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2009.03.09

「自助論」は自力か他力か

明治時代に日本に入ってきて、いまだ熱心に読まれている修養書に、サミュエル・スマイルズの「自助論」というものがある。
この自助論は、著名な物理学者だった竹内均さんはじめ、本田健さん、斎藤孝さんといった人達が翻訳・出版していることからも、そんじゃそこらの自己啓発書でないことが分る。
また、自助論を初めて翻訳した明治時代の啓蒙思想家、中村正直のものも、当時のタイトル「西国立志編」のままで現在も出版されている。
さらに、スマイルズの啓蒙書は他にも数多くあるが、だいたいが自助論に似ていると思う。

ここで自助論の感想など書く気はないが、とにかく、自助論という言葉自体が面白い。
自助論とは、「神は自らを助ける者たちを助ける」という、有名なベンジャミン・フランクリンの言葉の引用と思う。
ちなみに、「時は金なり」もフランクリンの言葉だ。他にも、誰でも知っているような警句にフランクリンのものが結構ある。

で、この言葉の何が面白いかというと、仏教で言う、自力と他力の混合であるところだ。
法然や親鸞の教えは「絶対他力」と言われ、他力にさらに絶対が付く。自分の力など、全く必要とせず、効力も無いといったものだ。「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば、いかなる人も極楽浄土に行くことが出来るが、それは阿弥陀如来の力により可能となることで、全て仏様におまかせしておけば良く、自分で努力する必要はないというものだ。それどころか、自分の力を頼むことは念願の妨げにすらなると言われる。
一方、禅宗や真言密教等は自力の仏教で、厳しい修行の末、悟りを開き、解脱するというものである。
法然や親鸞は、自分は能力もなければ、修行もままならない凡人であるが、仏様のお力にすがって極楽浄土に行くのだと宣言していた。もっとも、彼らの学識や修行振りは実際は凄いものであった。法然は、その「南無阿弥陀仏」の念仏も、1日6万回をノルマに実践していたらしい。まあ、それでも、彼らは自分に、どうしようもない煩悩を強く感じて、自力での悟りなど全く不可能だという自覚があったのだとは思う。なんとも謙虚である。

明治、大正の時代、「岡田式静坐法」で一世を風靡し、現在も熱烈な心棒者を持つ岡田虎二郎もまた、静坐は絶対他力と言っていた。その点、法然や親鸞の念仏と同じとし、岡田虎二郎自身、法然を大変に賞賛していた。
神道においても、春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんの著書を読む中では、神道もまた他力であると思う。神道に修行はなく、正しい心構えでいれば、神様は必ず良いようにして下さると言う。ただ、葉室さんは努力の重要さも主張しておられるので、その点、「自助論」に近いところがあると思う。
対して、岡田虎二郎は、自らの努力振りは客観的にはやはり凄いが、努力、克己(こっき。欲望を抑える強い自制心)の人間を高く評価していなかった。
そして、道(タオ)の教えである老子、荘子となると、努力や克己など笑い飛ばすであろうと思う。
岡田虎二郎が道(タオ)や老荘を引用した話は私は聞いたことがないのだが(大して多くの記録は見ていないが)、彼が崇拝した釈迦、イエス、ソクラテス、孔子、二宮尊徳らより、むしろ、彼の思想はタオイズム(道教)と同じと私には思える。
タオイズムでは、タオは努力したり修行したりして得られるものではないし、努力により、タオの援助を受けるわけではない。無為自然となり、己を虚にすることでタオと一体となるのである。
二宮尊徳にいたっては、老子の教えを批判する文章すらあるが、おそらく彼は一般の農民に対しては、老子のような無為自然の教えは、究極的には正しくとも、誤解を生むと思ったのかもしれないと思う。

尚、先程、神道に関して、努力が必要と書いたが、実際は、神道は罪、穢れを祓うところに本筋があると思う。
罪とは「つつみ(包み)」であり、神性を包んで隠してしまうもので、穢れとは、神の気を枯らすものであり、これらを除くということである。簡単に言うと、浄化の教えである。
浄化のためにはどうするかというと、古事記ではイザナキは黄泉の国から帰還した際、水で穢れを祓った。この水とは海水と考えて良い。海水で身を清めるというのでも良いとは思うが、私は、水で清め、塩を摂取するのが良いと思う。塩とは、食卓塩ではなくマグネシウムを含む天然塩である。塩はエネルギーを高める。政木和三さんも、疲れたときに少量の天然塩を口に入れれば回復すると言っておられた。
そして、大祓詞(おおはらえのことば)という祝詞を上げれば良い。意味など考えず、ただ、この美しい大和言葉を無心に言葉に出せば、日本人のDNAが反応し、穢れは祓われると思う。また、古事記を読むと良い。日本人がこれを読むことで、神話の奥に秘められたものが光となると思う。丁度、かぐや姫が常に精妙な光を発し、彼女を育てたおじいさんがいつまでも若々しく、むしろ若返ったようにである。

そして、穢れを払い、道(タオ)と一体になるには、自我が邪魔することが多くある。
自我、これは、心と言って良いが、これは静かでないといけない。
努力し、自らを自分で助けようとすると、自我が強く前面に出てくることとなる場合が多く、たとえ何かを達成しても、自分を誇ることで、心がますます自らを主張することとなり、それが穢れとなる恐れが強い。
老荘では、自分の業績を誇ることを最も強く戒める。冷静に見れば、例えば、スポーツで大きな成果を上げた者の大半は醜いのだ。
神は自らを助ける者たちを助けるという教えは決して悪くはないが、過度にならぬよう注意し、後は他力の教えに従った方が良いと私は考える。

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