得ており、良い人生を過ごしているように思う。だから、彼らの本は、ビジネスに興味のない人たちにも読まれていると思う。

孔子が本当に幸せだったか、特に晩年に安らかであったかは大いに疑問だ。苦労を重ね、心身をすり減らしながら、人々に受け入れられず、侘しさを感じていたように思えて仕方がない。
一方の荘子は、人々の評判に関心がないばかりか、むしろ評判を恐れ、生にすら執着がなかったことは間違いないことのように思える。

「老子」の方は、はっきり言って私にはさっぱり分らない。正確な文書が残っていないように思うし、解釈も研究者によって甚だしく異なる。虚心に音読すれば自ずと解るという人もあり、それはそれで正しいと思うが、老子の説いた道(タオ)に関しても、荘子が解りやすく書いてくれていると私は思う。
2012年に訪れると言われる、現人類の文明の終焉と、新人類への飛躍に際しても、荘子は最も重要なものと私は考えている。

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2009.05.27

偶然と必然

こんな話がある。
外国で列車に乗っていた男が、トイレに行こうとしたら、乗っている車両のトイレが、たまたま使用中だった。そこで、他の車両のトイレに行ったところ、元いた車両が爆撃されて大破し、そこに乗っていた乗客の多くが死傷した。
また、彼は、あるところで、たまたまある人物に出会ったことで、世に知られる仕事をするようになったそうだ。

これらの出来事を振り返り、彼は、人生とは偶然の連続でしかないことを強く認識したという。

私には、こんな思い出がある。
7つか8つくらいの頃だったと思う。
住んでいた団地の前は交通量の激しい車道だった。
おやつ等を買いに行くには、その向こうに行かないといけないのだが、信号機は随分向こうの方にあった。
私はいつも、信号機のところまでいかずに、ひたすら車が途切れるのを待ったが、車の数は多く、いつもひどく待たされた。
そうするうち、私はなぜか、物陰から目をつぶって飛び出せば車は来ないと思い込んだ。
そして、その信念のもと、いつもそうしていたのだ。

上記の人と同じように考えれば、私が車にはねられて死ぬか怪我をすることが全くなかったのは偶然ということになる。
しかし、車が途切れるのを待ち続けた時のことを考えると、もし偶然というなら、かなり稀な偶然だったと思う。
さらにこんなこともあった。
中学生の時、たまたまテレビで見ていた1時間番組の時代劇のある回が気に入り、その回をビデオ録画できればいいなと思い、さらに、ビデオ録画を決意するまでになった。その時、私が取った行動が変わっている。
ただ、ビデオのリモコンを握り、次にそれが放送されたら録画しようとしたのだ。そのために、放送に関する何の情報を調べたわけでもない。また、常にそうしたわけでもなく、思い出した時にチャンネルを気紛れに変えながら、目的の番組が始まるのを待ったのだ。
全く馬鹿げたような話だが、私はこれで目的の番組2つをちゃんと録画した。しかも、そのうちの1つは、およそ再放送もありえないような番組だったのだ。

これらは偶然ではないと感じた。
そして、この世のあらゆることが全て必然である。
確かに、「この世に偶然はない。あるのは必然のみ」と言う人は時々いる。しかし、彼らだって本当は分っていないのだと私は思う。
必然しかないと言っている人が、実際は偶然も認めているとしか思えないことを言う。
船井幸雄氏は「この世に偶然はありません。全て必然です。そう思わない人は勉強して下さい」とか本に書きながら、本山博氏に、人の運命は全て決まっていると言われたことに対し、「それでは面白くない」などと書くありさまだ。
人生というのは、何年何月何日の何時何分何秒に何が起こって何をするかまで、全部確実に決まっている。ついでに言うと、その時、自分がどう思い、どんな感情を持つかまで決まっているのだ。
全てが必然と言うような人でも、その必然が決まるスパンを短く考え過ぎているのである。1ヶ月や1年、あるいは、10年先といった、ある程度の期間のことまでしか決まっていないと思っているのだろう。しかし、実際は、人生まるごとで、いかなる些細なことまでも全部決まっている。
それを認めてこそ、人は欲望を離れ、真の自己を発見し、宇宙の真理を知るのである。
それを書に顕したものとしては、私が知る限りでは「荘子」だけだった。
ラマナ・マハリシもまた、当然に認識していたと思われる発言をしている。
だが、最近出た、内海康満さんの「霊止乃道(ひとのみち)」(たま出版)では、それを、普通の言葉で教えてくれているのに驚いた。お薦めしたい。

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2009.05.26

一番高貴な美徳

日曜日に車を走らせていたら、スカイラインGT-Rが止まっているのを見かけた。
1969年に発売された、いわゆるハコスカ(箱型スカイライン)と言われるモデルと思う。
エンジンは6気筒2000CCの4バルブDOHC(ツインカム)エンジンで、今でこそツインカムは4バルブが常識であるが、80年代までは2バルブのツインカムが多かったと思う。
エアコンも付かない、純粋な走り屋向きの、スパルタン(質実剛健)な車であった。
GT-Rを今でも大事に乗っている人は結構いると聞く。
スカイラインはその後、81年にRS(レーシングスポーツ)という名前の4バルブツインカムエンジン搭載車が出たが、このエンジンは4気筒であったので、GT-Rではなく、RSという名称にしたという話がある。しかし、4気筒エンジンでフロントの軽いRSは案外に楽しいような気もする。

GT-Rの場合は特別だろうが、「ものを大事に」が日本人の最大の美徳の1つであったはずだ。
車は、大事に乗れば、大抵は20年くらいは乗れるはずなのだ。しかし、それでは自動車会社の利益にならない。
だが、時々、非常に古い型のサニーやシャレードといった車が、かなりきれいな状態で走っているのを見るのは楽しいものだ。
私が今見たいのは、117クーペや、初代~3台目のカローラ・レビンだ。しかし、ピアッツァ(117クーペの後継車)や4代目レビンでさえほとんど見なくなった。

「美少女戦士セーラームーンS」で、セーラーウラヌスこと、天王はるかが乗っていた車はトヨタ2000GTだ(実際には存在しないオープンカーモデルであったが)。あのアニメが放送開始されたのは1994年だが、2000GTは1970頃の名車の誉れ高いスポーツカーである。
はるかは、後にフェラーリF512Mに乗り換えたようだった。この車は、作者の武内直子さんの車でもあったと思う。
その後でまた、2000GTに乗っていたが、ファンベルトが切れて動かなくなり、セーラームーンこと月野うさぎの家が近くだったので、そこに立ち寄ったというお話であった。ちゃんと修理したか気になるところである。

また、アニメ「エル・カザド」で、ナディが持っている銃は、古いコルトガバメントだった。

「荘子」の「養生主編」に登場する、名料理人の庖丁(ほうてい)は、普通の料理人で月に一度、腕利きでも年に一度、刀を換えるといわれる中で、同じ刀を19年使っても新品同様であった。

1つのものを、長く大切に使う。実際、これほどの高貴な美徳はないと思う。

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2009.05.25

感染したらどうするか?

この数ヶ月、私は毎日同じものを食べている。
同じものを食べていて飽きるとしたら、食べる量が多過ぎるのだ。
私なら、毎日、実に美味しく食べている。
健康も申し分ない。多品種を食べないといけないなんてのは全く嘘だ。野生動物は私以上に超偏食だ。

新型インフルエンザにでも罹ったのか、発熱と、ややけだるさがあった。気分は良かったが(笑)。
放っておいたら、3日でおさまった。
神戸は毎日通過しているのだが、まあ、感染の確率はほとんどあるまい。とはいえ、実際の感染者は、発表よりもずっと多いだろうと思う。
もし本当に新型インフルエンザに感染していても、何の問題もない。1日1食の菜食主義で、間食なしの身体は免疫力が高い。放置して回復した時には、このウイルスに対する免疫も出来ているし、何もしない方が免疫力も高まるのである。
ただ、この数年、会社の命令でインフルエンザワクチンを強制接種させられて、やや身体が弱っているかもしれない。病院では、連続して何度も接種するよう熱心に薦めてくるが、とんでもない話だ。
マスクはしている。単にマスクが好きだからだ。空気が汚れているので喉がいつも少し痛いし、マスクをしていると、顔が温かくて気持ちいいからね。

神戸の遊覧船がガラガラらしい。行けばよかった(笑)。他のお店もすいてるはずだ。来週は是非・・・

久々のナイフである。
中学生のおこづかいでも買える、TMCウォーリア2AP-22。ナチュラム楽天市場で1,580円(5/25現在)。
Tmc
私は、数万円以上のシースナイフも沢山持っているが、このナイフは実に気に入っている。何より、これほど手にピタっとくるハンドルのナイフは他にない。本当に素晴らしい。
ヒルトの形状もこれが最高ではないかと思う。
ハンドルの底は金属なので、固いものを遠慮なくガンガン叩ける。
刃は420スチールという安価なステンレス鋼だが、通常の用途では不満はなく、堅過ぎないのでむしろ磨ぎ易い。
135mmという刃の長さは、最も使いやすい。キャンプで、細い枝や草を刈ったり、料理にと、大活躍する。
目立たないが、ハンドルに紐を付けられ、その紐を手首に巻いておけば、落とす心配がない。これは大事なことで、あの宮本武蔵も、護身用の木刀のハンドルに穴を空け、紐で手首とつなぎ、落とさないようにしたのだ。
道具として理想的なナイフだ。ナイフは見てくれや値段ではない。使い捨てのつもりが、1本を長く愛用している。

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2009.05.24

食の慎みと次元移動

戦時下の中で、餓えている、まだ小さい少年がいた。彼は、たまたま見かけた見知らぬ男を石で殴り殺し、その男が持っていた食べものを食い漁った。
まもなく、殺された男のことで村人が集められた時、男を殺した少年もそこにいた。
殺された男は軍人だった。彼は、軍で支給される食料にほとんど手を付けずに保管し、餓えているはずの家族に食べさせるために、軍を脱走して、家族のいるこの村に帰ってきたのだった。
その男の名前を聞いた時、少年は食べたものを吐いた。彼の父親だったのだ。

これは、高森朝雄(梶原一騎)さん(原作)とちばてつやさん(漫画)の有名な漫画作品「あしたのジョー」に出てくる話だ。
梶原一騎さんは、人間としては最低のクズであったかもしれないが、作家としては偉大であったと認めざるを得ないだろう。彼は、才能だけでなく、人生を語るに足る壮絶な経験もあった。

さて、父親殺しの少年、金竜飛(きん りゅうひ)は、プロボクサーになる。彼は、ボクサーが味わうはずの減量とは無縁だった。餓えるしかなかった子供時代に加え、食べ物のために父親を殺したことで、余分に食べたい欲望がなくなっていたのだ。
金の凄惨な過去を聞かされたジョーは、ジョー自身、不幸な子供時代を過ごしたはずが、自分とも比較にならない壮絶さに愕然とした。ジョーも食べることができない方だったが、金はジョーに言う。「満腹ボクサー君」と。
ボクサーとしてのあらゆる面でも、金はジョーに優った。
所詮、満腹ボクサーでしかなく、訳はあったが減量に失敗し、体力のないジョーは、なす術もなく金の猛攻を受け、何度もダウンさせられる。
ジョーは、初めて「かなうはずがない」と思った。これまで、どんな強敵が相手でも抱いたことのない想いだった。
しかし、ジョーは、何度倒されても立ち上がる自分が不思議だった。「かなわないと分かっていて、なぜまた立つんだ?」
そして、金も不気味さを感じてきた。「なぜ、こいつは立つんだ?」
ジョーの心の奥で、不思議な感情が起こっていた。「こいつにだけは負けちゃいけない」という。
だが、その訳がジョーには分からない。

しかし、殴られて思考力がなくなってきたせいだろうか?ジョーには分かってきた。
自分と戦うために、過酷な減量をして、結果として死んだ力石徹のことだった。
力石は、奇妙な形ではあったが、ジョーとの至高の友情に殉じるために、食えたのに食わなかった。
金は食べなかったが、食べられなかったからだ。しかし、力石は違った。力石は自分の意思で食わなかった。
それが分かった時、金が後生大事にしている、食べる者を蔑むプライドが、ジョーには安っぽく見えた。
金は恐れた。自分が絶対と思っていた信念が壊される危機が迫ってきたのだ。

以上のお話は、私は、子供の頃でも、ある程度分かったのだが、最終的に理解したのは本日だ(笑)。
金が餓えたのは運命だ。
そして、力石が自分の意思とはいえ、餓えたのも運命と思う。
力石が高貴な友情を守ったことすら運命だ。
さらに、ジョーの想いもまた運命だったのだ。
そして、勝利したのは私だ。

私は、梶原一騎さんは、最低のクズと書いたが、それは多分、本当だ。
人の世ではね。
しかし、彼が天国に居る可能性はあると思う。

生まれつき少食の人。不幸にして、貧しかったりで少食にならざるをえなくなった人。
そんな人たちの少食は運命である。
だが、私は、大食だったのが、ある日突然、食を慎むようになった。別に、力石徹のように、何か志があってのことではない。少なくとも、表の心では。
大食の者は、いかなる願望や欲望があっても、食を節することはできない。
もし出来たなら、そこには、運命を超える力が働いたのである。
次元移動、あるいは、流行の言葉で言えば、アセンション(次元上昇)の秘密はここにある。
運命による少食者は、次元移動はできない。もちろん、食を慎み続ければ、中年以降は安楽だ。

飽食・美食の者ほど、食を慎むことで得られるセンセーショナルなものがあるのであるが、それをする者は、まあ滅多にはいない。
残念なことである。
ただし、何度も書くが、食の慎みにおいて、絶対的に必要なことは安定性である。しばらく食を慎んでも、「今日はドカ食いしました」では、むしろより悪いのである。
無理なく、少しずつ食を減らすのが良いかもしれないが、次元移動できるほどの者なら、不意に少食になるものと思う。
さらに言っておくが、次元移動とは、連続的に起こし続けるのが宿命である。止まれば、暗黒面に引き込まれる恐れが強いのである。

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2009.05.23

明日から夏休みという日の学校帰りの気分

新型インフルエンザ狂想曲のせいで、子供達の夏休みが削られることになりそうで気の毒だ。

夏休みのことであるが、今でも思い出す。
明日から夏休みという日の学校帰りの気分。
私は、はっきりと天国を感じた。思い出しさえすれば、今でも天国に居られるのだ。
木や草や花や岩や、小石までが、私に語りかけてくる。雨が降り出せば、それは祝福だった。風は私と戯れたり、懐かしい気持ちを運んできた。

そして、その時と同じ気分が、2012年12月22日のことを思うと湧き上がってくるのだ。
その日は祝福の日である。
その日に向けて、出来るだけの準備をしておく必要がある。
しかし、夏休みを前に気持ちが澄み渡るのだって、辛い学校生活を乗り越えたからだ。
我々にも、これから乗り越えなければならない試練がある。

欲望を離れることによって心を鎮め、宇宙と一つになることだ。
しかし、長年の悪しき習慣により、中々うまくいかないだろう。
私は、少食、菜食にして、毎日、神道の「大祓詞」を上げたり、特別な真言を唱えるのだ。
特別な真言は「ローム太霊講話集」(霞ヶ関書房)や、「霊止乃道」(たま出版)に書かれているが、別に、南無阿弥陀仏でも良い。
また、「大祓詞」よりも「般若心経」に縁のある人もいるだろう。
自分が信じるものでやって欲しい。ただ、必ず毎日、そして、いつも。

できれば、皆さんと新しい世界でお逢いしたいものである。
ところが、その時、私がいなかったりして・・・^^;

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2009.05.22

バイオパワー、あるいは、フォースの終焉

我々を強力に洗脳し、奴隷状態に置くことで、自分達だけ贅沢三昧で楽しく生きようとする者達の勢力を、ある者はバイオパワーと呼び、ある者はフォースと呼んでいる。
バイオパワーやフォースは、言うまでもなく、巨大な権力と結びついている。いや、権力そのものだ。
その力を使って、我々に何でも信じ込ませることが可能だ。そのためには何でもやる。
新型ウイルスなんていくらでも作ってバラまくし、自作自演のテロを起こして、誰かを世界的犯罪者に仕立て上げるなど、朝飯前というところだ。

私は、幼い頃から、バイオパワーやフォースの存在に気付いていたおかげで、学校などでは徹底的に苦しむハメになった。
バイオパワーやフォースの定めた思考や行動に従わない子供には、洗脳し直しのための恥辱と迫害が用意されているのだ。

「デスハンター」という、SF作家の平井和正さんがストーリーを作り、桑田次郎(現・桑田二郎)さんが絵を描いた傑作漫画がある。
私のために、神様が聖書より尊いものを用意しておいてくれたのだろう。
実際、私は、家にあったこの漫画を何十回(何百回?)と読んだものだ。
バイオパワー、あるいは、フォースの権化であるミスター・シャドーに、田村俊夫は宣言するように言う。側には、リシュール・ブルーエという美しい少女がいた。俊夫とリシュールは全裸だ。
「分かっただろう、シャドー!おまえの時代はもう終わったということが・・・」
静かに立ち去る俊夫とリシュール。呆然と見送るシャドー。

私もまた、俊夫やリシュールと同じ力を得たのだ。
だから分かるのである。バイオパワーやフォースが愚かであり、すぐに存在すら終わってしまうことが。

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2009.05.21

無表情な誘い

「新世紀エヴァンゲリオン」は、1995年から1996年に渡ってTV放送されたアニメ作品ですが、当初から社会現象を起すほどの人気となり、海外でも高い評価を得、その人気が衰えることは全くありませんでした。
さらに近年では、新作映画も続々制作されています。

この作品では、終末論色が強く、2012年の地球滅亡の噂とも合わせると、今の時代により適ったものではないかと思います。
この作品の人気を支えているのは、美少女キャラクタの力も非常に大きいのですが、特に人気があるのが、綾波レイという14歳の謎の美少女です。おそらく、日本のアニメ史上でも、宮崎駿監督の「風の谷のナウシカ」のナウシカと双璧をなす人気美少女キャラと言えると思います。綾波レイの等身大フィギュアは30万円の高価格に関わらず、注文が殺到し、長期入荷待ちになったこともあり、現在でも彼女の新しいフィギュア作品は次々制作されています。

では、なぜ綾波レイがこれほどの人気になったかと言いますと、美少女で、日本人好みのスレンダーなナイスバディであり、インパクトあるエロチックな描写が美しかったこともありますが、やはり、あの独特の雰囲気のせいと思います。
14歳の美少女といえば、普通は天真爛漫な愛らしい表情と、清純なセクシーさの融合を武器とする場合が多いかもしれませんが、綾波レイは、無表情で無口、感情を表さず、他人との関わりを避ける雰囲気があります。孤独の中に留まっているように見えながら、時にわずかな寂しさや困惑を見せる時には輝きを感じさせます。
類似のアニメキャラクタでは、「涼宮ハルヒの憂鬱」の長門有希や、「ノワール」の夕叢霧香(ゆうむらきりか)がいると思いますが、彼女達は謎に満ちた非常に複雑な存在であることが共通しています。
その謎の部分も確かに魅力なのですが、彼女たちの無表情に大きな意味があるように思えます。

綾波レイや、その他の魅惑的な美少女達は、無表情と言っても、世を儚んでいたり、厭世的(えいせいてき・・・世の中を嫌なものと思うこと)であるわけでもありません。かといって、世の中にある何かに特に関心や愛着を持っているようにも見えません。
ただ、無関心に世の中を、そして、自分の心を観察しているように思われます。
彼女たちの目は、無気力でもなく、かといって輝いているわけでもなく、言ってみれば「素」な目です。
そんな彼女達が、なぜかくも魅力があるか分るでしょうか?
まず、そんな人は、滅多にはいません。
普通の人の目は、不満、欲望、羨望、執着、無力感といったもののいずれか、あるいは、いくつかが感じられ、決して素な状態ではありません。

素な目を持つ女性ほど魅力的なものはありません。
では、どうすれば素な目を持てるのでしょうか?
上に書いた通りです。世界で起こることや自分の心を、特別な感情を持たずに、ただ観察します。冷静な科学者のように。
だけど、これだけのことであれば、ヴァーノン・ハワードの本や、ニサルダガッタ・マハラジの本にも書かれています。
しかし、肝心なことは、どうやれば、それができるかです。
そして、これをすることは、少女や女性だけでなく、本当は誰にでも非常に大切なことです。それこそ、2012年のアセンションに関わる重要な意識を得ることに繋がります。このようなアニメ作品が大ヒットするのは偶然ではありません。

素な目の持ち主に必要なことは、積極的な心構えではありません。では、消極性かと言いますと、あながち間違ってはいませんが、肯定とか受容と言った方が正しいです。
世の中や、自分の心のいかなるものを見ても、肯定し、受容することです。
難しいのは、自分の心を受容することです。
怒り、悲しみ、嘆き、絶望する自分の心を受容します。それは、自分が心ではないことを意味します。
ただ、虚心にあらゆるものを受容します。
不完全ながら、そうしているのが、綾波レイや夕叢霧香、あるいは長門有希です。
では、なぜ虚心に全てを受け入れることができるのでしょうか?
ある意味、諦めと言えます。
しかし、これは、「明らめ」と言い換えた方が良さそうです。
この世の全ての出来事や、自分の心の動きが、全て運命として完全に決まっていることを明らかにし、そういうものとして諦めてしまうことです。
例えば、あなたが男性で、大好きな女の子がいたのですが、彼女は別の男性と結ばれたとします。それは、最初から決まっていた運命であり、あなたにどうこうできることではありません。それが分れば、諦めるしかないことが明らかになります。心は苦しむかもしれませんが、受け入れることもできるのです。

なかなかできることではありませんが、これが老子や荘子の言った。無限の実相である道(タオ)に通じる方法です。
自分の心を含めたあらゆることを、ただ虚心に受け入れ、思慮分別や好悪善悪の判断を一切してはなりません。ただ、万物、あるいは、運命と共に流れていきます。
自分の心を含めたあらゆることと言いましたが、この世の一切は心が作ったものです。ただし、心が過去に作ったものであり、今見ているこの世は、もう終ったものであって、実体ではありません。
運命を虚心に受け入れることができれば、心は消滅し、心はもう世界を創ることはなくなり、世界は消えます。
さらに言えば、心が過去に作ったと言っても、それは心にとっての過去です。あなたの実体には、時間も空間もありませんので、心が消えれば、世界はただちに消滅します。

完全に最後の段階に進むことを悟りと言います。
不完全ではあっても、それに近付けば、綾波レイのようになるでしょう。
まあ、不満や願望があるうちは無理ですけどね。

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2009.05.20

意識変革のために至急の取り組みを

2012年12月22日に訪れる、現在の人類の終焉を私は普通に受け入れています。
頻発する自然災害、バランスの崩れた国家の狂乱、経済の破綻。新型インフルエンザやその他の新型ウイルスは、本番はまだまだこれからです。
そして、そう先のことではないですが、食糧危機が訪れます。お店に行っても、食べ物が手に入らなくなります。
お金を持っていても、役に立たなくなります。

戦争や、隕石の落下を予測する人もいます、私は別に鵜呑みにしているわけではありませんが、覚悟はしています。
私は、10年以上前、大津波の鮮明なヴィジョンを見ています。ビルや高速道路を飲み込む、壮絶で生々しいものでした。

この世には、邪悪な陰の勢力がありますが、善・・・と言いますか、高度な精神を持つ勢力もいます。
その見分けが付かない人が多いと思います。

今後は、本当の個人の力が問われます。
大企業の偉い人は本当は全く力がなく、地位などない一介のセールスマンで長く稼いでいるような人に本当に力があることが明らかになります。
名より実を取る人でないと苦しいことになります。

ちょっと昔のアニメ「美少女戦士セーラームーンS」で、ボーイッシュな美少女、天王はるかは、世界の破滅が描かれた、恐ろしいが見事な絵を目にします。それを描いたのは、同じ16歳の天才的な美少女、海王みちるでした。
はるかは、みちるに、「ぞっとしないね」と冷ややかに言いますが、みちるははるかを真っ直ぐに見つめ、「現実なのよ」と言います。
みちるは、太古の昔、地球が滅んだ時の記憶を覚醒させており、はるかもやがて思い出します。
私は、これを見た時、単にアニメとしての面白さだけでなく、何か深い印象を得たものでした。

2012年の地球終末に向けて、我々も意識レヴェルを向上させていいきたいものと思います。
まあ、仮に大異変が起こらないとしても、そうしないと我々に未来はないでしょう。
これも私の仮の話としますが、おそらく、歩きながらタバコを吸う人や、人ごみで携帯を見ながら歩いているような人は、もはや救いようがないでしょう。
少し前から、電車の中などで平気でものを食べる人をやたらと見るようになりました。彼らはみな、魂の抜けた本能だけで生きている生物の顔をしています。こういった人たちも救うのは無理でしょう。

ただ、少食の人たちの中にも、闇の勢力の影響で精神が低下してしまった人も多くいます。
私の身近ではいませんが、ネット上で見る人で、非常に少食で、元々は優れた素質を持っていて、良い方向に進みつつあったのに、いまではすっかり精神が闇に覆われた人もいて、心が痛みます。
くれぐれも、虚栄や不安といった自我の欠点には気を付けないといけません。謙虚に慎むことです。

精神を向上させる基本はやはり食の慎みと思います。
特に、何をどれだけ食べれば良いというものはありません。
ただ、やがて食べ物が手に入らなくなることに備えないといけないことを考慮すれば良いでしょう。
私は、麦の粉や塩、砂糖の備蓄は始めましたが、その時になって欲しがる人がいたらいくらでもあげるつもりです。結果、自分が餓死しても良いと思えるくらいになりたいと思います(今はまだ無理のようです)。

私は昨年の8月に、何を思ったのか、飽食・美食だったのが、気まぐれのように、1日1食の菜食主義となり、また、昨年末から、毎日、神道の祝詞である「大祓詞」を毎日上げ、「古事記」を熱心に読むようになりました。
私のように・・・と言うのも何ですが、何か必ず行う行を決めておくと良いと思います。
これでないといけないというものはありません。
日本人なら、私のように「大祓詞」をお薦めできるのですが、前世の縁とかいろいろありますので、般若心経も良いですし、聖書の祈りも良いと思います。お念仏も良いでしょう。
しかし、今の時期ですので、あれこれと迷わず、決めたら必ず毎日やることが大切と思います。ある意味、どれでも同じなのです。

また、2012年のアセンションについ書かれた本についてですが、完全な本はおそらくないでしょう。
中には、怪しげなものもあるかもしれません。
しかし、どんな本にも、一抹の真理は含まれています。たとえ、著者が悪意だらけであってもです。以前逮捕されたある宗教家の本は、それ自体は、案外良いことが書かれていたのです。
だから、食の慎みと毎日の行で直観を磨き、それと照らし合わせながら、良いと思う部分だけを参考にすれば良いのです。
そういったことについて、適切な注意がされていた霊的な本には、このブログで何度も紹介した「ローム太霊(だいれい)講和集」(霞ヶ関書房)があります。現在は入手が難しくなってきた本ですが、私は誰か縁のある人にあげようと思って、新品でもう1冊買っておきました。

意識を向上させたからといって、2012年に何の痛みもなく、気が付いたらアセンション(次元上昇)・・・という風にはならないと思います。
私は、自分のヴィジョンで見た通り、津波で死ぬと覚悟できるようになりたいですね。餓死でも構いません。
また、「自分だけ助かろう」「自分と家族だけは安全でいよう」と考える人に救いはないように思います。既に権力者達はその方向で動いていますが、彼らこそ悲惨なのです。しかし、そのような人達も救われるにこしたことはありません。その場合、何らかの強制的な精神の洗浄みたいなこともあるかもしれませんが、それには大きな苦しみが伴います。
私も、そのような苦しみだけは避けたいものですが、現状では自信がありませんね。

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2009.05.19

魔法を使うコツ

ある日、家でくつろいでいたら、セールスの電話がかかってきた。
きびきびとした、爽やかな声だった。かなり固い雰囲気だ。
研修を終えたばかりの新人だろうと思った。
この人は、当分、セールスはうまくいかないだろう。
私もキャリアのスタートはセールスだった。私はすぐに売れるようになった。
全てとは言わないが、売れるセールスマンなんて破廉恥なものだ。紳士然としてセールスなんかやれない。
私は、「今のところ間に合っています」と言った。
いくら新人でも、こう言ったら、さらに何か言ってくるのが当たり前だ。しかし、彼は魔法のように話をやめた。
いや、私は魔法を使ったのだ。声の抑揚に魔法を含ませた。煩わしい会話は嫌なのでね。

この力を使えば、数億円の融資を引き出すこともできるだろうが、興味がない。
ちょっとした楽しい使い道もあるのだが、不要な使い方をすると不要なカルマを創る。
使い方の秘密はというと、ただ力を抜くことだ。
精神の力を抜くということなのだが、この点、肉体を使ってコツを得とくした者が多いと思う。だから、武道などにも、力を抜くエクササイズが用意されており、武道を学ぶ大きな利点がそれである。
とはいえ、大袈裟に武道をやるまでもない。少し肉体を緊張させて力を抜くということを繰り返しているとコツが分かってくる。
武道をやっている者の大半も、力を抜くということは憶えない。スポーツでも、ミラクルな力が出るのは、力を抜くことを憶えてからだ。
私は腕振りということをやる。立って、両手をすっと真っ直ぐ上に上げたところでぴたっと静止する。一瞬置いた後、腕の力を一気に抜いて振り下ろすのである。力を入れて振り下ろすのでなく、自然に振り下ろすのが大事だ。仙骨(背骨と尾てい骨の間の、腰にある手のひら大の骨)を意識してやると良いと思う。結構、肩とか疲れるので、10~20回程度で良いと思う。慣れれば百回くらいやっても面白い。これは、運動ではないのだが、運動としても実は良いらしく、これしかやらないが、大変に健康という人もいると聞く。
これで、力を抜くコツを掴めば良いだろう。
力を抜くことが無敵であることを、いろいろなところで試すのはとても面白く、引きこもってなどいられないものである。

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2009.05.18

運命が変わった瞬間

かなり前に、そう熱心に読んだものではないが、「遺品整理屋は見た! 」という本で、孤独死したニートの部屋に、凄まじい数のアイドルグッズがあったとか、やはり孤独死した元小学教員の部屋には、レンタルビデオ屋でもできそうなアダルト映像メディアがあったという話等が数多く書かれていた。
ここまででなくても、誰しも、人に知られたくないような趣味の1つや2つあるものと思う。
どこかの有名な元大学教授が、痴漢容疑で逮捕されて家宅捜査された際、セーラー服などが発見されたというが、まあ、そんな人も少なくはあるまい。私は持ってないが、気持ちが分らないわけでもない(笑)。

こういった世間受けの悪いものばかりでは当然なく、最近の「タウンページ」のテレビCMでもあったが、凄まじい数のミニチュアカーのコレクションを保有している人もいるし、以前やはりテレビで見たが、驚くべき量のスターウォーズグッズを保有する高校教師もいた。
私の場合は、ナイフのコレクションがあるが、まあ、大した数ではない(?)。それよりも、2つの部屋の壁全部を書棚にしても全く収まりきらない書籍の方に悩んではいる。
英国の作家コリン・ウリルソンの保有する書籍は、数十年前で2万冊を超え(その大半を実際に読んでいるらしい)、さらに、昔のことであるから、レコード、ビデオの数も凄まじく、人生の残りの時間全てを鑑賞に当てても、保有するレコードの全てを聴けないことが計算したら分ったらしい。
宮沢賢治の春画(今で言うエロ画)のコレクションもすごかったようだ。

何が高尚で何が下劣であるかなどは、単なる偏見であるかもしれない。
何かを情熱を持って収集したという事実があるだけだ。

ただ、こんなことが起こったことがないだろうか?
熱心に集めた何らかのコレクションを前に、ある時、不意に、「なんで私はこんなものを集めたのだろう?」と不思議に思ったことが。
そんな時、あなたは次元移動した可能性がある。
一生変わらないはずの、あなたの運命が変わってしまったのかもしれない。
いや、そんなことでもない限り、人生なんて変わらないのだ。
大病したり、大きな不幸を乗り越えた後には、このようなことがよく起こるのだ。
あるいは、本を読んで「本当に」感動したり、貴い本を何百回も読んだ後だ。
また、目の前で愛犬が稲妻に打たれて死んだ時に、全てが変わったと感じた世界的人物もいる。

人の運命は、原則、一生変わらず、生まれる前に用意された通りの人生を送る。
だが、これらを見て、人生を変える方法のヒントが分るのではないかと思う。

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2009.05.17

殺したいほど憎いやつの機嫌を取れるか

2012年に起こる地球滅亡の危機を乗り切るには、魂の進化が鍵となるようである。
我々に可能性はあるか?
それを知るための話をする。

「神無月の巫女」というアニメで、滅びの神の手先達の若き首領ツバサが弟の16歳のソウマに3つのことを尋ねるシーンがある。
「路地裏で残飯を喰ったことがあるか?」
「心から信じていた者に後ろから撃たれたことがあるか?」
「殺したいほど憎いやつに、はいつくばって命乞いをしたことがあるか?」
どれも経験のないソウマは、何も分からない子供だというわけである。
もちろん、ツバサはどれも味わったことがあるのである。

現代の日本では、どれもなかなか体験しにくい。
だが、まもなく、我々は似たようなことを全て体験できるようになる。
それに備えて修行しておかねば、死んでも苦しいことになるし、下手をしたら2012年には魂もなくなるのだから、全て手遅れとなる。
上のは、アニメ的にセンセーショナルなものを取り上げてはいるが、なかなか的確だ。
とくに3つ目の、「殺したいほど憎いやつに、はいつくばって命乞いをしたことがあるか?」についてよく考えたい。
ここに、真の修行の意味があるからだ。

あなたにも、嫌なやつがいるはずだ。
学校や職場、あるいは、家族の中にもいるのではないだろうか?
親戚や家の近所にいるという場合もあるだろう。
あるいは、電車や百貨店などにそんな人間がうようよいて、外出が嫌だという人もいるに違いない。

あなたは、こんな者達の中に入っていって、彼らに気に入られないといけない。
それが本当の修行なのである。
それができないなら、2012年で消滅というわけである。
あなたにはできるだろうか?
ちなみに、私には無理だ(笑)。どうやら、2012年で消滅組らしい。残念^^;

もっとも、私は、セールスマン時代、嫌で嫌で仕方ない相手にお愛想笑いをし、頭を下げ、機嫌を取り、あらゆることをして商品を買ってもらったことが何度もある。
なるほど、辛い思い出ではあるが、本当の地獄を体験した者からみれば甘いものであろう。
自分の親を殺した相手に気に入られる必要がある場合もある。あるいは、自分の幼い娘をレイプした相手の機嫌を取ったり、貴人として礼を尽くしたりしなくてはならないことも。
こういったレベルの差はあるが、この世の修行とは、全てこのパターンなのである。

少し付け加えよう。
憎い相手、嫌な相手の機嫌を取ることもあるだろうし、取らないこともあるだろう。
それは運命である。
そして、その運命は本当の自分が用意したものだ。
なぜ自分がそんな運命を用意したのかが理解できれば、大逆転で合格となるかもしれない。
そのためにはどうすれば良いか?
「荘子」にヒントがある。
見えるもの、聞こえるものを、あるがままに虚心に受け入れ、思慮分別してはならない。
善悪好悪の判断をしてもいけない。
運命に逆らわず、身をまかせることである。
心は激しくぐらつくだろう。ぐらつかせておくのだ。それに耐えよ。そうした時に何が起こるか・・・それを体験しなければならないのだ。

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超能力測定プログラムバージョンアップのお知らせ

ESP測定プログラムを最近、更新しました。
このブログの左サイドにもリンクを設置していますが、このブログ内にESP測定プログラム専用Webページを用意しています。
当然、プログラムは完全無償です。

つい最近まで、超能力などというものは全く信じていませんでしたし(大槻教授のファンでもあります。教授の教育的信念には敬服しております)、今も特に信じているわけではありませんが、私にはこれについても印象深い思い出があります。

中学生の頃、コインを使って行う1人遊びを考案したことがありました。
発表するほどのものでもない単純な遊びでしたが、引きこもりな上、特に勉強もしなかった私には良い暇つぶしで、家の中でずっとやってたものです。
その遊びは、コインを投げて、表か裏かによってポイントを付け、架空の相手との勝ち負けを競うものでした。
勝つ確率は全くの五分でした。
ところが、遊びを始めて何日経っても、一度も負けないのでした。
不思議だとは思いましたが、当時は純粋だったのか、特に違和感もありませんでした。
しかし、ある時、ついに疑い始めました。すると、やはり半分は負けるようになりました。

新しいESP測定プログラムは、測定結果をデータとして記録し、長期間の試行結果をも統計処理する仕組みを加えています。
かなり粗っぽく作りましたが、さすが私も専門家です(笑)。

最近、このESP測定プログラムを作る上で参考にしたサイメーターエミュレーションプログラムや、その大元のサイメーターの製作者である橋本健先生(理学博士)の本を読んで非常に心に感じるところがあり、少しでも志を引き継ぎたいものと思いました。

尚、今後は、易占いのプログラムも作ろうと思っています。
食の慎みや2012年のアセンションにも、運命学というものは有益なものと思います。
水野南北もまた、観相の達人であり、それと、食の慎みとの関係はやはり重要な部分があると思います(観相が食の慎みに必要という訳ではありません)。

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2009.05.16

童話を読むということ

私は、高校生の時、教室で童話を読んでいて、クラスメイトを驚かせたものだ。
私は、別にファンタジーの世界に浸りたかったわけではなく、必要と思ったので、授業も聞かずに(授業そのものは中2から全く聞いていないが)、グリムやアンデルセンを読み続けた。

岡田虎二郎も、イエス・キリストは師と仰ぎながらも、「聖書よりイソップに良いことが書いてある」と言ったことがあるらしい。実際、イソップ童話は、単に人生の教訓や警句という意味でも素晴らしいのであるが、それだけではないと思う。

しかし、童話を頭(理屈)で読んでも、真に重要な意味は解らない。
ましてや、学校で教育されたものの考え方をもって童話を読んでも、ほとんど何の意味もないだろう。
それは、童話や民話もであるが、各国に古くから伝わる神話であればさらにそうであると言える。

ここで、1つの童話と1つの神話の話をする。
1つは、グリム童話の「星の銀貨」で、もう1つは、我が国最古の古典「古事記」だ。
「星の銀貨」に関しては、確かに、シンプルな民話の上にグリムの創作が加わっているが、素晴らしいお話に仕上がっているので、それを採用する。

「古事記」で、黄泉の国(死の国)から戻ったイザナギノミコトは、汚れた身を清めるために水浴をしようとする。その際、服や装飾品を1つ外す度に次々に神が生まれる。
そして、水に入って身体を洗うごとに、また次々に神が生まれ、最後に、目と鼻を洗った時に、高貴な神である、アマテラスオオミカミ、ツクヨミノミコト、そして、スサノオノミコトが生まれて終る。

一方、「星の銀貨」では、貧しい少女は、一切れのパンと、身に着けている服以外何も持っていなかったが、パンも服も、さらに下着までも貧しい老人や子供達にあげてしまう。
しかし、夜の闇の中で裸で立っていると、空から銀貨が降ってきて、いつのまにか立派な服を着ていた。少女は一生、裕福に暮らす。

春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんが著書に書かれていたように、イザナギノミコトが服や装飾品を外したことは、煩悩や我欲を捨て去ったことを表している。そうした時に神様が次々生まれ、さらに水で清めることで、貴い三体の神が生まれた。
「星の銀貨」の少女は、元々、正直な少女であったのだが、更に天使にまで向上するための、最後の試練でもあったように思う。

神話、民話、童話というのは、深い意味が込められている。
グリムは、民話を集めて編集したのであるが、イソップやアンデルセンのように自ら創作したお話も実に奥深いものがある。童話とは、本来、そのように描くものであると思う。
もちろん、我が国の昔話の奥深さは大変なものだ。大切にしたいものである。

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2009.05.15

霊視した食の慎みの真理

少し前から、内海康満氏の「霊止乃道(ひとのみち)」を読み出してから(本日、3回目に入った)、この本に書かれている種観霊(しゅみれい)というものを毎日熱心にやっている。それは、起きている時はずっとやっているし、これからは夢の中でもやると思う。仕事中はというと、内海氏は、そんなものは放ったらかしてやれと書いているが・・・もちろん、そうしている(笑)。まあ、もっとも、それで仕事はかえってうまくいっているくらいだ。

種観霊をやると、いろいろな深い真理、この世の本当の姿が見えてくる。
種観霊は難しいものではない。子供でもできる。

私自身は、元々、種観霊という名前ではないが、似たことをいくらかやっていた。
古代からの賢者達も、同じことを教えているが、内海氏の種観霊が、少なくとも現代の日本人には一番である。
参考程度に言うと、同じことを薦めているのは、現代では、アメリカのヴァーノン・ハワード、インドのニサルダガッタ・マハラジだ。彼らの本も異例のロングセラーとなっておりさすがと思うが、コミュニケーションの国アメリカの社会に合わせたものや、インドの片田舎の素朴な賢者では、全てストレートに我々日本人に届くかどうかは分らない。翻訳時の齟齬の問題も当然ある(翻訳では、驚くほど、著者の意図が正しく伝わらない可能性がある)。
古代のものでありながら、非常に素晴らしいのは「荘子」だ。だが、私は、内海氏の本を読み、荘子の教えの意図がやっと分ったのである。私は、意味が分らずにずっと荘子を読んでいたというわけだ(まあ、荘子は老子と比べ、表面的にも面白く分りやすいという面はある)。
内海氏は、種観霊を、以前はシミュレーションと呼んでいたが、より実体に合った名称として種観霊としたらしい。

さて、では1つ、種観霊により分ったことを1つ取上げる。
このブログでお馴染みの、食の慎みに関する深い真理である。
水野南北については何度も書いた。
江戸時代の偉大な観相家だ。観相とは、顔や身体の相で鑑定する運命学で、南北は実践で研究した後、最終的に導師(仙人と似た存在)から学び完成した。
しかし、南北は、その完成した観相学でも、百発百中で運命を言い当てられないことに悩む。
そこで、南北は危険な荒行を敢行し、遂に伊勢神宮の外宮で天啓を得て、観相を超える真理を得、以後、運命鑑定は万に1つも外れなくなった。その真理こそ、「食が全て」である。
これについて種観霊してみた。
中国では、古代より観相学が発達し、それは現在ですら生きている。例えば、体操競技の選手として養成する子供を選ぶ際にも、観相学が用いられているのである。また、科学、芸術、さらにビジネスの適性においても同様である。
つまり、人の運命というのは、生まれた時に決まっているのである。
どんなに努力しても画家になれない者もいれば、さしたる努力をしなくても驚くべき絵の才能を示す者もいる(もちろん、芸術家として完成する際には努力が必要かもしれないが)。
運命がどのくらい決まっているかというと、それは完全に全て決まっている。「荘子」やラマナ・マハリシの言葉などから考えてもそうなるし、内海氏は、いかなる些細なことも、全て決まっているのだと断言する。私も、誰かの言葉を鵜呑みにするという訳ではないが、それはおそらく正しいと思う。まさに、「この世に偶然はない」のである。

だが、ほんの僅かな可能性であるが、運命を変えることができる。
内海氏もそれは認めており、それは悟りによるものだという。内海氏による悟りの具体的な意味は、本を見ていただければ分る。
だが、水野南北は、食の慎みで確実にそれを変えられると説く。食を慎みさえすれば、凶運は幸運に変わる。短命であったはずが長寿となり、貧窮の運命のはずが富裕となる。だが、逆に飽食、美食であれば、生まれながらの運勢が良くても凶運となるのである。
私は、運命の変換について、次元移動とでもいうべきことが起こることで、それが有り得ると思っているが、それについては最近も書いたし、今後も書くと思う。

ついさっき、2012年12月22日の地球に起こることに関する本を注文したが、あまり何も考えず、勘で選んだら、バシャール(ゼータ・レチクル星の宇宙人)に関係ある著者だと分った。バシャールもまた、多元宇宙の構造による運命転換について教えていたと思うが、これは私の考える次元移動と同じと思う。
また、内海氏が、伊勢神宮に参拝した際に、内宮、外宮の両方で不思議なことが起こったようだが、水野南北が天啓を得たのも、先程書いた通り、伊勢神宮の外宮で、食の女神であるトヨウケヒメからのものであったと言われる。私が、これを知っていたことに意味がある。
私には、最近、とみにシンクロニシティが頻繁に起きているようである。

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2009.05.14

運命

「荘子」の中にこんな話があった。
当時(2400年程前)は、足切りの刑といって、罪人の踵を切り落とすといった残忍な刑罰があったようだが、その刑にあった男がいた。
その男の昔の知人が、「なぜそのような情けないことになったのか?」と聞くと、男は、「これは運命である。この運命を受け入れた時、私は自由になった」と言った。

また、こんな話もあった。
ある男は悲惨なまでに貧しかった。
彼は、「俺は、これほどの貧乏になるような悪いことをした憶えもない。これが運命というものだろう」と言った。

そして、ある死にかけている男の話もあった。
その男に、「造物主は、今度はお前を何にするだろう?ネズミの肝か、虫の足か?」と言うと、息も絶え絶えのその男は、「銅で剣を作る時、銅が、自分はどうしても名剣になりたいなんて言うのは罰当たりというものだ。俺は何にされようと結構だ」と言って、安らかに死んだ。

運命は創造主が決めることであり、我々にどうこうできるものでもないということが書かれている。
そう言って間違いないが、実際は、我々の本当の自己が、必要な運命を創るのである。その運命は死ぬまで変えられない。
だが、それを受け入れた時に自由を得るのである。

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2009.05.13

2012年の地球大異変にどう備えるか

2012年の地球がフォトン・ベルトに巻き込まれての大異変や滅亡、あるいは、アセンション(次元上昇)について、内海康満氏の「霊止乃道(ひとのみち)」によれば、人類の大部分は死に、霊的にレベルの低い者は個別の霊としても消滅する。これは、神の分け御霊としての人間に生まれることは二度となくなるということである。しかし、進化した人間は、しばらく冬眠状態になった後で目覚めるが、その時には、今よりも霊的な身体を得て幸福に暮らすとある。他の人の説では、似たものもあれば、かなり異なるものもあるだろう。
地球の次元移動に関しては、かなり以前から話はあり、それが21世紀前に訪れるといったものも見たことはあるが、私はその方面に詳しい人に2001年よりずっと先と聞いていたので、この2012年がそろそろとも思った。

私は、今の日本人なら、その大半が滅亡するなら、それでいいかなと思っている。
今年亡くなられた、世界最高の形成外科医でもある神道家で、春日大社の宮司を長く勤められた葉室頼昭さんも、著書の中で、日本はいったん滅ぶのかもしれないと書かれていた。やはり、あまりに堕落しているからである。この葉室さんや、著名な宗教家の谷口雅春さんも、日本は本来、世界を精神的に指導するはずであったと言われていたと思う。その日本が滅ぶなら、世界も同様であるかもしれない。
私は、他の国のことは分からないが、今の日本人を見ると、このまま存続して欲しいとは思わないわけである。

私は、本当か嘘かは分からないが、2012年に大変動が起こり、人類の大半が死滅するということを、とりあえずは受け入れている。
そのために何をするかというと、神道的には、罪(神の性質を包み隠すもの)、穢れ(神の気を枯らすもの)を祓うということだけである。
そして、2012年までに、戦争が起こる可能性も十分あるだろうが、何よりも日本は食糧危機になる可能性が非常に高いと思う。経済至上主義に走り、自国で食料を作らなかったのであるから当然である。それでいて、食料の半分以上を捨て、飽食、美食に呆けているといった状況がいつまでも続くはずがない。
今は食料を売ってくれている国も、やがて、自国で食べるだけで精一杯となって売ってくれなくなる。その時に備える意味でも、今から食を節しておいた方が良い。いざとなれば、できるだけ幸福な気持ちのまま餓死すれば良い。
私は、麦の粉や黒糖、てんさい糖などの備蓄はしていくが、食料が不足し、備えていなかった人が欲しがれば全部でもあげてしまうつもりだ。結果、自分が餓死するならそれで良い。早いか遅いかの違いでしかないのだから。ただ、あげた食べ物をめぐって争いが起こるなら、ちょっと考えものかなとも思ってはいる。
権力者達は、既に食料の確保を始めているが、どんな頑丈な倉庫に隠したところで必ず強奪される。それも含め、自分だけ助かろうとしても無駄なことである。
まあ、これらがたとえ妄想だとしても、そう思っておいて間違いはない。

あまり悲惨なことばかり書いたので、やや捕捉するが、たとえ2012年12月に大異変が起こり、人類の大半が死滅するとしても、恐れることはない。
別に、それを無事に切り抜ける方法を私が知っているということではないが、とにかく恐れる必要はないし、私は恐れてはいない。

まずは、少食を実践することをお薦めする。
無理はしなくても、腹八分目を守れば良い。
美食を避け、できるだけ間食をしないようにすれば良いと思う。間食するなら、適度な量の果物や、クルミ、アーモンドといったナッツをお薦めする。
少食であれば偏食で良い。オバマ大統領は、毎晩、サーモンとブロッコリーとライスだし、宮崎駿監督は、ソーセージ、卵焼き、沢庵程度の入った1つのお弁当を昼と夜に分けて食べることを25年以上続けている。
肉食に関しては、別に構わないが、焼肉をたらふく食べるなんてことはやめて欲しい。
肉が好きでも、なるべく少しにするのが良い。魚であれば適度に食べるなら、日本人は昔から食べてきたのであるから良いと思う。
極端な少食や特定の食べ物にこだわることを、自分でやるのは勝手であるが、それを人に勧めてはいけないし、そんな人にはちょっと気をつけた方が良いと思う。
民族の伝統的な食事というものは軽く見ない方が良い。その土地の自然環境に合っていて、質が良い場合が多いし、そこに住む人々の体質もそれに適合していると思う。日本人であれば、やはり米であるが、案外に庶民が米を食べた歴史はまだ短いので、麦でも良いと思う。
その上で、さらに食べる量を減らしていければ素晴らしいことである。
私は。1日1食で、間食をせず、ほとんど野菜や根菜類しか食べないが、時々、魚や卵も食べる。1日1回の食事である夕食は極めて偏食であるが、体調は大変に良い。食料品は普通のスーパーで買っており、食費は月に1万円にも達してもいないかもしれない。
パーティーに出た時は、ブッフェ形式では、肉は食べないのだが、後は適度な量を守りながら何でも食べる。普段、粗食なので、あまりの美味さに卒倒しそうになるが(笑)、ワインを飲みながら楽しく食べている。

もし2012年に地球大変動やアセンションというものがあるとしても、第一に行っておくべきことは食の慎みである。まだ時間があるので、安定した食の慎みを守り続けるなら心配はいらない。
加えて、お気に入りのマントラ(真言。呪文)でも憶えておけば良い。それを、1万回とか、10万回を目標に唱えれば良いと思う。
なければ、私のように、神道の祝詞である「大祓詞」を毎日上げることをお薦めしたい。もちろん、般若心経も良いと思う。
また、五井昌久さんの世界平和の祈りも良いし、生長の家の「甘露の法雨」も縁のある方なら、当然良いはずだ。

先にも述べたが、とりあえず、私は、現在の地球文明は2012年で終わりとしている。
その時、極めて過酷で悲惨なことも起こるだろうが、とても素晴らしい始まりになると思っている。

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2009.05.12

自分との約束の大切さ

CLAMPという、女性4人の漫画家ユニットがある。もう20年に渡ってトップで活躍しており、多くの作品がアニメ化されている。
一般的に有名な作品は、子供でも安心して見れる、NHK教育テレビでアニメが放送された「カードキャプターさくら」と「ツバサ・クロニクル」かもしれない。
共に劇場版も制作されている(「カードキャプターさくら」では3作)。
しかし、CLAMPの作品はもっと深く、恐ろしいものが真骨頂ではないかと思う。

CLAMP作品というのは、実にスピリチュアルであると思う。
その中で、「魔法騎士(マジックナイト)レイアース」の主人公、獅堂光(しどうひかる)と、「カードキャプターさくら」の主人公、木之本さくらの印象深いセリフがある。
「決めたんだ!マジックナイトになるって」
「決めたんだもん!カード必ず集めるって」

この「決めた」は、自分との約束なのだ。
自分と約束し、それを守る人が一番強いということをご存知だろうか?

このブログでも何度か書いたことがあるが、一度決めたら(自分と約束したら)、鉄の意志でやりぬく人がいる。
「武士道」(新渡戸稲造)の中に出てきた、自分の臆病癖を直そうと、毎日夕刻に必ず墓場に行くと決め、それを守り続けた平凡な町人は、目利きの武士に「ただものでない」と感じさせた。
日産自動車16年連続世界一のセールスマン奥城良治さんは、毎日1時間の競歩をすることを決め、嵐の日も、社員旅行の日すら敢行した。

人との約束を破れば、人の信頼を失う。
しかし、自分との約束を破れば、自分の信用を失う。こちらの方がはるかに恐ろしいのだ。
逆に言えば、自分との約束を鉄の意志で守れば、自分に信用され、自信がみなぎり、信念に発展する。
ラルフ・ウォルドー・エマーソンが最も大切と言った自己信頼を得られる。
自分との約束は、神との約束と言って差し支えない。真の自己は神であるのだから。

私は、昨年末あたりから、神道の祝詞である「大祓詞」を毎日必ず1回は上げると決め、現在まで欠かしていない。
1日1食は、昨年8月からで、来客やお正月の時だけは2食にしたが、それ以外は続けているし、肉を食べないことも守っている。また、やはりお正月やパーティーなどの特別な場合を除き、お菓子を食べないことをしっかり守っている。
少しは自己信頼が出来てきた。

タツノコプロの1993年の4話の超名作のアニメ作品「キャシャーン」の主題歌「キャシャーン~風の墓標~」(作詞:そのべかずのり)に、
「そうさ、俺の命は運命(さだめ)という神の手に預けた。 それは決めたこと。心が自分に誓った約束」
「そうさ、俺のすべては汚れのない君だけに奉げた。 それは決めたこと。誰にも止めたりできない約束」
という歌詞がある。
私はこれを一度聴いて印象深く憶えていた。
多くの人の生活を支え、リラックスした素の状態で見ることのできるアニメのようなものにこそ、真理が顕れるような気もしたものだ。

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2009.05.11

好きと嫌い

ほとんどの女性が若いイケメンが好きだし、ほとんどの男性は美少女が好きなはずだ。
しかし、多くの女性はブサイクな中高年のオッサンに嫌な目に遭わされるし、多くの男性はブサイクなオバサンに悩まされるのである。
なぜブサイクな中高年の嫌なオッサンに会うかというと、若いイケメンが好きだからだ。
この意味が分かるだろうか?
では、どうすれば嫌なオッサンと会わずにすむかというと、2つの方法がある。
1つの方法は、ブサイクなオッサンも、若いイケメン同様、好きになること。
もう1つの方法は、若いイケメンに無関心になることだ。

この世では、平和を得るには、全てを愛するか、全てに無関心になるかしかない。
あるものは好きだが、あるものは嫌いでは、確実に平和を乱されることになるのである。
尚、全てを愛するのは、もともとが無理である。ならば、全てに無関心になる道を探せば良い。
ただ、それはなかなか難しいので、普通は、全てのものを少し好きになれれば、この世の平和は十分に得られると思う。
それも難しければ、嫌いなものを少し嫌いになり、大好きなものを少しだけ好きになれば良いだろう。だが、ここまでが限界である。

「私は全てを愛する道を選ぶ」という人もいるかもしれない。もちろん、それは素晴らしい道ではあるが、ちょっと考えてみて欲しい。
それは、他人の子供を自分の子供と全く分け隔てなく愛するという意味なのである。
自分の子供が良い学校の入学試験に合格しても、他の子供が落ちていたり、さらに、学校に行けない子供がいくらでもいるのであるから、全く喜べない。
自分の子供が美味しいものをいっぱい食べて満足そうな様子を見せても、世界には、餓死する数え切れない子供がいるなら、少しも楽しくない。
そんなことはできないのである。
マザー・テレサもイエス・キリストも、自分の子供がいなかったからこそ、あそこまでやれたのではないかと思う。お釈迦様は、子供はいたが、子供が生まれる前に城を出たと聞く。

自分の子供が、素晴らしい学校に合格しても、スポーツの大会で良い成績を上げても、狂喜乱舞するのではなく、少し喜んで、静かに「おめでとう」とだけ言えば良い。
世間では、自分の子供に良いことがあると、西田敏行さんの演技のようにこっけいなまでに喜びまくる親を微笑ましく見て、これが愛情深い親と思うかもしれない。しかし、そんな親は、他の子供に対してひどく冷淡であったり、そうでなければ、他人の子供の不幸な境遇にも極端に反応したりする親もいる。いずれも正しくない。

また、自分の心を特別に愛することも間違いだ。
オリンピックの柔道決勝で、勝った日本選手が負けた選手の前で飛び上がってガッツポーズを連発し、日本の応援団やテレビを見ている国民も狂喜乱舞する。
そんな姿を本当に醜いと感じないのだろうか?
あるいは、金メダルを目指しながら2位や3位に終った選手が、優勝した選手に形ばかりの賞賛を贈り、終始憮然としている。
自分が優勝しても、そこそこに喜ぶなら、負けた者に対しても思いやりも持てると思う。
逆に自分が負けても、少し悔しいだけだし、勝った者の喜びを自分の喜びとできる。
「いや、この悔しさこそ、次には勝とうというモチベーションになるのだ」と言う者もいるだろう。その通りなのである。それは、見事に外部に操られている状態である。そして、たとえ次は勝っても、一生、修羅の道を行くのである。

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2009.05.10

2012年12月の地球滅亡、あるいは、アセンションについて

2012年に地球がフォトン・ベルトに巻き込まれて滅ぶとか、そうではなく、あるいは、それと同時にアセンション(次元上昇)ということが起こり、地球人類は新しい人類に生まれ変わるが、レベルの低い人間は消滅するとかという話が多くなってきた。書籍でも、こういった話題のものは数多く出版されているし、インターネットでも、Googleで“2012”で検索すると、この手の話題が掲載された膨大な数のサイトがあることが分る。
それで、2012年に、実際は何が起こるか?あるいは、別に大変なことは何も起こらないのか?そして、何より自分は大丈夫なのかということを心配する人も多いのではないだろうか。
私は、大変なことが起こるというのもありで良いと思う。
たとえ明日死ぬとしても、別に今日の過ごし方は変わらない。
土台、明日の命があるなんてことが保証されているわけではないのだ。
ましてや、3年半も後のことである。何が起こるか分ったものではない。

昔、エンリケ・バリオスの「アミ 小さな宇宙人」という本を読んだことがある。3冊のシリーズになっており、今のものは、さくらももこさんがイラストを描いている。
私が読んだ旧版では、2冊目の「戻ってきたアミ」だったと思うが、画家の横尾忠則さんが推薦文を書き、表紙のイラストも横尾さんが描いたものだった。
横尾忠則さんは、霊や宇宙人を完全に肯定しておられ、著書に、宇宙人と遭遇した体験についても堂々と書いておられる。
私は、岡山にあった政木和三さんの研究室を訪ねた時、何の脈絡もなく、不意に「政木先生は、横尾忠則さんをご存知ですか?」と尋ねたことがある。
政木さんは、黙って研究所内のある方向の壁に顔を向けられた。
そこには、政木さんの見事な肖像画があり、「横尾忠則」と書かれていた。
政木さんは「横尾さんは宇宙人です」と言う。詳しくは聞かなかったが、政木さんの著書の内容から推し、宇宙人の魂を持った人間という意味かもしれないと思った。
そして、政木さんは「精神文明と奇跡」という、ご自分の著書を出してこられ、表紙と裏表紙のイラストを横尾さんに描いてもらったのだと言った。不思議な顔が描かれていた。この本は今は絶版だと言われ、その本を私に下さった。

ちょっと余談が長くなった。「戻ってきたアミ」で読んだのだと思うが、地球人に限らず、知的生命体には魂のレベルがあり、それを数値で表せ、これが700以上であれば高度な魂であるようだ。
そして、その星が滅亡する時には、円盤が救助に訪れるが、魂レベルが700以上の者しか助けないという。
まあ、それも信じるとしよう。信じても、私には、別段、何の問題もない(私が救助の対象となると言う意味ではない)。
2012年12月22日に、地球がフォトン・ベルトに巻き込まれて滅ぶとき、UFOが助けに来るという話は他にもあると思う。
なら、それまでに、魂レベルを700に上げねば・・・となるのだが、私はあまり自信はない。まあ、がんばろうといったところである。
駄目なら最後・・・でも、それはそれで良いと思う。

早い話が、私は、2012年12月22日に、地球がフォトン・ベルトに巻き込まれて大異変を起し、大半の地球人類は滅ぶ。しかし、高度な精神の持ち主は、苦難を乗り越えた末、新しい地球で幸福に生きる・・・といったシナリオを、とりあえず受け入れている。
デマの情報に惑わされるのは、むしろ、そんなことは起こらないと思いたいが、不安を持っている者達なのだ。
実際は、そんなことが起こらなかったとしても、別段どうでもいい。
そういうことになると思い、心構えだけはしておこうというだけのことである。

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2009.05.09

岡田虎二郎と内海康満

明治、大正の時代に岡田虎二郎という偉人がいた。
虎二郎は、我が国の思想は基より、明治34年に渡米し、西洋の膨大な思想をも学び、帰国してからは岡田式静坐法を創案し、広く指導にあたった。
岡田式静坐法は一時、大変な隆盛を誇るが、一般には忘れられることになっていく。
その理由は、人々にとって、岡田式静坐法は養生の法だった。つまり、健康増進や病気治しとして関心を持たれたのであり、確かにその面の効果は素晴らしく、多くの岡田式静坐法実践者が健康をめざましく増進させ、また、虎二郎が難病の者にキリスト級の奇跡的治癒をもたらしたこともあった。
しかし、その虎二郎が49歳の若さで急逝すると、健康を目当てに岡田式静坐法を行っていた人達は裏切られた気持ちになったのだろう。一般の人々はあっという間に去っていったらしい。しかし、虎二郎に教えを受けた者達により、岡田式静坐法と虎二郎の思想は伝えられることになる。
岡田式静坐法は単なる養生の法ではなく、虎二郎は人類救済を志していたのだと思う。
虎二郎は、大正9年1月17日に亡くなっているが、その数日前に柳田誠二郎(後に日銀副総裁、日航社長)と歩きながら普通に話し、誠二郎に「君はもう少し肉が付いた方が良い」と言ったようだ。
虎二郎は死ぬ直前に、手記などの全てを燃やしてしまっていているので、直筆の文章は残っていない。
虎二郎は確かに休みもなく、寸分を惜しんで働いていたが、当然にして壮健であった。しかし、著名な作家であった木下尚江は、死期の近い頃の虎二郎に逢った際に何かを感じたようではあるらしい。
養生だけが目的ではないとはいえ、やはり虎二郎が病死すれば、岡田式静坐法を疑う気持ちも分らぬでもない。
そして、まるで自分の死を知っていたかのような虎二郎の言動。
謎は尽きない。

しかし、最近、内海康満氏の新しい著書「霊止乃道(ひとのみち)」(たま出版)を読み、私の中で内海氏が虎二郎と重ね合わさった。
内海氏は、「瞬間」「無痛」「仙骨のみ」の治良(治療ではない)で一切の病気(水虫からガンまでという)を消すMRT良法(療法ではない)を創案し、全国に展開。290万人が治良を受けているらしい。
私は内海氏と深い縁がある(内海氏が私に縁があるわけではない)。
私はある日、内海氏の弟子だった医者から、内海氏の身体がボロボロであることを聞いて驚いた。もし本当なら、MRTは偽物ではないかと思った。また、別の医学者からは、MRTについて、一定の評価はするが批判的な考えを持っていることも聞いた。
内海氏の身体が悪かったことについて、この「霊止乃道」で事情がやっと分った。
虎二郎の静坐法と同じく、内海氏のMRTも病気治しのためのものではなかった。
そして、虎二郎の病死の時と同じく、内海氏が倒れたことで、多くの人がMRTを去った。
内海氏は本当に重体だった。そして、それには意味があった。
虎二郎や内海氏が、養生目的に来る人たちに静坐法やMRTを教え施し続けていたら、人類救済の妨げになったのである。
ただ、内海氏はこの本に書いているが、内海氏は誰も見捨てたくなかったのだ。それは虎二郎も同じだったに違いない。だから、虎二郎は死に、内海氏は動けぬ身体になったのである。
現在では、内海氏は完全な健康を取り戻し、現在は人類最後の救済活動に邁進しているようである。

このブログに書いたことがあるが、内海氏が十代の時、霊能の大家であった竹内満朋氏に言われてボロボロになるまで読んだ本が、やはり「ローム太霊講和集」であったことが、この「霊止乃道」でやっと明かされた。
17年前、「ローム太霊の本」とだけ知らされた私は、あらゆる書店で探したが、それらしい本は見当たらなかった。しかし、初めて逢った人に「ローム太霊の本を探している」と言うと、彼は「ローム太霊講和集ですね。分りました」と言って、大阪の旭屋書店まで行って買ってきてくれた。滅多な書店には置いていない本らしい。不思議な話である。その時、私は、内海氏がMRTを最初に開いた姫路のオフィスの近くにいて、内海氏に関する面白い話を聞いたものだ。

「霊止乃道」には、あり得ないことではないと思うが、近く日本も戦争に巻き込まれることが百パーセント確実とある。また、巷でもよく言われていることではあるが、2012年12月22日に地球はフォトン・ベルトに巻き込まれて大変動を起し、人類の大半は死ぬ。それらから助かる方法・・・というものではないが、切り抜ける秘法が書かれている。
そんなことがあるといいうくらいの気持ちで読めば、さらに得るべきものが大きい本であり、本当にそんなことになった際には、読んでいて良かったと思うかもしれない。

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2009.05.08

少食は誰にでもできるものではない

江戸時代の観相(顔や身体の相で運命を鑑定する術)の達人、水野南北は数万人の鑑定を行ったが、常に食を慎む者は全てにおいて運勢良く、逆に食に慎みがなく、飽食、美食の者は運勢が悪いこと。そして、食の安定しない者は収入も安定しないことについて、1件の例外も見なかったという。

ところで、では、富裕、健康を得るために食を慎むことに取り組み、人にも薦めるべきかというと、そうであるとも言えるし、そうでないとも言える。
どういうことかというと、私は、食というのは、慎もうとして慎めるものではないのではないかと思うようになってきた。
確かに、食を慎む者は運勢が良く、飽食、美食だと運勢が悪いかもしれない。しかし、実は、食を慎むことと幸運、食の慎みがないことと悪運というのはセットでその人に運命付けられているのではないかと疑っている。

食を慎むことと幸運はセットで用意された運命なので、食の慎みがある人が幸運なのは当然だし、逆に飽食、美食と悪運はセットなので、食に慎みのない者が運に恵まれないのも同様である。
幸運になろうとして、無理に少食・粗食にしようとしても無駄である。ほんの短期間で挫折するのがオチである。

こう言えるかもしれない。食を慎むことのできる魂というものがあり、そのような魂に幸運が与えられるのであると。
そして、その運命は、おそらく変えることはできない。

ただ、大原則はそうであるが、稀に運命を変えることができる場合もあるのではないかと思う。
私が、昨年8月まで大変な大食で肉食中心であったのに、不意に1日1食の少食で菜食主義者になった。特に何の決意も無かったし、少食を継続するための苦しみもなく、挫折しそうになった憶えもない。大食であった頃の感覚はまだまだ残っているので、食べたい気持ちは強いのであるが、最近ではそれもかなり和らいできた。そして、ただ、1日1回の食事が、粗食であっても天国の食事のごとく美味しく、有り難く感じる。現在のところ、1日1回の食事の楽しみのために生きているようなものである。
運勢の方も、元々悪くはないが、更に素晴らしくなったし、健康診断では、以前のボロボロのものから、完璧な超優良の診断結果となった。幼い頃からのアレルギー(アトピー、花粉症)は少し残るが、以前と比べれば驚くべき改善がある。

以前も書いたが、私は子供の頃から、次元移動と言うくらいの別人になってしまう体験がよくあったが、大食から少食になったのもそれだと言えると思う。
著名な人物について見ると、大病など、死ぬほどの経験の後で別人に生まれ変わった例が多いと思う。病気の他にも、大きな挫折や、身近な人の死など、苦しい体験の後などの場合もある。いや、そのようなことがない限り、普通、人は生まれ変われない。
運命というものは、原則、人の一生について決まっていて、どうあがこうが変わらないものなのだ。
しかし、そのような特殊な体験が影響して変わってしまうこともあるのだろうと思う。
しかし、私は、不意にトリップするのだ。おそらく無意識なのだろうが、何かキーはありそうな気はする。
「マジック・ストーリー」というお話がある。百年も前に、米国のサクセス誌に掲載されたものだが、マジック・ストーリーを聞いたり読んだりした者が一瞬で運命を変えてしまうのだ。今はソフトバンククリエイティブから出ている、たった1050円の本だ。マジック・ストーリー自体は15分もあれば読めるだろう。それを読んだ人たちは明らかに次元移動する。

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2009.05.07

神のサイコロ

夏が近付けば聴きたくなる歌に、ZARDの「突然」という歌がある。
この歌の、坂井泉水さんの美しい歌詞の中に、
「僕は君の大事な存在(ひと)になれるだろうか?この仕事(ゆめ)はどんな状況(とき)も笑っているよ」
という、実に印象深いフレーズがある。
これは、誰しも覚えのある想いだろう?
今、そう想っている人も少なくはあるまい。

では、あなたは、彼(彼女)の大事な存在になれるのだろうか?
私は、それはこういうことと思う。
「神様の振るサイコロ次第だ」と。

アインシュタインは、「神はサイコロ遊びをしない」と言った。
だが、どうやら、神様も、我々とは違うサイコロ遊びをするのは間違いないようなのだ。
では、我々のサイコロ遊びと、神様のサイコロ遊びは、何が違うかというと、神様のサイコロには無限の目があるということだ。

神には永遠の現在だけがある。人から見ると、神様のサイコロには無限の偶然があるが、それがどんな目であれ、それはあなたが選んだものである。
分かりやすく言い換えると、いかなる偶然であれ、それを自分の意志とする時、あなたは神に近付くのである。

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格が違うことが分からない愚かさ

大相撲で、横綱と前頭何枚目かの力士では、確かに実力差は大きいが、横綱対幕下などというあり得ない対戦ほど勝負は絶対ではない。
プロボクシングでも、結果が確実に予想できるような実力差のある対戦はない。

ライオンとヒョウが同じ地域に棲んでいることはあるが、ヒョウがライオンに戦いを挑むことはない。
ヒョウとライオンに限らず、明らかに力に差がある相手に挑む野生動物はいない。たとえ、子供を守っている母親であっても、絶対に敵わない場合は、子供を見捨てて逃げる。

しかし、人間だけは、全く格の違う相手に愚かにも挑むことがある。
それが良い場合もなくはないが、ほとんどが匹夫の勇である。

プロレスの世界では史上最強と言われたルー・テーズというレスラーの師匠だったエド・ルイスを、テーズは「史上最強は私ではなくルイスだ」と言った。そのルイスに、アマチュアの世界では賞賛を浴びるレスラーが挑戦してきた。ルイスはアマチュアレスラーの肩を砕き、その肩が炎症を起こして、この20歳の前途有望だったはずの若者は両腕を切断した。
おのれの力を見誤り、自惚れや傲慢が過ぎると、こういう悲惨な結果となる。それはよく見られることだ。

分かりやすいよう、肉体での戦いの例をあげたが、もちろん、いかなることでも同じだ。ビジネス、芸術、思想、哲学、その他、何らかの技術やノウハウなどにおいても、自分が全く格の違う相手と互角、あるいは、上だと思い込む未熟者は人の世に溢れかえっている。
我々が誰かを批判せずにいられなかったり、嫌悪する時、ほとんどの場合、このような愚かな間違いを犯していると思ってまず間違いがない。

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2009.05.06

自覚できる夢

夢だと自覚できる夢を明晰夢と言うらしい。
夢の中で、「これは夢だ」と気付いたという経験を持っている方もいると思う。
私も何度かそんな夢を見たことがあるが、それほど非現実な感じはしなかった。どちらかというと、「夢だとは分っているのだが、どうも現実っぽいぞ」という感じである。
だから、「夢なんだから思いっきり大胆に振舞おう」とか、「遅刻しそうなんだが、夢なんだからどうでもいいや」といった思い切りが付きにくい。

さて、夢を見ていると気付いた場合、試みたくなるのが、夢の世界を思い通りに変えてみることだ。
これは、経験上で言うと、ある程度のところまでは出来るのだが、後一歩のところで破綻したり、あるいは目が覚めるというものだ。
クライマックスの手前で駄目になってしまうのだが、そんな時は心が焦っていたり、欲望に囚われてしまっている時である。
私は、夢と現実に違いはないと思っている。
江戸川乱歩やバシャール(アメリカ人ダリル・アンカと精神的な交信をすると言われる宇宙人)によると、夢の方が本当の世界であるようだ。
現実世界でも、目標を達成しようとすると、意欲があれば、ある程度まではうまくいくものだが、達成の手前で失敗することが最も多い。その理由もまた、焦ったり、欲望に支配されるからだ。
それは普遍的なものであるらしく、昔から、成功の扉の手前に白骨死体が数多く転がっているという風に言われている。
夢の中で願望達成の練習をすれば、それは現実世界でも力になるという話もある。
いや、ことによると、現実世界で願望を達成する練習をして、夢の世界で楽しむという人がいても良いくらいである。

ところで、昔からの人類にとっての謎である「なぜ夢を見るのか?」であるが、それは一般的には説明しにくい。
ただ、夢特有の性質を考えれば、自ずと明らかになる。
夢特有の性質として、自分の精神的傾向が、現実世界より顕著に世界に反映されるということだ。
例えば、現実世界では、様々な理由から、自分の趣味や精神的傾向を隠していることの1つや2つあるはずだ。
あるいは、嫌な思い出を思い出さないよう、心の奥深くに押しやっていることもあると思う。
それが夢では表に出てくることが多い。
私も、子供の頃は持っていたが、その後、克服したと思っていた嫌なことがよく夢に出てくる。実は、それは抑圧しているだけで、実際には解決していなかったのである。
フロイト精神分析学の中でも、抑圧して心に隠したものは、歪んだ形で現れ、それは意欲や活力、あるいは生命力を奪うのである。また、精神的逸脱を起こし、肉体的異常としても現れる。
そんな抑圧を夢に見せることにどんな意味があるかであるが、早く解決しろという警告とも取れるが、実際は、夢の中で再現することで抑圧が軽くなるのである。
嫌な思い出を心の中に抑圧しているせいで、精神が病み、生命力も低下しているが、それを夢の中で現実的に体験することで抑圧が解消されるのである。私も最近、そんな経験をしたのでよく分る。
現実世界では、周囲の人間が自分の欠点を再現する場合が多い。
だから、「人のフリ見て我がフリ治せ」とか言うのである。
他人の嫌なところは、自分にある欠点と思って100パーセント間違いない。自分に同じ欠点がなければ、他人の中にそれを見るはずがない。そして、欠点は自分だけにあるのであり、他人に関しては大半が誤解なのであることを是非知って欲しい。よって、誤解を恐れる必要もない。

夢の役割が、心の抑圧の解消だけであるわけではない。
そのことは、夢というものが、現実より心の深い部分に繋がりやすいことを示しているに過ぎない。
夢と現実が変わらず、むしろ夢の方が本当の世界であるとすれば、夢は人間にとって重要なものであるかもしれない。
夢を見ないという人もいるが、それは単に忘れるだけで、実際には、誰でも夢を結構見ているものらしい。
そして、忘れていても、夢は有益なのであると思う。

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2009.05.05

次元移動の神秘

皆さんは、自分の人間性が急に変化したことに気付いたことがあるだろうか?
そして、それが世界の変化に直結したことに気付いたろうか?
普通は気付かないし、そもそも、急激な人間性の変化が起こる可能性もほとんどない。

私は、子供の頃からそんな経験を何度かし、とても不思議だと思ったことが何度もある。
例えるなら、大変なヤクザ者が聖人のように生まれ変わることがある。それには何か原因があるのかもしれない。しかし、彼らは自分の変化に気付いているのだろうか?

ある食べ物が大好物だったのに、ある瞬間にさほど好きでなくなったという人がいるかもしれない。
男の子が、どうしようもなく好きだった女の子がいたのに、やはりある瞬間に、彼女に何の興味も無くなったということもあるかもしれない。
科学が大好きだったのに、ある瞬間に、科学に興味を無くし、宗教が大好きになるということもある。
これらのことは、さほどの原因と思われることもないのに、不意に起こることもある。
そして、変化は不意でも、人生は大きく変わるかもしれない。
いや、敢えて言うが、こんなことがないと人生は変わらないのだ。

私は、こんな変化を次元移動と呼んでいる。
物理学の量子力学に、多世界解釈という面白い理論がある。それは、SFでよく利用される一見奇妙なものだが、案外物理学者にも支持者が多い。
多世界解釈とは、SF的にいえば、無限の宇宙が存在し、それらの宇宙は、少しずつ異なっているというものだ。この世界では、あなたは赤い靴を履いているのが、別の世界では青い靴を履いてるという程度の違いもあれば、この世界で平凡なサラリーマンである人が別の世界ではプロ野球のスーパースターだったりする。
そして、いかなる世界でも存在する。いや、発生する。
筒井康隆さんの「果てしなき多元宇宙」というかなり昔の作品に、このことが面白く描かれている。この作品は、昔から、有名な「時をかける少女」と一緒に収録されているが、角川書店の新版の「時をかける少女」でもそれは変わっていない。文庫で460円と安いので、同じくそれに収められた「悪夢の真相」と共にお薦めしたい。

私の言う次元移動は、そんな別の宇宙に移動してしまうことだ。「果てしなき多元宇宙」の主人公の美少女、暢子のように。
ただ、本当はそんなことをする必要はないのだと思う。
世界は夢である。変わろうが変わるまいが、どうでも良いといえば良いかもしれない。
私は、幼い頃に、世界が幻であることを見破ってしまった。そのせいで、おかしなことが起こるのかもしれない。

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2009.05.04

ESP測定プログラム

~お知らせ。2009年5月14日~
ESP測定プログラム専用ページを作成しましたので、ご利用下さい。
プログラムのより詳しい説明や、バージョンアップについての情報があります。
プログラムは全て完全無償です。

初めての方は、以下もご覧いただければ幸いです。


ESP(超感覚的知覚。俗に超能力)測定プログラムを作りました。
超能力があるとかないとかの話ではなく、もしあるなら、それを明らかにできるという意図のものです。

参考にしたのは、尊敬する科学者にして天才的な発明家であった橋本健氏(理学博士)のサイメーターエミュレーションプログラムです。
サイメーターは、橋本博士が昭和25年に発表した念力測定器で、それをコンピュータプログラムでエミュレーション(本来は、他機種のコンピュータのプログラムを実行させるための翻訳プログラムの意味であるが、ここでは、機械装置の動作をコンピュータに真似させるという意味で使っている)させたのが、サイメーターエミュレーションプログラムです。
詳細は、日本超科学会の中の確率を支配するものは何か?に詳しく説明されています。

上記サイト自体に、サイメーターエミュレーションプログラムの無料ダウンロードもあるのですが、残念ながら、そのプログラムはVisual Basic4.0で作られているようで、おそらく現在のパソコンでこれを動かすのは無理でしょう(Windows 3.1や95の時代のものです)。
橋本博士が存命の時、私は博士にこのプログラムの不備を指摘し、博士は修正を施したプログラムを私に送って下さり、私が検証したバージョンがこれだと思います。
また、私は、橋本先生が、このプログラムはPK(念力)測定にも有効としたのに対し、コンピュータと電子理論でそれは不可能と反論し、橋本博士は一応は主張を取り下げられました。
いかに橋本博士が大天才でも、ことコンピュータに関しては私の方が専門家でした。
上記サイトにもありますが、サイメーターエミュレーションプログラムの実験には、あの大槻教授(早稲田大学名誉教授。理学博士)も参加しておられ、大槻教授自体が、統計的有意さを持って超能力者であることを示しているようなのは面白いことです。

また、反応時間の測定の中の「ある方の要請により、反応時間、当たりの時の反応時間の平均、はずれの時の反応時間の平均を出すプログラムを作りました。」の「ある方」とは私のことです。

当ブログ内の下記Webページで無償公開しております。
無償公開します。約40KByteの非常に小さなファイルです。

ESP測定プログラムWebページ

一切の改変をしない限り、再配布は自由です。ただ、無いとは思いますが、Webサイト、雑誌その他で公開したい方はメールでご連絡下さい。
尚、フリーソフト公開者の決まり文句ですが、私はこのプログラムに関し、何らの責任を持つことはなく、質問に答えるとは約束しません。

内容は非常に単純なもので、いわば、コインを投げ、表か裏かを予測し、何回当たったかによってESP能力を判定するようなものです。
ただ、その判定の仕方に、橋本先生と同じような統計手法を取り入れ、判定に信憑性を持たせています。
試行の回数が少ない場合は、「超能力あり」の判定が出ても、ただちにそうとは断言できませんが、十分に回数を重ねたなら、統計学の問題ですので、十分な信頼性があると言えます。
早い話が、コインを投げて自分で危険率を計算すれば同じことですが、コインやサイコロを厳密に均等な条件にするのは難しいですし、危険率の計算は電卓を使っても大変です。
以下は、私が50回の試行をした際の判定が出た時の画像です。

Psi_2

0と1が均等に25回ずつ出ています。これは少ない試行では、いくらか偏るのが普通です。
31回の正解で、「超能力が発揮されたと言える」ことの危険率は2.7%です。危険率5%未満なら有意(偶然と言えない)とされますが、3%未満以下ならかなり信憑性があるようで、橋本博士も3%未満を採用していると思います。

このプログラムは、最新のVisual Basic 2008 express editionで作りました。こんな凄い開発ツールが無償だとは感動しました。
動かすには、.Netframework2.0(ドットネットフレイムワーク2.0)以上がインストールされたWindowsパソコンなら大丈夫と思います。
動かなければ、.Netframework3.5をダウンロードし、インストールすれば動きます。
私のプログラムは、簡単に「ESP測定プログラム」としています。内部動作は、サイメーターエミュレーションプログラムとやや違うものです。私なりに、正確な測定が出来るよう工夫しました。
今後は、言い出した者の責任として(?)反応時間の測定や、測定結果のデータベース化とその解析機能も付けたいと思っていますが、別に計画は立てていません。

橋本博士とメールのやり取りをしていた頃、私は徹底した超常現象否定派で若気の至りもあり、橋本博士にはかなり失礼なことも言いましたが、博士は全く意に介されず、穏やかな対応をされる立派な人格者でした。
あの態度は今になって見習うべきと思うようになりました。
今頃になって、橋本博士の著書(多数あります)を購入して読んでいますが、どれも素晴らしい本です。
残念ながら、現在、新品で入手可能なのは、「四次元の世界 ~唯物科学から超科学へ~」(潮文社)くらいかと思います。

橋本博士や、政木和三さん、中山正和さんらは、科学者でありながら実業の世界でも大きな実績をあげ、さらにこの世の真理を深く探求し、素晴らしい情報を提供して下さっており、大変にありがたいことと思います。

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2009.05.03

引きこもりこそ万能の鍵である

引きこもりに対する大誤解について書いておこう。
引きこもりは全く悪くない。むしろ偉大な美点だ。
引きこもりとは、世間的な意味での他者との交流が嫌いだというだけのことで、別にコミュニケーション能力が無いわけでもない。
資本主義経済社会では、この世間的な交流を前提にした仕事が大半なので、引きこもりは仕事がしにくいのも確かである。
しかし、そう思うのもまた、世間に騙されているのだろう。

引きこもりがニートである言い訳にはならない。
この世で生きる者は、自分の生活は自分でまかなわねばならない。
引きこもりは素晴らしいものであるが、ニートには何の美点もない。
私は、ある時、世間的な他者との交流は捨てた。そうしたら、社会的なことで困ることもなくなった。

私は、子供の頃、スズメバチの巣を持ち帰って観察したことがある。
巣には、さなぎだけがあったが、最初に孵化したハチは、羽がもげていた。
そのハチはどうしたかというと、歩いて出かけ、歩いて帰ってきて、ちゃんと巣の世話をしていた。
飛べないからといって、働かなくて良いのではない。
まして、引きこもりは、他の者と比べ、何ら劣っているわけではなく、むしろ優れている。
言ってみれば、他のハチが羽の使い方を知らずに飛べない中で、自分だけが飛ぶとすら言って良い。

実際、私は世間の人の真似をやめた時に飛ぶことを覚えたのだ。
信じていただければ幸いだが、この世の本当のことを知るには引きこもる必要がある。
そして、この世の本当のことを知れば不可能はなくなるのである。

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2009.05.02

再び自己信頼について

信念を持つということは難しいことである。
イエスは、「山に動いて海に入れと命じ、そうなると疑わないならそうなる」と言った。
まあ、そんなことは誰も望まないだろうが、年収4百万円のサラリーマンが、年収1億円になるということなら大いに望むだろう。しかし、それを信じることは難しく、ほとんど不可能だ。そして、ジョセフ・マーフィーの成功法則では、信じることができない限り、それは実現できない。
自分は働くことができないと思っている引きこもりは、やはりその思い込みを変えない限り働くことができないだろう。

以前、月刊『致知』で見たことがあるが、合気道家の藤平光一さんは、毎日鏡に向かって、「私は、ますます信念が強くなる」と自分に言い聞かせていたことがあったらしい。信念とはかくも重要なものであるようだ。

しかし、信念という言葉は曖昧だ。
いったい何を信じれば良いか困惑させる。
正しい信念とは、自己信頼である。なぜなら、全ての原因は自分であるからだ。世界は自分の心が作るのである。
自分を信じられれば良いのであり、自分を信頼できるかどうかが最も重大なことである。
「山に動いて海に入れ」と命じ、それを信じるというのは、自分がそう命じれば実現するはずだという自己信頼なのである。

日本の学校教育では、徹底的に自分を信じないよう叩き込まれているのではないだろうか?自分を信じず、教師や国家や権威者や活字やマスコミを信じるようにさせられるのである。
本当に幸福な人生を送る者とは、学校を反面教師くらいに考えているのである。対して、学校や、何らかの外的権威を信じ込まされてしまった親の子供が引きこもりになるのである。
あなたが引きこもりなら、自分の親をよく見るが良い。何か外部の権威的なものを盲目的に信じているはずである。

引きこもりが自由に活動できるようになるためには、外側に敢えて逆らってでも、自己を信頼しなくてはならない。
アメリカの思想家エマーソンは子供の時、教会の牧師に対し、教会の教えに疑問を感じると言った。牧師は、エマーソンにそう思わせるのは悪い心かもしれないと言ったが、エマーソンは、それならそれで、自分は悪い心に従うと言い切った。彼は自分を信頼することを選んだのだ。

ジョセフ・マーフィーもよくエマーソンを引用しており、「眠りながら巨富を得る」では、エマーソンの書である「Self Reliance」をあげていた。翻訳者の大島淳一(渡部昇一)さんは、この本のタイトルを「自己を信ずるということ」と訳し、これの古い訳書の名もあげておられたが、これは現在、「自己信頼」(伊東奈美子訳 海と月社)として新訳が出ている。また、「精神について (エマソン名著選)」(入江勇起男訳 日本教文社)にも含まれている。
エマーソンのこの本は、国家思想統制の目的にはあまりに反するので、学校で勧められることは絶対にないと思うが、人類の至宝とも言うべき書である。
マーフィーはよほどエマーソンを尊敬しているらしく、ほとんどの本でエマーソンを引用している。
(エマーソンは、エマニュエル・スウェーデンボルグを崇拝していたと思われるが、今回はこの点は省く)
フォード自動車創業者のヘンリー・フォードは、トラインの「In Tune with the Infinite」(邦訳には「幸福はあなたの心で」や「人生の扉を開く万能の鍵」の2冊がある)が自分の成功の要因であったと言い、多くの人にこの本をプレゼントしたと言うが、そのトラインが崇拝していたのがエマーソンで、ラルフ・ウォルドー・トラインという名前は、実に、ラルフ・ウォルドー・エマーソンからとって名乗ったのである。

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2009.05.01

紙に書くと願いは叶う

願望を叶える、最も簡単かつ絶対確実な方法がある。
それは、「願いを紙に書く」ことだ。
これは、多くの成功者の間で共通の認識と思う。
ある著名な経営コンサルタントは、著書の中で「内緒で教えます」と冗談のような雰囲気を見せながら、控え目に、しかし自信たっぷりにこれを教えていた。
ジョセフ・マーフィーの「眠りながら巨富を得る」にも、何も特別な扱いをせずに、章の一部としてさりげなくそれを教えている。
マーク・フィッシャーの「成功の掟」にもこれが書かれているのだが、私の思い違いかもしれないが、この本は、ある世界的な成功プログラムの内容と酷似している。そして、その世界的成功プログラムでも、目標を紙に書くことの驚くべき効果が強調されていた。
尚、その成功プログラムに関しては、名前を出せば法的にまずい可能性があり、いったいそれが何かは書かないが、それはもう大した問題ではない。これだけの人が言っているのだから。
書き方は「金持ちになる」と断言形で書いたり、「幸福な結婚」といったように単なる言葉として書く。具体的に「5000万円」などと書くのが良いとする意見もある。私なら、後の2つをお薦めする。最初のは、自分が今、金持ちでないという意識が働くかもしれない。

言ってみれば、このことを知っていれば、上記の書物や高価な成功プログラムは不要なはずである。
しかし、実を言うと、人間にとって最も難しいのは、目標を立てることだ。
何かの製品のテレビCMで、子供達が将来の夢を語るというものがある。あれを見て、いいなと思う人は、おそらく自分の願いは叶わない。あの子供達の願いも叶わない。やはり目標の立て方に問題があるのだ。
以下、それについて述べる。
若い女の子であれば、女優になりたいとか、アイドルになりたい。さらには具体的に、モーニング娘やAKB48に入りたいと思っている人も多いだろう。しかし、それを紙に書いても無駄だ。
40歳過ぎの、ほとんど絵を描いたことのないサラリーマンで、画家になりたいと思う人もいるかもしれないし、本当にそんな人が画家になった例を岡本太郎もあげていたが、それを真似るつもりで画家になると紙に書いても、普通はまず無駄だ。
あるいは、若い男の子(に限らないが)が、有名なアイドルを恋人にしたいとか、多少は現実的に、片想いの女の子を恋人にするとか紙に書いても、何の意味もないだろう。
ニートが大金を望んでも、まあ無理だ。
言っておくが、我々にそれらの「馬鹿げた」目標を達成する能力が無いと言っているのではない。ある意味、そんな目標の成就すら何でもないことである。

一方、正しく目標を立てる能力があるなら、紙に書けば、恐ろしいまでに願いは叶う。
では、正しく目標を立てる能力の修得は難しいのだろうか?
そうとも言えるし、そうでないとも言える。
一般的には、人のためになる願いであれば叶う。
しかし、歌手になりたい人が、「人々を勇気付ける歌を歌える歌手になる」と書いても、大抵駄目だ。本当はそれが本音でないからだ。単に自分がちやほやされたいとか、お金が欲しいだけだ。

目標を立てるには、本来は、精神の成熟を必要とする。そのためには、様々な、時には苦しい人生経験が必要だ。
しかし、1つ簡単な方法がある。それは少食である。
昔から、それを知っている人がよくいて、食を絶って願掛けをするという人がよくいた。たらふく食べて願をかけるなんてことが論外であると認識されていた時代や地域のことである。
ただ、断食そのものの力で願いを叶えるというのは、一般の人向きでない。数日とか十日程度の断食では大した効果はない。願いが叶う前に死ぬこともありうる。もっとも、本音でない願いなら、断食も続かないので、それを見極めるには良いという意味はある。

普通の人のやることでは、願いの高さにもよるが、好物の食べ物を絶つという方法がある。ただ、それも、毎日食べないと気が狂うとか、一生、3度の食事全てそれでも一向構わないというくらいの好物である必要がある。
やはり少食に限るのである。
方法としては、いつもの食事を用意し、全品の1/3あるいは1/2を食べないで残すのである。残したものは、本来は、貧しい人に施すのが良いが、今の時代、それは難しいので、捨てても良い。「食べ物を捨てるなんて・・・」と非難する人がいるかもしれないが、水野南北はそれは悪いことではないと言う。食べて糞にするよりずっとマシであるというのである。
まあ、捨てるのが嫌なら、最初から少な目に用意すればいい。
簡単にやるなら、やはり腹八分目で、「もっと食べたい」と思う心を抑えて、3つあるところを2つだけ食べるのである。
そして、間食にも気をつける必要がある。全く駄目とは言わないが、毎日甘いお菓子を食べるなどは論外だ。ここでは、制限すればするほど良いとだけ言っておく。
エマニュエル・スウェーデンボルグも「お腹一杯食べて自分を甘やかしてはいけない」と手記に書いて残している。
食を慎めば、異常性欲や、強い自我意識がなくなってくる。そうなれば、自分に相応しい目標が自ずと見えてくる。それを紙に書けば、必ずや叶うのである。

毎日必死で念じるより、紙に書いて忘れてしまったほうが願いは叶うのである。
そして、毎日、食の慎みに励めば叶う。
その叶うまでの期間であるが、水野南北によれば、小さなことで1年、大きなことで3年。高名になるといったものであれば10年で叶うとある。

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