ジョセフ・マーフィーの成功法則
さて、昨日はエド・マーフィーの法則であったが、本日はジョセフ・マーフィーの成功法則である。
私は、もともと、ひきこもりのニートで、今でも決して成功者ではないのだが、周りからみれば、「それで勝ち組でなくて何なんだ」と言われる状況にまではなっている・・・らしい(笑)。そうだとしたら、その大きな要因は、19歳のニート時代、ジョセフ・マーフィーの本を読んだからだというのは間違いない。
また、私の知る、成功している経営者の社長室や執務室に入った時は、そこの書棚にマーフィーの成功法則の本が1冊あるのをよく見た。
ジョセフ・マーフィーの成功法則に書かれていることは本当のことかと聞かれたとしたら、間違いなく本当であるとお答えしたい。
ただし、では、マーフィーの成功法則の本を読み、その通りに実践して、奇跡的な結果を得た人はとなると、ほぼ皆無と断言する。
これらのことは、決して矛盾していない。
また、マーフィーの成功法則自体は本物であるが、これを金儲けに利用する者達がすっかり無茶苦茶に歪めてしまったことで、人々がさらに効果を得にくくしていることも間違いないようだ。非常に残念である。
本当に成功したいなら、ジョセフ・マーフィー自身が書いた本(勿論、翻訳で良い)のみ読むべきである。
それも、1冊に絞って読むことだ。どれを読んでも同じである。最初に手に入れたものを繰り返し読むことだ。
さて、気になった方もいるかもしれないが、マーフィーの成功法則は本物なのに、なぜ誰も実際には成功しないのだろうか?
これに関しては、おそらくはジョセフ・マーフィーの最も初期の本と思うが、「あなたは不安なしに生きられる」という本に書いてある。
マーフィーの成功法則の本の中では、この「あなたは不安なしに生きられる」が最上で、実に素晴らしい本であるのだが、現在は販売されていない。残念である。
確かに、この本は、他のマーフィーの成功法則の本とはかなり異なっている。旧約聖書の「ヨブ記」の解説として書かれており、マーフィーの成功法則の純粋な原理を示している。
マーフィーは、このヨブ記は、インドのヒンズー教の聖典「ヴァガバッド・ギーター」と同じだと書いている。人の心の中の物語であるのだ。
マーフィーはまた、単に「古代の賢者」と書いているが、老子の言葉「口に出すなら見出さない。見出そうとするなら、口に出せない」(一般には「知る者は語らず、語る者は知らず」)を引用するなど、彼はキリスト教のみを重視しているわけではない。
では、なぜ、マーフィーの成功法則を実践したつもりでも、実際には成果を上げられないのだろう?
それは、不思議なことでも何でもなく、当たり前の話であるが、マーフィーも、思考と感情のバランスが必要だと書いている。つまり、精神的成熟がなければ、神の力を発揮できるはずがないのである。
未熟な若者が、大金や高い社会的地位を望んで、自然な形で得られるはずがないし、実際、得た試しなど皆無であろう。もちろん、合法かどうかはともなく、トリッキーな方法で大金を得る若者もいないではないが、それは自然な展開の中で起こることではなく、無理があり、結果として災いとなり、それを得た本人も破綻することに例外はない。
そして、「あなたは不安なしに生きられる」では、精神の成熟について、特に注意深く書かれている。ただ、マーフィーの別の本でも、それはやはり書かれているので、ちゃんと読めば効果はあるはずだ。しかし、「マーフィー法則で得をしよう!」的な本ではそれは全くないので、状況は逆に急激に悪くなるだけなのでご注意願いたい。
現在の日本人の大多数には、マーフィーの成功法則は効果を発揮しないだろう。
それは、いかなる成功法則であっても同じと思う。
その理由は、我が国の人々に徳がなくなってきているからだ。
皆、自分だけ得をしよう。自分は絶対に損をしたくないが、他人はどれだけ損をしても構わないと思っている。いや、はっきり言って、自分さえ快感が得られれば、他人は死んでも構わないと思っている人がもの凄く多いのだ。それが完全にこの国に蔓延ってきた。このままでは、日本の滅びはさして遠くないと思う。
それが嫌なら、一人一人が徳を積むしかない。
徳を積むにはいろいろな方法があるが、食を慎むことが最上の徳でなのである。誰でも出来、お金もかからないばかりか、節約にすらなる。しかし、これを勧めると、大半の人が「そんなの嫌だ!」「人生には食べる楽しみが必要だ」と反発して取り合わない。
だが、食を謹んでこそ、本当の食べる楽しみが得られるのである。
現在の日本人に徳が全くなくなっている原因もまた、国民が破滅的なほどの飽食・美食になっているからだ。
食を慎めば、他のことでも自ずと慎みが生まれ、精神が成長するはずである。
そうすれば、特にマーフィーの成功法則でなくとも、願いは自然に叶うようになる。その時には我欲の実現をあまり求めなくなっており、望みも正しいものになっているはずである。
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