天道と人道
老子、荘子の教えは、無為自然だ。それは、作為をせず、なりゆきにまかせるということだ。
ただ、無為自然とは、本当に何もしないということではない。
二宮尊徳は、「人間は家が必要だし、着るものも必要だ。作為なしには生きられない」と言う。
田畑を自然にまかせておけば、荒れ果ててしまう。それが天道であるが、そこに人が手を入れて初めて収穫を得られる。それが人道なんだというわけだ。
さらに、老子は家は自然のものではないから壊せと言うのだろうが、それで生きていけるわけがないと二宮尊徳は老子にも反論を唱えている。
二宮尊徳は、天道と人道は違うことを知らねばならないと言ったのだ。老子、荘子の道とは、天道と同じと言って良い。対して、二宮尊徳は人道を説いたのである。
だが、老子だって、本当に何もするなと言ったのではない。それは荘子も同じだ。
以前書いた、私が最も好きなお話を再掲載する。
誰かが、ラマナ・マハリシに、「意図無き行為」について尋ねました。
マハリシは丘に向かい、質問者達もついていきました。
マハリシは、とげだらけの棒を拾い、座ると、とげを切り、ザラザラした葉で表面を磨いて滑らかにしていきました。作業には6時間もかかりましたが、素晴らしい出来栄えに全員が驚きました。
マハリシ達が歩いていくと、羊飼いの少年に出会いました。少年は自分の杖をなくして途方にくれていました。マハリシはあっという間に少年にさっき作った棒を手渡し、通り過ぎました。
これが、行為者であるという自覚なしに行われる行動である。
見た目には、ある人が責任感を持って重要な仕事をしているように見えても、本当は彼は何もしていない。彼は無為自然である。
スポーツだって、最高のプレイをした時、本人は何も憶えていないということがよくある。
また、危機的な状況で子供を救った母親が何も憶えていないとか、いわゆる火事場の馬鹿力を発揮した時も、自分のしたことを憶えていないものだ。
まあ、二宮尊徳も、人道と天道は究極には同じと言ったし、あくまで一般庶民の役に立つように教えたのだと思う。
老子は、聖人は虚であると言ったのだ。虚であれば、その行いは天道にかなう。すなわち、人道と天道は一致を見るのである。
だが、つくづく、聖なる教えは難しいものだと思い知った。
二宮尊徳の「二宮翁 夜話」を読み、私も思わず悩んでしまったのだ。
我々凡人は、あまり深い教えをうかつに扱わない方が良いのかもしれない。
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Comments
Kayさん初めまして。
私も作為など意味がないということを最近つとに感じます。
そして、小食ということも行ってみて初めてその重要さに気づきました。これは行わなければ分からないという他ないと思います。ただ行うということの重要さ、有り難さに気づかせていただきました。ありがとうございます。
Posted by: ニキータ | 2009.03.11 02:26 AM
★ニキータさん
はじめまして。
をを!素晴らしいですね。
私は、まだまだ作為を卒業できません。
いえ、立派な作為を行えるようになるだけで、一生を終わるかもしれませんが、せめてそれくらいは達成しようと思っています。立派な仕事をできるようになるといったことを目指すことになると思います。ただ行えれば良いのですけどね^^;
Posted by: Kay | 2009.03.11 09:50 PM