古事記を心に作用させる
こういう言い方が好みでないなら、たとえ話と思ってもらえば良く、実際にたとえ話なのだが、我々をこよなく愛する神様が、我々を苦しめるはずはない。しかし、人生には様々な問題が起こることも確かだ。
台湾生まれの米国の作家で、偉大な実業家でもあるチン・ニンチュウは、「あらゆる問題は、神様が私達を楽しませるために作った」と言うが、後から考えれば間違いなくそうで、それが証拠に、いかなる苦しい思い出も、成長をとげた後で思い出せば、どれもいい思い出であるのだが、不幸にも問題に負けてしまって、道を踏み外す人もいるようなのだ。
そうならないために、昔の賢者は、アドバイスを残してくれている。
それが、世界各地にある深遠で偉大な神話だ。
ヒンズー教のヴァガバッド・ギーター、ユダヤ教やキリスト教の旧約聖書などはその代表的なものであるが、我が国には、なんといっても古事記がある。
古事記は、日本人以外には理解しにくいが、日本人には本来は実に理解しやすいものだ。
しかし、古事記の読み方もまた、旧約聖書やヴァガバッド・ギーターと同じであるべきだ。
古事記を表面的に解釈してあれこれ言うことに何の意味もない。
旧約聖書もヴァガバッド・ギーターも古事記も、全て心の中のお話で、人の心の成長を比喩的に顕しているのだ。
サルトルは、「小説を読むとは、その小説を自分で再度書くことだ」と言った。
エマーソンは、「物語を読む時、それは自分の物語として読め」と言った。
ジョセフ・マーフィーは、旧約聖書のヨブ記について、その真の意味を知りたいなら、数千年前、自分がどういう意味で書いたのかを思い出せば良いと言った。
古事記が我々一人一人の心の中の物語であると気付けば、その世界が我々の中にリアルに、アクティブに展開され、我々は知恵を得、神の力が流れ込んでくるのを感じるだろう。
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