望みを叶える心構え
実話かどうかは疑わしいが、ある男が、「自分の手に鳥が巣を作るまでは、手を上げたまま降ろさない」と誓い、何年かかったか何十年かかったかは忘れたが、遂には鳥が巣を作ったらしい。
インドには、極端な苦行を行う者がいるらしく、例えば、何十年も喋らなかったり、生涯、横になって眠らないといったことを誓い、それで悟りを得ようとするようだ。
これらほどの難行でない、もっと簡単なものであれば、「願掛け」として知られているし、やってみたことがある、あるいは、やっているという人もいるかもしれない。
「大好きなチョコレートを食べない」とか、「髪を切らない」といったことで、それとひきかえに願いが叶うことを祈るのである。
成就には何らかの犠牲が必要というのは全く正しいと私も思う。
徳川家光の乳母であった春日局は、3歳の家光が大病した際、自分が生涯薬を飲まないことと引き換えに、家光の回復を神に祈ったという話がある。
しかし、私は、神頼みというのはあまり好きではない。
それは、神を信じないということではない。
イエスも言ったように、神は我々に必要なものなど、我々よりもご存知であり、心配しなくてもそれは必ず与えられるからである。
何度か書いたが、春日大社の宮司であった葉室頼昭さんは、取り越し苦労や持ち越し苦労(先のことを不安に思ったり、過去のことを悔やむこと)は、神様を侮辱することであると言っておられた。
また、神様に願い事をし、それを叶えてもらえたら感謝するというのは根本的な大間違いで、今の恵みを感謝してこそ運も開かれるのである。
とはいえ、最初に述べた、非常な難題に挑む人たちのことも興味のあるところである。
何か強い願いがあり、そのために、常人には到底不可能な対価を払って、それを叶えようとするようなもので、神様がそれに応じるかどうかは分らないが、命懸けの態度や献身振りは見るべきところがあるかもしれない。
その願いが高貴なものであった場合、誓いをどのくらい守れるかを見ることで、それを得るに相応しい者かどうかを神が試す場合もあるのかもしれない。ただし、人が神を試してはならない。だから、如何に大きな対価を払うことを決意したとしても、その願いが叶うかどうかは、自分は関知しないという態度が必要と思う。
春日局は、生涯の薬絶ちをもって家光の回復を祈ったが、それが叶えられるかどうかは神様次第であったと思う。
「ツバサ・クロニクル」という、CLAMPさんの漫画・アニメで、小狼(シャオラン)という少年は、愛するサクラ姫の命を救うため、時の魔女に助けを求めた。時の魔女が、「それには対価が必要。あなたにはそれを払う気があるかしら?」と言うと、小狼は即座に「はい」と返事をし、時の魔女を驚かせた。対価が何であるかを時の魔女はまだ言っていないからだ。つまり、小狼は、たとえどんなものでも、時の魔女が要求するものを渡すつもりなのだった。時の魔女は「あなたには、成功する心構えがある」と褒めた。
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