我々の神は慎ましい人がお好きだ
宗教の目的とは、あまり科学的な表現ではないが、一言で言えば人の心を「無」にするものだ。
少し多様に表現するなら、心を極限まで静かにするとか、揺れ動くことのない不動心を得るとか、自我をなくすとか言うのだと思う。
人は、心を無にすれば、神になったと言って差し支えなく、不可能はなくなる。
もちろん、宗教の意義や目的には実に多くのことがあるのだと思うが、それらは全て、無になるまでの段階のことを言っているに過ぎない。無になれば、それらは全て達成されたことになる。
完全に無になるとは、仏教で言う悟りを得ることと等しい。仏教の悟りとは、解脱、即ち、仏になることである。仏教においては、仏は神より上位であるらしいが、一般的には違いはないと考えて良い。無を達成した人が、神であり、仏である。
ところで、人にとって、最も効果的な宗教は民族に伝わる宗教である。
民族の宗教は、その国や地方の気候・風土に相応しく発展したであろうし、生活や仕事の風習、あるいは政治制度の事情を吸収しており、当然ながら、その民族の人間にとっては馴染みやすいはずだ。ひょっとしたら、その民族のDNAに組み込まれた何かと関係するかもしれない。
ただ、民族宗教というものは、国家が国民を支配するための思想コントロールに利用することが多く、その点はやっかいなのである。
我が国では、明治時代に政府が、元々宗教でも何でもない神道を国家宗教とし、国民の思想統制に大いに利用した。だが、国家神道は、もともとがまがい物であり、不自然であった上、戦後に否定されたので、現代の我々に影響はないと思う。だが、神道自体が滅びたわけではなく、その反対に、まるで空気のような自然な存在として残った。これは、宗教というなら、世界でも稀な純粋で美しい宗教と思う。今でも、神道の専門家を称する者達がおかしな独断を述べることもないでもないが、神道の根本は古事記のみであり、これは神話なので確定した意味はない。古事記をルーツとした、各地方の神話・民話も大いに尊重し、大切にしたいが、同じく確定した意味付けをすべきではない。
神道は、やはりはっきりと宗教とは言えないが、中国の道教と似たところもあると思う。しかし、むしろアメリカインディアンの宗教と似ているように思う。
インディアンは、アメリカ国家により、彼らの本当の宗教を禁止されたのは、日本のように、偽物の宗教をアメリカ国家に禁止されたのと正反対で不幸であった。しかし、彼らは自分達の宗教を捨てなかった。この点、神道と同じく、やはり本物の宗教であったのだと思う。
神道は日本政府によって、インディアンの宗教はアメリカ国家によって試練を受けたが、いずれの場合も、試練を経ることで強く純粋になった。
それはキリスト教も同じと思う。しかし、キリスト教は世界宗教となったが、これはどうかと思う。我々日本人にも、当然学ぶべき点は多いが、やはり日本人には合わない部分は多いのだ。アメリカの企業では、公式ではないにせよ、社員、あるいは、幹部になるにはクリスチャンであることが条件である企業は結構多いと思う。日本企業が提携するにあたり、やむなくクリスチャンになった、日本の提携企業の幹部、あるいは、担当社員も実は多い。
尚、いかに日本人にキリスト教が向かないとは言っても、それは人それぞれである。日本人でありながら、キリスト教に向く人も多いに違いない。プロレスのジャイアント馬場さんは熱心なクリスチャンであった。彼は常に十字架を背負うような役回りがあったが、それが向いていたのかもしれない。
アメリカのように、キリスト教を驚くほど前面に出し、誰もそれに逆らえないほどの徹底振りは疑問がないはずはないが、それは論じてどうなるものでもない。例えば、大統領になる者が、自分は仏教徒であると言って聖書での就任宣誓を拒むなど、絶対に考えられない。これは黒人や女性が大統領になるどころの話ではない。キリスト教、恐るべしである。
日本人には、仏教徒であったのが道教に転向したり、あるいは、キリスト教に入る者もいるが、それは、国家権威と結びついた仏教や、形式化した仏教に嫌気がさした場合が多いのではないかと思う。神道は、むしろ本格的に志した場合は国家神道のイメージが現われてくる。
神道は空気のように考えれば良いのだ。教祖も教義もない。戒律もない。ただ古事記と祝詞があるだけだ。しかも、それらに一定した意味はない。
さて、先程も書いたが、人間は宗教的な意味で無になれば不可能はない。
人間に不可能はないことは、潜在意識の法則などで言われる通りなのであるが、あくまでも無になるか、それに近い状態になることが必要だ。完全に無になるのは、恐らく無理だと思うが、そこそこにまで達すれば、必要であれば千万、億の金程度なら何でもないと思う。
だが、我々日本人にとって、キリスト教的、ユダヤ教的なやり方ではうまくいかない場合が多い。ジョセフ・マーフィーは、宗教の別は関係ないとよく書いているが、あれは明らかにキリスト教を基本としている。我々日本人には、あからさまに他人を祝福するような習慣はないのだ。
神道では、罪・穢れを祓うことで無になる。しかし、その状態では、普通、欲望はない。日本では、文字通り、欲望を捨てれば不可能はなくなるのである。これをはっきり言っていたのは、私も何度もお逢いしたことがある政木和三さんだ。
よほど日本人離れしてでもいない限り、自分が豪邸に住んでいるとか、高級車に乗っている姿などイメージしないことだ。
もし、大きな家が欲しいなら、貧しい人たちに奉仕するためにそれを使うことを考えた方が良い。それが嫌だというなら、ただ貪欲で豪邸を求めているだけで、決してそれを得ることはない。
我々の神様は、慎ましい人がお好きなのである。
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Comments
なるほど全くその通りだと思いました。
「面白い!」というのが読後第一声です。笑
>宗教の目的とは、…一言で言えば人の心を「無」にするものだ。
というのは、まあ絶対説とはいえないまでもそうだよなあと思います。
日本の民族宗教というと、…アニミズムかしら?なんとなく、「千と千尋の神隠し」は、とても日本色?というか日本らしさを感じます。それは、仏教徒の日本人もキリスト教徒の日本人も感じることなのではないかと思うのです。
ただ、そう考えると日本て、国民が団結する手段というものが思想において虚弱だなあとしみじみ感じるわけです。皇族でも、戦時と平時では重要性が(何ていうか精神的な支えとしての意味で)…昔と今では、という言い方でもいいと思いますが…大分落差がありますよねえ。
>キリスト教、恐るべしである。
日本(人)では到底考えられないことだと思うのは、やっぱり「常識」が違うからですよね。当然ですけど。私もアメリカ国民であり、キリスト教徒であれば、ハロウィンやクリスマスは「イベント」ではなかったと思います。
ただ、キリスト教、アメリカ(社会?)に限った話ではなく、信仰心というのは、それを持たない人にはちょっと…考えられないような(決して嫌な意味ではなく)「常識」や「信条」を持っているものだと思いますね。
実は、後期、大学で宗教に関する講義を受講しておりました。その講義の最終目的は、「新たな宗教をつくろう」というものでした。面白かったんです。ただ、やっぱり宗教というのは、所謂オウム真理教のような「新々興宗教」や、天理教のような「新興宗教」を含めて、(あまり)良い印象を抱いていないというのが、受講生の一致した意見でした。やっぱり宗教は怪しいもの、というのが少なくとも今の日本人の持つオーソドックスな意見なんですね。と思うのです。
なんにせよ、Kayさんの書かれる文章は大変面白くて魅力的なのです。
や、そういう話です。笑。
>我々の神様は、慎ましい人がお好きなのである。
なるほど!!格好良い!!(間違った解釈である。)
およよ、大変長くなりました。
乱文、悪しからずです。桜庭翔澄でした。
Posted by: 桜庭翔澄 | 2009.03.22 03:06 PM
★桜庭翔澄さん
久々のコメント、ありがとうございます!
春ですね~♪
で、まずはここから・・・
>>我々の神様は、慎ましい人がお好きなのである。
>なるほど!!格好良い!!(間違った解釈である。)
わいはいつでもカッコええ~♪(ケロちゃんの声で読んで下さい)
どうもCCさくらを見直すようになってから、ケロちゃんと同化してきています。180cmだった身長も、今45cmくらいになりました(笑)。
>ただ、そう考えると日本て、国民が団結する手段というものが思想において虚弱だなあとしみじみ感じるわけです。皇族でも、戦時と平時では重要性が(何ていうか精神的な支えとしての意味で)…昔と今では、という言い方でもいいと思いますが…大分落差がありますよねえ。
日本人は、団結して外部の敵と戦うというのは、本当は似合わないように思います。
天皇をことさらに神とする国家神道は、確かに、天皇の権威を利用した国民の団結を計りました。でも、無理があったと思います。
日本人って、基本的に共生思想・・・共に生きるなんです。何でも受け入れてしまうのですよ。
特に、自然との関係がそうで、西洋のように「自然を征服する」なんて決して言いません。自然と共に生きるのが神道です。
西洋では、深い森といえば、魔物が棲むと相場が決まっていますが、日本では、森は神聖なものとして大切にしてきました。
深森聖良って名前は凄いのです。キリスト教でありながら、神道的な名前です。そのうち、立川先生に質問してみよう・・・。
>日本(人)では到底考えられないことだと思うのは、やっぱり「常識」が違うからですよね。当然ですけど。私もアメリカ国民であり、キリスト教徒であれば、ハロウィンやクリスマスは「イベント」ではなかったと思います。
キリスト教の結婚式では、お互いに愛を誓うのではなく、神様に誓うというのは、よく考えれば非常に奇妙です。
キリスト教徒社会では、相当な悪者でも、「神に誓って嘘は言わない」と宣言すれば、本当に嘘は言いません。
彼らは、神との契約というものをとても恐れています。でも、言い換えれば、人を信用していないということでもあるのです。
彼らは、神を仲立ちとしますので、確かに団結力あります。
新しい宗教ねえ(笑)。
日本人は、あからさまな宗教は確かに不向きです。神道は、空気のようなものです。もともと宗教ではないと言って良いものです。
あえていえば、神道は自然崇拝と思います。自然と共生する中で、自然を恐れ、自然に感謝し、自然に神秘を見出し、外部の自然と自らの魂との感応を感じ取ったのだと思います。
ああ・・・すいません。私も全然勉強不足だし、理解不足なのに、いろいろ言いました。
これからも、いろいろ考え・・・同時に、いろいろ試してみたく思っています。
Posted by: Kay | 2009.03.22 07:02 PM