« February 2009 | Main | April 2009 »

2009.03.31

神は老獪であるが悪意はない

アインシュタインは「神は老獪である。だが悪意はない」と言ったが、最近、この言葉が身にしみる。
「老獪」とは難しい言葉だが、辞書によれば、「経験を積んでいて、非常に悪賢いこと」とある。
悪賢いとは良い言い方ではないが、良いことより、悪いことをやる方が頭の良さが必要というイメージは確かにあるだろう。
そして、悪意はないのだから、神様は悪いことのように見えて、実際は良いことをしているのである。

神様は、どんな人間にも、「一見、いやな出来事」を起してみせるのではないだろうか?
それも、絶妙なほどの嫌な出来事である。多くの場合、最も関わりたくないタイプの人間に嫌というほど関わりを持たされる。
もし、この世に神様がいるなら、神様とはなんと嫌なやつと思いたくなるかもしれない。

それは、家から一歩も出ないようなひきこもりであっても、親あたりが、その嫌な人間の役になるものだ。
夫婦の場合は、ほぼ確実にお互いが嫌な相手と思うものだろう。よって、そのままでは離婚するのが普通だ。

そして、嫌な相手とは、自分の心の反映であることが理解され、咎めるべき相手などいないことが分れば、人生が一段、楽しくなるのだ。
簡単に言えば、どんな相手も決して非難しないようになれば一人前ということであると思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

2009.03.30

職業成功の基本

およそ、どんな職業であっても、成功した人で、その者が、その分野のパイオニア(先駆者)であった場合は異なるかもしれないが、その職業の歴史に通じていない人というのは見たことがない。
例えば、画家であれば、筆や絵の具や画法がどのように進化し、その中で特筆すべき貢献をした人が誰で、それがどのような貢献であったかである。そして、一流の人は、そういった先駆者に感謝しているものなのだ。
スポーツでも、例えば一流の野球選手であれば、野球の歴史について、実名をあげながらいつまででも話せるものだろう。

私もコンピュータソフト開発の中でも、特にパソコン用ソフトの開発で食べてきた者として、ビル・ゲイツには大変に感謝している。彼が、マイクロソフトの最初の仕事として、世界初のマイクロコンピュータ「アルテア」用のBASIC(ベーシック)言語を開発し、その普及に努めたこと、そして、パソコンを誰にでも・・・ビル・ゲイツのかつての表現によれば「僕のおばあちゃんにでも」使えるものにすることを目指さなければ、パソコンは現在のものとかなり異なり、パソコンソフト市場もこれほどに大きくならなかったはずだ。
ビル・ゲイツの成功の根本はBASIC言語である。彼自身、かつて、コンピュータ業界における自分の最大の貢献はアルテア用BASICだと言っていたくらいである。そして、現在にまで続くVisual Basic(ビジュアル・ベーシック)言語も、ゲイツの画期的アイディアがあったから成功したのである。
そして私は、ゲイツ以前に、BASIC言語そのものを発明した、ジョン・ケメニーとトーマス・カーツという、2人の数学者に感謝している。2人は、ダートマス大学の数学教授であったが、文系の学生にプログラミングを教えるために、科学技術計算用のFortran(フォートラン)言語を参考にしてBASIC言語を作った。そして、2人は、BASIC言語の著作権を放棄して公開した。
※著作権を放棄して公開することをパブリックドメインにすると言うが、日本では法律上、著作権を放棄できないので、パブリック・ドメインにすることはできない。現在のフリーソフトやオープンソースは、普通、著作権は存在している。パブリック・ドメインソフトウェアは、コンピュータのあらゆる発展に大きく貢献した。

ビル・ゲイツは、パブリック・ドメインとして公開されていたケメニーとカーツのBASIC(ダートマスBASIC)をアルテアのCPUであったインテル8080に移植したのである。実際は、作業の多くの部分を、マイクロソフト社共同設立者のポール・アレンが担当したのだが、ゲイツのビジネスセンスがなければ、普及することはなかったと思う。また、ゲイツはこのBASICの8080マシン語コードを暗唱していると語ったことがある。それほどに打ち込めることがあるだけでも幸せであろう。もちろん、彼だって苦しい時は数知れずあった。
しかし、現在、どんな状況であっても幸せに過ごしてこそ、未来も幸せであるのだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.29

神が存在するかというのは愚問である

神を信じるかなんて、私にはおかしな質問だ。

神がいないなら、人間がいるはずがない。
だって、もし神がいないなら、人間は偶然に出来たことになる。
それは、サルがインクと紙でデタラメに遊んでいたら、偶然にエンサイクロペディアの百科事典ができたっていうのと同じくらいすごい偶然だ。
まあ、そんな偶然もありと考えるなら、神がいなくても人間ができるのかもしれないけどね。
それって、分子を1としたら、分母をどんな数にすればちっとは近い確率と言えるだろう?
砂浜の砂の数でも、いやいや、地球上の砂全部を合わせた数でも全然足りないと思う。地球と太陽との距離をミクロンで表した数字でも話にならないだろう。

後は、神をどのように考えるかだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.28

能力がないからニートだという現実

電車に乗って、乗客の顔を見回すと、人間には2種類いることが分る。「何か考えている人間」と「何も考えない人間」だ。
もちろん、ほとんどの人間は何も考えていない。
考えない人間でも、脳神経の一部を使って反応くらいはしている。例えば、携帯メールをするとか、ゲーム機で遊ぶとか、スポーツ新聞や雑誌を読むごときは、考えているのではなく、反応しているだけだ。小説でも、大半の人間はほとんど考えずに読んでいるものだ。

現状を抜け出し、望ましい状況になるには、まず考えないといけない。
学校の勉強や、ハイレベルでないスポーツと異なり、行動だけでは何も達成できない。
何も考えずに行動するやつが一番恐いんだ。味方に鉄砲を撃つ兵隊のようなものだ。それくらいなら、何もせずに考えるだけの方がまだ良い。だが、ある程度は行動しないと、考えることもしなくなるので、考えるだけというやつは意外に少ないんだ。
ひきこもりだって、何もしないのが悪いのではなく、有益なことはせずに、ゲームしたり、アニメ見たり、ネットしたり、あるいは、家族に暴力振るったりするのが問題なんだ。何も考えないと、こういったことしかできないんだ。
下らないことをするよりは考えることだ。

ジャイアント馬場さんという有名なプロレスラーが、アメリカで修行していた若い頃、ほとんどのレスラー達が移動中のバスや電車や飛行機の中で寝ている中で、バディー・ロジャースという超人気レスラーだけは、ずっと何か考えているのを見て重要なことを悟ったらしい。
ロジャースは凄く人気があったので、プロモーター達からひっぱりだこで、VIP待遇だった。年棒も1960年の頃で1億円とも言われている。ロジャースがあまりに忙しく、また、ギャラが高額過ぎて、日本に招聘することができなかったらしい。ロジャースは実際に強かったが、強いというだけなら全くひけをとらなかった他のレスラーより成功したのは、やはり考える力の差だと思う。
馬場さんはロジャースに憧れていたし、自分が大物になってからも、インタビューの度に、ロジャースこそ最高のプロレスラーだと言っていたというのは有名なことだそうだ。

ひきこもりの私より能力が高く、対人関係もうまくこなせる多くの人達が失業したり、ニートをやっている中で、私は失業したことはないし、他の人に負けるような収入ではない。
私は、セールスの仕事についた時は、1日中、セールスのことを考えていたし、コンピュータソフト開発をやるようになったら、1日中、ソフト開発のことを考えていた。他の人は、仕事中すら、実際は何も考えていないんだ。食べ物や遊びの安っぽい記憶に脳内で反応しているだけだ。
それ以前に、ニートだった頃は、お金を稼ぐことを1日中考えていた。それで、20歳でニートから抜け出せたのだ。
学生の時やニートの時は何も考えていなかったんだ。
だが、ニートだった19歳の時、ジョセフ・マーフィーの本を読んで、考えることの重要さを知ったのだった。
ニートから抜け出せなくて悩むくらいなら、金を稼ぐことを1日中考えるのだ。
自分の欠点をあれこれ悩むのではなく(それも、単なる習慣的な反応だ)、働くとか、稼ぐことを考えるのだ。
最初はロクな思考はできない。能力がないからだ。しかし、やってるうちに能力がつくはずだ。
性格に欠点があったり、あるいは、何か特別な能力や信念があるからニートになるんじゃないんだ。単に能力がないからニートなんだ。

これは別に、ひきこもりやニートだけのことじゃない。
今の学校や会社が嫌なら、ぐじぐじ悩んでばかりいないで、どうすれば良いか毎日1日中考えるのだ。何週間も何ヶ月も。
別段、プラス思考だの、ポジティブ・シンキングとかでなく、想像力を使って考えろということだ。
本当に考えていれば、ある程度の期間が過ぎれば、必ず解決策は出るものだ。それは、経験上、全く明らかだ。
それで人生変わるんだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.27

「マッチ売りの少女」のニューソート

「マッチ売りの少女」のニューソート(新しい解釈)である。
私は、アンデルセンの伝記は熱心に読んだ。確かに、アンデルセンはマッチ売りの少女のような境遇の子供を沢山知っていたようであるが、アンデルセンが、ただ、悲惨な女の子の話としてこれを書いたとは思えない。
実際、「マッチ売りの少女」は、表面的に読むと、全く童話ではない。単に児童虐待のドキュメントのようだ。

「人魚姫」の解釈については、アンデルセンが自分を人魚姫に投影したことはよく言われる。
しかし、「マッチ売りの少女」に関しては、緊迫感や悲壮感のせいもあり、お話の表面だけで読者は胸がいっぱいで、あまり著者の特別な意図が推測されることはなかったと思う。

死んだマッチ売りの少女を見て、人々は哀れんだ。
しかし、アンデルセンは、少女が見た美しいものを誰も知らないのだということを強調していた。
それはなぜだろう?
死んでしまった子が、死の前に美しい幻想を見たことが、なぜそれほど重要なのだろう?
そして、少女は微笑んでいたのだ。

「マッチ売りの少女」と似たところのあるお話として「フランダースの犬」がある。
こちらは、ネロ少年の正直さや、パトラッシュの忠実さに心を動かされて、やはり物語の奥が見えにくい。
しかし、ネロ少年もまた、微笑んで死んでいた。彼は自分を不幸と感じていないようであった。
実際、この2つの物語は共通点が多いが、その解釈には我々日本人の感性あるいは英知が必要で、実際、「フランダースの犬」は、その舞台ベルギーや、著者ウィーダの祖国イギリスをはじめ、ほとんどの国でさほど評価されていないと聞く。

「マッチ売りの少女」の意義は、イエスの最後に匹敵するのだ。
今なお崇拝者の多い、南インドの聖者ラマナ・マハリシは、キリスト教の意義をこう言う。
「自我であるイエスが肉体である十字架に磔にされて滅び、キリストが復活した」
見事な解釈であるが、「マッチ売りの少女」も「フランダースの犬」も同じなのである。
あるいは、旧約聖書のヨブ記にも似ていると言える。
マッチ売りの少女は、極寒の中、薄着でマッチを売りに行かされる。
あやうく馬車に轢かれそうになり、母親の形見の木靴は持っていかれてしまう。
誰もマッチを買ってくれないばかりか、売り込んだ大人達に冷淡にあしらわれる。
少女は寒さと飢えに苦しむ。
しかし、彼女は誰も恨まなかったのだ。
それは「フランダースの犬」のネロ少年も同じだ。
アロアの父親に不条理な仕打ちを受け、おじいさんが死んで住処を追い出され、期待していた絵画コンテストでの優勝を逃し、八方ふさがりとなる。
それでもネロは誰も恨まず、拾ったコゼツの財布を返し、せめて老いたパトラッシュの今後の世話をしてくれるよう頼んだが、自分は空腹を抱えて吹雪の中をただ歩く。
パトラッシュは与えられた食事にいっさい口をつけず、スキを見て部屋を飛び出し、ネロを探す。
立ち上がる力もないネロとパトラッシュの前に月の光が差し込み、ルーベンスの絵を照らす。光が闇を消し去り、真理があらわになったのである。
マッチ売りの少に女は、現実と何ら変わらない想像の力が示された。
2人は死んだのではない。復活したのだ。キリスト教的にはキリストとして。
イエスも言ったではないか。「死に打ち勝つには、ただ死ぬしかない」と。
2人の微笑みは成就を現しているのである。
W.B.イェイツは言った。「愛は神の領域であり、我々は愛を理解できない。しかし、人の領域である憎しみは理解できるので、憎しみをやめることはできる。それで天の報恩に至る」と。
2人は憎しみや恨みを持ったとしても、誰にも責められないような状況であったが、そんな感情は少しも起こさなかった。
そして自我が消滅し、自分の内にあるものを知ったのである。

我々もまた、同じことができる。
食を十分に慎めば、やがて我欲が少なくなり、自我が静まる。
そして、想像の力が高まり、いつかは知る。世界が自分のものであることを。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.26

「古事記」のニューソート

最近、アメリカで始まったと言われる、ニューソート(New Thought)に興味を持ち始めた。
ニューソートという言葉は昔から知っていたが、詳しくは知らずに、何かいかがわしいものという印象があった。

ニューソートとは、直訳では「新しい解釈」となるが、実際その通りで、聖書を伝統的な権威ある解釈にとらわれることなく、その奥に秘められた真の意味を解明しようというものだ。
いわゆる独自解釈というだけなら、もともとが意味不明な感のある聖書であるから、さぞや独断に満ちたものになると思われるのであるが、多くの人々の支持を集めるものでは、不思議なほどにそうではない。

昔、エマニュエル・スウェーデンボルグという万能の天才でもある神秘家の著書で、「聖書を正しく理解するには、霊的英知が必要だが、現代人にはそれがないので、表面的な言葉通りの解釈しかできない」と書かれていたのを思い出す。なるほど、それがニューソートなのだと思う。実際、ニューソートの源流はスウェーデンボルグであるらしい。
そして、私が最高の思想家と思っているラルフ・ウォルドー・エマーソンもスウェーデンボルグの影響を受けたニューソートの思想家とも言われている。
現在では忘れられてしまっていることが多いが、明治・大正の偉大な思想家であり、岡田式静坐法で知られた岡田虎二郎も、エマーソンを通じて、スウェーデンボルグの影響を受けているとも言われている。
私がニートから抜け出せるきっかけとなった本の著者であるジョセフ・マーフィーもまた、人気のあるニューソートの牧師である。

聖書のニューソートはアメリカでは大きな運動となったが、我が国でもありえる。
それは「古事記」の霊的な解釈である。
アメリカでは、優れたニューソート思想家による聖書の理解は、伝統的で権威ある聖書解釈をはるかに超えたと思うが、我が国でもそのようなものが現われるかもしれない。
ただ、「古事記」に関して、我々日本人にはニューソートは無用かもしれない。ただ無心に読めば、日本人であれば、誰にでもその深い意味は感得できるはずだ。むしろ、妙な解釈を知らない方が良いくらいである。
西洋では、権威者が聖書を歪めてしまったので、ニューソートの運動が必要であった。我が国でも、一時、国家神道としてやはり同じようなことが行われたが、現在ではその影響はほとんど無いと思われる。
しかし、現在の日本人は徳を失ってしまい、日本人本来の英知を失ってしまっている。もしかしたら、もう古事記を理解できないくらい、堕落しているかもしれない。だが、食を慎みさえすれば、確実に霊的英知を取り戻せるだろう。逆に言えば、食の慎みがなく、飽食・美食であれば、古事記もただのヨタ話にしか感じないのである。そして、徳はさらに衰え、英知は欠片もなくなり、日本の破滅は必然となる。
だが、心配無用だ。ただ食を慎み、古事記の神話に触れた者から徳を取り戻し、平和と豊かさを得るのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.25

地球外文明は存在するか

私は、小学5年生頃、地球外知的生命体や地球外文明が存在すると考えることが科学的だと思うことになった。
その根拠は、宇宙は果てなく広く、無数の銀河のそれぞれに想像もできないような数の恒星があるのだから、生命が発生し、発達する条件に合う惑星もまた、相当な数になると考えても良いと思ったことだった。
しかし、最近では考え方が変わった。
もし、生命が偶然に発生するとしたら、その偶然に発生した生命が、さらに偶然に人間のように進化する可能性は極めて低いだろう。問題は、その確率の低さがどのくらいのものかだ。
例えば、サルがインクを紙にぶちまけ続けたら、偶然に広辞苑になる可能性は、極めてわずかだろうがあるかもしれない。しかし、その可能性はあまりに少ない。
知的生命が偶然に発生する可能性もそんなものと思う。
やはり、地球に生命が誕生し、人類にまで進化したのは、何らかの意思の作用があったと考えられる。
春日大社の宮司であった葉室頼昭さんはよく本に、地球以外の膨大な星達は、地球に人間が誕生するために必要だったのだと書かれていたが、まだその考え方の方が良いと思う。
尚、仮に、地球外文明があったところで、人類がそれと接触できる可能性はほぼ全くない。それは、距離の問題だ。その星との距離が、想定できる最小のものだとしても、人類も、他の星の知的生命体も、その距離を越えることはまず絶対にない。その距離を想像するのに、我々の常識は全く役に立たない。それほど常識外れの距離である。
例えて言うなら、水泳の達人なら、本州と四国の間を泳いで渡れるかもしれない。しかし、太平洋の100万倍の広さの海であれば、泳げるかどうかなど、考えるだけ馬鹿馬鹿しいだろう。宇宙の広さとは、そういったものなのだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.24

日本人に夢は不要

成功セミナー、自己開発セミナーに行くと、強制的に目標設定をさせられる場合が多く、これが苦痛だった。受講生は「3億円の豪邸」だの「独立起業」、「年収3千万円」、「セールスコンテスト優勝」といった、下らない目標を書くこととなる。下らないと言って悪ければ、国家や大企業に洗脳されていることを証明するような目標ばかりで、脳機能学者の苫米地英人さんがよく著書に書かれている言葉で言えば、「奴隷の目標」である。
西洋式の能力開発というのは、経済至上主義社会のマインドコントロールが根底にあり、人々がより多く儲けることで、国家経済を強力にしようという目的に合致しない夢や目標は、甚だイメージが低くなるよう仕組まれている。

日本人は、元々、目標なんて持たないものなのだ。
強いて言えば、ただ生きることが目標だ。予測のつかない自然と密着して生きてきた我々の祖先は、自然の背後にある神秘なものを崇め尊び、自己を律しながら、平穏無事に生きることを願ったのである。不必要な願望を持つような機会も余裕もなかった。
だが、それで人々は、楽しく、充実して生きていたのである。

そんな生き方で生き甲斐があるのかなんて思うのは、やはり、国家や大企業に洗脳され、日本人らしい情感を失っているからであると思えてならない。
自然は驚くほど豊かで多彩だ。それに付き合って生きることは、人生を数百回繰り返したところで飽きるものではなく、日々、新しい発見の連続であるはずだ。
日本人は、そんな中に、独自の思想、価値観、あるいは宗教や芸術を構築し、そのあまりの深遠さ精妙さのため、西洋人が少々見たくらいでは全く理解できないが、外国人であっても英知の閃きと共にこれらを見た者はすっかり惹き込まれ、深く関わり、修得し、本国に持ち帰ろうとする(モノだけでなく精神を)者も少なくはない。
日本人が本来持っていた英知は、別に自然の中で生きることにばかりあるわけでもない。
いかなる日々の生活にも面白さが潜んでいるのだ。何かエキサイティングなことが起こることばかりを期待したり、そのようなものを外に求めて回るのは、感性がない証拠である。

教育テレビのある番組で、20歳前後の若者が、「今の社会は夢が持てない。僕には目標がない」と不満げに言った。
目標や夢なんていらないのだ。彼はただ「良い奴隷になりたい」と言っているに過ぎないのだ。
日々、立派に感謝しながら生きられれば、それ以上、何を望むというのだろう?
「エル・カザド」というアニメで、マフィアのナンバー2のボスがこう言う。「毎日3食たべられれば天国だ」。アニメとはいえ、実に自然に感じたものだ。

世の中で大成功している人というのは、案外に目標や夢なんて持っていなかったのだ。
そのおかげで、国家や大企業に洗脳された「奴隷の目標」を持たずに済んだおかげで、人に見えないものが見えたので、たまたまではあるが成功したのだ。
「せめてタバコくらい吸えるようになりたい」と思って大企業を作った経営者もいた。
目標を持つとしても、それは無理に決めるようなものではない。
本当の目標や夢とは、偶然としか思えない些細な出来事の中で、目にし、耳に届いたものがきっかけになるものなのだ。
アルベルト・シュバイツァーが、成功した音楽家や学者でありながら医者になることを決心したのは、やはり偶然に見たアフリカ原住民の惨状を伝えるパンフレットからだった。

春日大社の宮司であった葉室頼昭さんは、「およそ、自分がこうしたいという目標を持ったことはなかった」と言う。
葉室さんは、最初、東大の農学部を目指していたが、大阪のお医者さんのところに嫁いだ姉が、「大阪に知り合いがなくて寂しいので、大阪で医者になって、夫の病院をついで欲しい」と言ってきたことがきっかけで、大阪大学の医学部に入る。大学卒業が近付いた頃、先天的な身体の醜状をもった患者を見たが、日本でそのような患者を治療する形成外科がほとんどないことを知り、密かに形成外科医になろうと思う。しかし、しばらくは外科医をした。だが、偶然に機会を得て形成外科の道に入り、苦労しながらも形成外科医として成長し、63歳の時に、遂に神のごとき完璧な手術ができるようになる。しかし、65歳の時に、春日大社から宮司になるよう依頼され、それを受ける。
葉室さんは、全て神様の導きに従って生きてきたという。

我々の願いは、平穏無事な日々を生きることであると思う。
将来の不安もなしに生きられれば、それ以上は望まないはずが、「それではいけない」と思わせたい勢力があるものである。大きな目標がなければ駄目だとヒステリックにわめく声が、いつしか高貴で威厳あるもののように感じるまでに我々は洗脳されたのだ。
昔、竹村健一さんが若者向けの著書に、「1週間くらい食べなければいいよ。そしたら、食べることが一番大事やってことがよく分る」と書かれていたが、まさにその通りである。
私も、1日1食にしてから、やはり食べることが何より大切であることが分った。
毎日、美味しく食事をすることが最も幸福なことであるが、少食にして、食事時に空腹になるようにすれば、何を食べても美味しく、それだけで、人類全てが憧れているはずの幸福が達成されるのである。
そして・・・現在が幸福であることによってのみ、将来の発展があるのだ。ただ、それで大成功するかどうかは神のみぞ知るである。大成功なんてしなくて良いのだ。真の成功者は、平凡だが立派に生きた人を自分より劣るとは思わないものなのだ。
そして、不安なく生きることは難しいことではない。
不要なものを求めなければ、必要なものは与えられる。それが宇宙の法則である。
苦労なんかしなくても、十分な衣食住は誰にでも豊かに与えられる。ひきこもりでニートであった私ですら例外でなかった。
それでも、もし、自分が世に出るべき人間か知りたいなら、分る方法もある。それは、どれだけ多くの人々の幸福を、自分の幸福同様に願えるかどうかだ。
数年前のNHK大河ドラマ「義経」で、義経が「誰もが食べるもの、着るもの足り、家族揃って安心して暮らせる世を作りたい」と言っていたが、これが世に出るべき人間である。心からそう思えないようであれば、自分と家族を守り、他人を十分に尊重して生きれば良いのである。
他人を軽んじたり、美食・飽食をはじめ、欲望のまま貪る心を放置するから、必要なものにも欠き、健康も損ない、不幸になるのである。
幸福になるのは簡単なことで、単に食を慎めば良い。そうすれば、他の条件は自ずと整う。
自分は食を謹んでいるかどうか知りたければ、毎日同じものを食べてみれば良い。例えば、毎日同じカレーライスを食べて、常に美味しく喜びを持って食べられるなら合格であるが、飽きるようであれば食べ過ぎている。オバマ大統領は、毎晩、サーモンとブロッコリーとライスだ。宮崎駿監督は、毎日、同じ1つのお弁当を、昼と夜に分けて食べることを25年以上続けている。

その上で望みがあれば叶えれば良い。幸福であれば、どんな望みも叶う。なぜなら、叶うべきでないことを望まなくなるからだ。その望みが叶うことで、世界は利益を得るのであるから、自然や万物が願いを叶えるだろう。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (5) | TrackBack (0)

2009.03.23

光を取り戻す

私の好きなアニメソングに「愛あるかぎり」というものがある。
わずか2話の「新破裏拳ポリマー」(タツノコプロ、1995年。1話30分)のために作られたエンディング曲だ。
曲、歌、演奏、いずれも抜群と思う。
当時、タツノコプロ社長だった九里一平さんによる詩がまた素晴らしい。
ところで、その中に、妙に平凡に思える歌詞がある。
「この街に光を取り戻す それが俺の闘い」
世界でも、日本でもない。「この街」
生まれ育った街ででもあるのだろうか?
そういえば、小説・アニメの「灼眼のシャナ」でも、闘いは、主人公、坂井悠二の住む御崎市に集中する。坂井悠二は、どんな状況になっても、生まれ育ったこの街への愛着を何度も確認する。
自分の街というものは大切なものに違いない。
自分の国を愛せないことも問題であろうが、まずは自分の生まれ育った街かもしれない。

ところで、「この街に光を取り戻す」とはどういう意味であろうか?
もちろん、各自で異なると思う。
私は、日本人に徳を取り戻させたいと思っているし、それが光を取り戻すことと思っている。
今の日本人は、徳を完全に失くしてしまった。このままでは、日本の滅びは免れない。経済の衰退で滅ぶのではない。徳のない日本に存在の意味はないのだ。
いや、徳そのものが存在の本質なのだ。

徳を取り戻すとは、徳を積むことである。それは功徳という。
難しいことではない。人のためになることをすれば良い。
ある人が、「私は生涯で良いことは何もしなかったが、閻魔様の前では、便所の下駄だけはいつもきちんと揃えたと言うつもりだ」と言った。
ある、優良な企業の社長は、雨の日、傘たてに傘を入れる際、傘をきちんとたたんでから入れることにこだわった。
私の場合、物理的な肉体を持つ我々は、人に道や場所を譲るべきことにこだわっている。
これらが徳なのである。
参考になる本に「パイロットが空から学んだ運と縁の法則」がある。著者は、ジャンボジェットの機長である坂井優基さん。上に書いた「灼眼のシャナ」の主人公、坂井悠二と名前が似ていて面白い。
この本によれば、徳とは、寄付でも良いし、早朝に公園の掃除をしても良いし、仲間外れになっている人に声をかけたり、困っている人に手を貸せば良いことになる。
結果として、得を積めば、運は必然的に良くなる。
日本も日本人も、今は運が悪い。徳がないからだ。
最も簡単で大きな徳は少食だ。運のためにやるというミエミエでも構わない。少食は大きな徳なのだ。
とはいえ、極端な少食は必要ない。腹八分目に食べれば良い。また、美食を慎むことだ。

日本人が徳を取り戻すか、このまま滅びを迎えるか。
いずれかしかないのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.22

一輪の花の命

一輪の花を、心の底から美しいと思ったことがあるだろか?

岡本太郎さんは、戦時中、パリから帰国した時、30歳も過ぎているのに2等兵(最下級の兵隊)として召集され、18、19歳の若者達と一緒に初年兵訓練でしごかれた。そこで、息も絶え絶えの状態で地面に伏せた時に見た小さな花の美しさに、命がしぼられるような感動に震えたと言う。
岡本太郎さんは、命の共感を感じたのだと言う。

白土三平さんの漫画「カムイ外伝」で、抜忍(忍者組織を脱走した忍者)であるカムイは、自分を抹殺するために次々にやって来る追っ手達と戦い続ける日々の中、不運にも流砂に落ち、脱出できなくなる。カムイは死を覚悟した時、一輪のリンドウの花を見て、「美しい」と思う。やはり、命の共感を感じたのであろうか?
(蛇足だが、流砂の中では人は浮くので、実際には死ぬことはない)

命の共感。
極限状態の中で、人だろうが、花だろうが、命に区別がないことを悟るのであろうか?

ややセンチメンタル過ぎる感もあるが、「UFOロボ・グレンダイザー」という昔のアニメのエンディング曲の詩に

地球の緑の若葉のために
ただ一輪の花のために
デュークフリードは命をかける

という部分がある(作詞は保富康午さん)。
「ただ一輪の花のために」命をかけるとは、なんともカッコいい。
なぜカッコいいのかと思うが、やはり、万物の命を区別せず、平等に見ることが美しいのではないだろうか?

「キューティーハニーF(フラッシュ)」というアニメで、キューティーハニーと、双子の妹、ミスティーハニーは最期の決戦を行う。圧倒的有利に戦いを進めるミスティーハニーは、キューティーハニーに突進する中、不意に歩調を変える。進路に小さな花が咲いていたので、それを踏まないようにしたのだ。憎悪に燃える冷酷なミスティーハニーの中にある優しさであった。そして、本当の優しさとは、やはり、命の価値に区別を付けないことではないだろうか?

平等、公平こそ、最高の人格を示す特質であり、最大の美徳である。

今の石原慎太郎さんは知らぬが、昔、石原慎太郎さんと三島由紀夫さんは、「男にとって最も大切な言葉を一緒に書こう」と約束して、同時に別々に紙に書いたが、2人とも「自己犠牲」と書いた。
自己犠牲とは何であろう?
1963年に連載が開始され、同年にアニメも放送開始された「8マン」というSF作品がある。2001年に連載開始された、その続編「8マンインフィニティ」の単行本のあとがきで、「8マン」の原作者の平井和正さんが、「8マン」の絶対的ポリシーは自己犠牲であると書いておられた。「8マンインフィニティ」の中で、敵側の者達が「8マンとは何者?」と議論する中で、8マンを「一人の子供のために、一国を敵に回せる男」と表現した。
小さな一人の子供の命も、巨大な一国に匹敵する。同じことを言っているのが「荘子」の「斉物論」だ。一本の指は天地に等しく、一頭の馬は万物に等しい。
宇宙の絶対的真理である平等、公平のためにいかなる犠牲も払う。それが自己犠牲であると思った。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.21

我々の神は慎ましい人がお好きだ

宗教の目的とは、あまり科学的な表現ではないが、一言で言えば人の心を「無」にするものだ。
少し多様に表現するなら、心を極限まで静かにするとか、揺れ動くことのない不動心を得るとか、自我をなくすとか言うのだと思う。
人は、心を無にすれば、神になったと言って差し支えなく、不可能はなくなる。

もちろん、宗教の意義や目的には実に多くのことがあるのだと思うが、それらは全て、無になるまでの段階のことを言っているに過ぎない。無になれば、それらは全て達成されたことになる。
完全に無になるとは、仏教で言う悟りを得ることと等しい。仏教の悟りとは、解脱、即ち、仏になることである。仏教においては、仏は神より上位であるらしいが、一般的には違いはないと考えて良い。無を達成した人が、神であり、仏である。

ところで、人にとって、最も効果的な宗教は民族に伝わる宗教である。
民族の宗教は、その国や地方の気候・風土に相応しく発展したであろうし、生活や仕事の風習、あるいは政治制度の事情を吸収しており、当然ながら、その民族の人間にとっては馴染みやすいはずだ。ひょっとしたら、その民族のDNAに組み込まれた何かと関係するかもしれない。
ただ、民族宗教というものは、国家が国民を支配するための思想コントロールに利用することが多く、その点はやっかいなのである。
我が国では、明治時代に政府が、元々宗教でも何でもない神道を国家宗教とし、国民の思想統制に大いに利用した。だが、国家神道は、もともとがまがい物であり、不自然であった上、戦後に否定されたので、現代の我々に影響はないと思う。だが、神道自体が滅びたわけではなく、その反対に、まるで空気のような自然な存在として残った。これは、宗教というなら、世界でも稀な純粋で美しい宗教と思う。今でも、神道の専門家を称する者達がおかしな独断を述べることもないでもないが、神道の根本は古事記のみであり、これは神話なので確定した意味はない。古事記をルーツとした、各地方の神話・民話も大いに尊重し、大切にしたいが、同じく確定した意味付けをすべきではない。

神道は、やはりはっきりと宗教とは言えないが、中国の道教と似たところもあると思う。しかし、むしろアメリカインディアンの宗教と似ているように思う。
インディアンは、アメリカ国家により、彼らの本当の宗教を禁止されたのは、日本のように、偽物の宗教をアメリカ国家に禁止されたのと正反対で不幸であった。しかし、彼らは自分達の宗教を捨てなかった。この点、神道と同じく、やはり本物の宗教であったのだと思う。
神道は日本政府によって、インディアンの宗教はアメリカ国家によって試練を受けたが、いずれの場合も、試練を経ることで強く純粋になった。
それはキリスト教も同じと思う。しかし、キリスト教は世界宗教となったが、これはどうかと思う。我々日本人にも、当然学ぶべき点は多いが、やはり日本人には合わない部分は多いのだ。アメリカの企業では、公式ではないにせよ、社員、あるいは、幹部になるにはクリスチャンであることが条件である企業は結構多いと思う。日本企業が提携するにあたり、やむなくクリスチャンになった、日本の提携企業の幹部、あるいは、担当社員も実は多い。
尚、いかに日本人にキリスト教が向かないとは言っても、それは人それぞれである。日本人でありながら、キリスト教に向く人も多いに違いない。プロレスのジャイアント馬場さんは熱心なクリスチャンであった。彼は常に十字架を背負うような役回りがあったが、それが向いていたのかもしれない。

アメリカのように、キリスト教を驚くほど前面に出し、誰もそれに逆らえないほどの徹底振りは疑問がないはずはないが、それは論じてどうなるものでもない。例えば、大統領になる者が、自分は仏教徒であると言って聖書での就任宣誓を拒むなど、絶対に考えられない。これは黒人や女性が大統領になるどころの話ではない。キリスト教、恐るべしである。

日本人には、仏教徒であったのが道教に転向したり、あるいは、キリスト教に入る者もいるが、それは、国家権威と結びついた仏教や、形式化した仏教に嫌気がさした場合が多いのではないかと思う。神道は、むしろ本格的に志した場合は国家神道のイメージが現われてくる。
神道は空気のように考えれば良いのだ。教祖も教義もない。戒律もない。ただ古事記と祝詞があるだけだ。しかも、それらに一定した意味はない。

さて、先程も書いたが、人間は宗教的な意味で無になれば不可能はない。
人間に不可能はないことは、潜在意識の法則などで言われる通りなのであるが、あくまでも無になるか、それに近い状態になることが必要だ。完全に無になるのは、恐らく無理だと思うが、そこそこにまで達すれば、必要であれば千万、億の金程度なら何でもないと思う。
だが、我々日本人にとって、キリスト教的、ユダヤ教的なやり方ではうまくいかない場合が多い。ジョセフ・マーフィーは、宗教の別は関係ないとよく書いているが、あれは明らかにキリスト教を基本としている。我々日本人には、あからさまに他人を祝福するような習慣はないのだ。
神道では、罪・穢れを祓うことで無になる。しかし、その状態では、普通、欲望はない。日本では、文字通り、欲望を捨てれば不可能はなくなるのである。これをはっきり言っていたのは、私も何度もお逢いしたことがある政木和三さんだ。
よほど日本人離れしてでもいない限り、自分が豪邸に住んでいるとか、高級車に乗っている姿などイメージしないことだ。
もし、大きな家が欲しいなら、貧しい人たちに奉仕するためにそれを使うことを考えた方が良い。それが嫌だというなら、ただ貪欲で豪邸を求めているだけで、決してそれを得ることはない。
我々の神様は、慎ましい人がお好きなのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.20

ご立派な男の晩年と、その子供

私が子供の時に見た映画のセリフだが、7歳くらいの男の子の父親が、「子供というのは、自分の父親が世界で一番強いと思っている。まだ、そう思わせてやりたい」と言ったのが印象的で、いまだ憶えている。
子供というのは、その後、大人達を値踏みするようになる。
お金持ちで大きな家に住み、凄い車を持っている人や、社会的地位があっていつも堂々としていたり、人に厳しい口調で命令する男を立派な人間とみなして憧れる。しかし、ほとんどの場合、自分の父親はさほどのものではないし、それどころか、誰かに命令されてペコペコしているのだと知り、がっかりする。
ある時、小学校で、私の担任教師が、受け売りで言ったのだろうが、自分の持ち物を大切にしていない子供に対し、「それを買うために、あなたのお父さんは何度頭を下げたと思っているのだ」と戒めたことがあった。私は、自分の父親を不憫には感じたが、やはり多くの子供達同様、「私の父親は、ペコペコ頭を下げる部類に入っている」と思ったに違いない。

そして、子供の時に「立派な男」と思い込んだ男と、自分の父親が同等であることが分かった時が大人になった時であり、大人にならない限り、自分もまた成功すまい。
実際のところ、大きな家に住み、凄い車に乗り、社会的地位があり、人に命令する男の大半は、普通の人以上に惨めで、深刻な問題を抱えているのを実際に見たし、おそらくそういうものと思う。
自己を律することができなかったからだ。彼らは、自分では自己の向上や、高潔な人間を目指しているように思え、本を読んだり、荘厳な勉強会にも参加しているのであるが、所詮、自己満足である。
缶コーヒーのCMで「総理からお電話です」と言われた立派な男性が「たわけ!食後の余韻に浸っているのが分からんのか!」と秘書を一括し、一緒にいた偉い人に「まあまあ、せっかくの余韻のひとときですから」と言われ、不意に柔和な顔に戻り「これは私としたことが」と微笑み、秘書にはぞんざいに「言いすぎじゃった!」と言い捨てる。面白おかしいCMにしているが、面白いと思えるのは、やはりリアリティがあるからだろう。
おそらく、この立派に見える男の息子はニートであろう。そんなものだ。

「ご立派な」男は、妻に見放され、子供に嫌われ、そして、健康を損なう。
大半の金持ちがグルメに走るからだ。美食・飽食になったら、もはら破滅と転落を免れない。
徳川家康は、どんな経緯でそうすべきかを知ったかは分からないが、天下を取った後も、決して美食をせず、生涯、庶民の食事を貫いた。彼が偉大であるのは、天下を取ったことではなく、食を慎んだことである。
我々もまた、食を慎むことで偉大になる。大金持ちになるかどうかは、その必要性を天が見て取り計らうであろうが、必要なら富も得るであろう。しかし、必要もない富を得れば、やはり転落と破滅の可能性が高いのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.19

日本人的愛の表現

ジョセフ・マーフィーの成功法則の本を読むと、さすがに基本はキリスト教だけあり、積極的に他人を愛し、他人のために祈れということが強調されます。
以前にも書いたことがあるのですが、多民族社会では、他者に対して愛や親切を積極的に表現しないといけない事情があることも影響していると思います。
しかし、日本は以心伝心の国です。確かに国際的なコミュニケーションでは誤解される可能性もあるのですが、決して以心伝心が悪いことではなく、日本の美しい伝統である面まで否定したくはないと思います。

マーフィーの本にあるような、他人にあからさまな善意を持つことがうまくいかず、「私は駄目だな」とか思う人もいるのではないかと思います。私もそうでした。

ところで、古事記には、日本人らしい善意の示し方の良い見本も沢山あるのですよ。
例えば、天界のスーパースター、アマテラスオオカミと、弟のスサノオノミコトのお話です。
ある種の勝負をし、スサノオが一方的に勝利宣言し、アマテラスの田畑を壊し、なんと、アマテラスの食堂でウンチまでしても、アマテラスは、可愛い弟のしたこととして、色々理由をつけては赦します。
さすがに、最後はスサノオは追放されましたが、アマテラスはスサノオを特赦したようで、スサノオもまた、アマテラスに神剣、草薙の剣を献上します。
アマテラスのひ孫の兄弟では、兄(ホデリノミコト)は弟(ホオリノミコト)をしつこくいじめ、辛い目に遭わせますが、海神の助けを得て兄を懲らしめた弟は、兄が降参したらいつも赦します。
まあ、救いようもなく、滅んだ者達もありますが、それらはどう見ても自滅です。

他者を非難する人は成功できません。
特に、我々は身内、つまり、親兄弟を非難しやすいものです。
親の欠点をあれこれ非難するうちは、まだまだ幼く、成功する前に世間で鍛えられて精神を磨く必要があります。
そして、親であれ、夫や妻であれ、上司や同僚や後輩であれ、非難したり欠点を指摘することをやめ、相手をそのまま認めるようになれば、成功するに十分な精神のレベルに達したと言えると思います。
自分に関しては、満足がいくまで進歩向上すれば良いでしょうが、他者に関しては「あるがまま」で良いのです。なぜか、これを逆に考えている人が多いようですが(笑)。
政治家の不正は無くさないといけませんが、肝心なのは、それができない制度を作ることです。そして、不正で私腹を肥やした政治家や官僚をあまり非難してはいけません。だって、その立場になれば、自分もやるかもしれませんし、私なら絶対にやりますね(笑)。
犯罪に関しても、罪は憎んでも、人を憎んではいけないと思います。犯罪を犯す人もまた、とても気の毒な面が大きいものです。それに、人々が犯罪者を糾弾するうちは、実際には犯罪は無くなりません。我々が、犯罪者の中に自分を見た時に犯罪が無くなるのだと確信します。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.18

特別な人間になる人とは

昔から、言い古されていることとは思うが、一応書いてみる。
私は、毎日、早起きをし、同じ時刻に就寝、食事をする人が、失業したり、ニートであったりすることなどはあまり信じられない。
さらに、毎日、ほぼ同じ内容で同じ種類の食事を、腹八分目に食べる人が安定した生活を送れないなどということもありえないと思う。それは、たとえひきこもりであっても例外ではないと思う。

逆に言えば、安定した生活を安心して送りたければ、毎日、早起きし、同じ時間に就寝、食事し、食事は、毎日、ほぼ同じものを腹八分目に食べれば良いのだと思う。
その上で、人のやらない特別なことを毎日欠かさず実施するなら、必ずや際立った人間になると思う。
際立った人間とはいえ、別に有名人やお金持ちというわけでもないが、神様に選ばれて事を為す人というのは、そういう人であるのだと思う。

反対に、起きるのがいつも遅く、夜更かしし、食事の時間がマチマチだったり、満腹するまで食べ、毎日のようにおやつを食べるようなら、収入が安定せず、それどころか仕事がなくなるに違いない。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.17

古事記を心に作用させる

こういう言い方が好みでないなら、たとえ話と思ってもらえば良く、実際にたとえ話なのだが、我々をこよなく愛する神様が、我々を苦しめるはずはない。しかし、人生には様々な問題が起こることも確かだ。
台湾生まれの米国の作家で、偉大な実業家でもあるチン・ニンチュウは、「あらゆる問題は、神様が私達を楽しませるために作った」と言うが、後から考えれば間違いなくそうで、それが証拠に、いかなる苦しい思い出も、成長をとげた後で思い出せば、どれもいい思い出であるのだが、不幸にも問題に負けてしまって、道を踏み外す人もいるようなのだ。
そうならないために、昔の賢者は、アドバイスを残してくれている。
それが、世界各地にある深遠で偉大な神話だ。
ヒンズー教のヴァガバッド・ギーター、ユダヤ教やキリスト教の旧約聖書などはその代表的なものであるが、我が国には、なんといっても古事記がある。
古事記は、日本人以外には理解しにくいが、日本人には本来は実に理解しやすいものだ。
しかし、古事記の読み方もまた、旧約聖書やヴァガバッド・ギーターと同じであるべきだ。
古事記を表面的に解釈してあれこれ言うことに何の意味もない。
旧約聖書もヴァガバッド・ギーターも古事記も、全て心の中のお話で、人の心の成長を比喩的に顕しているのだ。

サルトルは、「小説を読むとは、その小説を自分で再度書くことだ」と言った。
エマーソンは、「物語を読む時、それは自分の物語として読め」と言った。
ジョセフ・マーフィーは、旧約聖書のヨブ記について、その真の意味を知りたいなら、数千年前、自分がどういう意味で書いたのかを思い出せば良いと言った。

古事記が我々一人一人の心の中の物語であると気付けば、その世界が我々の中にリアルに、アクティブに展開され、我々は知恵を得、神の力が流れ込んでくるのを感じるだろう。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.16

ジョセフ・マーフィーの成功法則は理屈で納得できる

ジョセフ・マーフィーの成功理論を、著書の中で、理屈によってそれなりに説明してくれたのは、私にとっては2人いる。
1人は、発明家の中山正和さんだ。科学者として企業の中で活躍し、自らも起業するかたわら、サイバネティクスと大脳生理学を応用した優れた能力開発法を考案し、その手法は海外の一流企業でも高く評価された。
もう1人は、脳機能学者の苫米地英人さんで、こちらは、今、時の人と言えると思う。脳機能科学、計算機科学、認知心理学などの学者であると共に、実業家で、能力開発の専門家というあたり、中山正和さんと似ているようにも思う。
お2人の年齢差は50歳近く、中山正和さんは既に亡くなっておられる。時代の差ということもあり、最新の科学理論や能力開発理論を駆使した、若い苫米地さんの説くところは新しいのであるが、お2人とも仏教の教えというものを非常に重く見ていると思える。
極論すれば、最終的には仏教の解明になるのではないかと思う。
仏教学者のひろさちやさんが著書で書いておられたが、どんな天才といったところで、お釈迦様と比べればしょせん猿知恵というものかもしれない。

さて、お2人とも、特にジョセフ・マーフィーの成功法則について語ったわけではないが、なぜ、イメージしたことが実現するかについて、はっきりと説明している。
お2人とも、苫米地さんの言うところの、ホメオスタシスの働きにより説明されたものと思える。中山さんは特にホメオスタシスという言葉を使ったことはないように思う(ホメオスタシス理論は20世紀最初に出来きていた)。
ホメオスタシスとは、「恒常性」のことで、生体の状態を一定に保つための機能で、脳の間脳視床下部と呼ばれる場所がそれを司っている。
分かりやすい例でいえば、気温がどんなに高くても、逆に低くても、体温がほぼ一定に保たれるのがホメオスタシスの機能である。
イメージしたことがリアルであれば、ホメオスタシスはそのイメージを既に現実とし、客観的現実の方を、その主観的現実に合わせようと働くというわけである。そして、人のホメオスタシスの能力は実は驚くべきものであるので、うまく機能させれば、奇跡的なこともやってのけるのである。
中山正和さんは、HBC(ヒューマン・ブレイン・コンピュータ)という、人の脳と同じ働きをするコンピュータモデルを考案し、それを使って見事に説明してくれている。これを顕した、中山さんの「天才脳の構造・釈迦の悟り」は、限りない価値のある貴重な名著であるが、現在は出版されていない。ただ、古書では、案外、安価に入手可能だ。少し難しいかもしれないが、大きな夢がある人は是非読んで欲しいものである。

このような訳で、私はジョセフ・マーフィーの成功法則そのものには何の疑いも持っておらず、実際、何でも思い通りにしている。
ただ、今は心の成長のため無欲にしているので、別段、大金が欲しいとも思っていない。それでも、欲しいものは何でも買っているし、つい余分に買ってしまうので自分を戒めている。苫米地さんも煩悩は少ないそうであるが、お金が無限に入ってくるので、仕方なくブランド品を買うそうだ。ただ、幸い、フェラーリが好きなので、それにはお金を使うらしい。しかし、着るものについては、1枚千円のシャツでも、気に入れば満足なのだそうである。
だが、我欲でブランド品や高級車を求める人はまず成功すまい。ジョセフ・マーフィー自身の本でも、明らかにそう書かれていると思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.15

惑星のようにが成功の秘訣

一流の人間は実にワン・パターンだ。
それは惑星の運動のようなものだ。

優れたスポーツ選手は、毎日、同じ時間に練習場に姿を現すに違いない。そして、それが一定しなくなった時が引退の時である。
そして、時間をかけての修正ならあるだろうが、毎日、全く同じ練習メニューを繰り返すのだ。

優秀な経営者もまた、毎日同じ時間に出社する。おそらくはかなり早い時間に。朝7時半以前に社長が毎日出社する会社が潰れた例は皆無であるらしい。

優れた芸術家は、毎日、定時に仕事を始め、食事やお茶の時間も決まっているらしい。
科学者も同様で、優れた物理学者であった竹内均さんは、東大に勤務しておられた頃、出勤時間、昼食時間、帰宅時間が全く一定であったことがよく知られていた。

また、優れた人間は、生活のあらゆる面が、ワン・パターンだ。
オバマ大統領は、夕食は毎日、ライスとサーモンとブロッコリーだし、宮崎駿監督は、毎日同じ簡素なお弁当1つを、昼と夜に分けて食べる。
イチローも、朝、昼兼用で同じカレーライスを毎日食べる。

それはやはり惑星のようなものだ。
これで成功の秘訣が分かったと思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.14

逆腹式呼吸で花粉症を克服

私は、元々、ひどい花粉症である。しかし、昨年、8月7日から、1日1食、菜食主義となり、間食をしなくなってから、体質も改善されてゆき、昨年の秋花粉はほとんど知らずに過ごした。しかし、今年の春の花粉は量も多く、まだ症状が出る。
数日前、かなりひどかったのだが、思い立って逆腹式呼吸をやったところ、症状が治まった。
この逆腹式呼吸について説明する。

身体の調製や、能力開発のための腹式呼吸は多くの人が勧めているし、私も長年実践してきたが、それは順腹式呼吸というもので、息を吐くときに腹を凹ませ、吸う時に腹を膨らませる。
逆腹式呼吸はその逆で、息を吸う時に腹を凹ませ、吐く時に膨らませる。

私が、初めて逆腹式呼吸を知ったのは、脳機能学者の苫米地英人さんが著書の中でよく勧めておられるのを読んだ時だ。ただ、最初は違和感があった。
苫米地さんは、息を吐く時に、身体を腹を緩ませれば自然に逆腹式呼吸になり、それで非常にリラックスした状態になると書いておられたように思う。

岡田式静坐法でも、呼吸は重要な要素となるが、この時の呼吸も逆腹式呼吸である。
岡田式静坐法の本を3冊書いておられる柳田誠二郎さんは、岡田虎二郎の素晴らしい思想を伝えて下さってはいるが、静坐における呼吸が逆腹式呼吸であることを分かるように書いていない。単に「息を吐く時に下腹に力を入れる」としか書いていない。これでは、力を入れて腹を凹ませることになってしまう。
しかし、岡田式静坐法を学んで、ドイツに持ち帰って活用した、カールフリート・デュルクハイムの「肚―人間の重心」という本では、やはり、正しい腹式呼吸は、逆腹式呼吸であることが説明されている。

ところで、私が逆腹式呼吸に目覚めたのは、最近、ヒンズー・スクワットという脚の運動を始めたこともある。
正しいところは知らないが、インドのダラ・シンという超人的プロレスラーが昔、日本に来日した際に、彼がやっていたこのヒンズー・スクワットを力道山が取り入れたと聞いたこともあるが、「プロレスの神様」カール・ゴッチが大変に推奨した訓練でもあるので、やや違うような気もする。しかし、ヴェーダ哲学の国インドのトレーニングは興味深い。
私も、「格闘王」前田日明さんの説明によるヒンズー・スクワットのやり方である(前田さんはゴッチの弟子だ)。
ヒンズー・スクワットの呼吸の特徴は、しゃがむ時に息を吸い、立ち上がる時に吐く。普通の運動や、中国の運動でも、これは逆になる。一般には、縮む時に息を吐き、伸びる時に吸う。胸の運動に関しては、確かにそうなるかもしれないが、腹が関わる場合はやはり逆の方が良いと感じる。
私は、プロレス式の腕を振りながらやるものではなく、手を頭の後ろで組み、息を吸いながら静かに膝が地面と水平になるくらいまで曲げ(半分曲げた感じである)、そこでいったん静止するような感じの後、息を吐きながらやはり静かに立つという風にやる。
このヒンズー・スクワットの感覚が、逆腹式呼吸に近いように思う。

逆腹式呼吸は瞑想の際にも良いと思う。
心身の健康に非常に役立つと思うので、いつでもやることをお薦めしたい。
腹を凹ませながら息を吸うところから始め、腹を緩ませながら吐くようにすれば楽と思う。
尚、息を吐く時は、細く長く、静かに吐くことが大切だ。これで無心の境地に近付くと思う。
ふんぞりかえって坐っていては、逆腹式呼吸は出来ない。姿勢を正しくし、お尻を後ろに、腹は前にという意識で坐ればやりやすいし、それが正しい姿勢となる。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.13

夢は紙に書けば叶うか

「夢は紙に書くと叶う」というのを、見たり聞いたりしたことがあるかもしれません。
他の人はどこで知ったのかは知りませんが、私の場合、それをどこで知ったか口外すると、訴えられるというほどのもので知りました。つまり、本物の秘密のノウハウと言うわけです。もちろん、これに付随する統計データや様々なものもありました。お金も軽く百万円以上かかりました。金額に見合う価値が無かったとは言いませんが、まあ、あまりお薦めはしません。
もう1つは、「イット・ワークス」という、著者が言うところでは、最も古い成功哲学の書に書かれてありました。
神田昌典さんという、人気のある経営コンサルタントは、著書で、その驚くべき効果を書いていたと思います。

夢を紙に書けば叶うというのは本当です。
ブルース・リーもあきらかに実践していましたから、随分昔からあるノウハウなのでしょう。

ただし、やはり、夢を紙に書いても叶わない人は当然います。
今の日本人であれば、20代以下なら、ほぼ無理ですし、それ以上の年齢でも、大半は難しいと思います。
しかし、精神があるレベルまで成熟しているなら、それで、恐ろしいまでに夢が現実化すると思います。
精神の成熟に必要なことは、1つは働くこと。これ以外に、幼い精神を大人に相応しいものに鍛える手段は存在しません。
そして、その上で最も重要なのは、徳を積むことで、最大の功徳が食を慎むことです。
その他の一切は枝葉に過ぎません。
働き、食を慎むことを、弛まず何年も続ければ、願いを紙に書くまでもなく、全て叶うことになるでしょう。なぜなら、叶うべきでない、不要な願いを持たなくなるからです。そんな人の願いなら、周りからはどんなに馬鹿げて見える途方もない願いでも、いつかは叶うでしょう。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.12

ジョセフ・マーフィーの成功法則

さて、昨日はエド・マーフィーの法則であったが、本日はジョセフ・マーフィーの成功法則である。

私は、もともと、ひきこもりのニートで、今でも決して成功者ではないのだが、周りからみれば、「それで勝ち組でなくて何なんだ」と言われる状況にまではなっている・・・らしい(笑)。そうだとしたら、その大きな要因は、19歳のニート時代、ジョセフ・マーフィーの本を読んだからだというのは間違いない。
また、私の知る、成功している経営者の社長室や執務室に入った時は、そこの書棚にマーフィーの成功法則の本が1冊あるのをよく見た。

ジョセフ・マーフィーの成功法則に書かれていることは本当のことかと聞かれたとしたら、間違いなく本当であるとお答えしたい。
ただし、では、マーフィーの成功法則の本を読み、その通りに実践して、奇跡的な結果を得た人はとなると、ほぼ皆無と断言する。
これらのことは、決して矛盾していない。
また、マーフィーの成功法則自体は本物であるが、これを金儲けに利用する者達がすっかり無茶苦茶に歪めてしまったことで、人々がさらに効果を得にくくしていることも間違いないようだ。非常に残念である。

本当に成功したいなら、ジョセフ・マーフィー自身が書いた本(勿論、翻訳で良い)のみ読むべきである。
それも、1冊に絞って読むことだ。どれを読んでも同じである。最初に手に入れたものを繰り返し読むことだ。

さて、気になった方もいるかもしれないが、マーフィーの成功法則は本物なのに、なぜ誰も実際には成功しないのだろうか?
これに関しては、おそらくはジョセフ・マーフィーの最も初期の本と思うが、「あなたは不安なしに生きられる」という本に書いてある。
マーフィーの成功法則の本の中では、この「あなたは不安なしに生きられる」が最上で、実に素晴らしい本であるのだが、現在は販売されていない。残念である。
確かに、この本は、他のマーフィーの成功法則の本とはかなり異なっている。旧約聖書の「ヨブ記」の解説として書かれており、マーフィーの成功法則の純粋な原理を示している。
マーフィーは、このヨブ記は、インドのヒンズー教の聖典「ヴァガバッド・ギーター」と同じだと書いている。人の心の中の物語であるのだ。
マーフィーはまた、単に「古代の賢者」と書いているが、老子の言葉「口に出すなら見出さない。見出そうとするなら、口に出せない」(一般には「知る者は語らず、語る者は知らず」)を引用するなど、彼はキリスト教のみを重視しているわけではない。

では、なぜ、マーフィーの成功法則を実践したつもりでも、実際には成果を上げられないのだろう?
それは、不思議なことでも何でもなく、当たり前の話であるが、マーフィーも、思考と感情のバランスが必要だと書いている。つまり、精神的成熟がなければ、神の力を発揮できるはずがないのである。
未熟な若者が、大金や高い社会的地位を望んで、自然な形で得られるはずがないし、実際、得た試しなど皆無であろう。もちろん、合法かどうかはともなく、トリッキーな方法で大金を得る若者もいないではないが、それは自然な展開の中で起こることではなく、無理があり、結果として災いとなり、それを得た本人も破綻することに例外はない。
そして、「あなたは不安なしに生きられる」では、精神の成熟について、特に注意深く書かれている。ただ、マーフィーの別の本でも、それはやはり書かれているので、ちゃんと読めば効果はあるはずだ。しかし、「マーフィー法則で得をしよう!」的な本ではそれは全くないので、状況は逆に急激に悪くなるだけなのでご注意願いたい。

現在の日本人の大多数には、マーフィーの成功法則は効果を発揮しないだろう。
それは、いかなる成功法則であっても同じと思う。
その理由は、我が国の人々に徳がなくなってきているからだ。
皆、自分だけ得をしよう。自分は絶対に損をしたくないが、他人はどれだけ損をしても構わないと思っている。いや、はっきり言って、自分さえ快感が得られれば、他人は死んでも構わないと思っている人がもの凄く多いのだ。それが完全にこの国に蔓延ってきた。このままでは、日本の滅びはさして遠くないと思う。
それが嫌なら、一人一人が徳を積むしかない。
徳を積むにはいろいろな方法があるが、食を慎むことが最上の徳でなのである。誰でも出来、お金もかからないばかりか、節約にすらなる。しかし、これを勧めると、大半の人が「そんなの嫌だ!」「人生には食べる楽しみが必要だ」と反発して取り合わない。
だが、食を謹んでこそ、本当の食べる楽しみが得られるのである。
現在の日本人に徳が全くなくなっている原因もまた、国民が破滅的なほどの飽食・美食になっているからだ。

食を慎めば、他のことでも自ずと慎みが生まれ、精神が成長するはずである。
そうすれば、特にマーフィーの成功法則でなくとも、願いは自然に叶うようになる。その時には我欲の実現をあまり求めなくなっており、望みも正しいものになっているはずである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.11

エド・マーフィーの法則

林晴比古さんという、超ヴェテランのソフト開発技術者の本で読んだが、林さんは、「マーフィーの法則」に敬服していたところ、偶然、マーフィーの法則のファンという人がいて、これについて話をしたそうだ。しかし、なぜか話がかみ合わない。
それもそのはずで、林さんのマーフィーの法則はエド・マーフィーの法則で、話をした相手のは、ジョセフ・マーフィーの法則だった。
林さんは、その本では、ジョセフ・マーフィーの法則にも一読の価値があると書いていたが、後の本では、ジョセフ・マーフィーの法則にかなり否定的なことを書かれていた。

エド・マーフィーというのは、飛行機の整備士である。
自動車の整備というのも、当然、責任感が必要な仕事であるが、飛行機の整備は、より高度な完璧さが求められる。整備に不備があれば、乗員はたちどころに絶体絶命になるのであるから当然と言える。
しかし、人間はミスをするものである。
そこで、エド・マーフィーは、人間のミスを防ぐ方法を経験から考えたのであるが、それが素晴らしいので、一般に広まったのである。
私は、さほどエド・マーフィーの法則のファンというわけでもないので、あまり憶えていないのであるが、私の仕事であるソフト開発業界では、有用と思えることが多いのだと思うが、重要視されることも多く、林さんもそれで興味を持ったのであろう。私も興味はさしてないと言いながら、マーフィーの法則は素晴らしく、2つほどは頭に叩き込まれているくらいだ。
その1つは「不安な箇所は必ずこける」だ。
例えば、天井からヒモをぶら下げ、「このヒモ、決してひっぱるなかれ」とヒモに紙を付けておくとする。
すると、必ず誰かがヒモをひっぱるのである。これは、そう思わないといけない。
そんな注意書きをして安心するのは、未熟な人間である。
引っ張って欲しくないヒモなら、引っ張れないようにしないと絶対にいけないのだ。
尚、これは、ソフト開発でも絶対的に守る必要のあることだ。
無能な開発者は、マニュアルに「やってはいけないオペレーション」を書いて顧客に渡してそれですまそうとする。
顧客がマニュアルを読むと思うことが馬鹿な思い違いであり、傲慢な態度であるのだ。

もう1つ印象的なのは、作業手順を作成するなら、最も低い能力の人間に合わせるということだ。
普通は、中位のレベルの人間に合わせようとする場合が多いだろうし、利益主義の職場では、高いレベルに合わせようとするかもしれない。しかし、絶対にミスの赦されない仕事では、最低の人間に合わせないといけないのだ。
そして、実際には、ほとんどどんなことでも、共同作業では、最も能力の低い人間にも出来るような作業手順を作らないといけないのだ。取り返しのつかないことを起したくないならね。

もう1つのマーフィー法則である、私には思い出深いジョセフ・マーフィーの成功法則については、明日にでも書こうと思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.10

天道と人道

老子、荘子の教えは、無為自然だ。それは、作為をせず、なりゆきにまかせるということだ。
ただ、無為自然とは、本当に何もしないということではない。

二宮尊徳は、「人間は家が必要だし、着るものも必要だ。作為なしには生きられない」と言う。
田畑を自然にまかせておけば、荒れ果ててしまう。それが天道であるが、そこに人が手を入れて初めて収穫を得られる。それが人道なんだというわけだ。
さらに、老子は家は自然のものではないから壊せと言うのだろうが、それで生きていけるわけがないと二宮尊徳は老子にも反論を唱えている。
二宮尊徳は、天道と人道は違うことを知らねばならないと言ったのだ。老子、荘子の道とは、天道と同じと言って良い。対して、二宮尊徳は人道を説いたのである。

だが、老子だって、本当に何もするなと言ったのではない。それは荘子も同じだ。
以前書いた、私が最も好きなお話を再掲載する。

誰かが、ラマナ・マハリシに、「意図無き行為」について尋ねました。
マハリシは丘に向かい、質問者達もついていきました。
マハリシは、とげだらけの棒を拾い、座ると、とげを切り、ザラザラした葉で表面を磨いて滑らかにしていきました。作業には6時間もかかりましたが、素晴らしい出来栄えに全員が驚きました。
マハリシ達が歩いていくと、羊飼いの少年に出会いました。少年は自分の杖をなくして途方にくれていました。マハリシはあっという間に少年にさっき作った棒を手渡し、通り過ぎました。

これが、行為者であるという自覚なしに行われる行動である。
見た目には、ある人が責任感を持って重要な仕事をしているように見えても、本当は彼は何もしていない。彼は無為自然である。
スポーツだって、最高のプレイをした時、本人は何も憶えていないということがよくある。
また、危機的な状況で子供を救った母親が何も憶えていないとか、いわゆる火事場の馬鹿力を発揮した時も、自分のしたことを憶えていないものだ。

まあ、二宮尊徳も、人道と天道は究極には同じと言ったし、あくまで一般庶民の役に立つように教えたのだと思う。
老子は、聖人は虚であると言ったのだ。虚であれば、その行いは天道にかなう。すなわち、人道と天道は一致を見るのである。

だが、つくづく、聖なる教えは難しいものだと思い知った。
二宮尊徳の「二宮翁 夜話」を読み、私も思わず悩んでしまったのだ。
我々凡人は、あまり深い教えをうかつに扱わない方が良いのかもしれない。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (2) | TrackBack (0)

2009.03.09

「自助論」は自力か他力か

明治時代に日本に入ってきて、いまだ熱心に読まれている修養書に、サミュエル・スマイルズの「自助論」というものがある。
この自助論は、著名な物理学者だった竹内均さんはじめ、本田健さん、斎藤孝さんといった人達が翻訳・出版していることからも、そんじゃそこらの自己啓発書でないことが分る。
また、自助論を初めて翻訳した明治時代の啓蒙思想家、中村正直のものも、当時のタイトル「西国立志編」のままで現在も出版されている。
さらに、スマイルズの啓蒙書は他にも数多くあるが、だいたいが自助論に似ていると思う。

ここで自助論の感想など書く気はないが、とにかく、自助論という言葉自体が面白い。
自助論とは、「神は自らを助ける者たちを助ける」という、有名なベンジャミン・フランクリンの言葉の引用と思う。
ちなみに、「時は金なり」もフランクリンの言葉だ。他にも、誰でも知っているような警句にフランクリンのものが結構ある。

で、この言葉の何が面白いかというと、仏教で言う、自力と他力の混合であるところだ。
法然や親鸞の教えは「絶対他力」と言われ、他力にさらに絶対が付く。自分の力など、全く必要とせず、効力も無いといったものだ。「南無阿弥陀仏」を唱えさえすれば、いかなる人も極楽浄土に行くことが出来るが、それは阿弥陀如来の力により可能となることで、全て仏様におまかせしておけば良く、自分で努力する必要はないというものだ。それどころか、自分の力を頼むことは念願の妨げにすらなると言われる。
一方、禅宗や真言密教等は自力の仏教で、厳しい修行の末、悟りを開き、解脱するというものである。
法然や親鸞は、自分は能力もなければ、修行もままならない凡人であるが、仏様のお力にすがって極楽浄土に行くのだと宣言していた。もっとも、彼らの学識や修行振りは実際は凄いものであった。法然は、その「南無阿弥陀仏」の念仏も、1日6万回をノルマに実践していたらしい。まあ、それでも、彼らは自分に、どうしようもない煩悩を強く感じて、自力での悟りなど全く不可能だという自覚があったのだとは思う。なんとも謙虚である。

明治、大正の時代、「岡田式静坐法」で一世を風靡し、現在も熱烈な心棒者を持つ岡田虎二郎もまた、静坐は絶対他力と言っていた。その点、法然や親鸞の念仏と同じとし、岡田虎二郎自身、法然を大変に賞賛していた。
神道においても、春日大社の宮司であられた葉室頼昭さんの著書を読む中では、神道もまた他力であると思う。神道に修行はなく、正しい心構えでいれば、神様は必ず良いようにして下さると言う。ただ、葉室さんは努力の重要さも主張しておられるので、その点、「自助論」に近いところがあると思う。
対して、岡田虎二郎は、自らの努力振りは客観的にはやはり凄いが、努力、克己(こっき。欲望を抑える強い自制心)の人間を高く評価していなかった。
そして、道(タオ)の教えである老子、荘子となると、努力や克己など笑い飛ばすであろうと思う。
岡田虎二郎が道(タオ)や老荘を引用した話は私は聞いたことがないのだが(大して多くの記録は見ていないが)、彼が崇拝した釈迦、イエス、ソクラテス、孔子、二宮尊徳らより、むしろ、彼の思想はタオイズム(道教)と同じと私には思える。
タオイズムでは、タオは努力したり修行したりして得られるものではないし、努力により、タオの援助を受けるわけではない。無為自然となり、己を虚にすることでタオと一体となるのである。
二宮尊徳にいたっては、老子の教えを批判する文章すらあるが、おそらく彼は一般の農民に対しては、老子のような無為自然の教えは、究極的には正しくとも、誤解を生むと思ったのかもしれないと思う。

尚、先程、神道に関して、努力が必要と書いたが、実際は、神道は罪、穢れを祓うところに本筋があると思う。
罪とは「つつみ(包み)」であり、神性を包んで隠してしまうもので、穢れとは、神の気を枯らすものであり、これらを除くということである。簡単に言うと、浄化の教えである。
浄化のためにはどうするかというと、古事記ではイザナキは黄泉の国から帰還した際、水で穢れを祓った。この水とは海水と考えて良い。海水で身を清めるというのでも良いとは思うが、私は、水で清め、塩を摂取するのが良いと思う。塩とは、食卓塩ではなくマグネシウムを含む天然塩である。塩はエネルギーを高める。政木和三さんも、疲れたときに少量の天然塩を口に入れれば回復すると言っておられた。
そして、大祓詞(おおはらえのことば)という祝詞を上げれば良い。意味など考えず、ただ、この美しい大和言葉を無心に言葉に出せば、日本人のDNAが反応し、穢れは祓われると思う。また、古事記を読むと良い。日本人がこれを読むことで、神話の奥に秘められたものが光となると思う。丁度、かぐや姫が常に精妙な光を発し、彼女を育てたおじいさんがいつまでも若々しく、むしろ若返ったようにである。

そして、穢れを払い、道(タオ)と一体になるには、自我が邪魔することが多くある。
自我、これは、心と言って良いが、これは静かでないといけない。
努力し、自らを自分で助けようとすると、自我が強く前面に出てくることとなる場合が多く、たとえ何かを達成しても、自分を誇ることで、心がますます自らを主張することとなり、それが穢れとなる恐れが強い。
老荘では、自分の業績を誇ることを最も強く戒める。冷静に見れば、例えば、スポーツで大きな成果を上げた者の大半は醜いのだ。
神は自らを助ける者たちを助けるという教えは決して悪くはないが、過度にならぬよう注意し、後は他力の教えに従った方が良いと私は考える。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.08

優秀な子供の真実

私は、学校は国家奴隷製造機関と断言するが、それでも、本当に優秀な子供は、その後も一生楽しくやっていけるものだ。
子供の能力開発なんていろいろ宣伝されているが、全部嘘だ。
もちろん、勉強そのものの教え方では、学校よりはるかに研究された塾の方が比較にならないくらい学校より優れているが、それはあくまで枝葉に過ぎず、子供の根本的な能力は、いかなる一流の塾でどうなるものでない。
言いかえれば、優秀な子供はどうやったって優秀なのだ。
では、その優秀な子供を育てる唯一の方法を無料で惜しみなく、すぐ教えよう。「秘密の方法を知りたい方はここをクリック」なんてのは、全て騙しであるので、私はやらない(笑)。

小学校も2年、3年と進むと、子供の間でも、優秀な子とそうでない子の区別が付くようになる。
今は、優秀な子供が、そうでない子供を避けたりするらしい。昔はそうでなかったはずだ。だが、気の毒だが、そんな子供はすぐに優秀さを失うのである。それは情緒的意見ではなく、単なる論理的真実である。
さて、私が小学校4年生の時、クラスの中に、勉強はもちろん、スポーツ、音楽、何をやっても一番で、性格も良く、これはおまけであるが、学年内はもちろん、上級生にも名を知られる美少女がいた。
そして、クラスには、言っては悪いが、勉強もスポーツも音楽も駄目で、おまけに性格も悪く、これは余計なお世話であるが、器量の悪い女の子がいて、私は子供心に、「同じ年の女の子で、なぜこうも違って生まれてきたのだろう?」と真剣に悩んでいた。
というのも、私もまた、駄目な部類の子供だったからだ。
ある日、私はその秘密に気付いた。
いや、その時は、私は理解していなかったが、強烈に記憶に残ったということは、私の心の奥底にいる神のごとき何かが、それを感じたのだろう。
状況説明は省くが、優秀な美少女である彼女は、自分の両親の親の名前ばかりか、そのきょうだい、つまり、叔父叔母や、親の親の親、つまり、自分の曽祖父母の名前まできちんと言えたのだ。
そして、親の職業はともかく、祖父の職業まで、子供としては非常によく理解していた。
私など、いまだに、親の親の名前を知らないし、叔父、叔母の名前も知らない。それどころか、子供の頃からよく見ている、親戚の人らしい人が、自分の叔父や叔母であることを、下手すると、彼らが死ぬまで知らなかった。
これが、私と彼女の差である。

なんでそんなこと・・・と言う方がいるかもしれないが、それが重要なことは、実は誰でも知っている。
親の親、親のきょうだいについてはっきり分かるということは、自分が何者であるかの自覚がはっきりしているということなのだ。
人は、自分が誰であるかを知ることで心が落ち着き、不安を持たず、それによって、心を自分で操ることが出来るのである。そして、心を支配できて初めて思うように行動ができるのだ。
そして、自分の国についてよく知ることも、自分を知ることを大いに助けるのである。
悟りを開いた聖者であれば、究極の意味で自分が誰であるか知っているのであるが、まずは、世俗の中で自分が安定しないことには、安心して生きることは難しいのだ。
なら、孤児というのはどうかというと、貧しいとか、愛情を注がれないという以前に、自分の存在があやふやで安定しないので、多くの場合、社会にも他人にも適応できないのである。
私は、いまだ、実は自分は孤児ではないのかという妄想があるが、それが事実であるかどうかは問題ではなく、やはり自分という存在に安定感がないのであろう。
孤児が立派な人間になった場合は、宗教の力を借りている場合が多い。神の子、仏の子としての自分を確立することに成功し、さらに、社会の中で人々に認められることで、自分の存在に自信を深めることに成功したのだ。とはいえ、やはりどこかに不安感は残っているもので、更なる成長に努めないと、思いもしなかった問題が起こることになる。

ひきこもりだの、精神病なんてのも、根はそこにある。
可能であれば、自分の近い祖先について教えてもらえば良い。
不可能なら、自分の国の神話や昔話を読むことだ。
神話の無い国や、神話を忘れた国は必ず滅びる。国民の心がまとまらないと言うよりは、人々の心が安定しないからだ。
そして、正しい歴史を知ることだ。言っておくが、学校で学ぶ歴史は嘘だらけというのはお決まりであり、まだ神話の方が重要なくらいだ。
古事記を読め。もちろん、古事記は、歴史的事実ではないかもしれないが、比喩として表現された我々の存在の根源が秘められている。それは恐ろしいくらいだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (7) | TrackBack (0)

2009.03.07

至高体験は簡単に起せる

絶対絶命の大事故や暴動、あるいは、犯罪に巻き込まれながら、奇跡の生還を果たしたという話が時折話題になる。
そんな時、その生還者が人生観を変えてしまっていることがある。それまでの、世間的常識や価値観の中であくせくと生きていたのとは違い、目に見えるものとは違う大きなものの存在を認め、それに守られているという信念から来る落ち着きを備え、それ以前とは全くの別人に見えることもある。
昔、立花隆さんの「宇宙からの帰還」という本を読んだことがあるが、大気圏を脱出した宇宙飛行士は、以前と同じ人間ではいられないと書かれていたと思うが、地上にいてそれが起きたようなものとも思う。
何かの啓示のようなものを受け、人生観を変えた例は、いろいろ聞いたことがある。
目の前で、犬がカミナリに打たれて死ぬのを見てそうなった者もいた。
かつてのプロボクシング世界ヘビー級王者で、無敵と言われたジョージ・フォアマンが、モハメド・アリとの試合でまさかのKO負けをした後、フォアマンは神を見て牧師になったという。その時、23歳だったフォアマンは、アリと再戦することなく数年後に引退して、ボクシングファンを驚かせたが、40歳を過ぎてカムバックし、45歳で再び世界王者になる。

では、そのような経験は、稀な幸運に恵まれなければできないのだろうか?
そのような、神秘的な体験は、作家のロマン・ロランが大洋感情と呼び、心理学者のアブラハム・マスローが至高体験(絶頂体験とも言う)と言ったものと同じか、少なくとも関係があるものと思う。
世界と自分が一体となったような没我の状態である。
至高体験は、マスローと交流のあった英国の著名な作家コリン・ウィルソンのライフ・ワークである。
マスローは、「偉大な人間とそうでない人間の差異はたった1つで、それは至高体験を持つか持たないかだ」と言ったらしい。しかし、至高体験は、偶然に訪れる幸運に頼るしかないと主張し続けていた。
だが、ウィルソンは、至高体験は誰でも経験できるばかりか、誰でも経験しているありふれたものだと言った。初めは同意しなかったマスローもそれを認め、実際に大学の自分の教室の学生達によってそれを確かめた。自分が幸運だと感じた体験を皆で話し合ううちに、そこにいる学生達に至高体験が自然に起こったのだ。
ウィルソンにいたっては、鉛筆を使ったちょっとしたテクニックで、擬似至高体験を起せることに気付いた。
鉛筆やペンの先に思い切り集中し、不意に緊張を解くということを繰り返すだけである。

しかし、食を厳しく慎む習慣を持てば、好物の食べ物を食べることを想像するだけでただちに至高体験に至る。
あれほど至高体験を追及したウィルソンも、ただ食を慎めば良いということにいまだ気付かないようである。それで彼は、昔からずっと、今でも、難しく不確かな方法しか言えないのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (3) | TrackBack (0)

2009.03.06

定額給付金の正しい使い方

定額給付金を何に使うかということが話題になる。
私に関して言うなら、普段、買い物するお金は手元にあるし、余分に何か買う必要もない。
普通預金が1万円ほど増えるだけで、イレギュラーな出費(例えば、車検や家の修繕)が発生した際に無くなるだろうなといったところだ。

そもそも、給付金といったところで、税金が一部返還されるだけである。
税金は無駄使いばかりされているのであるから、30万円くらいは返って来るべきところを、たった1万円が返ってくるといったところで、別に使う必要はない。
地方によっては、この給付金を公共目的の活用のために返還することを呼びかける自治体もあるらしいが、それは筋違いである。給付金は、あくまで、もともと国民自身の金である。それを福祉のために出すなら、それは単なる寄付である。つまり、このような自治体は、給付金にかこつけた寄付を要求しているだけなのである。

小泉元首相も「もっと良いことに使えば良い」と言ったが、それ以前に、「下らないことに使うな」と言わねばならない。

政府の意図は、我々が定額給付金分だけを使うのではなく、それに手持ちのお金をプラスして高いものを買えということらしい。それで景気を刺激するということらしい。
これが、根本的に時代遅れの愚かな発想であることをはっきり認識しないといけない。
大量消費の社会が幸福な世界であるということをいまだ我々に信じ込ませ、我々を奴隷状態にとどまらせることで富を維持しようという連中の思惑をいい加減見破らないといけない。
大量消費というのは、無駄な消費を無限にしろということだ。
食欲をそそる食べ物が次々登場し、必要をはるかに超えた量の食べ物を食べて肥満し、病気になる。しかも、食べものの半分は捨てられている。
カッコいい車を無駄に生産し、まだ十分に乗れる車を買い替えさせ、産業廃棄物を大量に出し、買った方も、支払った大金を埋め合わせるために面白くもない仕事に隷属せざるを得ず、心を病んで身体も損なう。
大量消費の世の中は誰も幸福にしないと誰もがはっきりと自分で言わないといけないのだ。

大不況と言われる世の中は、実は正常な世界に向かっているのである。
大量消費とは異なる幸福があることを見出し、真の人間らしい生き方を求めるべきなのである。
日本に関して言えば、人生に対し、もともとが優れた価値観を持っていたのであり、それを復活させれば良いだけのことなのである。
とりあえずは、(脚が悪くて歩行に支障がある等)本当に必要でないなら、皆が自動車を手放せば良い。
歩いて買い物をするようになれば、余分なものを買わなくなり、食べる量も必要なだけになるだろう。そうすれば、肥満は解消され、皆が健康になる。

定額給付金は当然受け取れば良いが、余計なものを買うな。
別に、明日の不安にそなえよと言うのではない。明日に不安はないが、不要なものを得る必要はないというだけである。不要なものを求めない心構えが出来れば、必要なものは楽に得られるようになる。
不要なものを求めれば、欲望の増大に果てはなく、常に不満になり、それは不安の元になるのだ。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.05

スポーツへの過度の熱狂を疑え

WBC(ワールド・ベースボール・クラシック)は、私も興味があるし、暇ならテレビ観戦くらいはすると思う。
しかし、さほどのものだとは、ちっとも思っていない。
だいたい、「サムライ・ジャパン」の侍って、国家公務員の殺し屋なのだということを分っているのだろうか?
新渡戸稲造の「武士道」で語られるところでは、太平の世の中で、のうのうと税金で食べているのが心苦しいので、せめて立派な人間でいようと思うだけの怠け者・現実逃避集団である。

我々は、スポーツというものに、過度の価値を感じすぎているのだが、それは他者にマインド・コントロールされているからだということに気付かないといけない。
自分が、なぜスポーツの世界チャンピオンや金メダリストをそこまで立派に思うのか、一度疑ってみると良い。
それは、侍、武士という殺し屋集団、あるいは、税金ドロボー集団をなぜか崇拝させられているのと同じ大きな嘘に騙されているだけなのである。
真に偉大な人間は他にいるのに、それが見えない。真の偉人であっても、儲けることや思想統制に利用できなければ、国家や大企業、そして、彼らの下僕であるマスコミは彼らを宣伝しないからだ。

私とて、スポーツで素晴らしい成果を上げた人間は立派だとは思うが、マスコミの取上げ方は常軌を逸しているという認識はある。
立派ではあるが、あくまで自分のための努力である。彼らの本当の人生は、おそらくは競技を引退してからで、真に偉大な人生を送るのは、国や世界に本当の徳を積むようになってからである。
私は、世界チャンピオンや金メダリストと比較にならない偉大な人間に目を向けているのである。だから、心安らかで豊かなのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.04

強力なアミュレット(お守り)は自分で作る

「プレミアムスイッチ」という短い番組がある。
日曜日の午後7時5分前からの短い番組で、その道に熟達した人々の「心のお守り」を紹介するものだ。
今、時の人である本木雅弘さんも登場したことがあるが、彼の場合は楽器のチェロだった。

私も常々、「アミュレット(お守り)のすすめ」をしているが、人間には、感性に合った心の支えが有効なのだ。
その中でも、先日の、石川秀樹さん(料理人)のものがとても良かった。彼を参考にすれば、誰でも力をより発揮できるようになるだろう。
彼は、毎朝、ニンジンジュースを飲む。ニンジンとレモンをジューサーでジュースにして飲むのである。
彼は言う。「これを毎日飲んでいるから大丈夫だと思える」と。
人間は、何もなしで「大丈夫」とは、なかなか思えないのだ。しかし、必ず毎日、何かを行うと、「だから大丈夫」と自然に思えるようになる。自然に思えれば、その通りになる。人の心には神のような創造力があるからだ。
何でもいいから、毎日やることだ。
言うまでもなく、あまり難しいことでは駄目だし、不道徳なものはもちろん、不真面目なものも良くない。
また、画家が絵を描くなんてのも当たり前過ぎて、これには向かない。
変わったところでは、偉大な数学者の岡潔は、木切れか何かを狙って毎日1回、石を投げていたらしい。ただ、彼の場合は、こんな単純なことにも、何らかの深い動機や考えを込めていたのであろう。形だけなら真似すべきでない。それに、彼は、他にも毎日欠かさずやっていたこともあったようだ。
好きな本ではないが、新渡戸稲造の「武士道」にも、このように毎日何かを必ず行う威力については特に取上げており、毎日夕方に墓場に行く男の興味深い話が取上げられていたし、新渡戸自身は、毎日水垢離(水行)を欠かさなかったようだ。
16年連続世界一の日産自動車セールスマンだった奥城良治さんは自伝で、毎日1時間の競歩をしていることを書いていたが、やはり、毎日決めた何かをやることの威力は大きなものと思う。
岡田虎二郎の岡田式静坐法を欠かさず続けた柳田誠二郎さんは(中断時期も少しあったようだが)、日銀副総裁、日航社長などを歴任したが、百歳で亡くなるまで70年以上に渡って続けたようだ。

私は、3年ほど前からだと思うが、毎日、太極拳に関わる運動と言われるスワイソウをやっている。また、今年からは、神道の代表的な祝詞である「大祓詞」を1日1回、必ず上げるようになった。
だが、最も大きなものは、昨年8月7日から始めた、1日1食、菜食主義で間食無しであろう。

最も速やかに、確実に成果を上げたいなら、やはり少食をお薦めする。
私のように1日1食にする必要はない。ただ、腹八分目を守り、満腹しないようにすれば良い。出来れば、肉食をやめ、ケーキやチョコレートなどの甘いお菓子はやめると良いと思う。
水野南北は、1年間、麦と大豆以外は食べないようにして悪運を払ったようだし、相談者には3年間の食の慎みを指示していたようだ。
また、おそらく正しいと思うが、毎日何をやったとしても、飽食・美食であれば効果はないと思う。
腹八分目を守り、その上で、決めたことを毎日やるようにすれば、うまくいくと思う。
私の場合は、食を慎み、その上、毎日欠かさず大祓詞を上げようと思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.03

大霊能者の食の慎み

人間の運命は全て食の慎みで決まるということを、水野南北は人の運命の長きに渡る探求の末、伊勢神宮の外宮にて啓示を受けて悟った。その後、生涯に渡り、自身も、そして、万人に関してそれを照明し続け、1つの例外も見なかったという。

18世紀に活躍し、ゲーテ、カント、ドストエフスキー、リンカーン、鈴木大拙、ヘレン・ケラーらに強い影響を与えたと言われる、科学者、哲学者、政治家、そして神秘家であったエマニュエル・スウェーデンボルグという人物がいる。
あのラルフ・ウォルドー・エマーソンもスウェーデンボルグを崇敬し、エマーソンの著作を通し、「岡田式静坐法」の岡田虎二郎にも確実に影響を与えたとされる。
スウェーデンボルグは、1745年の日記に、食の慎みについて書いている(「霊界日記」角川文庫。高橋和夫訳編より)。
その頃には、スウェーデンボルグは、既に天使や霊との会話も可能となっていた。
天使が彼に言った。「食卓で腹いっぱい食べて、自分を甘やかしてはいけない」
スウェーデンボルグは、自分の毛穴から蒸気状の発散物が染み出て、床に落ちると、それらは小さな虫になった。虫たちは焼き尽くされたという。
その欲望という虫を焼き尽くしたのが何なのかは分からないが、スウェーデンボルグは、それで自分が浄化されたと記している。
いずれにせよ、彼は食欲に打ち勝ったのだろう。

おそらくは、同じ部分の訳だとは思うが、別のものを見てみよう。
1975年出版の「私は霊界を見てきた」(エマニュエル・スウェーデンボルグ著、今村光一抄訳・編。叢文社)では、スウェーデンボルグは故国スウェーデンを離れたイギリスのレストランで、やや食べ過ぎたと思ってフォークを置いた時、床に蛇やガマガエルなどの気味の悪い生き物がいっぱい湧いて出た。そこに異様な人物が現れ、「食を慎め」と言ったそうだ。そして、それがスウェーデンボルグが霊の世界に導かれる最初の契機になったという。
※同書は、現在、「完全版 スウェーデンボルグの霊界からの手記」(今村光一訳。経済界)から出ているものと同じと思う。

いずれにしても、スウェーデンボルグは、この世の存在でない者により、食の慎みの大切さを教わったということだろう。
では、我々も、それに倣いたい。
水野南北も、スウェーデンボルグも、極端な節食、つまり、断食や超少食を薦めてはいない。むしろ、過度の少食を自慢するような輩は、せっかくの食の節制の意味を失うと私は思う。
腹八分目を越さなければそれで十分である。肉食は避けた方が良いとは思うが、水野南北も、釈迦が必ずしも肉食を禁じていないことを取上げたりもし、全く肉食を否定した訳でもないようだ。ただ、特に若い間は、肉食はしない方が良いと思う。
1つの目安として、毎日同じ食事でも美味しく食べられるなら、食の慎みは十分であると私は考えている。
食の慎みこそ、幸福への最も重要な根幹である。根幹が出来ていなければ、何をやっても駄目である。食を慎んだ上で、賢者の思想を学び、自己の責任を果たし、可能であれば世界平和に貢献すれば、幸福になれないはずはないのである。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.02

虫と芽に学ぶ美徳

「本の虫」という言葉をご存知と思う。
熱心な読書家のことであるが、昔は、本に小さな虫が付いたことが多いらしく、そう言われるようになったとも言われる。
ただ、日本では、「虫」という言葉自体に「1つのことに熱中する人」という意味があり、「芸の虫」「練習の虫」とか言う。
面白いのは、英語で本の虫をBookwormと言うが、worm(ワーム)は、あまり良くない意味の虫を指し、ぜん虫、寄生虫、あるいは、虫けらを言う。ワームを自己増殖型のコンピュータウイルスだとご存知の方もいると思う。
中国語でも、本の虫は「書虫」だ。
ドイツ語のLeseratteも「本の虫」と訳されるが、この単語を分解すると、「読むネズミ」だ。

こう見ると、本の虫を全面的に良い意味で言うのは日本だけで、英語その他は、悪いとは言わないまでも、どこか馬鹿にしている雰囲気がある。本ばかり読んで実践がないという意味もあるのだろうか?

しかし、私は、「虫のように熱心」という言葉が好きだ。
虫の世界のことを熱心に(虫のように?)調べれば、誰しもそう思うようになるかもしれない。
小さな力でも、時間をかけて果てなく繰り返せば、やがて大きなことを成し遂げるのである。
日本というのは、そんなところに美徳を見出す民族であると思う。

「サウンド・オブ・ミュージック」というアメリカのミュージカル映画をご存知の方は多いだろう。
私は、あの映画は基本的には好きではない。
私は、子供の時から、あの映画を非常に嘘っぽいと思っていた。あまりに作りものめいていると思ったのだが、その感性は正しかったようだ。
トラップ大佐の馬鹿のような厳格さ、16歳と17歳のリーズルとラルフの健全過ぎる恋愛、マリアの押し付けがましい歌・・・どれにも抵抗があった。
実際、全部作り話で、特に、ゲオルグ(映画でのトラップ大佐)のキャラクターに関しては、マリアは修正を強く要求したが、聞き入れらなかったらしい。マリアはお金に困り、「トラップ一家の物語」の版権を手放していたからだ。

さて、実話での話であるが、落ちこぼれ修道女の21歳のマリアは、修道院を去り、トラップ男爵家の次女マリアの家庭教師としてトラップ家に住み込む。12歳の次女マリアは病弱だったのだが、写真で見ると、大変な美少女だ。長女のアガーテは14歳。映画では、長女リーズルは16歳で、18歳のセクシーな女優が演じている。
マリアは音楽と活発で豊かな感性で、子供達とすぐに仲良しになり、特に次女マリアは彼女を慕うようになった。そして、次女マリアは音楽の道を志し、名門の音楽学校に入学する。その同室には、なんと、少年時代のヘルベルト・フォン・カラヤンがいた。
教師はマリアに「なぜカラヤンのように(ピアノを)弾けないの?」と言ったものらしい。マリアは、「彼は練習の虫だもの」と言う。
ドイツ語だから、ネズミという表現だったかもしれないが・・・
ここに、カラヤンが自らの意思で熱心にピアノの練習をしたことがうかがえる。
1つのことを熱心に虫のように、コツコツやる。日本人が美徳としたこれこそが、正しく成就するための唯一の道なのだ。

斎藤一人さんは、著書の中で、アスファルトを破って出てくる芽にたとえていたように思う。無限小の力で無限大の時間をかけて事を為すのである。
これは、ある意味、老子や荘子の「無為の為」にも通じると思う。
小説「チョンドリーノ」では、金属すら食い破る虫も登場したことを思い出す。

真に偉大な人物は、虫のように、あるいは、芽のように、最小の力をたゆまず注ぎ続けた人ではないかと私は思う。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

2009.03.01

愚かな人間をどう扱うか

愚かな人間をどう扱えば良いのか?
愚かなままで、できるだけ幸福に過ごさせてやることだ。
愚かさを治すには時間がかかる。
人の一生よりも時間がかかるかもしれない。
だとすれば、それは人の行う義務ではない。
我々より大きな何かに任せておけばよい。
そうすれば、我々も、一生かかっても治せない愚かさを大目に見てもらえるかもしれない。
そして、愚かなままで幸福に一生を過ごせるに違いないのだ。

Ww
本日は文章が短いので、愛刀の1本、伝統工芸師、佐治武士さん作の狩猟刀「白狼」を披露。最近は、和式ナイフも革シースのものが多くなったが、これはピッタリとした朴(ほお)の木の鞘に収まる。樫の木のハンドルも風格がある。
撮影の照明には、政木和三さん発明の、太陽光と同じ光を出すとされるバイオライトを使用した。

↓応援していただける方はいずれか(できれば両方)クリックをお願い致します。
人気blogランキングへ ブログランキング・にほんブログ村へ

| | Comments (0) | TrackBack (0)

« February 2009 | Main | April 2009 »